2023年11月15日
11月15日に生まれ11月15日に死んだ坂本龍馬
11月15日は坂本龍馬が京都の醤油商・近江屋で暗殺された日であるが、11月15日は龍馬の誕生日でもある。天保6年11月15日、土佐郷士の家に生まれ、慶応3年11月15日、暗殺された。11月15日は龍馬ファンにとって感慨深い日でもある。
龍馬は近江屋には、襲撃の際に自分が脱出する事が出来る隠れ家を土蔵に作っていたというが、風邪を引いていた龍馬は土蔵ではなく、来訪した中岡慎太郎と近江屋のニ階で好物の京都「鳥彌三」の鶏の水炊きを堪能しつつ歓談していた。
部屋には二人の他に、龍馬の護衛をしていた元・力士の山田藤吉の三人。その日、近江屋に南大和の「十津川郷土」と名乗る男らが訪ねて来る。山田が対応したが、部屋へ向かう途中に山田は後ろから斬られ、続いて龍馬と中岡が襲撃された。
龍馬は即死に近く仄聞されている様な、「わしゃ脳をやられちゅうきダメじゃ」という声を出す間もなかったのではなかろうか。中岡はニ日後に亡くなった。
龍馬暗殺の謎暗殺について、「護衛の山田藤吉は何故、客人を疑わずに通したのか」とか、「龍馬はピストルを持っていたのに、一発も発砲されていないのは何故か」「中岡の暗殺に、龍馬が巻き込まれたのではないか」など謎は多いが、龍馬のカリスマと共に後に想像(イメージ)されていったのではないだろうか。
龍馬は、北辰一刀流免許皆伝というのが歴史的に語られているが、事実は北辰一刀流でも「長刀」の使い手である。つまりは刀ではなく「薙刀」の名手ではあったが剣術そのものは得意ではなく、実際の剣術の腕前はそれほどではなかったと思う。
居合道や剣道を経験した者は分かるだろうが、龍馬のあの有名な拳銃を懐に仕舞って立つ姿は、刀がだらしなく下げられて如何にも弱そうで剣の達人には見えない。
事実、「寺田屋事件」でも龍馬は短銃で応戦はしたが、弾丸が切れたにも拘らず刀で応戦せず、不様に短銃を振り回すだけで、結果、両手に数か所の深手を負った。
龍馬という人物は幕末には然程有名ではなかったという。維新後数十年が経ち、地元紙に「坂本龍馬特集」が連載され、それが人気に火を点け現在に続いている。
坂本龍馬暗殺の実行犯は今でも歴史家の意見も様々で、「京都見廻組」と「新撰組」に分かれている。「京都見廻組説」では、明治時代に入り、元・隊士だった今井信郎、渡辺篤が、佐々木只三郎らと実行したとの証言を理由に挙げる。
「新撰組説」では、新撰組の隊士が通っていた料理屋の下駄や新撰組隊士の原田左之助刀の鞘が、襲撃後に近江屋に残されていたとの説を挙げる。
だが、そうしたことも龍馬の神秘性を高めている。だが、その龍馬も武器商人だったと断定され教科書から消えるというから、ホント時代は移ろい易いものだ。
幕藩体制下に於いて「横議横行」を勧め、「脱藩せよ!」と叫んだのが吉田松陰だが、その「横議横行」を実践した人物として最も有名なのは坂本竜馬だろう。
「横議横行」とは、自由気儘に各地を歩き回り、出合った人達と大いに議論し語り明かすことだが、幕藩体制下では藩の領地から出ることさえ儘ならなかった。
明治維新は、こうした幕藩体制の陋習を、龍馬を始めとした草莽の志士らが打ち破り、「横議横行」の実践したことに拠るものだと言っても過言ではない。
時代の寵児として活躍した人物の共通の特徴というのは「言葉」が違うことだ。大衆の心を引き付けるのは「言葉」を以て他に無いと思う。土佐の町人郷士の次男に生まれた坂本竜馬は、正に「言葉の達人」だったのだろうと思う。
彼が幕閣とも勤王の志士とも通じ、後には薩長連合の仕掛け人として、明治維新を豪腕で引き寄せた立役者足り得たのは、説得の技術であり、畢竟、言葉の豊かさに拠るものであったと思う。更にもう一つは、彼が「歩く人」だったことだ。
交通の不便だった時代に、龍馬は実に驚く距離を行き来している。 家を飛び出して、多くの人と顔を突き合わせ「横議横行」することは実に大切なことである。その人との邂逅こそが自分や周りは勿論、時代をも変える可能性を秘めている。
愚生も蟄居も厭きたし、そろそろ放浪の旅に出て、旅で出会った方々と「横議横行」したいものだ。だが、それより手元不如意をどうにかせねばならない。呵呵。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
