2011年05月29日
右翼はおわってねえぞ!!!
行動右翼・防共挺身隊を辞め二年が経つ。防共挺身隊は総会屋右翼とも揶揄され、初代の福田進総隊長の資産は数十億は下らないという。愚生も国士舘の頃から株主総会に借り出され、初めて出た会社は某電機メーカーだったのを記憶している。
岩瀬泰雄羽田支部長と對馬則政行動隊長(後の三代目総隊長))、中野一史副支部長と共に、横山武彦副隊長の指示通りに某企業の株主総会に出ることになった。
総会前に応接室に通され、社長ら役員の挨拶を受ける。程無くして、総会が始まり「異議なし!議事進行!」の声が上がる。5~10分程度で総会終了。
応接室に戻ると役員が御礼と共に茶封筒を横山副隊長に渡して解散。別れ際に、支部長からバイト代1万円を頂き大学へと戻った。楽なバイトだった(笑)
株主総会用の銀色のシルクの派手な背広に周辺の注目を集めたものだが、こうした派手な背広は、その業界では有名な「洋服の並木」で誂えたものが多かった。並木では国士舘時代の蛇腹や国民服や背広など随分と御世話になったものだ。
先日、この並木のオヤジが亡くなったとネットのニュースで知ったが、実に感慨深いものがあった。チョッとモーホーっぽいオヤジだったっけ。合掌。
大学三年の終わり頃になると就職活動が始まる。愚生は将来の右翼団体活動費は企業からの協賛でやれるものと信じ、就職活動など全くしなかった。だが、大学4年の秋、ナント「商法」が改正されることとなり、一株株主の総会屋対策と右翼団体への協賛金の禁止などで愚生の将来の展望が脆くも頓挫してしまった(笑)
防挺の各支部が独立させられ、「防人の集い」なる訳の分からぬグループになった。羽田支部は「防共グループ・報国社」と改名し、岩瀬支部長も本部との確執で引退し、對馬が社主に、愚生が社主代行となる。羽田支部の副支部長だった中野は行方知れず。その後、愚生は故郷に帰還し、右翼活動に邁進することとなる。
それから約十年後、二代目の早坂光夫総隊長が各支部を纏め活動を再開する。その際に、「運動の責任者として定例街宣などを指揮して欲しい」と声がかかり、爾来、金権体質と揶揄された防挺の恩恵も受けることなく救国活動に邁進して来た。
二代目、三代目時代の運動スタイルは過去の責任者だった桶忠や横山ら先輩方の継承というより、愚生が考えたものが多い。現在は防挺を辞め蟄居状態だが、原発問題や国民不在の政争を目の当りにすると、活動家として隔靴掻痒の感は否めない。
畏友でもある一水会の木村三浩会長じゃないが、「右翼はおわってねえぞ!」と声を大にして叫びたいが、月々の家賃にも窮する状態ではどうしようもない。
吉田松陰の、「居の安きを求むるは真の志士にあらず」という言葉を肝に銘じ、正統右翼浪人道を貫いて来たが、これだけ困窮するのも初めてのことだ。若い頃は、カネが無くてもサラ金や何やら金策する手段もあったし、カネが無くても気楽なものだった。やはり、歳を取ったんだなぁと痛感する今日この頃です(笑)
相撲などの勝負士の世界には「タニマチが出来ると弱くなる」という諺が在る。斯くいう愚生も、月々の支援はそれほど高いものではなかったが、大手警備会社会長からの支援が甘さを招き右翼人としての生き様を忘れていたのかも知れない。
まぁ、西郷隆盛も、「艱難は愉しむものなり」と言っているし、暫く続くであろう慢性的手元不如意という苦難も修行と思いやって行くしかないか。呵呵。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円(月2500円)。法人120000円。協賛会員は300000円~。
岩瀬泰雄羽田支部長と對馬則政行動隊長(後の三代目総隊長))、中野一史副支部長と共に、横山武彦副隊長の指示通りに某企業の株主総会に出ることになった。
総会前に応接室に通され、社長ら役員の挨拶を受ける。程無くして、総会が始まり「異議なし!議事進行!」の声が上がる。5~10分程度で総会終了。
応接室に戻ると役員が御礼と共に茶封筒を横山副隊長に渡して解散。別れ際に、支部長からバイト代1万円を頂き大学へと戻った。楽なバイトだった(笑)
株主総会用の銀色のシルクの派手な背広に周辺の注目を集めたものだが、こうした派手な背広は、その業界では有名な「洋服の並木」で誂えたものが多かった。並木では国士舘時代の蛇腹や国民服や背広など随分と御世話になったものだ。
先日、この並木のオヤジが亡くなったとネットのニュースで知ったが、実に感慨深いものがあった。チョッとモーホーっぽいオヤジだったっけ。合掌。
大学三年の終わり頃になると就職活動が始まる。愚生は将来の右翼団体活動費は企業からの協賛でやれるものと信じ、就職活動など全くしなかった。だが、大学4年の秋、ナント「商法」が改正されることとなり、一株株主の総会屋対策と右翼団体への協賛金の禁止などで愚生の将来の展望が脆くも頓挫してしまった(笑)
防挺の各支部が独立させられ、「防人の集い」なる訳の分からぬグループになった。羽田支部は「防共グループ・報国社」と改名し、岩瀬支部長も本部との確執で引退し、對馬が社主に、愚生が社主代行となる。羽田支部の副支部長だった中野は行方知れず。その後、愚生は故郷に帰還し、右翼活動に邁進することとなる。
それから約十年後、二代目の早坂光夫総隊長が各支部を纏め活動を再開する。その際に、「運動の責任者として定例街宣などを指揮して欲しい」と声がかかり、爾来、金権体質と揶揄された防挺の恩恵も受けることなく救国活動に邁進して来た。
二代目、三代目時代の運動スタイルは過去の責任者だった桶忠や横山ら先輩方の継承というより、愚生が考えたものが多い。現在は防挺を辞め蟄居状態だが、原発問題や国民不在の政争を目の当りにすると、活動家として隔靴掻痒の感は否めない。
畏友でもある一水会の木村三浩会長じゃないが、「右翼はおわってねえぞ!」と声を大にして叫びたいが、月々の家賃にも窮する状態ではどうしようもない。
吉田松陰の、「居の安きを求むるは真の志士にあらず」という言葉を肝に銘じ、正統右翼浪人道を貫いて来たが、これだけ困窮するのも初めてのことだ。若い頃は、カネが無くてもサラ金や何やら金策する手段もあったし、カネが無くても気楽なものだった。やはり、歳を取ったんだなぁと痛感する今日この頃です(笑)
相撲などの勝負士の世界には「タニマチが出来ると弱くなる」という諺が在る。斯くいう愚生も、月々の支援はそれほど高いものではなかったが、大手警備会社会長からの支援が甘さを招き右翼人としての生き様を忘れていたのかも知れない。
まぁ、西郷隆盛も、「艱難は愉しむものなり」と言っているし、暫く続くであろう慢性的手元不如意という苦難も修行と思いやって行くしかないか。呵呵。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円(月2500円)。法人120000円。協賛会員は300000円~。
cordial8317 at 14:04