2011年12月08日
大東亜戦争勃発から70年に想う
大東亜戦争勃発から今日で70年の節目を迎えた。未だに左翼勢力は、大東亜戦争を「侵略戦争」であり、アジアの人々に多大の迷惑を掛けたと罵り、戦争の原因を天皇であるとか、軍部であるとか、A級戦犯であるなどと喧伝しているのは、無知に加えて、先の大戦が起きた原因や犯人を隠し続けたいからだろう。
戦争犯罪人は大日本帝国憲法でもなく、統帥権でもなく、況して軍部でもなければ日本の軍国主義でもない。真の戦争犯罪人は近衛文麿と尾崎秀美らそのブレーン達、即ち日本国内で蠢いていた共産主義者らである。
マルクス・レーニン主義思想が昭和の悲劇を生んだ。多くの戦死者、戦災者を出し、日本の資産の大部分を失った大東亜戦争とは、ソ連コミンテルンと中国共産党、そして日本の共産主義者が仕組んだ共産革命の為の愚かな戦争だったのだ。
米国では、12月7日(現地時間)を汚名の日「リメンバーパールハーバー」とし、日本を卑怯な国として糾弾して止まない。70年経った今でも依然として我が国は「騙まし討ちをした卑怯な国」との汚名を着せられ続けている。
汚名を着せられた原因は、駐米日本大使が宣戦布告の覚書を渡し遅れた職務怠慢に他ならないが、抑抑、何故、開戦を決意し、真珠湾攻撃に至ったかが問題で、それには1853年のペリー来航時代迄遡らなければ到底理解は出来まい。
我が国は黒船に驚き乍らも、強力な中央集権国家を形成しようと明治維新の大業を成し遂げる。15世紀の大航海時代以来、白人による世界制覇の波がアジアにも押し寄せ、アジアは次々と列強に蚕食され植民地となって行った。
その間に勃発した「日清・日露戦争」も避けては通れない宿命的な歴史だったのだ。「日清・日露戦争」での日本大勝利の報は、固唾を呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させ、特に有色人種に与えた影響は強烈だった。
日露戦争勝利から15年後、パリ講和会議で我が国は、「人種平等の原則」を国際連盟規約に載せることを提案する。然し、議長を務める米国大統領ウイルソンが拒絶し否決されてしまう。白人優位主義から「日本を始めとした有色人種に人権など必要無い」との人種差別が会場に横溢していたのは明らかだった。
その後、世界は第二次世界大戦に突入し、我が国はABCD包囲網や最後通牒を突き付けられ、我が国が生き残る道は連合国との戦争しかないとの決断に至る。
戦後の1951年(昭和26年)、上院軍事外交委員会でマッカーサー元元帥が、「日本が戦争に飛び込んで行った動機は、安全保障の必要に迫られた為である」と告白している様に、日本は決して騙まし討ちも、侵略もしていない。
結果として我が国は敗れはしたが、大東亜戦争後、アジアの国々は独立を果たし、「人種平等の原則」は成立した。その事実をしても、如何に大東亜戦争が有色人種の地位向上と植民地解放を目指した「聖戦」だったかが理解出来よう。
昭和20年9月2日、戦艦ミズーリの甲板上で、重光葵外相と梅津参謀総長が降伏文書に調印する。上海爆弾事件で右足を失った重光全権は、ステッキを頼りに義足を引き摺りながら喘ぎ喘ぎ上った。調印を前に一杯の水を所望するが、米国側に冷たく拒否された。卑怯者の「ジャップ」にやる水などないという憎悪が目に見える。
今も糾弾して止まない「リメンバーパールハーバー」も、結局は米国の日本人への偏見と差別であり、先の大戦を反省すべきは我が国ではなく米国である。
12月8日は、国士舘大学の先輩で防挺時代の兄であり、親であり、同志であった對馬則政の命日でもあり、やはり12月8日は忘れられない。 合掌再拝
戦争犯罪人は大日本帝国憲法でもなく、統帥権でもなく、況して軍部でもなければ日本の軍国主義でもない。真の戦争犯罪人は近衛文麿と尾崎秀美らそのブレーン達、即ち日本国内で蠢いていた共産主義者らである。
マルクス・レーニン主義思想が昭和の悲劇を生んだ。多くの戦死者、戦災者を出し、日本の資産の大部分を失った大東亜戦争とは、ソ連コミンテルンと中国共産党、そして日本の共産主義者が仕組んだ共産革命の為の愚かな戦争だったのだ。
米国では、12月7日(現地時間)を汚名の日「リメンバーパールハーバー」とし、日本を卑怯な国として糾弾して止まない。70年経った今でも依然として我が国は「騙まし討ちをした卑怯な国」との汚名を着せられ続けている。
汚名を着せられた原因は、駐米日本大使が宣戦布告の覚書を渡し遅れた職務怠慢に他ならないが、抑抑、何故、開戦を決意し、真珠湾攻撃に至ったかが問題で、それには1853年のペリー来航時代迄遡らなければ到底理解は出来まい。
我が国は黒船に驚き乍らも、強力な中央集権国家を形成しようと明治維新の大業を成し遂げる。15世紀の大航海時代以来、白人による世界制覇の波がアジアにも押し寄せ、アジアは次々と列強に蚕食され植民地となって行った。
その間に勃発した「日清・日露戦争」も避けては通れない宿命的な歴史だったのだ。「日清・日露戦争」での日本大勝利の報は、固唾を呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させ、特に有色人種に与えた影響は強烈だった。
日露戦争勝利から15年後、パリ講和会議で我が国は、「人種平等の原則」を国際連盟規約に載せることを提案する。然し、議長を務める米国大統領ウイルソンが拒絶し否決されてしまう。白人優位主義から「日本を始めとした有色人種に人権など必要無い」との人種差別が会場に横溢していたのは明らかだった。
その後、世界は第二次世界大戦に突入し、我が国はABCD包囲網や最後通牒を突き付けられ、我が国が生き残る道は連合国との戦争しかないとの決断に至る。
戦後の1951年(昭和26年)、上院軍事外交委員会でマッカーサー元元帥が、「日本が戦争に飛び込んで行った動機は、安全保障の必要に迫られた為である」と告白している様に、日本は決して騙まし討ちも、侵略もしていない。
結果として我が国は敗れはしたが、大東亜戦争後、アジアの国々は独立を果たし、「人種平等の原則」は成立した。その事実をしても、如何に大東亜戦争が有色人種の地位向上と植民地解放を目指した「聖戦」だったかが理解出来よう。
昭和20年9月2日、戦艦ミズーリの甲板上で、重光葵外相と梅津参謀総長が降伏文書に調印する。上海爆弾事件で右足を失った重光全権は、ステッキを頼りに義足を引き摺りながら喘ぎ喘ぎ上った。調印を前に一杯の水を所望するが、米国側に冷たく拒否された。卑怯者の「ジャップ」にやる水などないという憎悪が目に見える。
今も糾弾して止まない「リメンバーパールハーバー」も、結局は米国の日本人への偏見と差別であり、先の大戦を反省すべきは我が国ではなく米国である。
12月8日は、国士舘大学の先輩で防挺時代の兄であり、親であり、同志であった對馬則政の命日でもあり、やはり12月8日は忘れられない。 合掌再拝
cordial8317 at 05:44