2023年09月10日
古い日本映画や古典落語の台詞に耳を欹(そばだ)てる
映画が好きでどんなに忙しくても一日1本は観る。多い日で12本なんてのもあった。古い日本映画や落語が好きで、中でも「鬼平犯科帳」は愚生のバイブルの様なもので、原作者・池波正太郎の愛した店にも通っては長谷川平蔵を気取った(笑)
鬼平犯科帳では軍鶏鍋屋の「五鉄」など小料理屋や蕎麦屋などで呑むシーンが多い。吞み終えた平蔵は女将に心付けを渡す。高が心付けなのだが、平蔵の何気ない渡し方が完璧で、アレは池波正太郎自身の普段の姿をダブらせたものだろう。
鬼平犯科帳の処世術は実に参考になった。例えば、相手への礼金にしても「相手が恐縮する程の金を渡さなければ意味はない」というのには刮目。小銭を貰っても有難みが無い。過分なカネを払ってこそ相手に感謝されるものだと知った。
愚生の周りには、愚生に世話になり乍ら無報酬とかボランティアだと思っている人や、僅かな礼金やタダで事を済ませ様とする輩が多いのはホント困ったものだ(笑)
愚生も平蔵や心の師である高花豊先生ほどの真似は出来ないが、慢性的不如意ではあるが財布にはいつもポチ袋を3~5個ほどは入れて持ち歩く様にはしている。
何処の店でも渡す訳ではない。雰囲気が好い店や、接客などが丁寧な店では勘定した後にコソっと渡す様にはしている。高が心付けだが意外に渡すのは難しい。ポチ袋を何気に相手に渡すことが出来る様になれば男としても飲兵衛としても一丁前だ。
「お釣りは要らないよ!」とか、これ見よがしにチップを渡している社長さんなどを見かけるが、アレは野暮や不粋というもの。「男の作法」では、タクシー代も「お釣りは要らない」ではなく、一旦受け取ってから別に渡すのが好いと訓えている。
「座頭市」やら「眠狂四郎」「小津安二郎」「黒沢明」などの昔の映画や古典落語、或いは童謡や軍歌、懐メロなどに出て来る難しい日本語に、思わず耳を欹(そばだ)ててしまうことがある。古い映画や落語などには懐かしくも美しい日本語が溢れている。こうしたことを気にしながら観たり聴いたりするのは実に楽しいものだ。
「憚(はばか)り様でした」 (ご苦労様です。恐れ入ります)
「傍杖(そばづえ)を食う」 (思わぬ災難に遭う)
「荷が勝つ」 (責任・負担が重過ぎる)
「武士は相身互い」 (同じ立場の者は助け合うべし)
「罪業の深さ」 (罪の原因となる行為)
「浮世に拗(す)ねる」 (世の中に逆らう)
「卒爾(そつじ)ながら」 (人に声をかける時に言う語)
その他にも、「阿漕(あこぎ)な奴」「お為倒し(おためごかし)」「朝未だき」「足元から鳥が立つ」などなど、余り馴染みのない言葉や台詞が出て来る。
こうした難解な言葉を四六時中考え気にしている訳ではないが、この「四六時中」という言葉も昔は「二六時中」と言ってたそうだ。一日を十二刻で数えていた時代には「二六時中」だったが、二十四時間になって「四六時中」に変わったという。
言葉は移ろうものだが、どういう人がどういう風に使っているのかを知れば、また違った世界を知ることが出来る。日本語と言うのは実に素晴らしいと思う。
東日本大震災後間もなく、天皇皇后両陛下(上皇上皇后両陛下)が福島県の被災地を訪れた。地元紙に天皇皇后両陛下の御来県に関する想いを投稿したことがあった。だが、敬語の部分が殆ど校正され無惨なものになっていたのは残念に思った。
マスコミに因る、皇族方への「敬称・敬語不使用」や「開かれた皇室論」の姿勢は今や国内に蔓延し、天皇陛下や皇室に対する敬愛の念を薄れさせている。両陛下や秋篠宮妃殿下、悠仁親王殿下への皇室報道を見ても、不敬極まるものばかり。
国際化やグローバル化なんぞより、国内に蔓延する日本語の乱れを直すことこそ喫緊の課題だろう。日本人が日本語を正しく使わずして、「国際化社会」などとは痴ましい。明治の先覚者は、外来語を全て新漢字に翻訳し、西洋文化を学んだ。
現代人の様に外来語をカタカナで羅列している軽薄な舶来趣味と比べれば、明治人の気骨と気概、高い見識を伺い知ることが出来る。日本語に自信を持ち、何処までも日本語で主張し、日本文化を貫いたからこそ近代国家として発展が得られたのだ。
今こそ美しい日本語文化を世界に普及し、悠久の歴史を有する日本の和の心を伝え、世界平和の実現を図るならば日本人自身が乱れた日本語を正すことこそ大事。
「忙中閑あり」というか「閑中閑ばかり」。小津安二郎の映画はちと長いですが、日本の古い映画から我が国の在るべき姿が見えて来るかもしれませんぞ。呵呵。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
