沢田研二の「我が窮状」を嗤う㊙警視庁公安部

2012年05月18日

シュガーキングと呼ばれた男・松江春次



 台湾に烏山頭ダムを設計した八田興一の銅像が在るが、当時は台湾は日本領であり、それ以外に外国で建てられた日本人の銅像は二人だけだったという。

 一人は、医学者 野口英世博士、そしてもう一人は、映画「バルトの楽園」で有名になった板東捕虜収容所所長・松江豊寿大佐の実弟、松江春次氏だ。野口英世、松江春次両人共に福島県人で同じ年、然も、実際に交流が有ったというから凄い。

 後に「キング・オブ・シュガー 」と称された松江春次は、明治9年(1876年)市内馬場町(現在の中央二丁目)に生まれ、会津中学(現会津高校)を卒業し、苦学して東京工業学校(現東京工業大学)応用化学科を卒業し、大日本製糖に入社。

 春次は米国ルイジアナ大学にも留学し砂糖科を卒業。技術習得の為にヨーロッパに出向し31歳で帰国すると日本初の角砂糖の製造に成功する。その後も製糖会社を転々とし、台湾での製糖業で成功を収めるも描く南洋開発の夢の為に退社。

 日本人が入植していた「南国の楽園」と言われたサイパン島に渡る。然し、実際にはサイパン島では入植事業に失敗した日本人約1000人が生活に苦しんでいた。

 サイパン島全域を調査し、製糖事業の成功を確信した春次は、地元の人々を救う為に「南洋興発株式会社」を設立し開拓に着手する。後に製糖事業は大成功を収めて、日本国内からも多くの入植者を迎えた。成功した春次だったが、成金趣味を持つことなく会津人らしく質素な生活を続け、育英事業に私財を投じた。

 自分の苦難の経験から「青年に投資する」を持論とし、自分の土地、株券を売却し、故郷の会津工業高校へ33万円(現在の価値で数億円に相当)を寄付し、機械科を創設させ、多くの技術者が育ち日本に貢献することとなる。

 会津の白虎隊の悲劇は誰もが知るところだが、こうした会津の若者の悲運が、春次が日本の将来の為にも青年を育てなければという思いに駆られたのだと思う。

 第二次世界大戦は激烈を極め、日本軍は終に敗走する。サイパンを占領した米軍は残された「キング・オブ・シュガー・松江春次像」の倒壊を謀るが、地元住民からの懇願で断念したという。春次が如何に慕われていたかが想像出来る。

 春次は、敗戦で財産の殆どを失った。だが今も尚、砂糖製造を中心に開発事業に成功した優れた開拓者として語り伝えられている、福島が生んだ英雄である。

 晩年、春次はサイパンへの郷愁を抱きながら、酒を酌み交わすことが楽しみだったという。春次が好んで揮った「生来無一物(しょうらいむいちぶつ)」の渾身の書に、激動の時代を生き抜いた春次の人となりを感じる。

cordial8317 at 08:18│Comments(0)

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