2024年05月
2024年05月30日
田母神さんよ、都知事選なんかより郡山市長選に出馬したら如何!
郡山市出身の田母神俊雄元航空自衛隊幕僚長が都知事選への立候補を表明した。平成26年の都知事選では約61万票を獲得したと記憶するが、前回より得票数は減るのではあるまいか。有権者に保守派の選択肢を与えたいらしいが、大義は無い。
田母神さんの出馬で、日本第一党(櫻井誠代表)は保守派の受け皿にならず今回も泡沫候補に。何より、田母神さんの人気はピークは過ぎた。単に、愛国者とか保守というなら櫻井も負けてないし、政策にしても櫻井の方が東京都を救える。
日本保守党代表の百田尚樹がXで、「私は10年前、田母神さんの応援に立った。で、10年後、東京15区の補選では、田母神さんは日本保守党の対立候補の一つである参政党の応援に入った。義理を欠く行為だなと思ったが、ま、それはいい。私がどうかなと思うのは、公職選挙法で金の問題で有罪判決を受けたこと。『金の問題』で有罪って、私の中では恥ずべきこと」とツイートしてたが、同意する。
百田代表のツイートを受け、田母神さんは「先回の江東区補選で私が参政党を応援したことを義理を欠くとか言って批判する人たちがいる。私は参政党立ち上げの時から参政党顧問で会合などにも出席していた。保守党が出来たから保守党に乗り換えたではそれこそ義理を欠く」と主張していたが、言い訳がましく実に見苦しい。
更に「保守党と参政党の目指す国は違うという人もいるが、私は大筋では同じ方向を目指していると思っている」という認識を示していたが、参政党の神谷宗幣は女性天皇推進派であり、尊皇精神が欠落してる。要は、参政党の売名が目的だろう。
平成26年の都知事選後、公職選挙法(運動員買収)容疑で田母神元幕僚長が東京地検特捜部に逮捕されたのは記憶に新しい。選挙前の買収なら分からなくもないが、選挙後の貢献度に応じた慰労金での買収容疑というのは何か胡散臭げだった。
逮捕前、本人は「国家権力にはかないません」とtwitter(現X)で、負け惜しみともいえるツイートを垂れ流していたが、ああいうイヤミは己の値打ちを下げる。
何より言い訳はみっともない。警察ではなく東京地検特捜部が出張っていたことは何か裏が在ったのだろうとは推測するが、確信が無ければ逮捕はしないわな。
田母神元空幕長は郡山市田村町田母神地区出身で、同じ郡山市に住む愚生としては誇りでもあった。「酒と妾は二合まで」と言って笑わせてた田母神さんだが、離婚裁判では愛人を庇い、妻へ不満と罵詈雑言を浴びせたことで彼の本性を垣間見た。
田母神閣下の自衛隊員としての経歴や思想信条を否定するものではないが、女性(不倫)問題での醜聞は聞くに堪えないものだった。そりゃ、前妻に言いたいことはあったのだろうが、それらをじっと我慢して肚に納めておくべきではなかったか。
田母神閣下のアパ論文に見る歴史認識の正しさや航空幕僚長としての立居振舞に、日本の士(さむらい)を見ていただけに離婚裁判は残念至極なことだった。
夫婦というのは所詮は他人である。何らかの事情で糟糠の妻と別れるのは構わないが別れ方というのがあるだろう。そういや、別れた途端に新しい妻との写真を嬉しそうにSNSでアップして悦に入ってた日本保守党所属の某区議会議員がいる。
区議が離婚前から不倫関係にあったことは明らかで、離婚後にああした写真を元妻や娘が見てどう感じるとは思わないのだろうか。男の優しさを微塵も感じない。
元妻や子供の気持ちも思い遣ることも出来ずに、他人を思い遣り、国や地方自治を正そうなどとは実に痴がましい。保守派を自任し、愛国者を気取るのならば、国民の模範的人物であらねばならず、私生活を含めて峻烈に生きるべきだと思う。
政治というのは最高の倫理であり、最高の道徳であらねばならず、政治家に求められるのは唯々「滅私奉公」の一つである。西郷隆盛もこう訓えている。
「万民の上に位置するものは、己を慎み、品行を正しくし、贅沢を戒め、倹約に努め、職務に努力して人民の見本とならねばならない。そして民衆がその働きぶりを見て『気の毒だなぁ』と思うようでなければならない」(南洲翁遺訓第四条)。尤も、今どき「気の毒だなぁ」と思える政治家なんぞ見たことも無いし、滅私奉公なんてのは政治や国民の奉仕者であるべき公務員の世界じゃ最早死語となってしまった。
偉そうに倫理道徳を説いてた西郷本人だったが、島送りされる毎に愛人を囲って子供までこさえている。西郷は、巷間言われてる様な傑物ではないのがバレた(笑)
田母神閣下が「日本は良い国だ!」と語り航空幕僚長を解任されたのは記憶に新しい。 米国を始め、世界各国も自分達の都合が悪いので表立って認めはしないが、日本が一方的に世界を侵略したなどということが事実でないことは余程のバカで無い限り認識している。ところが、我が国では真実を語った途端に批判の的になる。
マスコミは作為的に報じて国民世論を煽り、空幕長を守るべき自民党政府は大慌てで空幕長を解任し、野党は国会で吊るし上げ退職金の返納までも強要した。
要するに「日本は侵略国家、犯罪国家」とする東京裁判史観と異にする意見に対しては、条件反射的に拒絶反応を示すのだろうが、これこそ滑稽という他はない。
田母神さんが航空幕僚長時代にが寄稿したアパ論文の冒頭はこう綴られている。
「米英蘭などとの戦争は、どう見ても日本の自衛戦争であり、またアジア開放の戦争であったと思っている人は多い。しかし、中国との戦争については中国の本土に軍を進めたのだから侵略だ、と思い込んでいる人が意外に多いようだ。しかしこれは完全な間違いである。条約に基づいて他国に軍隊を駐留させることは国際法的に全く合法であり、侵略ではない。日米安保に基づき日本に米軍が駐留しているのは(好き嫌いは別として)侵略ではないのである。逆に合法的に駐留している米軍を自衛隊が攻撃して戦争になった場合、それが日本国内で戦われたとしても、侵略者は日本ということになるのである。日本は『北京議定書』に基づき在留邦人保護のために軍隊を駐屯させていた。盧溝橋でその日本軍を攻撃してきたのが中国軍である。また上海で日本人保護のために合法的に駐留していた海軍陸戦隊に、正規軍10万人で一方的に攻撃を仕掛けてきて、日中戦争は本格化した。何れも中国軍が仕掛けたことであり、侵略者は日本ではなく『中国』なのである」 。実に分かり易い文章である。
論文に苦言を呈せば、「中国」ではなく「支那」と呼ぶべきであり、「日中戦争」ではなく「支那事変」だが、田母神論文はこうした重要な歴史を教えてくれた。
買収事件の記憶が薄れて行く中で都知事選への出馬を表明したが、都政なんぞより、郷土の為に来夏の郡山市長選に出馬したら如何だろう。郡山市の警備会社「ケイビ」の顧問だし、供託金や運動費はケイビが出すから心配ないだろうし。呵呵。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
田母神さんの出馬で、日本第一党(櫻井誠代表)は保守派の受け皿にならず今回も泡沫候補に。何より、田母神さんの人気はピークは過ぎた。単に、愛国者とか保守というなら櫻井も負けてないし、政策にしても櫻井の方が東京都を救える。
日本保守党代表の百田尚樹がXで、「私は10年前、田母神さんの応援に立った。で、10年後、東京15区の補選では、田母神さんは日本保守党の対立候補の一つである参政党の応援に入った。義理を欠く行為だなと思ったが、ま、それはいい。私がどうかなと思うのは、公職選挙法で金の問題で有罪判決を受けたこと。『金の問題』で有罪って、私の中では恥ずべきこと」とツイートしてたが、同意する。
百田代表のツイートを受け、田母神さんは「先回の江東区補選で私が参政党を応援したことを義理を欠くとか言って批判する人たちがいる。私は参政党立ち上げの時から参政党顧問で会合などにも出席していた。保守党が出来たから保守党に乗り換えたではそれこそ義理を欠く」と主張していたが、言い訳がましく実に見苦しい。
更に「保守党と参政党の目指す国は違うという人もいるが、私は大筋では同じ方向を目指していると思っている」という認識を示していたが、参政党の神谷宗幣は女性天皇推進派であり、尊皇精神が欠落してる。要は、参政党の売名が目的だろう。
平成26年の都知事選後、公職選挙法(運動員買収)容疑で田母神元幕僚長が東京地検特捜部に逮捕されたのは記憶に新しい。選挙前の買収なら分からなくもないが、選挙後の貢献度に応じた慰労金での買収容疑というのは何か胡散臭げだった。
逮捕前、本人は「国家権力にはかないません」とtwitter(現X)で、負け惜しみともいえるツイートを垂れ流していたが、ああいうイヤミは己の値打ちを下げる。
何より言い訳はみっともない。警察ではなく東京地検特捜部が出張っていたことは何か裏が在ったのだろうとは推測するが、確信が無ければ逮捕はしないわな。
田母神元空幕長は郡山市田村町田母神地区出身で、同じ郡山市に住む愚生としては誇りでもあった。「酒と妾は二合まで」と言って笑わせてた田母神さんだが、離婚裁判では愛人を庇い、妻へ不満と罵詈雑言を浴びせたことで彼の本性を垣間見た。
田母神閣下の自衛隊員としての経歴や思想信条を否定するものではないが、女性(不倫)問題での醜聞は聞くに堪えないものだった。そりゃ、前妻に言いたいことはあったのだろうが、それらをじっと我慢して肚に納めておくべきではなかったか。
田母神閣下のアパ論文に見る歴史認識の正しさや航空幕僚長としての立居振舞に、日本の士(さむらい)を見ていただけに離婚裁判は残念至極なことだった。
夫婦というのは所詮は他人である。何らかの事情で糟糠の妻と別れるのは構わないが別れ方というのがあるだろう。そういや、別れた途端に新しい妻との写真を嬉しそうにSNSでアップして悦に入ってた日本保守党所属の某区議会議員がいる。
区議が離婚前から不倫関係にあったことは明らかで、離婚後にああした写真を元妻や娘が見てどう感じるとは思わないのだろうか。男の優しさを微塵も感じない。
元妻や子供の気持ちも思い遣ることも出来ずに、他人を思い遣り、国や地方自治を正そうなどとは実に痴がましい。保守派を自任し、愛国者を気取るのならば、国民の模範的人物であらねばならず、私生活を含めて峻烈に生きるべきだと思う。
政治というのは最高の倫理であり、最高の道徳であらねばならず、政治家に求められるのは唯々「滅私奉公」の一つである。西郷隆盛もこう訓えている。
「万民の上に位置するものは、己を慎み、品行を正しくし、贅沢を戒め、倹約に努め、職務に努力して人民の見本とならねばならない。そして民衆がその働きぶりを見て『気の毒だなぁ』と思うようでなければならない」(南洲翁遺訓第四条)。尤も、今どき「気の毒だなぁ」と思える政治家なんぞ見たことも無いし、滅私奉公なんてのは政治や国民の奉仕者であるべき公務員の世界じゃ最早死語となってしまった。
偉そうに倫理道徳を説いてた西郷本人だったが、島送りされる毎に愛人を囲って子供までこさえている。西郷は、巷間言われてる様な傑物ではないのがバレた(笑)
田母神閣下が「日本は良い国だ!」と語り航空幕僚長を解任されたのは記憶に新しい。 米国を始め、世界各国も自分達の都合が悪いので表立って認めはしないが、日本が一方的に世界を侵略したなどということが事実でないことは余程のバカで無い限り認識している。ところが、我が国では真実を語った途端に批判の的になる。
マスコミは作為的に報じて国民世論を煽り、空幕長を守るべき自民党政府は大慌てで空幕長を解任し、野党は国会で吊るし上げ退職金の返納までも強要した。
要するに「日本は侵略国家、犯罪国家」とする東京裁判史観と異にする意見に対しては、条件反射的に拒絶反応を示すのだろうが、これこそ滑稽という他はない。
田母神さんが航空幕僚長時代にが寄稿したアパ論文の冒頭はこう綴られている。
「米英蘭などとの戦争は、どう見ても日本の自衛戦争であり、またアジア開放の戦争であったと思っている人は多い。しかし、中国との戦争については中国の本土に軍を進めたのだから侵略だ、と思い込んでいる人が意外に多いようだ。しかしこれは完全な間違いである。条約に基づいて他国に軍隊を駐留させることは国際法的に全く合法であり、侵略ではない。日米安保に基づき日本に米軍が駐留しているのは(好き嫌いは別として)侵略ではないのである。逆に合法的に駐留している米軍を自衛隊が攻撃して戦争になった場合、それが日本国内で戦われたとしても、侵略者は日本ということになるのである。日本は『北京議定書』に基づき在留邦人保護のために軍隊を駐屯させていた。盧溝橋でその日本軍を攻撃してきたのが中国軍である。また上海で日本人保護のために合法的に駐留していた海軍陸戦隊に、正規軍10万人で一方的に攻撃を仕掛けてきて、日中戦争は本格化した。何れも中国軍が仕掛けたことであり、侵略者は日本ではなく『中国』なのである」 。実に分かり易い文章である。
論文に苦言を呈せば、「中国」ではなく「支那」と呼ぶべきであり、「日中戦争」ではなく「支那事変」だが、田母神論文はこうした重要な歴史を教えてくれた。
買収事件の記憶が薄れて行く中で都知事選への出馬を表明したが、都政なんぞより、郷土の為に来夏の郡山市長選に出馬したら如何だろう。郡山市の警備会社「ケイビ」の顧問だし、供託金や運動費はケイビが出すから心配ないだろうし。呵呵。
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2024年05月24日
日本人が持つべきは報国であり愛国心より大和の心(大和魂)である
拙ブログ「爆ちゃん吼える」の冒頭には、昭和天皇に論語の「漢籍」の進講をされた、戦前の日本を代表する倫理哲学者・哲学者・西晋一郎の言葉を記している。
「我が民族の将来と国家の前途を思うは人間の最も真剣なる感情であり、君国に忠、親に孝なるは最も現実なる道徳である。之を離れては人類愛も世界的正義も空想に過ぎない」。「国に忠」と「親に孝」の二つを離れては、人類愛も、平和主義も、憲法論議も空理空論どころか、ただの「空想」「妄想」に過ぎないということである。
左翼勢力が頻りに「平和」を訴え、「正義」を標榜しようが、「国に忠」という感情が決定的に欠落している故に、まともな国民には受け容れられることはない。
我が国は、2700年もの歴史が続く君主国家であり、そして神武建国の理念とは、「八紘をおおいて一宇となす」という家族国家の形成に在る。 「日本を再生する」ということは、欧米の様な国になることではない。そういう意味では、明治維新は、「維新」とは名ばかりで、その実は西洋文明を模倣した改革に過ぎなかった。
戦後体制を見直すことは喫緊の課題であることに間違いないが、明治維新後に長州閥が行った施策の多くを検証する必要もあろう。「日本を再生する」「日本を取り戻す」とは、その原点である「日本の背骨」を取り戻すということである。
「日本の背骨とは何か」といえば、祖国日本に生まれた日本人として生きて行く上で大切な精神である。それはつまり、「国家への忠誠心」と「親への孝養」であり、西晋一郎の教えの通り、正に「君国に忠」「親に孝」ということに尽きる。
我が国は天皇(君)を頂く家族国家であり、その国體の精華は万邦無比である。全ての日本人が陛下の下に一つとなって(忠)、先祖代々続く日本人としての血統を重んじ(親)、父祖に恥じない生き方を実現する(孝)、ということである。
「愛国とは人性(じんせい)の至誠なり」とは内村鑑三だったか。「愛国心」なんていうものは人が生まれつき持ってるもので殊更ひけらかすものではない。何故なら、民族の将来と祖国の将来を憂うる行為は最も真剣なる感情であるのだから。
日本では何故か「愛国」だとか「愛国心」などと口に出すものなら「右翼」や「反動」と非難される。「右翼」という言葉には悪意が感じられ、愛国者を「右翼」と蔑むことに由って国家と国民の離反を目論んだマスコミの成果でもある。