龍馬は近江屋には、襲撃の際に自分が脱出する事が出来る隠れ家を土蔵に作っていたというが、風邪を引いていた龍馬は土蔵ではなく、来訪した中岡慎太郎と近江屋のニ階で好物の京都「鳥彌三」の鶏の水炊きを堪能しつつ歓談していた。
部屋には二人の他に、龍馬の護衛をしていた元・力士の山田藤吉の三人。その日、近江屋に南大和の「十津川郷土」と名乗る男らが訪ねて来る。山田が対応したが、部屋へ向かう途中に山田は後ろから斬られ、続いて龍馬と中岡が襲撃された。
龍馬は即死に近く仄聞されている様な、「わしゃ脳をやられちゅうきダメじゃ」という声を出す間もなかったのではなかろうか。中岡はニ日後に亡くなった。
龍馬暗殺の謎暗殺について、「護衛の山田藤吉は何故、客人を疑わずに通したのか」とか、「龍馬はピストルを持っていたのに、一発も発砲されていないのは何故か」「中岡の暗殺に、龍馬が巻き込まれたのではないか」など謎は多いが、龍馬のカリスマと共に後に想像(イメージ)されていったのではないだろうか。
龍馬は、北辰一刀流免許皆伝というのが歴史的に語られているが、事実は北辰一刀流でも「長刀」の使い手である。つまりは刀ではなく「薙刀」の名手ではあったが剣術そのものは得意ではなく、実際の剣術の腕前はそれほどではなかったと思う。
居合道や剣道を経験した者は分かるだろうが、龍馬のあの有名な拳銃を懐に仕舞って立つ姿は、刀がだらしなく下げられて如何にも弱そうで剣の達人には見えない。
事実、「寺田屋事件」でも龍馬は短銃で応戦はしたが、弾丸が切れたにも拘らず刀で応戦せず、不様に短銃を振り回すだけで、結果、両手に数か所の深手を負った。
龍馬という人物は幕末には然程有名ではなかったという。維新後数十年が経ち、地元紙に「坂本龍馬特集」が連載され、それが人気に火を点け現在に続いている。
坂本龍馬暗殺の実行犯は今でも歴史家の意見も様々で、「京都見廻組」と「新撰組」に分かれている。「京都見廻組説」では、明治時代に入り、元・隊士だった今井信郎、渡辺篤が、佐々木只三郎らと実行したとの証言を理由に挙げる。
「新撰組説」では、新撰組の隊士が通っていた料理屋の下駄や新撰組隊士の原田左之助刀の鞘が、襲撃後に近江屋に残されていたとの説を挙げる。
だが、そうしたことも龍馬の神秘性を高めている。だが、その龍馬も武器商人だったと断定され教科書から消えるというから、ホント時代は移ろい易いものだ。
幕藩体制下に於いて「横議横行」を勧め、「脱藩せよ!」と叫んだのが吉田松陰だが、その「横議横行」を実践した人物として最も有名なのは坂本竜馬だろう。
「横議横行」とは、自由気儘に各地を歩き回り、出合った人達と大いに議論し語り明かすことだが、幕藩体制下では藩の領地から出ることさえ儘ならなかった。
明治維新は、こうした幕藩体制の陋習を、龍馬を始めとした草莽の志士らが打ち破り、「横議横行」の実践したことに拠るものだと言っても過言ではない。
時代の寵児として活躍した人物の共通の特徴というのは「言葉」が違うことだ。大衆の心を引き付けるのは「言葉」を以て他に無いと思う。土佐の町人郷士の次男に生まれた坂本竜馬は、正に「言葉の達人」だったのだろうと思う。
彼が幕閣とも勤王の志士とも通じ、後には薩長連合の仕掛け人として、明治維新を豪腕で引き寄せた立役者足り得たのは、説得の技術であり、畢竟、言葉の豊かさに拠るものであったと思う。更にもう一つは、彼が「歩く人」だったことだ。
交通の不便だった時代に、龍馬は実に驚く距離を行き来している。 家を飛び出して、多くの人と顔を突き合わせ「横議横行」することは実に大切なことである。その人との邂逅こそが自分や周りは勿論、時代をも変える可能性を秘めている。
愚生も蟄居も厭きたし、そろそろ放浪の旅に出て、旅で出会った方々と「横議横行」したいものだ。だが、それより手元不如意をどうにかせねばならない。呵呵。
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cordial8317 at 05:15│Comments(0)
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