2023年12月24日
明治維新を導く上に欠くるべからざる礎になった人物「藤田東湖」
西郷隆盛、吉田松陰、橋本左内を始め、多くの明治維新の志士達が師事し、学び、彼らに最大の感化、影響を与えたのが常盤国水戸藩士の藤田東湖である。
明治維新を成就せしめた第一人者であり、代表的日本人の筆頭である西郷隆盛が最も敬愛し師事したのは、島津成彬を別としては藤田東湖であったと言われている。
西郷は、安政元年(1854)春、28歳の時に東湖にしばしば会ったという。東湖49歳の時である。東湖に会った悦びを、西郷は近親者に次の様に語っている。
「東湖先生も至極丁寧なる事にて、彼の宅へ差し越し候と清水の欲した塩梅にて、心中一点の雲霞なく唯清浄なる心に相成り、帰路を忘れ候次第にござ候。彼の方の学問は終始忠義を主とし武士となる仕立にて、学者風とは大いに違い申し候。自画自賛にて人には申さず候得ども、東湖も心に悪まれ候向きにてはござなく、いつも丈夫と呼ばれ過分の至りにござ候。もしや老公(斉昭)鞭を挙げて異船へ魁ござ候わば、逸散駆けつけむべ草に成りともまかりなり申したく心酔仕り申し候・・・」
西郷が如何に東湖を敬仰し心酔したか思いやられる。東湖もまた西郷を「丈夫」「偉丈夫」と殊に親愛し「自分の志を継ぐに足る人物は西郷」と語り両者は相許した。 幕末の生んだ一大天才、橋本左内も東湖を最も敬慕して止まなかった。
左内曰く、「小拙も心服致し候者は水府(水戸)藤田氏に止り申し候」。人物、学問、見識、手腕何れも飛び抜けていた左内は謙虚さを失わなかったが、自負心甚だ高く容易に人を許さなかった。唯一、東湖には心から敬服したという。
越前藩家老鈴木主税がある時「吾が藩は人材が乏しい」と嘆いたという。すると東湖は「それは燈台下暗しだ。貴藩には立派な人材がいるではないか」と言い放つ。主税が「一体それは誰か」と問うと、東湖は「橋本左内である」と答えて笑った。
左内この時22歳、父の後を継いで藩医となったものの全くの無名の時代であった。 松陰もまた東湖崇拝者の一人で、尊王攘夷派の思想的な基盤を東湖に学んだ。
水戸を訪れるも謹慎中だった東湖には会えなかったが、東湖の著作を愛読し、松下村塾では「生気歌」「回天詩史」「常陸帯」等を使って人々に教えたという。
松陰の一番弟子である、久坂玄瑞も東湖を崇拝した一人でもある。年齢がかけ離れて会うことが叶わなかった久坂は「自分は是非お目に掛かりたかった」と嘆じていたが、遂に夢にまで出て来た東湖に会うことが出来て悦んだという。
西郷、松陰、左内、久坂という維新の英傑達に斯くも決定的感化を及ぼした藤田東湖は、安政2年の地震で不慮の死を遂げるが、明治維新を導く上に欠くるべからざる礎になったのである。正しく明治維新とは東湖の集大成でもあったのだ。
神武肇国から続く我が国の長い歴史の中で、時代の陋習を打ち破らんと維新という大業が成し遂げられた。「大化の改新」「建武の中興」「明治維新」である。
「維新」とは「維(こ)れ新(あらた)なり」と全てが改まって新しくなることだが、日本維新の会など尊皇精神に乏しい右顧左眄の自己保身に狂奔する政治家や政党が痴がましくも口に出すものではない。 元号を軽々しく使っている政党も然り。
尊王攘夷派の思想的な基盤を築いた藤田東湖が示した「大義を明にし、人心を正さば、皇道奚(いずく)んぞ興起せざるを憂えん」こそ維新の精神である。
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《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
明治維新を成就せしめた第一人者であり、代表的日本人の筆頭である西郷隆盛が最も敬愛し師事したのは、島津成彬を別としては藤田東湖であったと言われている。
西郷は、安政元年(1854)春、28歳の時に東湖にしばしば会ったという。東湖49歳の時である。東湖に会った悦びを、西郷は近親者に次の様に語っている。
「東湖先生も至極丁寧なる事にて、彼の宅へ差し越し候と清水の欲した塩梅にて、心中一点の雲霞なく唯清浄なる心に相成り、帰路を忘れ候次第にござ候。彼の方の学問は終始忠義を主とし武士となる仕立にて、学者風とは大いに違い申し候。自画自賛にて人には申さず候得ども、東湖も心に悪まれ候向きにてはござなく、いつも丈夫と呼ばれ過分の至りにござ候。もしや老公(斉昭)鞭を挙げて異船へ魁ござ候わば、逸散駆けつけむべ草に成りともまかりなり申したく心酔仕り申し候・・・」
西郷が如何に東湖を敬仰し心酔したか思いやられる。東湖もまた西郷を「丈夫」「偉丈夫」と殊に親愛し「自分の志を継ぐに足る人物は西郷」と語り両者は相許した。 幕末の生んだ一大天才、橋本左内も東湖を最も敬慕して止まなかった。
左内曰く、「小拙も心服致し候者は水府(水戸)藤田氏に止り申し候」。人物、学問、見識、手腕何れも飛び抜けていた左内は謙虚さを失わなかったが、自負心甚だ高く容易に人を許さなかった。唯一、東湖には心から敬服したという。
越前藩家老鈴木主税がある時「吾が藩は人材が乏しい」と嘆いたという。すると東湖は「それは燈台下暗しだ。貴藩には立派な人材がいるではないか」と言い放つ。主税が「一体それは誰か」と問うと、東湖は「橋本左内である」と答えて笑った。
左内この時22歳、父の後を継いで藩医となったものの全くの無名の時代であった。 松陰もまた東湖崇拝者の一人で、尊王攘夷派の思想的な基盤を東湖に学んだ。
水戸を訪れるも謹慎中だった東湖には会えなかったが、東湖の著作を愛読し、松下村塾では「生気歌」「回天詩史」「常陸帯」等を使って人々に教えたという。
松陰の一番弟子である、久坂玄瑞も東湖を崇拝した一人でもある。年齢がかけ離れて会うことが叶わなかった久坂は「自分は是非お目に掛かりたかった」と嘆じていたが、遂に夢にまで出て来た東湖に会うことが出来て悦んだという。
西郷、松陰、左内、久坂という維新の英傑達に斯くも決定的感化を及ぼした藤田東湖は、安政2年の地震で不慮の死を遂げるが、明治維新を導く上に欠くるべからざる礎になったのである。正しく明治維新とは東湖の集大成でもあったのだ。
神武肇国から続く我が国の長い歴史の中で、時代の陋習を打ち破らんと維新という大業が成し遂げられた。「大化の改新」「建武の中興」「明治維新」である。
「維新」とは「維(こ)れ新(あらた)なり」と全てが改まって新しくなることだが、日本維新の会など尊皇精神に乏しい右顧左眄の自己保身に狂奔する政治家や政党が痴がましくも口に出すものではない。 元号を軽々しく使っている政党も然り。
尊王攘夷派の思想的な基盤を築いた藤田東湖が示した「大義を明にし、人心を正さば、皇道奚(いずく)んぞ興起せざるを憂えん」こそ維新の精神である。
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cordial8317 at 07:21│Comments(0)
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