日本人が失った徳目を呼び返そうという標語として「愛国心」は最も相応しい言葉だと思うが、アドルフ・ヒトラーは「国家という概念は今日、明白な内容を持っていない。だから軽薄な愛国教育しかできないのだ」と訓えていることに括目する。
愛国心を育むことは大事なことではあるが強制することでもない。奇跡の国である日本に生まれた喜びと、先人の歴史と営為に学び現代にそれを活かすことこそ大事である。それには愛国よりも「報国」こそ方が大事であると思っている。
日本人が持つべきは報国であり、愛国心より大和の心(大和魂)である。つまり、花鳥風月、山川草木、春夏秋冬の恵まれた自然に逆らわず、調和して暮す従順な心を育むことである。愛国心より、先ずは国の成り立ちを教え、大和心を涵養すべし。
西晋一郎は、「人は教えによって人であり、教は国があって行われ、国は歴史があって存立する。人と教と国と歴史は一環状をなし、其の実一である。若し四者が連貫を失ったならば、人は真に人でなく、教は真に教でなく、国は真に国をなさず、歴史というものから断絶される」と、教育の重要さを分かり易く訓えている。
教育と国の歴史は繋がっており、国の歴史を軽んじることは、国家としての未来を放棄したも同然である。人もまた、教え学ぶことを忘れてはならない。それは単に自分の為だけではなく、連綿と続くであろう子供達の為でもあるからだ。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
「我が民族の将来と国家の前途を思うは人間の最も真剣なる感情であり、君国に忠、親に孝なるは最も現実なる道徳である。之を離れては人類愛も世界的正義も空想に過ぎない」。「国に忠」と「親に孝」の二つを離れては、人類愛も、平和主義も、憲法論議も空理空論どころか、ただの「空想」「妄想」に過ぎないということである。
左翼勢力が頻りに「平和」を訴え、「正義」を標榜しようが、「国に忠」という感情が決定的に欠落している故に、まともな国民には受け容れられることはない。
我が国は、2700年もの歴史が続く君主国家であり、そして神武建国の理念とは、「八紘をおおいて一宇となす」という家族国家の形成に在る。 「日本を再生する」ということは、欧米の様な国になることではない。そういう意味では、明治維新は、「維新」とは名ばかりで、その実は西洋文明を模倣した改革に過ぎなかった。
戦後体制を見直すことは喫緊の課題であることに間違いないが、明治維新後に長州閥が行った施策の多くを検証する必要もあろう。「日本を再生する」「日本を取り戻す」とは、その原点である「日本の背骨」を取り戻すということである。
「日本の背骨とは何か」といえば、祖国日本に生まれた日本人として生きて行く上で大切な精神である。それはつまり、「国家への忠誠心」と「親への孝養」であり、西晋一郎の教えの通り、正に「君国に忠」「親に孝」ということに尽きる。
我が国は天皇(君)を頂く家族国家であり、その国體の精華は万邦無比である。全ての日本人が陛下の下に一つとなって(忠)、先祖代々続く日本人としての血統を重んじ(親)、父祖に恥じない生き方を実現する(孝)、ということである。
「愛国とは人性(じんせい)の至誠なり」とは内村鑑三だったか。「愛国心」なんていうものは人が生まれつき持ってるもので殊更ひけらかすものではない。何故なら、民族の将来と祖国の将来を憂うる行為は最も真剣なる感情であるのだから。
日本では何故か「愛国」だとか「愛国心」などと口に出すものなら「右翼」や「反動」と非難される。「右翼」という言葉には悪意が感じられ、愛国者を「右翼」と蔑むことに由って国家と国民の離反を目論んだマスコミの成果でもある。
日本人が失った徳目を呼び返そうという標語として「愛国心」は最も相応しい言葉だと思うが、アドルフ・ヒトラーは「国家という概念は今日、明白な内容を持っていない。だから軽薄な愛国教育しかできないのだ」と訓えていることに括目する。
愛国心を育むことは大事なことではあるが強制することでもない。奇跡の国である日本に生まれた喜びと、先人の歴史と営為に学び現代にそれを活かすことこそ大事である。それには愛国よりも「報国」こそ方が大事であると思っている。
日本人が持つべきは報国であり、愛国心より大和の心(大和魂)である。つまり、花鳥風月、山川草木、春夏秋冬の恵まれた自然に逆らわず、調和して暮す従順な心を育むことである。愛国心より、先ずは国の成り立ちを教え、大和心を涵養すべし。
西晋一郎は、「人は教えによって人であり、教は国があって行われ、国は歴史があって存立する。人と教と国と歴史は一環状をなし、其の実一である。若し四者が連貫を失ったならば、人は真に人でなく、教は真に教でなく、国は真に国をなさず、歴史というものから断絶される」と、教育の重要さを分かり易く訓えている。
教育と国の歴史は繋がっており、国の歴史を軽んじることは、国家としての未来を放棄したも同然である。人もまた、教え学ぶことを忘れてはならない。それは単に自分の為だけではなく、連綿と続くであろう子供達の為でもあるからだ。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
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2024年05月22日
勿体振ってないで持てる力全てを惜しむこと無く与えなさい
いつぞや、ネットサーフィンをしていたら右翼活動家のブログが目に付いた。そこには何やら、「所謂団塊の世代の人と歴史認識で意見の相違を感じたが、敢えて反論もせず聞き入った」とし、最後には団塊の世代への嫌悪感と雑言が綴られてた。
右翼の仲間からは同意の声が書き込まれ絶賛されていたが、その場で説得も試みず、後で色々書き連ねるというのは卑怯だし余り感心はしない。仲間も仲間で、諫めたり、苦言を呈す人はいない。仲間内で称えあって何が愉しいのだろう。
何故、激論を交わさないのか。「こういう輩と話すことに意味はない」と大人ぶってるつもりかも知れないが、偶には相手と目線を合わせ、本性剥き出しで一つ一つ反論し、歴史的事実を滔滔と語ることも自分を高める上でも大事だと思っている。
愚生も放浪の旅先の居酒屋や行きつけの飲み屋など呑んでるとよくそういう人とは遭遇する。だが、そういう輩を面白可笑しく例え話を出しながら議論を交わし諭すことは嫌いじゃない。袖すり合った隣の客との議論こそ横議横行の醍醐味でもある。
後輩や門下生ならいざ知らず、意見を同じくする仲間内だけで話し合ったところで何になるというのだろう。右翼人が右翼に論じても意味はない。やや左に偏った考えの人や、無自覚左翼を如何に転向させられるかが啓蒙活動の極意じゃなかろうか。
今迄、何十人ものオールド左翼に出会い、話すと「アンタの様な右翼は初めてだよ」と言われもした。「オマエとは話しにならん!」と怒って席を立ったのは、日教組出身で日本共産党の市会議員になった今は亡き中学時代の恩師くらい(笑)
ゴールデン街なんかで呑んでると、場所柄だろうか、左翼や団塊の世代、無自覚左翼がうじゃうじゃいて自説を垂れ流してるオールド左翼によく遭遇したものだ。
こういった輩の多くは、幼い正義感からそういった思想や考えに辿り着いた人が殆どで、その辺りを擽ってから、身近にある喩えを出して反対意見を述べると意外にあっさり己の矛盾点と学生運動華やかしき時代の幼稚な正義感を認めるだろう。
まぁ、政治的意見での隔絶はどうしようもないが、共通の話題を探すことも大事。大体スケベな話題は左右共通で、そういった話や趣味の話題で打ち解け、シャレやオチを付けながら分かり易く、周りを巻き込んで話しするのが好きだ(笑)
そういう意味では浅学菲才というか、時局は勿論のこと、スケベなことから哲学的なことまで知識は雑駁に広く、何事にも興味を持って貪欲に学ぶことが大事。
「右翼人とは『よく読み』『よく書き』『よく喋る』、そして『よく呑む』ことだ」と教わったのは今は亡き右翼浪人の横山武彦。本を読んだら感じ入った部分や感動した台詞などを書き留め、話してみる。話術としては落語は実に参考になる。
右翼陣営の悪い処は、一回書いたものや前に話したことは二度とやらない。聞く人が違うのだから観念的に同じことを訴えて行くことは大事なことだ。大日本愛国党総裁の赤尾敏の数寄屋橋での街頭演説なんていつも同じ。アレを見習うべきだ。
演説を10分出来るなら、同じ話を最初からやり直せば好いことで、「さっき話したから」と恥ずかしがったところで、そんな演説なんぞ誰も聞いてないから大丈夫。同じ話でも3回繰り返せば30分。そうしているうちに要領を得るだろう。
「前に同じ話を聞きましたよ」って言われたら「主義主張なんてのは変わりませんから」と言えば好いし、「余程のオレのファンなのだ」と思えば好いだけのこと。
演説で大事なのは上手く喋ろうというのではなく、自分の言葉で懸命に訴えるのが好い。それが、見栄なのか、恥ずかしいのか、同じ話はやりたがらない。下手くそな演説を勿体ぶってどうすんの。同じ話だってイイじゃないか右翼だもの(笑)
その点、噺家というのは凄いと思う。サゲ(オチ)を知ってる話なんだが何度聞いても笑える。右翼も空気をカネにするなら業(会話)を磨かなきゃダメ。
噺家が聴衆を引き込むにはマクラ(本題に入る前の面白話)が大事。マクラで聴衆を引き込んで笑いを取ってから本題に入るのだが、マクラが上手いとつい引き込まれてしまう。右翼の演説もいきなり本題から入るから聴衆も立ち止まらない。
内容は乏しくても話術でカバー出来る。そういう意味でもツカミは大事であり、演説家は読書も好いが、それより寄席に行って話の技を盗んで来なさいな(笑)
右翼の先生方を見ていると出し惜しみ感は否めない。思想にしろ理論にしろ大したことはないのに、高が知れてる経験や知識を出し惜しみしてどうするのだ。「教えるとは実に教えられることである」。教えることで己の更なる向上に繋がる。
別に右翼だけに限らず上に立つ者は、勿体を付けることなく持てる力全てを惜しげなく与えて行くことで、心在る者は意気に感じそれに応えてくれるものだ。
まぁ、それでも裏切られたらそれは人を見る目が無かったということ。人を見る眼というのは人生経験の集大成、修行をやり直すしかないな。呵々大笑。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円(月2500円)。法人120000円。協賛会員300000円~。
右翼の仲間からは同意の声が書き込まれ絶賛されていたが、その場で説得も試みず、後で色々書き連ねるというのは卑怯だし余り感心はしない。仲間も仲間で、諫めたり、苦言を呈す人はいない。仲間内で称えあって何が愉しいのだろう。
何故、激論を交わさないのか。「こういう輩と話すことに意味はない」と大人ぶってるつもりかも知れないが、偶には相手と目線を合わせ、本性剥き出しで一つ一つ反論し、歴史的事実を滔滔と語ることも自分を高める上でも大事だと思っている。
愚生も放浪の旅先の居酒屋や行きつけの飲み屋など呑んでるとよくそういう人とは遭遇する。だが、そういう輩を面白可笑しく例え話を出しながら議論を交わし諭すことは嫌いじゃない。袖すり合った隣の客との議論こそ横議横行の醍醐味でもある。
後輩や門下生ならいざ知らず、意見を同じくする仲間内だけで話し合ったところで何になるというのだろう。右翼人が右翼に論じても意味はない。やや左に偏った考えの人や、無自覚左翼を如何に転向させられるかが啓蒙活動の極意じゃなかろうか。
今迄、何十人ものオールド左翼に出会い、話すと「アンタの様な右翼は初めてだよ」と言われもした。「オマエとは話しにならん!」と怒って席を立ったのは、日教組出身で日本共産党の市会議員になった今は亡き中学時代の恩師くらい(笑)
ゴールデン街なんかで呑んでると、場所柄だろうか、左翼や団塊の世代、無自覚左翼がうじゃうじゃいて自説を垂れ流してるオールド左翼によく遭遇したものだ。
こういった輩の多くは、幼い正義感からそういった思想や考えに辿り着いた人が殆どで、その辺りを擽ってから、身近にある喩えを出して反対意見を述べると意外にあっさり己の矛盾点と学生運動華やかしき時代の幼稚な正義感を認めるだろう。
まぁ、政治的意見での隔絶はどうしようもないが、共通の話題を探すことも大事。大体スケベな話題は左右共通で、そういった話や趣味の話題で打ち解け、シャレやオチを付けながら分かり易く、周りを巻き込んで話しするのが好きだ(笑)
そういう意味では浅学菲才というか、時局は勿論のこと、スケベなことから哲学的なことまで知識は雑駁に広く、何事にも興味を持って貪欲に学ぶことが大事。
「右翼人とは『よく読み』『よく書き』『よく喋る』、そして『よく呑む』ことだ」と教わったのは今は亡き右翼浪人の横山武彦。本を読んだら感じ入った部分や感動した台詞などを書き留め、話してみる。話術としては落語は実に参考になる。
右翼陣営の悪い処は、一回書いたものや前に話したことは二度とやらない。聞く人が違うのだから観念的に同じことを訴えて行くことは大事なことだ。大日本愛国党総裁の赤尾敏の数寄屋橋での街頭演説なんていつも同じ。アレを見習うべきだ。
演説を10分出来るなら、同じ話を最初からやり直せば好いことで、「さっき話したから」と恥ずかしがったところで、そんな演説なんぞ誰も聞いてないから大丈夫。同じ話でも3回繰り返せば30分。そうしているうちに要領を得るだろう。
「前に同じ話を聞きましたよ」って言われたら「主義主張なんてのは変わりませんから」と言えば好いし、「余程のオレのファンなのだ」と思えば好いだけのこと。
演説で大事なのは上手く喋ろうというのではなく、自分の言葉で懸命に訴えるのが好い。それが、見栄なのか、恥ずかしいのか、同じ話はやりたがらない。下手くそな演説を勿体ぶってどうすんの。同じ話だってイイじゃないか右翼だもの(笑)
その点、噺家というのは凄いと思う。サゲ(オチ)を知ってる話なんだが何度聞いても笑える。右翼も空気をカネにするなら業(会話)を磨かなきゃダメ。
噺家が聴衆を引き込むにはマクラ(本題に入る前の面白話)が大事。マクラで聴衆を引き込んで笑いを取ってから本題に入るのだが、マクラが上手いとつい引き込まれてしまう。右翼の演説もいきなり本題から入るから聴衆も立ち止まらない。
内容は乏しくても話術でカバー出来る。そういう意味でもツカミは大事であり、演説家は読書も好いが、それより寄席に行って話の技を盗んで来なさいな(笑)
右翼の先生方を見ていると出し惜しみ感は否めない。思想にしろ理論にしろ大したことはないのに、高が知れてる経験や知識を出し惜しみしてどうするのだ。「教えるとは実に教えられることである」。教えることで己の更なる向上に繋がる。
別に右翼だけに限らず上に立つ者は、勿体を付けることなく持てる力全てを惜しげなく与えて行くことで、心在る者は意気に感じそれに応えてくれるものだ。
まぁ、それでも裏切られたらそれは人を見る目が無かったということ。人を見る眼というのは人生経験の集大成、修行をやり直すしかないな。呵々大笑。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円(月2500円)。法人120000円。協賛会員300000円~。
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2024年05月20日
言葉や文章を書き留めて少しでも近付ける様に努力することが大事
誰しも「好きな言葉」というのはあるだろうし、感銘を受けた本や座右の書というものもあるだろう。金言や格言の多くは実践と経験から学んだものであり、自戒を込めた言葉故に相手に響く。逆を言えば、実体験を伴わない言葉は軽々しい。