鬼平犯科帳では軍鶏鍋屋の「五鉄」など小料理屋や蕎麦屋などで呑むシーンが多い。吞み終えた平蔵は女将に心付けを渡す。高が心付けなのだが、平蔵の何気ない渡し方が完璧で、アレは池波正太郎自身の普段の姿をダブらせたものだろう。
鬼平犯科帳の処世術は実に参考になった。例えば、相手への礼金にしても「相手が恐縮する程の金を渡さなければ意味はない」というのには刮目。小銭を貰っても有難みが無い。過分なカネを払ってこそ相手に感謝されるものだと知った。
愚生の周りには、愚生に世話になり乍ら無報酬とかボランティアだと思っている人や、僅かな礼金やタダで事を済ませ様とする輩が多いのはホント困ったものだ(笑)
愚生も平蔵や心の師である高花豊先生ほどの真似は出来ないが、慢性的不如意ではあるが財布にはいつもポチ袋を3~5個ほどは入れて持ち歩く様にはしている。
何処の店でも渡す訳ではない。雰囲気が好い店や、接客などが丁寧な店では勘定した後にコソっと渡す様にはしている。高が心付けだが意外に渡すのは難しい。ポチ袋を何気に相手に渡すことが出来る様になれば男としても飲兵衛としても一丁前だ。
「お釣りは要らないよ!」とか、これ見よがしにチップを渡している社長さんなどを見かけるが、アレは野暮や不粋というもの。「男の作法」では、タクシー代も「お釣りは要らない」ではなく、一旦受け取ってから別に渡すのが好いと訓えている。
「座頭市」やら「眠狂四郎」「小津安二郎」「黒沢明」などの昔の映画や古典落語、或いは童謡や軍歌、懐メロなどに出て来る難しい日本語に、思わず耳を欹(そばだ)ててしまうことがある。古い映画や落語などには懐かしくも美しい日本語が溢れている。こうしたことを気にしながら観たり聴いたりするのは実に楽しいものだ。
「憚(はばか)り様でした」 (ご苦労様です。恐れ入ります)
「傍杖(そばづえ)を食う」 (思わぬ災難に遭う)
「荷が勝つ」 (責任・負担が重過ぎる)
「武士は相身互い」 (同じ立場の者は助け合うべし)
「罪業の深さ」 (罪の原因となる行為)
「浮世に拗(す)ねる」 (世の中に逆らう)
「卒爾(そつじ)ながら」 (人に声をかける時に言う語)
その他にも、「阿漕(あこぎ)な奴」「お為倒し(おためごかし)」「朝未だき」「足元から鳥が立つ」などなど、余り馴染みのない言葉や台詞が出て来る。
こうした難解な言葉を四六時中考え気にしている訳ではないが、この「四六時中」という言葉も昔は「二六時中」と言ってたそうだ。一日を十二刻で数えていた時代には「二六時中」だったが、二十四時間になって「四六時中」に変わったという。
言葉は移ろうものだが、どういう人がどういう風に使っているのかを知れば、また違った世界を知ることが出来る。日本語と言うのは実に素晴らしいと思う。
東日本大震災後間もなく、天皇皇后両陛下(上皇上皇后両陛下)が福島県の被災地を訪れた。地元紙に天皇皇后両陛下の御来県に関する想いを投稿したことがあった。だが、敬語の部分が殆ど校正され無惨なものになっていたのは残念に思った。
マスコミに因る、皇族方への「敬称・敬語不使用」や「開かれた皇室論」の姿勢は今や国内に蔓延し、天皇陛下や皇室に対する敬愛の念を薄れさせている。両陛下や秋篠宮妃殿下、悠仁親王殿下への皇室報道を見ても、不敬極まるものばかり。
国際化やグローバル化なんぞより、国内に蔓延する日本語の乱れを直すことこそ喫緊の課題だろう。日本人が日本語を正しく使わずして、「国際化社会」などとは痴ましい。明治の先覚者は、外来語を全て新漢字に翻訳し、西洋文化を学んだ。
現代人の様に外来語をカタカナで羅列している軽薄な舶来趣味と比べれば、明治人の気骨と気概、高い見識を伺い知ることが出来る。日本語に自信を持ち、何処までも日本語で主張し、日本文化を貫いたからこそ近代国家として発展が得られたのだ。
今こそ美しい日本語文化を世界に普及し、悠久の歴史を有する日本の和の心を伝え、世界平和の実現を図るならば日本人自身が乱れた日本語を正すことこそ大事。
「忙中閑あり」というか「閑中閑ばかり」。小津安二郎の映画はちと長いですが、日本の古い映画から我が国の在るべき姿が見えて来るかもしれませんぞ。呵呵。
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cordial8317 at 06:14│Comments(0)
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