2011年10月28日
身はたとひ 武さしの野辺に朽ちぬとも とどめ置かまし大和魂
吉田松陰が江戸伝馬町の獄で斬刑に処せられたのは安政6年(1859年)10月27日。松陰は天保元年(1830年)8月4日、長州萩の東郊松本村で杉家の二男として生まれる。成人して吉田大助の養子となり、名を吉田大次郎と改める。
通称は吉田寅次郎。松陰は号。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家だった為、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究め、子弟の教育に努めた。
安政元年3月、師の佐久間象山の勧めで海外渡航を計画する。下田から米艦(黒船)に便乗しようとして遺失、下田の獄に繋がれたが伝馬町獄送りとなって途中に、高輪泉岳寺の前で詠んだのが次の句だ。 松陰の強い意志が読み取れる。
「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」
同年9月迄の約6ヶ月間、江戸城下伝馬町の獄に留置されていたが、国元の長州萩に謹慎の身となって帰った後の「松下村塾」での教育が最も偉大な事業であろう。
松陰の薫陶を受けた塾生の中から、有爵者6名、贈位者17名、有位者14名等多くの著名な士が出て、中でも高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、木戸孝允(桂小五郎)等は、明治維新の大業に勲功の有った人物ばかりである。
歴史の上での三大変革といえば「大化の改新」「建武の中興」「明治維新」だが、その明治維新に松下村塾生の働きが大きな力となったのは誰もが知るところ。後に松陰は、「安政の大獄」に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政6年7月9日、江戸の長州藩邸から評定所に召出される際に次の句を詠んだ。
「まち得たる 時は今とて 武蔵野よ いさましくも鳴く くつわ虫かな」
自身の決心をこの詩に込めている。然し乍ら、幕府の役人を動かすことが出来ずに、その後の3回の取調べで死刑を覚悟した。10月22日、父、叔父、兄へ宛てに「永訣書」を送った中の一首が誰もが知る次の句である。
「親思ふ 心にまさる 親ごころ けふのおとずれ 何と聞くらん」
処刑の時の近づいたのを知って、10月25日より翌日26日の黄昏までかかって書き上げた「留魂録」の冒頭に「身はたとひ 武さしの野辺に 朽ちぬとも とどめ置かまし 大和魂」(十月念五日二十一回猛士)と記した。
(二十一回猛士)とは松陰先生の号であり、「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解して、その合計した数字が「二十一」となること、及び「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解出来る。これらを組み合わせると「二十一回」となることにより付けられている。
松陰はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に託し、20年後、当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っているのが「留魂録」だ。
その留魂録に拠って、当時の法廷の模様や尋問應答の次第など、獄中の松陰や他の志士の消息等が分かり、松陰の自己の心境と塾生の行くべき道を示したものであり、崇高な松陰魂の指南書ともいえるものである。江戸伝馬町の獄の揚屋を出る松陰は、次の辞世を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げる。
「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」
次いで刑場では、「身はたとひ」の詩を朗誦して従容として刑に就いた。29歳2ヶ月のその生涯は短くも、没後150年以上経った今でもその言葉通り、松陰の魂と言行は光彩を放ち、多くの人の心を捉え感奮興起させ続けている。合掌再拝
通称は吉田寅次郎。松陰は号。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家だった為、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究め、子弟の教育に努めた。
安政元年3月、師の佐久間象山の勧めで海外渡航を計画する。下田から米艦(黒船)に便乗しようとして遺失、下田の獄に繋がれたが伝馬町獄送りとなって途中に、高輪泉岳寺の前で詠んだのが次の句だ。 松陰の強い意志が読み取れる。
「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」
同年9月迄の約6ヶ月間、江戸城下伝馬町の獄に留置されていたが、国元の長州萩に謹慎の身となって帰った後の「松下村塾」での教育が最も偉大な事業であろう。
松陰の薫陶を受けた塾生の中から、有爵者6名、贈位者17名、有位者14名等多くの著名な士が出て、中でも高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、木戸孝允(桂小五郎)等は、明治維新の大業に勲功の有った人物ばかりである。
歴史の上での三大変革といえば「大化の改新」「建武の中興」「明治維新」だが、その明治維新に松下村塾生の働きが大きな力となったのは誰もが知るところ。後に松陰は、「安政の大獄」に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政6年7月9日、江戸の長州藩邸から評定所に召出される際に次の句を詠んだ。
「まち得たる 時は今とて 武蔵野よ いさましくも鳴く くつわ虫かな」
自身の決心をこの詩に込めている。然し乍ら、幕府の役人を動かすことが出来ずに、その後の3回の取調べで死刑を覚悟した。10月22日、父、叔父、兄へ宛てに「永訣書」を送った中の一首が誰もが知る次の句である。
「親思ふ 心にまさる 親ごころ けふのおとずれ 何と聞くらん」
処刑の時の近づいたのを知って、10月25日より翌日26日の黄昏までかかって書き上げた「留魂録」の冒頭に「身はたとひ 武さしの野辺に 朽ちぬとも とどめ置かまし 大和魂」(十月念五日二十一回猛士)と記した。
(二十一回猛士)とは松陰先生の号であり、「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解して、その合計した数字が「二十一」となること、及び「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解出来る。これらを組み合わせると「二十一回」となることにより付けられている。
松陰はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に託し、20年後、当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っているのが「留魂録」だ。
その留魂録に拠って、当時の法廷の模様や尋問應答の次第など、獄中の松陰や他の志士の消息等が分かり、松陰の自己の心境と塾生の行くべき道を示したものであり、崇高な松陰魂の指南書ともいえるものである。江戸伝馬町の獄の揚屋を出る松陰は、次の辞世を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げる。
「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」
次いで刑場では、「身はたとひ」の詩を朗誦して従容として刑に就いた。29歳2ヶ月のその生涯は短くも、没後150年以上経った今でもその言葉通り、松陰の魂と言行は光彩を放ち、多くの人の心を捉え感奮興起させ続けている。合掌再拝
cordial8317 at 01:59