「人真似上手は個性を創造する」という様に、そうした言葉や文章を書き留めて、少しでもその尊敬する人や憧れの人物に近付ける様に努力することは大事なこと。
「日本とロシアは提携の必要性がある」などといった開国論を展開し、安政の大獄で斬首された越前福井藩士の橋本左内は、学問を学ぶ極意をこう訓えている。
「志を立て、その目的を達成する手段の中で最も近道だと思うのは、聖人の書物や種々の歴史本の中で自分が特に刺激を受けた部分を別紙に書き抜いて壁に貼っておくか、扇などに書いておき、日夜朝夕それを眺め、常に反省しつつ、及ばない点について勉め、進歩を楽しむのがよい」。日頃からの実践が後々の自分の身に成る。
右翼人にもいるが、よく読書の量を自慢している自称読書家を見かける。斯くいう愚生も、大学時代から政治思想の本を中心に、雑駁ではあったが色々なジャンルの書物を読み漁り、本棚に並べてはその読書量に悦に入ったりしたのも事実(笑)
自称読書家曰く「読書は楽しい」と宣う。だが、読んで楽しいというだけなら別に読書じゃなくても映画でも好いし、落語や講談、歌舞伎などでも好いだろう。
本というものは、読まないよりは読んだ方が好いというくらいなのもので、橋本左内ではないが、感じ入った部分を何度も読んだり書き留めたり、その書いた文章を眺めたりして、自分の糧になる様に心に確りと刻み込むことこそ大事なこと。
勉強とか学ぶという基本的な在り方は、活眼を以て生きた本を読むことだ。ベストセラーなんぞ単なる暇潰しの様なもの。読んで学んで実践しなければ意味は無い。
常々、心眼を開いていれば「生きた学問」や参考書となるべきものは多く在る。「生きた学問」とか「耳学問」で一番好いのが、失敗に失敗を重ねた上で成功した人物の話であり、くだらん営業保守らの売文なんぞより学ぶことは実に多い。
保守ブームに乗っかって稼いでいる営業保守の本なんぞ、領土主権や国防論を尤もらしく語って、反中共やら反韓・反北朝鮮の脅威を煽って稼いでるだけ。保守を気取ってはいるが、尊皇精神に乏しく、保守したいのは現在の立場や生業だけ。
経営の実践も無い経営学教授然り、小難しい言葉を羅列しては悦に入ってるが、よくよく読めば「常識」を尤もらしく書き綴っているだけのこと。憲法学の教授なんてのは憲法擁護の左翼学者ばかりで、現憲法を生業にしている学匪ばかり。
「小人の学は、耳より入りて口より入ず」というが、小人は学問を売り物にし耳から聞き齧った事をその儘に口にするので少しも身に付かない。未だ自分の口で話すだけ好いが、無言のリツイートは身に付かないどころか周りにとっては迷惑千万。
「小人の学は、耳より入りて口より入ず」との喩えは、愚生的には実に耳が痛いものを感じるが、繰り返して語ることで自分の思想になっていく場合も多い。「人真似上手は個性を創造する」というのも、繰り返すことの大切さを教えている。
自分の中に真の学問を積んでいる人は決してひけらかすことはなく、衒学臭くはないという。確かに新渡戸稲造の「武士道」でも衒学は一番嫌われると教えている。
武士道の一説に在る、「学問は他人を説得したり、論破したりするものではなく、自分自身がどう生きて行くかのか、或いはどう在るべきか、といったことに答えを見出すものでなくてはならないのである」とは、実に示唆に富んでいる。
学問とは本来自分自身の向上の為のものである。仲間にしか通用しない夥しいコピペをSNSに貼り付けたり無言リツイートしたり、付け焼き刃の知識をひけらかし、自分自身に酔っているネット右翼や営業右翼はある意味で反面教師とも言える。
実践の伴わない薄っぺらな請売りの主張では、世の中への警鐘どころか他人さえも、否、身内や友人さえも感化させたり、賛同させることも出来ないだろう。だが、同じ主張を繰り返し、教え続けることでその思想が自分のものとなって行く。
愚生の場合、倫理哲学者である西晋一郎が好きで彼是と参考にしブログのタイトルにも載せている。自分自身に酔っている訳でもないが、西先生の「教えるとは実に教えられることである」を肝に銘じ、今日もまたこうして書き綴っている。呵呵。
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「人真似上手は個性を創造する」という様に、そうした言葉や文章を書き留めて、少しでもその尊敬する人や憧れの人物に近付ける様に努力することは大事なこと。
「日本とロシアは提携の必要性がある」などといった開国論を展開し、安政の大獄で斬首された越前福井藩士の橋本左内は、学問を学ぶ極意をこう訓えている。
「志を立て、その目的を達成する手段の中で最も近道だと思うのは、聖人の書物や種々の歴史本の中で自分が特に刺激を受けた部分を別紙に書き抜いて壁に貼っておくか、扇などに書いておき、日夜朝夕それを眺め、常に反省しつつ、及ばない点について勉め、進歩を楽しむのがよい」。日頃からの実践が後々の自分の身に成る。
右翼人にもいるが、よく読書の量を自慢している自称読書家を見かける。斯くいう愚生も、大学時代から政治思想の本を中心に、雑駁ではあったが色々なジャンルの書物を読み漁り、本棚に並べてはその読書量に悦に入ったりしたのも事実(笑)
自称読書家曰く「読書は楽しい」と宣う。だが、読んで楽しいというだけなら別に読書じゃなくても映画でも好いし、落語や講談、歌舞伎などでも好いだろう。
本というものは、読まないよりは読んだ方が好いというくらいなのもので、橋本左内ではないが、感じ入った部分を何度も読んだり書き留めたり、その書いた文章を眺めたりして、自分の糧になる様に心に確りと刻み込むことこそ大事なこと。
勉強とか学ぶという基本的な在り方は、活眼を以て生きた本を読むことだ。ベストセラーなんぞ単なる暇潰しの様なもの。読んで学んで実践しなければ意味は無い。
常々、心眼を開いていれば「生きた学問」や参考書となるべきものは多く在る。「生きた学問」とか「耳学問」で一番好いのが、失敗に失敗を重ねた上で成功した人物の話であり、くだらん営業保守らの売文なんぞより学ぶことは実に多い。
保守ブームに乗っかって稼いでいる営業保守の本なんぞ、領土主権や国防論を尤もらしく語って、反中共やら反韓・反北朝鮮の脅威を煽って稼いでるだけ。保守を気取ってはいるが、尊皇精神に乏しく、保守したいのは現在の立場や生業だけ。
経営の実践も無い経営学教授然り、小難しい言葉を羅列しては悦に入ってるが、よくよく読めば「常識」を尤もらしく書き綴っているだけのこと。憲法学の教授なんてのは憲法擁護の左翼学者ばかりで、現憲法を生業にしている学匪ばかり。
「小人の学は、耳より入りて口より入ず」というが、小人は学問を売り物にし耳から聞き齧った事をその儘に口にするので少しも身に付かない。未だ自分の口で話すだけ好いが、無言のリツイートは身に付かないどころか周りにとっては迷惑千万。
「小人の学は、耳より入りて口より入ず」との喩えは、愚生的には実に耳が痛いものを感じるが、繰り返して語ることで自分の思想になっていく場合も多い。「人真似上手は個性を創造する」というのも、繰り返すことの大切さを教えている。
自分の中に真の学問を積んでいる人は決してひけらかすことはなく、衒学臭くはないという。確かに新渡戸稲造の「武士道」でも衒学は一番嫌われると教えている。
武士道の一説に在る、「学問は他人を説得したり、論破したりするものではなく、自分自身がどう生きて行くかのか、或いはどう在るべきか、といったことに答えを見出すものでなくてはならないのである」とは、実に示唆に富んでいる。
学問とは本来自分自身の向上の為のものである。仲間にしか通用しない夥しいコピペをSNSに貼り付けたり無言リツイートしたり、付け焼き刃の知識をひけらかし、自分自身に酔っているネット右翼や営業右翼はある意味で反面教師とも言える。
実践の伴わない薄っぺらな請売りの主張では、世の中への警鐘どころか他人さえも、否、身内や友人さえも感化させたり、賛同させることも出来ないだろう。だが、同じ主張を繰り返し、教え続けることでその思想が自分のものとなって行く。
愚生の場合、倫理哲学者である西晋一郎が好きで彼是と参考にしブログのタイトルにも載せている。自分自身に酔っている訳でもないが、西先生の「教えるとは実に教えられることである」を肝に銘じ、今日もまたこうして書き綴っている。呵呵。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
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2024年05月18日
「四十歳迄は勝つ様に四十歳以降は負けぬ様に」
戦国武将の武田信玄は「四十歳迄は勝つ様に。四十歳以降は負けぬ様に」と教えている。若い頃と違い、無理が利かない年齢になって頑張り過ぎて勝つことだけを追いかけてると、体力も消耗するし思わぬ大敗を招きかねない。それなりの歳になったなら「勝つことよりも負けぬことを心掛けよ」というのは大事な教えである。
この言葉は、未だ「人生五十年」の頃の言葉だから、今の時代ならば「五十歳迄は勝つ様に。五十歳以降は負けぬ様に」ということだろうか。還暦過ぎた愚生は「戦わずして勝つ」か、否、「余計な戦いはしない」というのが分相応か(笑)
信玄は「勝負の事、十分を六分七分の勝ちは十分の勝ちなり」とも訓えている。勝負事は、六分か七分の勝ちが好いと言うのだ。つまり、負けなしの圧勝は次への局面への対処も遅れるし、何より、身内の驕りや慢心、そして油断を齎すと諭す。
「もっと気合いを入れろ」とか「全力を尽くせ」とばかり言ってないで、「少しは休め」「明日に響くから程々に」と「六分勝ちの哲学」に学ぶ方が効果は大きい。
美空ひばりの「柔」の歌詞に「勝つと思うな、思えば負けよ」という一節がある。勝負事は「相打ち」で好いと思っていて、気負いの無い方が気が楽になり実力を発揮するもの。斯くいう愚生の場合、勝負事といえば専ら競輪競馬くらいなもの。
愚生からすると、ギャンブルを否定する人や競輪や競馬なんぞやったことが無い人というのは人間的な魅力を感じない。それは無難な人生を歩んで来たという如何にも安泰した生活臭が、そういう雰囲気を醸し出しているからだろうが、何事も失敗を経験し、バカな事に打ち込んだ人というのはどことなく人間味に溢れている。
六分の勝ちという教えはギャンブルにも当て嵌まる。色川武大こと阿佐田哲也はギャンブルから学んだ人生観を相撲の勝敗に喩え、「9勝6敗を狙え。8勝7敗では寂しい。10勝を狙うと無理が出る」と教えた。戦国武将の言葉よりも実に分かり易い。
「幸運が続き過ぎると危ない」という考えから、ギャンブルに大負けすると「ここで不運を消化しておけば安心だ」とよく語っていたというが、見倣うべき人生訓。
「満(み)つれば(か)欠くる」ともいうが、愚生の人生も40歳の頃がピークで、後はずっと欠けっぱなし。まぁ、月も三日月になってしまえば後は満ちて来るし、ツキは戻って来るものだから、今を凌げばどうにかなるだろうと楽観視している。
「勝つと思うな思えば負けよ」という。「勝とう」「勝たねば」と思うと実力を発揮出来ずに終わるということが多いが、これを「引き分けで好い」と思うと意外と気負わずに出来るもの。そんな精神的余裕が勝ちに結びついたりするものだ。
ギャンブル依存症などは論外だが、ギャンブルを目の敵にしてる連中にもうんざり。競輪や競馬をやり乍ら全国を旅する「旅打ち」というのは精神修行でもある。阿佐田の他にも浅田次郎や伊集院静、山口瞳なんかも旅打ちを愛した作家である。
「旅先でギャンブルを行う」というスタイルは、江戸時代の博徒・国定忠治などの無宿人がそう。阿佐田や浅田、伊集院といった作家の作品がウケるのは、そうした経験から滲み出る人間性から発した生きた言葉や人生観が綴られているからだろう。
「旅打ち」にも出たいと思うが、旅打ちに持参する程の資金も無い。という訳で、軽挙妄動を戒めて暫くはブログと筋トレに専念しているしかない様だ。呵呵。
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この言葉は、未だ「人生五十年」の頃の言葉だから、今の時代ならば「五十歳迄は勝つ様に。五十歳以降は負けぬ様に」ということだろうか。還暦過ぎた愚生は「戦わずして勝つ」か、否、「余計な戦いはしない」というのが分相応か(笑)
信玄は「勝負の事、十分を六分七分の勝ちは十分の勝ちなり」とも訓えている。勝負事は、六分か七分の勝ちが好いと言うのだ。つまり、負けなしの圧勝は次への局面への対処も遅れるし、何より、身内の驕りや慢心、そして油断を齎すと諭す。
「もっと気合いを入れろ」とか「全力を尽くせ」とばかり言ってないで、「少しは休め」「明日に響くから程々に」と「六分勝ちの哲学」に学ぶ方が効果は大きい。
美空ひばりの「柔」の歌詞に「勝つと思うな、思えば負けよ」という一節がある。勝負事は「相打ち」で好いと思っていて、気負いの無い方が気が楽になり実力を発揮するもの。斯くいう愚生の場合、勝負事といえば専ら競輪競馬くらいなもの。
愚生からすると、ギャンブルを否定する人や競輪や競馬なんぞやったことが無い人というのは人間的な魅力を感じない。それは無難な人生を歩んで来たという如何にも安泰した生活臭が、そういう雰囲気を醸し出しているからだろうが、何事も失敗を経験し、バカな事に打ち込んだ人というのはどことなく人間味に溢れている。
六分の勝ちという教えはギャンブルにも当て嵌まる。色川武大こと阿佐田哲也はギャンブルから学んだ人生観を相撲の勝敗に喩え、「9勝6敗を狙え。8勝7敗では寂しい。10勝を狙うと無理が出る」と教えた。戦国武将の言葉よりも実に分かり易い。
「幸運が続き過ぎると危ない」という考えから、ギャンブルに大負けすると「ここで不運を消化しておけば安心だ」とよく語っていたというが、見倣うべき人生訓。
「満(み)つれば(か)欠くる」ともいうが、愚生の人生も40歳の頃がピークで、後はずっと欠けっぱなし。まぁ、月も三日月になってしまえば後は満ちて来るし、ツキは戻って来るものだから、今を凌げばどうにかなるだろうと楽観視している。
「勝つと思うな思えば負けよ」という。「勝とう」「勝たねば」と思うと実力を発揮出来ずに終わるということが多いが、これを「引き分けで好い」と思うと意外と気負わずに出来るもの。そんな精神的余裕が勝ちに結びついたりするものだ。
ギャンブル依存症などは論外だが、ギャンブルを目の敵にしてる連中にもうんざり。競輪や競馬をやり乍ら全国を旅する「旅打ち」というのは精神修行でもある。阿佐田の他にも浅田次郎や伊集院静、山口瞳なんかも旅打ちを愛した作家である。
「旅先でギャンブルを行う」というスタイルは、江戸時代の博徒・国定忠治などの無宿人がそう。阿佐田や浅田、伊集院といった作家の作品がウケるのは、そうした経験から滲み出る人間性から発した生きた言葉や人生観が綴られているからだろう。
「旅打ち」にも出たいと思うが、旅打ちに持参する程の資金も無い。という訳で、軽挙妄動を戒めて暫くはブログと筋トレに専念しているしかない様だ。呵呵。
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2024年05月15日
我が国の自主防衛を語らない沖縄左翼は中共の単なる駒でしかない
5月15日は「沖縄本土復帰記念日」である。沖縄県が本土復帰する前に、当時の佐藤栄作首相が発した「沖縄が帰らずして日本の戦後はない」との言葉は、当時は未だ小学生だった愚生にも大きく響き、その記憶は決して消えることはない。
戦後、米国に統治されたのは沖縄だけではない。伊豆諸島は終戦翌年の昭和21年3月22日に、トカラ諸島は昭和27年2月10日に、主権回復した翌年の昭和28年12月25日には奄美諸島が、昭和38年6月26日には小笠原諸島が本土復帰した。
言い方は悪いかも知れないが、これが米国の統治だったから好い様なもので、旧ソ連(ロシア)に侵略され不法に強奪された南樺太や全千島列島は未だに返ることはなく、旧島民の方々が故郷へ帰ることすら儘ならないことを思えば恵まれている。
沖縄では「米軍基地反対」さえ叫んでいれば平和が訪れると思っている県民も少なくないが、「反基地運動」にしても米国だから許されているとは思わないか。
沖縄県から米軍の撤退はイコール中共からの併呑を意味する。米軍撤退を叫び自衛隊に拠る自主防衛を訴えるなら未だしも、沖縄左翼は自主防衛は全く語らない。これつまり、沖縄左翼は沖縄併合を謀る中共の単なる駒でしかないということだ。
沖縄県全体がきちんと突き詰めた議論が為されない儘に、安っぽい平和主義と過剰な被害者意識から、日本政府と米軍にその批判の矛先が向けられている。
沖縄県内では安全保障という正論を語れる雰囲気は無く、唯単に「反日」や「侮日」で結託し、罵詈雑言を浴びせかける隣国と同じ構図と実に似ている。
地理的に日本と支那の中間に位置する沖縄は、日本から見れば同じ日本人だが、支那や沖縄から見れば寧ろ支那と同族の関係にあった。住民は日本本土から南下し住みついた日本人と、ポリネシア系や台湾系、支那華南系だとされている。
明朝時代には日本ではなく、明朝に入貢して琉球国・中山王として冊封を受け、奄美大島から先の宮古・八重山迄の領域を支配する中央集権国家を築いた。
日本への使者の派遣は室町時代になってからだった。徳川幕府の命令で島津藩が琉球に出兵し、奄美大島を直轄化した歴史はあるが、琉球はその後に支那大陸に誕生した清朝の冊封も受けており、日本と清の両属の二股外交の立場を採った。
琉球は日本文化が拒絶した宦官制度を導入していたことでも支那との関係が深く、また日清戦争の際には日本派と清国派が乱闘を演じたことは歴史的事実。
日本に帰属し乍ら、「日清両属」を主張する琉球を沖縄県として統合した「琉球処分」は、日本の国土統一を進める明治政府にとって不可避の課題だった。
明治5年、明治政府は琉球藩を設置し、琉球王の尚泰を藩王に任命する。明治12年には「廃藩置県」の通達に由り、首里王府を解体し沖縄県を置いた。
然し、清国はこの琉球処分に対して猛反発する。清国は、東京や北京で沖縄の分断工作を謀ろうと琉球処分を国際問題化させる。清朝の摂政・恭親王と直隷総督・李鴻章は、北京訪問中のグランド元米国大統領と会見し、琉球問題の仲介を依頼する。
その後、日本を訪問したグランド元大統領は、伊藤博文と西郷従道と栃木県日光で会談することとなるが、逆に清朝の旧態を批判し、日本を支持したのだった。因みに、グランド元大統領は英国でも「琉球処分」での日本の論拠を擁護している。
日光での会談後には、東京でも日本政府とグランド元大統領との会談が持たれることとなり、その会談には畏くも明治天皇も御臨席遊ばされている。当時の日本外交は、現在の場当たり的な外交ではなく用意周到に展開されたことを窺わせる。
「琉球処分」後も、沖縄本土では親清派の「頑固党」と親日派の「開化党」との抗争が絶えなかったが、その後に勃発した「日清戦争」で我が国が勝利すると、親清派(頑固党)は沈黙し、初めて沖縄が静穏に発展し軌道に乗ったのである。
国内では相変わらず親中派や沖縄左翼が沖縄を攪乱しているが、これは過去の琉球処分への報復が着々と謀られているということでもある。過去に民主党政権下で奨められた「沖縄ビジョン」はその最たるもので、その首謀者は中共である。
その革命運動の序章が米軍基地反対運動であり、平和の邦・沖縄という無防備の邦の演出である。自主防衛を語らない反基地運動は正に無防備の害そのもの。
自主防衛を否定する現憲法を「平和憲法」と騙り、安っぽい平和主義を翳すことこそが戦争を誘発する最大の危険要因となることを思い知るべきだろう。
三島由紀夫は、「戦争を誘発する大きな原因の一つは、アンディフェンデッド・ウェルス(無防備の害)だ」と訓えたが、蓋し正論である。日頃、軽々しく「平和」を訴えている政治家こそが政治や外交を危ぶみ、戦争を誘発する最大要因となる。
今の時代「平和」とは唱えるものではなく、またいつまでも米国に依存すべきものでもない。「平和」とは自らが命懸けで創り出さねばならないものである。
沖縄では未だに「日本は沖縄を見捨てた」だとか「日本は沖縄を捨石にした」「日本軍は沖縄の敵であった」などとの声を耳にする。だが、沖縄と祖国日本を救う為に、尊い命を捧げてくれた英霊が存在していることを忘れてはいけない。
先の大戦での「沖縄戦」に於いて、日本軍は劣勢を覆す為の特攻攻撃が行われた。特攻戦死者の実に76%が沖縄戦で亡くなっている。鹿屋基地(海軍航空)からの特攻で1981名、知覧基地(陸軍航空)からの特攻で1036名が散華している。
沖縄全体がきちんと突き詰めた防衛議論が為されない儘に、安っぽい平和主義と過剰な被害者意識から、日本政府と米軍にその矛先が向けられているが、いつまでも被害者意識では自らの命を犠牲にした英霊にどんな顔向けが出来るというのか。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
戦後、米国に統治されたのは沖縄だけではない。伊豆諸島は終戦翌年の昭和21年3月22日に、トカラ諸島は昭和27年2月10日に、主権回復した翌年の昭和28年12月25日には奄美諸島が、昭和38年6月26日には小笠原諸島が本土復帰した。
言い方は悪いかも知れないが、これが米国の統治だったから好い様なもので、旧ソ連(ロシア)に侵略され不法に強奪された南樺太や全千島列島は未だに返ることはなく、旧島民の方々が故郷へ帰ることすら儘ならないことを思えば恵まれている。
沖縄では「米軍基地反対」さえ叫んでいれば平和が訪れると思っている県民も少なくないが、「反基地運動」にしても米国だから許されているとは思わないか。
沖縄県から米軍の撤退はイコール中共からの併呑を意味する。米軍撤退を叫び自衛隊に拠る自主防衛を訴えるなら未だしも、沖縄左翼は自主防衛は全く語らない。これつまり、沖縄左翼は沖縄併合を謀る中共の単なる駒でしかないということだ。
沖縄県全体がきちんと突き詰めた議論が為されない儘に、安っぽい平和主義と過剰な被害者意識から、日本政府と米軍にその批判の矛先が向けられている。
沖縄県内では安全保障という正論を語れる雰囲気は無く、唯単に「反日」や「侮日」で結託し、罵詈雑言を浴びせかける隣国と同じ構図と実に似ている。
地理的に日本と支那の中間に位置する沖縄は、日本から見れば同じ日本人だが、支那や沖縄から見れば寧ろ支那と同族の関係にあった。住民は日本本土から南下し住みついた日本人と、ポリネシア系や台湾系、支那華南系だとされている。
明朝時代には日本ではなく、明朝に入貢して琉球国・中山王として冊封を受け、奄美大島から先の宮古・八重山迄の領域を支配する中央集権国家を築いた。
日本への使者の派遣は室町時代になってからだった。徳川幕府の命令で島津藩が琉球に出兵し、奄美大島を直轄化した歴史はあるが、琉球はその後に支那大陸に誕生した清朝の冊封も受けており、日本と清の両属の二股外交の立場を採った。
琉球は日本文化が拒絶した宦官制度を導入していたことでも支那との関係が深く、また日清戦争の際には日本派と清国派が乱闘を演じたことは歴史的事実。
日本に帰属し乍ら、「日清両属」を主張する琉球を沖縄県として統合した「琉球処分」は、日本の国土統一を進める明治政府にとって不可避の課題だった。
明治5年、明治政府は琉球藩を設置し、琉球王の尚泰を藩王に任命する。明治12年には「廃藩置県」の通達に由り、首里王府を解体し沖縄県を置いた。
然し、清国はこの琉球処分に対して猛反発する。清国は、東京や北京で沖縄の分断工作を謀ろうと琉球処分を国際問題化させる。清朝の摂政・恭親王と直隷総督・李鴻章は、北京訪問中のグランド元米国大統領と会見し、琉球問題の仲介を依頼する。
その後、日本を訪問したグランド元大統領は、伊藤博文と西郷従道と栃木県日光で会談することとなるが、逆に清朝の旧態を批判し、日本を支持したのだった。因みに、グランド元大統領は英国でも「琉球処分」での日本の論拠を擁護している。
日光での会談後には、東京でも日本政府とグランド元大統領との会談が持たれることとなり、その会談には畏くも明治天皇も御臨席遊ばされている。当時の日本外交は、現在の場当たり的な外交ではなく用意周到に展開されたことを窺わせる。
「琉球処分」後も、沖縄本土では親清派の「頑固党」と親日派の「開化党」との抗争が絶えなかったが、その後に勃発した「日清戦争」で我が国が勝利すると、親清派(頑固党)は沈黙し、初めて沖縄が静穏に発展し軌道に乗ったのである。
国内では相変わらず親中派や沖縄左翼が沖縄を攪乱しているが、これは過去の琉球処分への報復が着々と謀られているということでもある。過去に民主党政権下で奨められた「沖縄ビジョン」はその最たるもので、その首謀者は中共である。
その革命運動の序章が米軍基地反対運動であり、平和の邦・沖縄という無防備の邦の演出である。自主防衛を語らない反基地運動は正に無防備の害そのもの。
自主防衛を否定する現憲法を「平和憲法」と騙り、安っぽい平和主義を翳すことこそが戦争を誘発する最大の危険要因となることを思い知るべきだろう。
三島由紀夫は、「戦争を誘発する大きな原因の一つは、アンディフェンデッド・ウェルス(無防備の害)だ」と訓えたが、蓋し正論である。日頃、軽々しく「平和」を訴えている政治家こそが政治や外交を危ぶみ、戦争を誘発する最大要因となる。
今の時代「平和」とは唱えるものではなく、またいつまでも米国に依存すべきものでもない。「平和」とは自らが命懸けで創り出さねばならないものである。
沖縄では未だに「日本は沖縄を見捨てた」だとか「日本は沖縄を捨石にした」「日本軍は沖縄の敵であった」などとの声を耳にする。だが、沖縄と祖国日本を救う為に、尊い命を捧げてくれた英霊が存在していることを忘れてはいけない。
先の大戦での「沖縄戦」に於いて、日本軍は劣勢を覆す為の特攻攻撃が行われた。特攻戦死者の実に76%が沖縄戦で亡くなっている。鹿屋基地(海軍航空)からの特攻で1981名、知覧基地(陸軍航空)からの特攻で1036名が散華している。
沖縄全体がきちんと突き詰めた防衛議論が為されない儘に、安っぽい平和主義と過剰な被害者意識から、日本政府と米軍にその矛先が向けられているが、いつまでも被害者意識では自らの命を犠牲にした英霊にどんな顔向けが出来るというのか。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
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2024年05月14日
日本人必読の名著である「言志四禄(佐藤一斎)」に学ぶ
少(わか)くして学べば、即ち壮にして為すことあり
壮にして学べば、即ち老いて衰えず
老にして学べば、即ち死して朽ちず。(言志晩録六十条)
誰もが知るこの有名な詩は佐藤一斎の「言志四録」の一節「三学戒」の訓えである。生涯に於いて、学ぶことの重要性を説いたものだ。 「言志四録」とは、「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志耋(てつ)録」の四書の総称のこと。
佐藤一斎の名を知らなくても、その門下生の多さに驚く。朱子学と陽明学を教えた一斎の門下生は数千人に及び、朱子学としては、愚生の地元郡山が生んだ偉人、安積艮斎(あさかごんさい)始め、大橋訥庵、中村敬宇(正直)などがいる。
陽明学者としては、佐久間象山を始め、山田方谷、横井小楠、渡辺崋山。 その佐久間象山門下から勝海舟、吉田松陰、小林虎三郎、坂本竜馬などの傑物が輩出し、吉田松陰門下生には高杉晋作、伊藤博文以下錚々たる面々が連なっている。
維新の立役者であった西郷隆盛は、一斎の直接の弟子ではなかったが「言志四録」を座右の銘としていた。「言志四録」の魅力は箴言が多いところだろう。
例えば、「人が学問をするに当たって師とすべきものは、『天』『人』『経』の三つがあると教える。その中で最上は天を師とすることであり、次いで立派な人を師として習い、その次は賢人の書を師として学ぶことである。(言志録・二条)」
愚生に師と呼べる人はいなかったし、天を師とすることなど無理。せめて好い書に触れて、またその人物に近付こうと努力する。「人真似上手は個性を創造する」という様に、憧れの人の立居振る舞いや思想などを真似てみることも大事である。
イチローにしろ、大谷翔平にしろ、最初から一流ではない。懸命に学ぶ上で、理想とするプレーを真似たに違いない。そして自分のものとして創造し今がある。
「全て事業を為すには、天の意に従う敬虔な心を持つ事が必要である。功績を人に誇示し、自分の存在をひけらかす気持ちが有ってはならない。(同三条)」 。武士道で一番嫌われるのは「衒学」という。つまり、ひけらかすことは武士道に悖る。
「人は生まれつき『仁』『義』『礼』『智』『信』を備えているのだから、この五常を極め尽くすべきである。また『孝』『悌』『忠』といった職分が有るのだから、これらを当然の義務として実践すべきである。(同八条)」という。
現在はその性善説が怪しい。日本国憲法でも「平和を愛する諸国民の公正と信義」を重んじているが、生まれつき五常が備わっていない日本人が幅を利かせる。
同三十条では、「自分の過失を責めることに厳しい人は他人の過失を責める場合も厳格であり、他人を思いやることの寛容な人は自分にも寛容である。教養の有る出来た人は、自分を責める時は厳しく、他人を責める場合は寛容である」と説く。
我が国の政治の世界は全くこの逆で、他人を責めるのは厳しく、自分には大甘な判断ばかり。「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志耋録」は千三百三十条もあり、限がないので、政治家の心得として知っておくべき五つの事項を記そう。
第一は軽量で、財政上の軽量を計ること。
第二は時勢で、時代の動向を見抜いて事を行うこと。
第三は寛容で、人に接するに心が広く温厚なこと。
第四は鎮定で、争乱を鎮めて平和を保つこと。
第五は寧耐で、心を平静にして、よく忍耐すること。
そして、「賢明な人を採用し、心の曲がった人を遠ざけ、農業を奨励し、税金を軽くし、贅沢を戒め、倹約を重んじ、老人を大切にし、幼児を慈しむなど、何れも必要なことで誰もが知っていることである。(言志後録・七九条) 」と説く。
言志耊録に「寒暑、栄枯は天地の呼吸なり、苦楽、栄辱は人生の呼吸なり」と在る。人生は良い時もあれば悪い時もある訳で、だからこそ人生は愉しいのだ。
人間関係というのは、往往にして良い時だけは付き合うが、悪い時や悪い部分を指摘されたりすると、徐々に離れて行く場合が多い。良い時も、悪い時も同じ態度で接してくれた人だけ信じられる。古典は人生での大事な価値を教えてくれる。
夫夫の年代に合わせ、悩んだ時や、人生に疲れた時などに一斎の書を読むと元気を与えて貰えるに違いない。「言志四録」もまた日本人必読の名著である。
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壮にして学べば、即ち老いて衰えず
老にして学べば、即ち死して朽ちず。(言志晩録六十条)
誰もが知るこの有名な詩は佐藤一斎の「言志四録」の一節「三学戒」の訓えである。生涯に於いて、学ぶことの重要性を説いたものだ。 「言志四録」とは、「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志耋(てつ)録」の四書の総称のこと。
佐藤一斎の名を知らなくても、その門下生の多さに驚く。朱子学と陽明学を教えた一斎の門下生は数千人に及び、朱子学としては、愚生の地元郡山が生んだ偉人、安積艮斎(あさかごんさい)始め、大橋訥庵、中村敬宇(正直)などがいる。
陽明学者としては、佐久間象山を始め、山田方谷、横井小楠、渡辺崋山。 その佐久間象山門下から勝海舟、吉田松陰、小林虎三郎、坂本竜馬などの傑物が輩出し、吉田松陰門下生には高杉晋作、伊藤博文以下錚々たる面々が連なっている。
維新の立役者であった西郷隆盛は、一斎の直接の弟子ではなかったが「言志四録」を座右の銘としていた。「言志四録」の魅力は箴言が多いところだろう。
例えば、「人が学問をするに当たって師とすべきものは、『天』『人』『経』の三つがあると教える。その中で最上は天を師とすることであり、次いで立派な人を師として習い、その次は賢人の書を師として学ぶことである。(言志録・二条)」
愚生に師と呼べる人はいなかったし、天を師とすることなど無理。せめて好い書に触れて、またその人物に近付こうと努力する。「人真似上手は個性を創造する」という様に、憧れの人の立居振る舞いや思想などを真似てみることも大事である。
イチローにしろ、大谷翔平にしろ、最初から一流ではない。懸命に学ぶ上で、理想とするプレーを真似たに違いない。そして自分のものとして創造し今がある。
「全て事業を為すには、天の意に従う敬虔な心を持つ事が必要である。功績を人に誇示し、自分の存在をひけらかす気持ちが有ってはならない。(同三条)」 。武士道で一番嫌われるのは「衒学」という。つまり、ひけらかすことは武士道に悖る。
「人は生まれつき『仁』『義』『礼』『智』『信』を備えているのだから、この五常を極め尽くすべきである。また『孝』『悌』『忠』といった職分が有るのだから、これらを当然の義務として実践すべきである。(同八条)」という。
現在はその性善説が怪しい。日本国憲法でも「平和を愛する諸国民の公正と信義」を重んじているが、生まれつき五常が備わっていない日本人が幅を利かせる。
同三十条では、「自分の過失を責めることに厳しい人は他人の過失を責める場合も厳格であり、他人を思いやることの寛容な人は自分にも寛容である。教養の有る出来た人は、自分を責める時は厳しく、他人を責める場合は寛容である」と説く。
我が国の政治の世界は全くこの逆で、他人を責めるのは厳しく、自分には大甘な判断ばかり。「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志耋録」は千三百三十条もあり、限がないので、政治家の心得として知っておくべき五つの事項を記そう。
第一は軽量で、財政上の軽量を計ること。
第二は時勢で、時代の動向を見抜いて事を行うこと。
第三は寛容で、人に接するに心が広く温厚なこと。
第四は鎮定で、争乱を鎮めて平和を保つこと。
第五は寧耐で、心を平静にして、よく忍耐すること。
そして、「賢明な人を採用し、心の曲がった人を遠ざけ、農業を奨励し、税金を軽くし、贅沢を戒め、倹約を重んじ、老人を大切にし、幼児を慈しむなど、何れも必要なことで誰もが知っていることである。(言志後録・七九条) 」と説く。
言志耊録に「寒暑、栄枯は天地の呼吸なり、苦楽、栄辱は人生の呼吸なり」と在る。人生は良い時もあれば悪い時もある訳で、だからこそ人生は愉しいのだ。
人間関係というのは、往往にして良い時だけは付き合うが、悪い時や悪い部分を指摘されたりすると、徐々に離れて行く場合が多い。良い時も、悪い時も同じ態度で接してくれた人だけ信じられる。古典は人生での大事な価値を教えてくれる。
夫夫の年代に合わせ、悩んだ時や、人生に疲れた時などに一斎の書を読むと元気を与えて貰えるに違いない。「言志四録」もまた日本人必読の名著である。
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2024年05月13日
文章の極意は難解なものは易しく、易しいものは格調高く(伊藤仁斎)
儒学である「論語」「孟子」は、浅学な愚生には哲学的過ぎて理解し難いものがある。儒学を「日本の儒学」に確立した人物が伊藤仁斎である。仁斎の儒学は、同じ儒学の朱子学とは一線を画し、庶民でも理解出来る様にと易しく説いている。
「読書百編義自(おのずか)ら見(あらわ)る」として「論語」「孟子」を読むのも好いが、儒学の入門書として仁斎の「童子門(どうじもん)」に優るものはない。
真理の道は「仁・義・礼・智」であり、聖人(孔孟)は善を成し、悪を遠ざけ、徳を磨く様に勧め「忠・信、敬・恕」も人間の本性の善を維持する拠り所となる。
「童子門」では、「仁」とは、徳のうちでもっとも最大最高のものであると説く。「仁」について、「これを一言でいうなれば、愛そのものである。それは君臣の関係に於いては義といわれ、父子では親といわれ、夫婦では別といわれ、兄弟では序といわれ、朋友では信といわれるが、みんな愛から発したものである(三十九条)」
仁斎は、寛永四(1627)年、京都の材木商の子として生まれた。石田梅岩と同じく町人出身ということが影響しているのだろう、その教えは実に分かり易い。
仁斎が登場するまで、日本の儒学は朱子学の独壇場であったが、仁斎はこれを孔孟説を歪曲するものとして「論語」「孟子」に戻ることを提唱したのである。朱子学が全盛の時代に「論語・孟子以外は無用」というのも勇気ある提唱であろう。
「論語」も「孟子」は、各章薀蓄のある名句が並ぶが、理解し難いものが少なくない。だが、仁斎の「童子問」を読むと孔孟の言葉が理解した気になるのは不思議だ。仁斎こそ、大陸の儒学を「日本の儒学」として確立したというのを理会する。
今日でも大学教授や売文屋らが書いた儒学の書物に目を通すと、やたら難しい言葉を羅列し自分に酔っているが、結局は何を言いたいのか分からないものばかり。右翼人の中にも、四書五経を然も自分の思想であるかの様にひけらかす輩がいる。
請売りばかりで自分の言葉になっていないから相手に響かない。武士道で一番嫌われるのが「衒学」だが、真に学問を積んでいれば衒学臭くはないものだ。
仁斎はこういうものを「邪説」を振りまく輩と喝破し、「難解なものは易しく、易しいものは格調高くというのが文章の極意である」と説いている。弟子に「先生の説は余りにも卑近過ぎて平俗過ぎるのではないですか」と問われ、こう答えている。
「卑近で平俗ということは常識ということである。常識こそ真理なのだ。難しくて高邁なものは空理空論である。学問とは世の為人の為に役立つものでなければならないのだから、卑近であるのが当然である。日常生活を軽視する者は道を究めることは出来ない。(二十四章)」。「卑近であるのが当然である」とは蓋し正論である。
「童子問」を読むと、解り難かった論語や孟子(儒学)が親しみ易くなるのは、これこそ仁斎の趣意であり、童子門が日本独自の儒教と謂われる所以なのである。
本来、学問とは他人を説得したり、論破したりするものではなく、自分自身がどう生きて行くかといったことに答えを見出すものでなくてはならないという。
「石門心学」の祖といわれている石田梅岩は、学問とは「人倫を明らかにし、身を敬み、義を以て君を尊び、仁愛を以て父母に事え、信を以て友に交わり、広く人を愛し、貧窮の人を憐み、功あれども伐(ほこ)らず、万事約を守り、家業に疎からず、入るを量って出すことを知り、法を守って家を治めること」だと訓えている。
吉田松陰は、「学問をする眼目は 自己を磨き自己を確立することにある」と訓え、頭山満も「沈勇を心掛けよ」と訓えている。学ぶことで自分自身を鍛え上げることが、自然に相手や周りまでも好い影響を与えるものとなるという。
右翼のカリスマと言われた野村秋介は、「人を動かすものは決して理論などではなく、自分の謙虚な反省に基づく人間性以外にあり得ない」と教えていたが、学問や理論や何をするにも、やはりその人となり、人柄が大事なのは言うまでもない。
愚生も含め、右翼が日本人としての正論を語っているのに世間から忌み嫌われるのは、人となりに問題があるのだろう。先ずは人格形成の向上を図り、志を内に秘め、一維新者として斯く生きるべきかということを学ばねばならないと痛感する。
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「読書百編義自(おのずか)ら見(あらわ)る」として「論語」「孟子」を読むのも好いが、儒学の入門書として仁斎の「童子門(どうじもん)」に優るものはない。
真理の道は「仁・義・礼・智」であり、聖人(孔孟)は善を成し、悪を遠ざけ、徳を磨く様に勧め「忠・信、敬・恕」も人間の本性の善を維持する拠り所となる。
「童子門」では、「仁」とは、徳のうちでもっとも最大最高のものであると説く。「仁」について、「これを一言でいうなれば、愛そのものである。それは君臣の関係に於いては義といわれ、父子では親といわれ、夫婦では別といわれ、兄弟では序といわれ、朋友では信といわれるが、みんな愛から発したものである(三十九条)」
仁斎は、寛永四(1627)年、京都の材木商の子として生まれた。石田梅岩と同じく町人出身ということが影響しているのだろう、その教えは実に分かり易い。
仁斎が登場するまで、日本の儒学は朱子学の独壇場であったが、仁斎はこれを孔孟説を歪曲するものとして「論語」「孟子」に戻ることを提唱したのである。朱子学が全盛の時代に「論語・孟子以外は無用」というのも勇気ある提唱であろう。
「論語」も「孟子」は、各章薀蓄のある名句が並ぶが、理解し難いものが少なくない。だが、仁斎の「童子問」を読むと孔孟の言葉が理解した気になるのは不思議だ。仁斎こそ、大陸の儒学を「日本の儒学」として確立したというのを理会する。
今日でも大学教授や売文屋らが書いた儒学の書物に目を通すと、やたら難しい言葉を羅列し自分に酔っているが、結局は何を言いたいのか分からないものばかり。右翼人の中にも、四書五経を然も自分の思想であるかの様にひけらかす輩がいる。
請売りばかりで自分の言葉になっていないから相手に響かない。武士道で一番嫌われるのが「衒学」だが、真に学問を積んでいれば衒学臭くはないものだ。
仁斎はこういうものを「邪説」を振りまく輩と喝破し、「難解なものは易しく、易しいものは格調高くというのが文章の極意である」と説いている。弟子に「先生の説は余りにも卑近過ぎて平俗過ぎるのではないですか」と問われ、こう答えている。
「卑近で平俗ということは常識ということである。常識こそ真理なのだ。難しくて高邁なものは空理空論である。学問とは世の為人の為に役立つものでなければならないのだから、卑近であるのが当然である。日常生活を軽視する者は道を究めることは出来ない。(二十四章)」。「卑近であるのが当然である」とは蓋し正論である。
「童子問」を読むと、解り難かった論語や孟子(儒学)が親しみ易くなるのは、これこそ仁斎の趣意であり、童子門が日本独自の儒教と謂われる所以なのである。
本来、学問とは他人を説得したり、論破したりするものではなく、自分自身がどう生きて行くかといったことに答えを見出すものでなくてはならないという。
「石門心学」の祖といわれている石田梅岩は、学問とは「人倫を明らかにし、身を敬み、義を以て君を尊び、仁愛を以て父母に事え、信を以て友に交わり、広く人を愛し、貧窮の人を憐み、功あれども伐(ほこ)らず、万事約を守り、家業に疎からず、入るを量って出すことを知り、法を守って家を治めること」だと訓えている。
吉田松陰は、「学問をする眼目は 自己を磨き自己を確立することにある」と訓え、頭山満も「沈勇を心掛けよ」と訓えている。学ぶことで自分自身を鍛え上げることが、自然に相手や周りまでも好い影響を与えるものとなるという。
右翼のカリスマと言われた野村秋介は、「人を動かすものは決して理論などではなく、自分の謙虚な反省に基づく人間性以外にあり得ない」と教えていたが、学問や理論や何をするにも、やはりその人となり、人柄が大事なのは言うまでもない。
愚生も含め、右翼が日本人としての正論を語っているのに世間から忌み嫌われるのは、人となりに問題があるのだろう。先ずは人格形成の向上を図り、志を内に秘め、一維新者として斯く生きるべきかということを学ばねばならないと痛感する。
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2024年05月11日
「ノモンハン事件」を始め捏造された歴史を鵜呑みにしている日本人
昭和14年(1939年)5月11日、蒙古との国境ハルハ河を越えて蒙古兵が満州国側のノモンハン地区に侵入する。所謂「ノモンハン事件」である。日本軍はこれを撃退したが、蒙古軍は駐留ソ連軍と共に再三に亘り侵入を繰り返した。
「ソ連軍は大量の戦車を含む大兵力を動員してハルハ河を越えて侵入し、ここで大激戦が展開されることとなった。8月20日には、ソ連軍は10万近い軍を動員し、2万人弱の日本軍に対し総攻撃を仕掛け、日本軍は大打撃を被った」
これが日本人の信じるノモンハン事件概要である。歴史探偵を自任する半藤一利や司馬遼太郎もそうだし、五味川純平なんぞはその最たるもの。何しろソ連の公式発表した日本軍の損害は52000人、ソ連軍9284人との数字を真に受けている。
昭和12年に始まった「日支事変(支那事変)」から2年後、何故に満州と蒙古の国境ノモンハンで、突如として日本軍とソ連軍との激戦が発生したのだろうか。
実は、この事件が起きる1年程前にソ連は、ソ満国境の張鼓峰で侵入事件を起こしており、この事件で日本軍はソ連側に5500人の大打撃を与えて撃退している。だが、日本軍がソ連領に侵入して来ないことをスターリンは見逃さなかった。
ソ連がナチスドイツに勝利出来たのは、この張鼓峰侵入事件でのスターリンの判断に拠るところが大きい。歴史に「もし」は無いが、あの時、日本軍がソ連に更なる猛攻を仕掛けていれば、ドイツと共にソ連共産党を打ちのめしていただろう。
希代の悪党で戦略家のスターリンは、ヒトラーのソ連攻撃を予測して、東側からの脅威を除く為に日本と中華民国とを戦争に引き込むことに残力を挙げうことでそれに成功した。第二次世界大戦が共産主義に因る策謀だった証左の一つであろう。
盧溝橋事件や上海事件では策謀に成功したが、予想外に日本軍が強い。そこで日本側がどう出るかを偵察したのが「鼓張峰事件」と「ノモンハン事件」だった。
ノモンハン事件でソ連は、日本との「停戦合意」が成立した翌日の9月17日に、スターリンはポーランド侵攻を命じ、ソ連軍はポーランドに侵入を謀っている。また「ノモンハン事件」は共産主義者に因って悪宣伝に使われたのは周知の通り。
「貧弱な装備で旧式戦法の日本軍が、ソ連の進んだ機会化部隊に完膚無きまで叩きのめされた」と日本軍を貶して自国の軍隊の勇ましさを喧伝するプロパガンダ。悲しい哉、日本人の多くは未だにそうした捏造された歴史を鵜呑みにしている。
ソ連が崩壊し、戦中の情報公開されて判ったことは、ソ連の損害は26000人、日本軍18000人。実はソ連の損害は日本側を大きく上回っており、然も日本軍は、ソ連の戦車・装甲車800両と航空機1673機を撃退しているという歴史的事実である。
「10万近い大兵力を動員した側は損害は少なかった」と教わったが、結果はその逆だったのだ。ということは、如何に日本軍が強かったかということの証しでもある。 抑々、歴史というものは為政者に都合の好い様に創られるものでもある。
同じく「日中戦争は日本の侵略戦争だ」との認識が蔓延しているが、これは明らかな誤謬であり、無知に加えて戦後民主主義教育に因る自虐史観に因るものだ。盧溝橋事件は、中国共産党が起こしたことは今や100%明らかな歴史的事実である。
「日中戦争は日本の侵略だった」などという中国共産党や第五列の共産主義者どものプロパガンダをいつまで信じ続けるつもりなのか。歴史は国の大事である。大東亜戦争然り、明治開国以来の様々な歴史を再検証し、日本再建の一歩とすせよ!
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
「ソ連軍は大量の戦車を含む大兵力を動員してハルハ河を越えて侵入し、ここで大激戦が展開されることとなった。8月20日には、ソ連軍は10万近い軍を動員し、2万人弱の日本軍に対し総攻撃を仕掛け、日本軍は大打撃を被った」
これが日本人の信じるノモンハン事件概要である。歴史探偵を自任する半藤一利や司馬遼太郎もそうだし、五味川純平なんぞはその最たるもの。何しろソ連の公式発表した日本軍の損害は52000人、ソ連軍9284人との数字を真に受けている。
昭和12年に始まった「日支事変(支那事変)」から2年後、何故に満州と蒙古の国境ノモンハンで、突如として日本軍とソ連軍との激戦が発生したのだろうか。
実は、この事件が起きる1年程前にソ連は、ソ満国境の張鼓峰で侵入事件を起こしており、この事件で日本軍はソ連側に5500人の大打撃を与えて撃退している。だが、日本軍がソ連領に侵入して来ないことをスターリンは見逃さなかった。
ソ連がナチスドイツに勝利出来たのは、この張鼓峰侵入事件でのスターリンの判断に拠るところが大きい。歴史に「もし」は無いが、あの時、日本軍がソ連に更なる猛攻を仕掛けていれば、ドイツと共にソ連共産党を打ちのめしていただろう。
希代の悪党で戦略家のスターリンは、ヒトラーのソ連攻撃を予測して、東側からの脅威を除く為に日本と中華民国とを戦争に引き込むことに残力を挙げうことでそれに成功した。第二次世界大戦が共産主義に因る策謀だった証左の一つであろう。
盧溝橋事件や上海事件では策謀に成功したが、予想外に日本軍が強い。そこで日本側がどう出るかを偵察したのが「鼓張峰事件」と「ノモンハン事件」だった。
ノモンハン事件でソ連は、日本との「停戦合意」が成立した翌日の9月17日に、スターリンはポーランド侵攻を命じ、ソ連軍はポーランドに侵入を謀っている。また「ノモンハン事件」は共産主義者に因って悪宣伝に使われたのは周知の通り。
「貧弱な装備で旧式戦法の日本軍が、ソ連の進んだ機会化部隊に完膚無きまで叩きのめされた」と日本軍を貶して自国の軍隊の勇ましさを喧伝するプロパガンダ。悲しい哉、日本人の多くは未だにそうした捏造された歴史を鵜呑みにしている。
ソ連が崩壊し、戦中の情報公開されて判ったことは、ソ連の損害は26000人、日本軍18000人。実はソ連の損害は日本側を大きく上回っており、然も日本軍は、ソ連の戦車・装甲車800両と航空機1673機を撃退しているという歴史的事実である。
「10万近い大兵力を動員した側は損害は少なかった」と教わったが、結果はその逆だったのだ。ということは、如何に日本軍が強かったかということの証しでもある。 抑々、歴史というものは為政者に都合の好い様に創られるものでもある。
同じく「日中戦争は日本の侵略戦争だ」との認識が蔓延しているが、これは明らかな誤謬であり、無知に加えて戦後民主主義教育に因る自虐史観に因るものだ。盧溝橋事件は、中国共産党が起こしたことは今や100%明らかな歴史的事実である。
「日中戦争は日本の侵略だった」などという中国共産党や第五列の共産主義者どものプロパガンダをいつまで信じ続けるつもりなのか。歴史は国の大事である。大東亜戦争然り、明治開国以来の様々な歴史を再検証し、日本再建の一歩とすせよ!
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
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2024年05月09日
櫻井よしこら安っぽい営業保守が世論を分断する先兵となる
営業保守の櫻井よしこは、自らが主宰するインターネット番組「言論テレビ」で、憲法改正の実現を唱える岸田文雄首相について「やることをやってきている。岸田さんの言葉と意思を信じ、とにかく背中を押すことが大事だ」と、9月の総裁選までの任期延長を実質的に容認し擁護した。櫻井ら営業保守が世論分断の先兵となる。
櫻井よしこが共同代表を務める「美しい日本の憲法を作る国民の会」は、第九条に自衛隊を明記する必要性を強調し「自衛隊違憲論を払拭する」と意気込む。具体的には九条をその儘で遺し、新たに自衛隊の存在を明記すると主張している。
現憲法を改正し、自衛隊違憲論に終止符を打つという。歴代自民党内閣と同じく自衛隊を巨大な警察機構と見做し乍ら、何が「美しい日本の憲法」なのか理解不能。
「取り敢えず九条改正や加憲が大事だ」と思ってる点では、護憲派の「九条の会」らと同じレベルであり、その浅はかな憲法改正には危機感を抱かざるを得ない。
自衛隊の存在は憲法解釈ではなく、現憲法の制定過程や自衛隊の設立過程について問題提起し、国家の安全保障の在り方を国民に問いかけるべきであって、九条をその儘にして新たに自衛隊の存在を「九条の三」として明記するとは何事ぞ。
嘗て、三島由紀夫は市谷駐屯地での蹶起の際に携行した「檄」の中で、自衛隊の存在を「警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられていない」と喝破した。自衛隊とは未だに「警察の物理的に巨大なものとしての地位」の儘なのだ。
故安倍首相がそうだったが「国民の生命と安全を守る」と宣って憚らなかった。だが「生命と安全」を守るのは警察の仕事である。自衛隊が安全保障上の領土主権の防衛を担い、国軍として護るべきは「国柄」であり、畢竟「皇統」なのである。
領土主権や安全保障は「国防」の一つに過ぎず、国防とは三島が教えている様に「それを失えば日本では無くなってしまうことを死守することである」。つまり、自衛隊が「国軍」であり「皇軍」で在らねばならないというのはこういうことだ。
民族と歴史・伝統・文化、言語、歴史、価値観、慣習、宗教など、我が国の精神文化を護ることが「国防」であるなら、そうした意識や国家観が決定的に欠落している政治家が自衛隊の存在を語り、憲法改正を訴えていることに違和感を覚える。
自衛隊が憲法九条違反の存在であるなら、天皇の御地位も怪しい。第一条で「国民統合の象徴」とはなってはいるが、共産党が存在する限り「主権の存する国民の総意」ではなく違憲の存在だろう。天皇違憲論は自衛隊違憲論どころの話ではない。
保守派の憲法改正や皇室問題への主張や取り組みは根本的に間違っていると感じる部分が多い。況してや自民党は改憲政党ではなく、自主憲法制定派である。櫻井らの取り敢えず憲法九条改正は、現憲法の絶対化を謀る究極の護憲運動と知るべし。
櫻井らは皇統問題でも危機感を共有して世論喚起を促している。「女性宮家創設反対」は別に問題はないが、女性皇族(内親王)が婚姻する場合、旧皇族の男系男子からの婿入り(養子)を容認しているのは、実質的女性宮家の創設ではないか。
櫻井らの主張は保守派として一見問題は無さそうに見える。だが、GHQに強制的に臣籍降下させられた旧皇族の皇籍復帰もせずに男系皇族の婿入りを容認しようなどとは本末転倒。旧皇族の皇籍復帰は真の主権国家としての精神の再生である。
保守派を代表する櫻井や八木秀次などの評論家や学者らの多くが、旧皇族からの婿入りを主張しているが、男系男子が拒否した場合、或いは一般人が皇室に入る可能性も否定は出来ない。こうした認識不足が反天皇勢力に付け入られるのだ。
皇統の危機を解決するのなら、女性皇族への(実質には敬宮愛子内親王殿下)婿入りという手段ではなく、GHQに強制的に臣下降下された皇籍離脱した旧皇族の皇籍復帰の実現を図ることこそが皇統を盤石の安きに置く最善最良の策である。
祖国日本を崩壊に導くのは左翼勢力ではない。安易な憲法改正を叫び、皇室典範に附帯し退位を強行し、瑞穂の國の崩壊を齎す種子法廃止法案を成立させ、新自由主義を盲信する政治家を筆頭に日本会議に見られる似非保守ら獅子身中の虫である。
保守票欲しさの改憲論や靖國問題など、最近の怪しいムードの中での保守派論客の主張や議論を見ていると、神武肇国から続く万世一系の皇統が、平成の世を境に崩れて行くのではとの危機感を覚える。全愛国者よ、天壌無窮の皇運を扶翼すべし!
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員は300000円~。
櫻井よしこが共同代表を務める「美しい日本の憲法を作る国民の会」は、第九条に自衛隊を明記する必要性を強調し「自衛隊違憲論を払拭する」と意気込む。具体的には九条をその儘で遺し、新たに自衛隊の存在を明記すると主張している。
現憲法を改正し、自衛隊違憲論に終止符を打つという。歴代自民党内閣と同じく自衛隊を巨大な警察機構と見做し乍ら、何が「美しい日本の憲法」なのか理解不能。
「取り敢えず九条改正や加憲が大事だ」と思ってる点では、護憲派の「九条の会」らと同じレベルであり、その浅はかな憲法改正には危機感を抱かざるを得ない。
自衛隊の存在は憲法解釈ではなく、現憲法の制定過程や自衛隊の設立過程について問題提起し、国家の安全保障の在り方を国民に問いかけるべきであって、九条をその儘にして新たに自衛隊の存在を「九条の三」として明記するとは何事ぞ。
嘗て、三島由紀夫は市谷駐屯地での蹶起の際に携行した「檄」の中で、自衛隊の存在を「警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられていない」と喝破した。自衛隊とは未だに「警察の物理的に巨大なものとしての地位」の儘なのだ。
故安倍首相がそうだったが「国民の生命と安全を守る」と宣って憚らなかった。だが「生命と安全」を守るのは警察の仕事である。自衛隊が安全保障上の領土主権の防衛を担い、国軍として護るべきは「国柄」であり、畢竟「皇統」なのである。
領土主権や安全保障は「国防」の一つに過ぎず、国防とは三島が教えている様に「それを失えば日本では無くなってしまうことを死守することである」。つまり、自衛隊が「国軍」であり「皇軍」で在らねばならないというのはこういうことだ。
民族と歴史・伝統・文化、言語、歴史、価値観、慣習、宗教など、我が国の精神文化を護ることが「国防」であるなら、そうした意識や国家観が決定的に欠落している政治家が自衛隊の存在を語り、憲法改正を訴えていることに違和感を覚える。
自衛隊が憲法九条違反の存在であるなら、天皇の御地位も怪しい。第一条で「国民統合の象徴」とはなってはいるが、共産党が存在する限り「主権の存する国民の総意」ではなく違憲の存在だろう。天皇違憲論は自衛隊違憲論どころの話ではない。
保守派の憲法改正や皇室問題への主張や取り組みは根本的に間違っていると感じる部分が多い。況してや自民党は改憲政党ではなく、自主憲法制定派である。櫻井らの取り敢えず憲法九条改正は、現憲法の絶対化を謀る究極の護憲運動と知るべし。
櫻井らは皇統問題でも危機感を共有して世論喚起を促している。「女性宮家創設反対」は別に問題はないが、女性皇族(内親王)が婚姻する場合、旧皇族の男系男子からの婿入り(養子)を容認しているのは、実質的女性宮家の創設ではないか。
櫻井らの主張は保守派として一見問題は無さそうに見える。だが、GHQに強制的に臣籍降下させられた旧皇族の皇籍復帰もせずに男系皇族の婿入りを容認しようなどとは本末転倒。旧皇族の皇籍復帰は真の主権国家としての精神の再生である。
保守派を代表する櫻井や八木秀次などの評論家や学者らの多くが、旧皇族からの婿入りを主張しているが、男系男子が拒否した場合、或いは一般人が皇室に入る可能性も否定は出来ない。こうした認識不足が反天皇勢力に付け入られるのだ。
皇統の危機を解決するのなら、女性皇族への(実質には敬宮愛子内親王殿下)婿入りという手段ではなく、GHQに強制的に臣下降下された皇籍離脱した旧皇族の皇籍復帰の実現を図ることこそが皇統を盤石の安きに置く最善最良の策である。
祖国日本を崩壊に導くのは左翼勢力ではない。安易な憲法改正を叫び、皇室典範に附帯し退位を強行し、瑞穂の國の崩壊を齎す種子法廃止法案を成立させ、新自由主義を盲信する政治家を筆頭に日本会議に見られる似非保守ら獅子身中の虫である。
保守票欲しさの改憲論や靖國問題など、最近の怪しいムードの中での保守派論客の主張や議論を見ていると、神武肇国から続く万世一系の皇統が、平成の世を境に崩れて行くのではとの危機感を覚える。全愛国者よ、天壌無窮の皇運を扶翼すべし!
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2024年05月07日
再生可能エネルギー増設で「再エネ発電賦課金」が家計を苦しめる
国内6電力会社の平均値上げ幅が圧縮されたとはいえ、家庭の電気料金の値上がりは止まらない。夏の電力消費がピークを迎える前に原発を再稼働を実現するべきだ。再生可能エネルギーが増設されるほど「再エネ発電賦課金」が増える悪循環。
県内には、相馬市磯部地区のメガソーラー発電所を始め、福島空港周辺や二本松市加藤木地区や本宮市などで太陽光パネル発電所が乱立している。沿岸や山林に造られた巨大なメガソーラーが、美しい環境を守るどころか環境を破壊している。
県内をドライブすると大規模な太陽光パネルや巨大な風力発電の風車を目にする。県内各地の巨大メガソーラーや郡山市湖南町の布引山、会津若松市の背炙山の巨大風車は正に圧巻だが、自然の風景と最先端技術の融合は異様な光景でもある。
原発稼働停止で、国内の大資本から民間企業、外国資本までもが太陽光発電事業に参入した。結果は地上げ屋が跋扈し山林が売買され森が伐採されて行った。
金儲けの為に緑豊かな森林を伐採し、荒れ地となった田畑や空き地に人工的な太陽光パネルで敷き詰められ自然の景観を損なっている。正に、バブル景気で浮かれて、麗しき森林を破壊してゴルフ場やスキー場を開発しまくった時代と同じ構図。
「友よ山河を滅ぼすなかれ」と、故野村秋介の言葉を都合好く利用して反原発を訴える新右翼がいる。彼らには、森林を破壊してまで造られる太陽光パネルや山頂や沿岸部に建てられる風力発電の巨大風車を見て、環境破壊とは感じないのだろうか。
原発事故以来、原発への拒否反応から太陽光発電などの再生可能エネルギーが全国各地に設置されることとなった。「原発は思ってた以上にコストがかかる」という理由から、太陽光や風力発電こそが環境に優しいかの様な世論が形成された。
原発事故を殊更に論い、脱原発や反原発から再生可能エネルギー普及を謀り、国は電力会社に太陽光などで発電した電気の買い取りを義務付けた。その一方で、月々の電気料金に上乗せすることを認める。「再エネ発電賦課金」がそれである。
賦課金(ふかきん)とは、税金などの様に国民に強制的に割り当てられて負担する金のこと。つまり、メガソーラー発電も住宅の屋根に太陽光パネルを載せて発電している電気も結局は電力会社ではなく、一般家庭の賦課金で成り立っている。
正に、再生可能エネルギーの普及とは、国家の基幹エネルギーを無視したその場凌ぎの原発事故に便乗した政治的策謀であった。「原発は思ってた以上にコストがかかる」と言ってたが、再生エネルギーの賦課金コストが家計を苦しめている。
太陽光や風力に拠る発電は安価で、家庭に安く提供出来るということだったが、今や一般家庭の「再エネ発電賦課金」の負担金は5兆円以上とも言われている。当初は、月々50円程度だった負担金は年々増え続け月800円で年1万円を超える。
国は、こうした現実を無視して2030年度には発電全体の22~24%を再生可能エネルギーで賄うことを目標に掲げている。目標達成の為には、全国にメガソーラー発電所施設を乱立させるしかない。つまりは、太陽光発電所が出来れば出来るほど一般家庭への「再エネ発電賦課金」の負担金は殖え続けるということである。
再生可能エネルギーは福島第一原発事故を利用した反原発運動の影響が大きく、況してや太陽光パネルの多くが中国製ということもあって喫緊に見直すべき愚策である。昨今ではメガソーラーでの火災も発生しており、危険性も指摘されている。
再生可能エネルギーは基幹エネルギーには成り得ず、再エネ発電賦課金は廃止するのが妥当。賦課金目当てで太陽光発電や風力発電でボロ儲してる事業者は造りっ放し。安全管理を放棄したこんなインチキ事業は見直すのは当然のこと。
だが、太陽光パネル利権に群がる再エネ議連を始め、麗しき山河を破壊して迄も私腹を肥やそうとする連中が後を絶たない。再エネ議連は反原発色が強いということもあって、第2の再エネ議連を立ち上げるが、そこには岸田文雄の名前もある。
反原発派が頻りに「原発はコストがかかる」と言ってる裏側には、再生可能エネルギー利権で私腹を肥やす議員や金儲けを企む悪徳業者らが暗躍している。
福島県の復興と東北再生は当然乍ら、日本の国力を押し上げるには再生エネルギー政策は廃止し、技術立国日本を証明する小型モジュール炉の開発を進め、東京電力福島第二原発と東北電力女川原発などの既存の原発を再稼働するこそ最善である。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
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県内には、相馬市磯部地区のメガソーラー発電所を始め、福島空港周辺や二本松市加藤木地区や本宮市などで太陽光パネル発電所が乱立している。沿岸や山林に造られた巨大なメガソーラーが、美しい環境を守るどころか環境を破壊している。
県内をドライブすると大規模な太陽光パネルや巨大な風力発電の風車を目にする。県内各地の巨大メガソーラーや郡山市湖南町の布引山、会津若松市の背炙山の巨大風車は正に圧巻だが、自然の風景と最先端技術の融合は異様な光景でもある。
原発稼働停止で、国内の大資本から民間企業、外国資本までもが太陽光発電事業に参入した。結果は地上げ屋が跋扈し山林が売買され森が伐採されて行った。
金儲けの為に緑豊かな森林を伐採し、荒れ地となった田畑や空き地に人工的な太陽光パネルで敷き詰められ自然の景観を損なっている。正に、バブル景気で浮かれて、麗しき森林を破壊してゴルフ場やスキー場を開発しまくった時代と同じ構図。
「友よ山河を滅ぼすなかれ」と、故野村秋介の言葉を都合好く利用して反原発を訴える新右翼がいる。彼らには、森林を破壊してまで造られる太陽光パネルや山頂や沿岸部に建てられる風力発電の巨大風車を見て、環境破壊とは感じないのだろうか。
原発事故以来、原発への拒否反応から太陽光発電などの再生可能エネルギーが全国各地に設置されることとなった。「原発は思ってた以上にコストがかかる」という理由から、太陽光や風力発電こそが環境に優しいかの様な世論が形成された。
原発事故を殊更に論い、脱原発や反原発から再生可能エネルギー普及を謀り、国は電力会社に太陽光などで発電した電気の買い取りを義務付けた。その一方で、月々の電気料金に上乗せすることを認める。「再エネ発電賦課金」がそれである。
賦課金(ふかきん)とは、税金などの様に国民に強制的に割り当てられて負担する金のこと。つまり、メガソーラー発電も住宅の屋根に太陽光パネルを載せて発電している電気も結局は電力会社ではなく、一般家庭の賦課金で成り立っている。
正に、再生可能エネルギーの普及とは、国家の基幹エネルギーを無視したその場凌ぎの原発事故に便乗した政治的策謀であった。「原発は思ってた以上にコストがかかる」と言ってたが、再生エネルギーの賦課金コストが家計を苦しめている。
太陽光や風力に拠る発電は安価で、家庭に安く提供出来るということだったが、今や一般家庭の「再エネ発電賦課金」の負担金は5兆円以上とも言われている。当初は、月々50円程度だった負担金は年々増え続け月800円で年1万円を超える。
国は、こうした現実を無視して2030年度には発電全体の22~24%を再生可能エネルギーで賄うことを目標に掲げている。目標達成の為には、全国にメガソーラー発電所施設を乱立させるしかない。つまりは、太陽光発電所が出来れば出来るほど一般家庭への「再エネ発電賦課金」の負担金は殖え続けるということである。
再生可能エネルギーは福島第一原発事故を利用した反原発運動の影響が大きく、況してや太陽光パネルの多くが中国製ということもあって喫緊に見直すべき愚策である。昨今ではメガソーラーでの火災も発生しており、危険性も指摘されている。
再生可能エネルギーは基幹エネルギーには成り得ず、再エネ発電賦課金は廃止するのが妥当。賦課金目当てで太陽光発電や風力発電でボロ儲してる事業者は造りっ放し。安全管理を放棄したこんなインチキ事業は見直すのは当然のこと。
だが、太陽光パネル利権に群がる再エネ議連を始め、麗しき山河を破壊して迄も私腹を肥やそうとする連中が後を絶たない。再エネ議連は反原発色が強いということもあって、第2の再エネ議連を立ち上げるが、そこには岸田文雄の名前もある。
反原発派が頻りに「原発はコストがかかる」と言ってる裏側には、再生可能エネルギー利権で私腹を肥やす議員や金儲けを企む悪徳業者らが暗躍している。
福島県の復興と東北再生は当然乍ら、日本の国力を押し上げるには再生エネルギー政策は廃止し、技術立国日本を証明する小型モジュール炉の開発を進め、東京電力福島第二原発と東北電力女川原発などの既存の原発を再稼働するこそ最善である。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
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2024年05月05日
子供いじめという漫画が「子ども」表記のバカどもをよく表現している(笑)
5月5日は「こどもの日」。古くは、この日は菖蒲や蓬(よもぎ)を軒に挿して邪気を払う習わしがあったが、江戸時代以降には、男子の節句とされ、武家で甲冑や幟を飾ったのに倣い、町人の中でも武者人形や鯉幟を立てる様になった。
昔は「端午の節句」として男子の健やかな成長を願う行事が行われていたが、いつものオバハンらが女の子への差別だと反発して今日に至る。5月5日は別名「あやめの節句」「菖蒲の節句」「重五(ちょうご)」「端陽(たんよう)」とも言う。
「こどもの日」とは、「未来を担う子供の人格を重んじ、幸福を図ると共に、子供は自分を生み育ててくれた親に感謝する日」という趣旨となっている。子供がいない人でも、自分がこの世に生まれ育ててくれた親に感謝する日でもあるのだ。
子供の日が制定時は「親」ではなく、「産んでくれた母に感謝」ということだったが、これも前出のジェンダーフリーや男女共同参画社会の影響から、父親へ配慮し「親」となった。最近は「子供」表記ではなく「子ども」表記が氾濫している。

画像は「子供いじめ(クリックすると大きくなります)」という漫画。今では当たり前に使われている「子ども」表記が如何にアホらしいかが分かる。漢字表記の「子供」を使いたくないなら、平仮名で「こども」と書けば好いだけのこと(苦笑)
平成25(2013)年6月、文科省は国会での議論を経て、マスコミや左翼どもが常用してる「子ども」表記を、漢字表記の「子供」に統一する通達を出している。
現代国語を書き表す場合の漢字使用の目安として用いられる「常用漢字表(内閣告示)」というのがある。これを基にした「新公用文用字用語例集(内閣総理大臣官房総務課監修)」には、「子ども」ではなく「子供」と表記すると示されている。
マスコミを中心に、左翼勢力は確信的に「子ども」表記を続けているが、当時の下村博文文部科学大臣の下で通達を出していることは知らないのだろうか。自民党議員までもが「子ども」表記を使ってることはマヌケとしか言い様がない。
「子ども」表記に固執している連中というのは、「子供」の「供」という字が「お供え物」「お供する」などを連想させ「差別的な印象を与える」というのが理由である。共産党は「子供とは大人の付属物や人身御供を意味する」と主張している。
何処のどいつが、子供を「お供え物」「人身御供」と連想するというのだろう。遜った「私ども」の様な接尾語の場合は「原則、仮名で書く」とされているが、「大人」に対する「子供」を意味する場合、漢字二字で表記するのが正しい。
「大人のお供(とも)」を表しているというが、その場合、「お供」ではなく「お伴」と書くことさえ理解してない。供物と同じく「子供とはお供え物」とは正にキチガイどもの言いがかりであり、即ち、子供への敬意が足らない証左でもある。
悪党や政治家らを悪意的に「悪党ども」とか「政治家ども」とか詰ったりするし、「野郎ども」「若造ども」などと言ったりするが、「ども」とは敬意が低く、目下の者や見下した意味合いに用いられる場合が殆どということも知らないのか。
この場合の「ども」は漢字だと「共」だが、子供の「供」を平仮名併用の「子ども」と表記することは、逆に言葉遊びで弄んでいると捉えられても致し方ない。
「子供」と同じく「婦人」というのも、珍左翼どもやジェンダーフリーを叫ぶ性的変質者どもらの企てに因って公文書から消されてしまった漢字の一つである。
これは、共産主義逞しいインチキ漢字研究者が、後漢時代の「説文解字」を紐解いて、「婦人」とは「箒を持って掃除をする女のこと」と紹介したことに始まる。
この自説に、前出の性的変質者どもとキチガイどもが飛び付いて「婦人は差別だ」と叫んで抹殺した。然し、間もなくこの研究者の説は全く誤りだと判明する。
甲骨文字、それに続く金文の研究から「婦人」の「婦」は、「宗廟に酒を捧げ清める高貴な女性の意味」だということが判明する。だが、悲しい哉、男女共同参画社会の風潮の中でこうした言葉遊びや造語が改められることなく常用されている。
また、男女共同参画社会で「看護婦」は「看護師」、「女優」は「俳優」、「婦人警官」は「女性警察官」、「保母」は「保育士」などとと呼ぶ様になった。
看護師の「師」という字は、師団、軍師、派遣、元帥、追撃などに含まれる「追」のツクリは、軍隊を派遣する時に食料である肉を分けることが原義である。
普段、「平和」「平和」と叫んでいるアホンダラ左翼どもらは「師」の意味も分からずに「看護婦」を「看護師」と呼び換えて満足してるが、無意識のうちに軍隊に起因する漢字を使用しているとは夢にも思っていないだろうよなぁ(苦笑)
「男女共同参画社会」というのは、こうした言葉遊びから始まった左翼に拠る共同謀議的愚策であり、保守派を自任する自民党議員や保守派が「子ども」に違和感を覚えることなくそれらに与し、率先して実践していることは滑稽極まりない。
「子ども」表記を使ってるのは共産党どもや珍左翼ども、単なる無自覚左翼のアホどもと見て間違いない。「子ども」表記を続けてるマスコミというのは左翼どもであり、疑うことなく使ってる野郎どもは余程のバカどもと見て好い(苦笑)
「保守とは?」とよく聞かれる。正統の保守とは、我々日本人が未来永劫護り抜かねばならぬ民族、宗教、言語、歴史、価値観、習慣、制度といった、先人が受け継いで来た世界の中で最も優れた精神文化を護り、継承して行く使命を有する者である。
「日本とは何か」「日本人であるとは」「日本に生を享けた奇跡」ということを考えたことはあるだろうか。欧米主導の西欧時代の終焉が叫ばれている今こそ、祖国日本について考え、日本人であるという証を示すことが保守の精神でもある。
本来の日本人なら心の中に「日本人の魂」というものを持っているだろう。祖国日本の歴史や伝統、先人達に対する尊敬や愛着の想いである。例えば、我が国が先の戦争に負けたのであれば、その事実を限りなく口惜しいと思い、敗戦で失われたものがあるなら、それを何としてでも取り戻したいと思う日本人としての熱き心である。
まぁ難しいことは扨て置き、正統の保守とインチキ保守を簡単に見分ける方法は「子ども」表記もそうだが、皇族に対しての「さま」付けや「天皇制」「天皇ご一家」などの共産党用語を使ってるかどうか。尊皇無き保守では欧米のソレと同じ。
現在の我が国が直面している全ての問題は、国民の多くが「日本人であることを見失った」ことに起因していると考えている。つまり、何処で生き、何の為に働き、何を尊び、何を信じるのか、子供達に何を語り、友人や朋輩と何を分かつのか、そうした日本人としての生き方を見失ってしまったことから、現在の混乱は起きている。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
昔は「端午の節句」として男子の健やかな成長を願う行事が行われていたが、いつものオバハンらが女の子への差別だと反発して今日に至る。5月5日は別名「あやめの節句」「菖蒲の節句」「重五(ちょうご)」「端陽(たんよう)」とも言う。
「こどもの日」とは、「未来を担う子供の人格を重んじ、幸福を図ると共に、子供は自分を生み育ててくれた親に感謝する日」という趣旨となっている。子供がいない人でも、自分がこの世に生まれ育ててくれた親に感謝する日でもあるのだ。
子供の日が制定時は「親」ではなく、「産んでくれた母に感謝」ということだったが、これも前出のジェンダーフリーや男女共同参画社会の影響から、父親へ配慮し「親」となった。最近は「子供」表記ではなく「子ども」表記が氾濫している。

画像は「子供いじめ(クリックすると大きくなります)」という漫画。今では当たり前に使われている「子ども」表記が如何にアホらしいかが分かる。漢字表記の「子供」を使いたくないなら、平仮名で「こども」と書けば好いだけのこと(苦笑)
平成25(2013)年6月、文科省は国会での議論を経て、マスコミや左翼どもが常用してる「子ども」表記を、漢字表記の「子供」に統一する通達を出している。
現代国語を書き表す場合の漢字使用の目安として用いられる「常用漢字表(内閣告示)」というのがある。これを基にした「新公用文用字用語例集(内閣総理大臣官房総務課監修)」には、「子ども」ではなく「子供」と表記すると示されている。
マスコミを中心に、左翼勢力は確信的に「子ども」表記を続けているが、当時の下村博文文部科学大臣の下で通達を出していることは知らないのだろうか。自民党議員までもが「子ども」表記を使ってることはマヌケとしか言い様がない。
「子ども」表記に固執している連中というのは、「子供」の「供」という字が「お供え物」「お供する」などを連想させ「差別的な印象を与える」というのが理由である。共産党は「子供とは大人の付属物や人身御供を意味する」と主張している。
何処のどいつが、子供を「お供え物」「人身御供」と連想するというのだろう。遜った「私ども」の様な接尾語の場合は「原則、仮名で書く」とされているが、「大人」に対する「子供」を意味する場合、漢字二字で表記するのが正しい。
「大人のお供(とも)」を表しているというが、その場合、「お供」ではなく「お伴」と書くことさえ理解してない。供物と同じく「子供とはお供え物」とは正にキチガイどもの言いがかりであり、即ち、子供への敬意が足らない証左でもある。
悪党や政治家らを悪意的に「悪党ども」とか「政治家ども」とか詰ったりするし、「野郎ども」「若造ども」などと言ったりするが、「ども」とは敬意が低く、目下の者や見下した意味合いに用いられる場合が殆どということも知らないのか。
この場合の「ども」は漢字だと「共」だが、子供の「供」を平仮名併用の「子ども」と表記することは、逆に言葉遊びで弄んでいると捉えられても致し方ない。
「子供」と同じく「婦人」というのも、珍左翼どもやジェンダーフリーを叫ぶ性的変質者どもらの企てに因って公文書から消されてしまった漢字の一つである。
これは、共産主義逞しいインチキ漢字研究者が、後漢時代の「説文解字」を紐解いて、「婦人」とは「箒を持って掃除をする女のこと」と紹介したことに始まる。
この自説に、前出の性的変質者どもとキチガイどもが飛び付いて「婦人は差別だ」と叫んで抹殺した。然し、間もなくこの研究者の説は全く誤りだと判明する。
甲骨文字、それに続く金文の研究から「婦人」の「婦」は、「宗廟に酒を捧げ清める高貴な女性の意味」だということが判明する。だが、悲しい哉、男女共同参画社会の風潮の中でこうした言葉遊びや造語が改められることなく常用されている。
また、男女共同参画社会で「看護婦」は「看護師」、「女優」は「俳優」、「婦人警官」は「女性警察官」、「保母」は「保育士」などとと呼ぶ様になった。
看護師の「師」という字は、師団、軍師、派遣、元帥、追撃などに含まれる「追」のツクリは、軍隊を派遣する時に食料である肉を分けることが原義である。
普段、「平和」「平和」と叫んでいるアホンダラ左翼どもらは「師」の意味も分からずに「看護婦」を「看護師」と呼び換えて満足してるが、無意識のうちに軍隊に起因する漢字を使用しているとは夢にも思っていないだろうよなぁ(苦笑)
「男女共同参画社会」というのは、こうした言葉遊びから始まった左翼に拠る共同謀議的愚策であり、保守派を自任する自民党議員や保守派が「子ども」に違和感を覚えることなくそれらに与し、率先して実践していることは滑稽極まりない。
「子ども」表記を使ってるのは共産党どもや珍左翼ども、単なる無自覚左翼のアホどもと見て間違いない。「子ども」表記を続けてるマスコミというのは左翼どもであり、疑うことなく使ってる野郎どもは余程のバカどもと見て好い(苦笑)
「保守とは?」とよく聞かれる。正統の保守とは、我々日本人が未来永劫護り抜かねばならぬ民族、宗教、言語、歴史、価値観、習慣、制度といった、先人が受け継いで来た世界の中で最も優れた精神文化を護り、継承して行く使命を有する者である。
「日本とは何か」「日本人であるとは」「日本に生を享けた奇跡」ということを考えたことはあるだろうか。欧米主導の西欧時代の終焉が叫ばれている今こそ、祖国日本について考え、日本人であるという証を示すことが保守の精神でもある。
本来の日本人なら心の中に「日本人の魂」というものを持っているだろう。祖国日本の歴史や伝統、先人達に対する尊敬や愛着の想いである。例えば、我が国が先の戦争に負けたのであれば、その事実を限りなく口惜しいと思い、敗戦で失われたものがあるなら、それを何としてでも取り戻したいと思う日本人としての熱き心である。
まぁ難しいことは扨て置き、正統の保守とインチキ保守を簡単に見分ける方法は「子ども」表記もそうだが、皇族に対しての「さま」付けや「天皇制」「天皇ご一家」などの共産党用語を使ってるかどうか。尊皇無き保守では欧米のソレと同じ。
現在の我が国が直面している全ての問題は、国民の多くが「日本人であることを見失った」ことに起因していると考えている。つまり、何処で生き、何の為に働き、何を尊び、何を信じるのか、子供達に何を語り、友人や朋輩と何を分かつのか、そうした日本人としての生き方を見失ってしまったことから、現在の混乱は起きている。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
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cordial8317 at 06:33|Permalink│Comments(0)
2024年05月03日
「憲法記念日」ではなく「憲法祈念日」との名称が相応しい
本日は「憲法記念日」。祝日法に由れば「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する日」。何故か現憲法を頂戴した有難い日となっている。「憲法記念日」との名称は「終戦記念日」と同じく、GHQに因る戦後民主主義教育の洗脳である。
「国の成長を期する日」であるならば、国の成長を阻害する元凶でもある現憲法を時代に合わせて見直すことは当然であろう。ならば「憲法記念日」ではなく「新憲法の制定を祈念する日」という名称こそが相応しいのではあるまいか。
護憲派は米国の洗脳から目覚めることなく、幼稚な平和主義を掲げて護憲を叫ぶ。営業保守派や自称・愛国者らは「九条」は、領土主権を守る上でも早々に改正すべきであると主張する。どちらも「九条」こそが重要だと認識している。
右派の謀る「取り敢えず九条の改正」にしても「九条の会」を始めとした護憲派にしても、第九条が本丸と思っている点では同じ穴の狢というのが正しい。
現憲法は最早、国の最高法規として機能しておらず「矛盾だらけのクソ憲法」と化している。矛盾の最たるものが第九条だが、自衛隊の合法化を理由に右派が改正を訴え、誤憲派は軍事放棄の安っぽい平和主義から「平和憲法」と信じて疑わない。
現憲法前文では「平和を愛する諸国民の信義と公正」を重んじている。つまりは「悪いことをする者(犯罪者)はいない」という前提で憲法が制定されている。
この前文を遵守すれば犯罪者が出ることもなく、拠って警察も必要ないのだが、現実には協力な警察組織という力に拠って治安や公共の福祉が守られている。
憲法とは「法律」ではなく、国家・民族の理想を留めた「法」である。法律では無い故に条項に違反したとしても罰則規定はない。憲法に書かれてあるのは国家の国民の理想であり、それを基に現実に法整備を整えて対処するのが政治である。
然らばこの国家の基本法が間違いだったり、時代遅れならば政治も混迷を深めるのは言わずもがなだろう。現在の政治の混迷の元凶は現憲法に在るのは明らか。
戦後80年経ち、現憲法は改正では危機的状況や諸矛盾からは脱却不可能な状況である。早急に破棄し、自主憲法を制定する以外に無いが、新憲法は国家の宝とも言うべき大日本帝国憲法(欽定憲法)を復元し、時代を鑑み改正するのが最良である。
本日は全国各地で憲法改正派と護(誤)憲派が集会を催す。保守派を中心に悲願の憲法改正に躍起だが、改正するも護るのも亡国への道である。どちらも「九条こそが重要だ」と認識しているが、目指してる方向が同じことに気付くべきだ(苦笑)
右翼陣営の中には少なくなりつつはあるが、「憲法改正」と「自主憲法制定」を一緒くたにしている者も少なくない。「自主憲法制定や欽定憲法復元改正なんてとてもじゃないが無理。だったら取り敢えず改憲を目指すべきだ」という声も多い。
保守派も同じで、日本会議がそうだし、党是である新憲法の制定を目指すのではなく「九条」改正を謀る安倍自民党も同じ認識。「第九十六条改正」を目論み、ているのであれば、その手法は姑息であり、誤りであると言わねばなるまい。
九十六条の改憲発議条項を緩和するということは、万が一、共産党などの革命亡国政権が樹立した場合には危険も孕んでいることを須らく自覚した方が好い。
国體と皇統を護り抜く上でも、「第一条」に対する共産党の、「我々が天皇制に反対していることを以ても国民の総意ではなく、つまり天皇の存在は違憲である」という屁理屈を指弾しなければならない。九条より第一章の「天皇」の章を見直せ。
「女系天皇」論や「女性宮家」に通じかねない「第二条」や八条までの「天皇の章」を議論することに拠り、現憲法の不条理と不当性を明らかにするべし。
現憲法は「米国の押し付け憲法」と言うのは容易い。現実は大日本帝国(明治欽定)憲法第七十三条に拠る改正であり、建前は日本人が現憲法を制定したことになっている。昭和二十年十一月三日の公布式に於いて、昭和天皇はこう裁可為された。
「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる 御名御璽」
当時、我が国は連合国の占領下に在り、政府にしてみれば不本意ではあるが、米国の様々な条件を呑まざるを得なかったというのが制定時の真相である。
現憲法がこの様に旧帝国憲法の改正であるならば、現憲法は姑息な改正ではなく、旧帝国憲法を復元し、現代に即し改正することこそ我が国の執るべき道である。
憲法記念日の趣旨は「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する日」。何故に米国製の憲法を祝い、歴史の思い出として記念しなければならないのか。
真に我が国の成長を期するならば、先人の智慧の結晶であり、我が国の正統な国法である旧帝国憲法の復元改正を急ぐべきである。5月3日とは「真の日本国憲法の制定を祈念し、国の成長を期する日」として「憲法祈念日」との名称に替えよ。
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「国の成長を期する日」であるならば、国の成長を阻害する元凶でもある現憲法を時代に合わせて見直すことは当然であろう。ならば「憲法記念日」ではなく「新憲法の制定を祈念する日」という名称こそが相応しいのではあるまいか。
護憲派は米国の洗脳から目覚めることなく、幼稚な平和主義を掲げて護憲を叫ぶ。営業保守派や自称・愛国者らは「九条」は、領土主権を守る上でも早々に改正すべきであると主張する。どちらも「九条」こそが重要だと認識している。
右派の謀る「取り敢えず九条の改正」にしても「九条の会」を始めとした護憲派にしても、第九条が本丸と思っている点では同じ穴の狢というのが正しい。
現憲法は最早、国の最高法規として機能しておらず「矛盾だらけのクソ憲法」と化している。矛盾の最たるものが第九条だが、自衛隊の合法化を理由に右派が改正を訴え、誤憲派は軍事放棄の安っぽい平和主義から「平和憲法」と信じて疑わない。
現憲法前文では「平和を愛する諸国民の信義と公正」を重んじている。つまりは「悪いことをする者(犯罪者)はいない」という前提で憲法が制定されている。
この前文を遵守すれば犯罪者が出ることもなく、拠って警察も必要ないのだが、現実には協力な警察組織という力に拠って治安や公共の福祉が守られている。
憲法とは「法律」ではなく、国家・民族の理想を留めた「法」である。法律では無い故に条項に違反したとしても罰則規定はない。憲法に書かれてあるのは国家の国民の理想であり、それを基に現実に法整備を整えて対処するのが政治である。
然らばこの国家の基本法が間違いだったり、時代遅れならば政治も混迷を深めるのは言わずもがなだろう。現在の政治の混迷の元凶は現憲法に在るのは明らか。
戦後80年経ち、現憲法は改正では危機的状況や諸矛盾からは脱却不可能な状況である。早急に破棄し、自主憲法を制定する以外に無いが、新憲法は国家の宝とも言うべき大日本帝国憲法(欽定憲法)を復元し、時代を鑑み改正するのが最良である。
本日は全国各地で憲法改正派と護(誤)憲派が集会を催す。保守派を中心に悲願の憲法改正に躍起だが、改正するも護るのも亡国への道である。どちらも「九条こそが重要だ」と認識しているが、目指してる方向が同じことに気付くべきだ(苦笑)
右翼陣営の中には少なくなりつつはあるが、「憲法改正」と「自主憲法制定」を一緒くたにしている者も少なくない。「自主憲法制定や欽定憲法復元改正なんてとてもじゃないが無理。だったら取り敢えず改憲を目指すべきだ」という声も多い。
保守派も同じで、日本会議がそうだし、党是である新憲法の制定を目指すのではなく「九条」改正を謀る安倍自民党も同じ認識。「第九十六条改正」を目論み、ているのであれば、その手法は姑息であり、誤りであると言わねばなるまい。
九十六条の改憲発議条項を緩和するということは、万が一、共産党などの革命亡国政権が樹立した場合には危険も孕んでいることを須らく自覚した方が好い。
国體と皇統を護り抜く上でも、「第一条」に対する共産党の、「我々が天皇制に反対していることを以ても国民の総意ではなく、つまり天皇の存在は違憲である」という屁理屈を指弾しなければならない。九条より第一章の「天皇」の章を見直せ。
「女系天皇」論や「女性宮家」に通じかねない「第二条」や八条までの「天皇の章」を議論することに拠り、現憲法の不条理と不当性を明らかにするべし。
現憲法は「米国の押し付け憲法」と言うのは容易い。現実は大日本帝国(明治欽定)憲法第七十三条に拠る改正であり、建前は日本人が現憲法を制定したことになっている。昭和二十年十一月三日の公布式に於いて、昭和天皇はこう裁可為された。
「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる 御名御璽」
当時、我が国は連合国の占領下に在り、政府にしてみれば不本意ではあるが、米国の様々な条件を呑まざるを得なかったというのが制定時の真相である。
現憲法がこの様に旧帝国憲法の改正であるならば、現憲法は姑息な改正ではなく、旧帝国憲法を復元し、現代に即し改正することこそ我が国の執るべき道である。
憲法記念日の趣旨は「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する日」。何故に米国製の憲法を祝い、歴史の思い出として記念しなければならないのか。
真に我が国の成長を期するならば、先人の智慧の結晶であり、我が国の正統な国法である旧帝国憲法の復元改正を急ぐべきである。5月3日とは「真の日本国憲法の制定を祈念し、国の成長を期する日」として「憲法祈念日」との名称に替えよ。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
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