2024年02月19日

君子は独りを慎むというが愚生の場合「小人閑居して不善を成す」か(笑)

 インチキ宗教や拝み屋でも信者がいるのに、正統右翼浪人を自任する愚生の支援者は年々減る一方。要は「強烈な努力」と、何より維新者としての「本気さ」が足らないのだろう。連絡が来たと思えばボランテイア的な困り事相談ばっか(苦笑)

 愚生の性格上、困り事や相談事を聞くと報酬なんぞより、その相手側の卑怯さや狡さが我慢出来ず自分事の様に感じてしまうのが長所であるが悪い癖でもある。

 相談相手も困ってるのは分かるが、タダでやってやると相談の際にはあったであろう感謝の気持ちが薄れるのは確か。本当に困ってるのは愚生の方なのになぁ。

 ブログも4つやってるが最近はどうもヤル気が失せている。政治批評ブログを綴っているが、同じ様な内容だし、タダで読めるし、アップされるのが当たり前の様に感じてる節がある。因みに「当たり前」の反対語は「有り難い」である。

 身近な者や身近に存在する人の意見というのは、いつも聞けるということもあって中々耳に入ることはない。「近くの坊さんえらくない」とか「遠きは花の香、近きは糞(クソ)の香」という喩えがあるが、それに近い気がするな(笑)

 例えば、近所の神社仏閣というのは身近過ぎて、当たり前に存在してるから有難く感じないもの。それと同じで、身近な人からの意見や苦言は疎んじられたり軽んじられるが、その軽んじられてる意見が正論だったり事実だったりするものだ。

 こうしたことを分かり易く喩えるなら、キリストは愛を説いて十字架に架けられた。日蓮は道を説いて流罪に遭った。政治家もまた偉いヤツほど殺されている。そう考えれば、凶弾に斃れた安倍晋三という政治家も偉かったということだ。

 古来、真理を説き、道理を訴えた者は世の中に受け容れられることはなく、偉人といわれる多くはバカかキチガイ扱いされた上に、罰せられるか殺されている。

 ガリレオ・ガリレイもそう。「天動説」が当り前だった時代に「地球が太陽の周りを廻ってる」などとはキチガイの戯言だった。結果、ガリレオは、世を誑かす者だとして宗教裁判にかけられた。これが当時の大勢であり正論だったのだ。

 現代に於いても、当たり前だとか正論だと思っていることはマスコミに因って創られてるものばかり。正しいことというのは、いつの世も後になって気付くもの。現代の正論も後の世には、間違いや非常識とされ批難されることも無きにしも非ず。

 目先の事しか考えないそんな時代に、SNSなどで必死に「これが正しい」と吠えたところで理解してくれないのは当然のこと。何しろ世の中にはバカの方が多いのだから、どうしてもそういう結果になってしまうのは自明の理でもある。

 今のあやふやな世の中に於いて、「あの人は善い人だ」とか「あの考えは正しい」などというのは、古来に学べば大半は間違っていると思った方が好い(笑)

 大勢というのはいつの世もマスコミや一部の扇動者に因って創られるもので、単に平均的意見に過ぎないのである。「オレは人が好い」とか「善人だ」と周りに吹聴してるヤツに限って、その裏では何をやってるか分かったものではない。

 そんな紳士面した地元の名士の裏の顔を暴いてるのが、暴露系ブログの「汚れた顔の紳士達」。政治批評の数倍の閲覧者はいるが、支援者どころか会費さえも払わずタダ読みしてる連中ばっかで、コピーして配ってる輩もいるのには厭きれる。

 愚生の経験上、笑顔を浮かべてるヤツ、愛想好く振る舞ってるヤツというのは意外と性格が悪いのが多く、単に調子がイイだけに過ぎない。「笑うと目が無くなるヤツは信用するな!」という訓えがあるが、強ち間違いではない。

 作られた笑顔の裏の顔というのは実に不似合いで醜いもの。笑顔で自分を誤魔化そうとしているに過ぎず、逆にブスっと無表情のヤツの方が案外信頼出来るものだ。「剛毅朴訥は仁に近し」とは正しく。その逆が「巧言令色鮮し仁」である。

 返事もそう。何でもかんでも「ハイ、分かりました」なんていうヤツは実は意外と聞いていない。此方が話をしてる最中に、此方の目をじっと目を見ているヤツもダメだ。そういうのは相手側に自分の気持ちを悟られまいとしてるだけ。

 女房が「アナタ、私の目を見なさい」とか「オレの目を見て話せ」という刑事が使う手だな。話を聞き乍らも目を伏せ、要点をメモしたり、同意した内容があれば視線を上げ、此方の目を合わせ相槌を打つ様な人物なら使い物になるだろう。 

 何事も、信用し過ぎず、違う角度から穿った見方をすることも必要なことでもある。何故なら、現在の常識や多くの意見というのは、マスコミや或いは戦後に創られた米国の価値観だったり。大事なのは、常に人を見抜く眼力を養うことだ。

 愚生にしても、同じ様な薀蓄や能書きを連日綴ってると、有難みも薄れて、軽んじられてしまうのも当たり前といえば当たり前。当たり前だから感謝されない。

 右翼の本分とは、日本の純粋性を曇らすもの、それは「共産主義」であろうが「資本主義」「民主主義」であろうが、我が国の国柄や国體を損ねる主義思想に断固として対峙する覚悟であるが、愈々その覚悟も慢性的不如意で挫けそうにもなる。

 四書の一つ「大学」に「君子必慎其独也 小人閑居為不善」という教えがある。君子は独りでいる時に必ず慎み深くするが、小人は他人の目がないと悪い事をするとの意味。小人の愚生は暇だと好からぬことを考えてしまうので、徒然なる儘に政治思想や由無し事をブログやSNS綴って余計なことは考えない様にしている。呵呵。

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2024年02月16日

男子たるもの厨房に入るべからずどころか進んで厨房に這入るべし!

「愚妻の弁当や料理は愚生の担当」などというとビックリされる。亭主関白に見えるらしいが、山の神には逆らえないというか逆らわない。やることもやってないし、小遣いも月に1万円しかやらないのに偉そうにしてたらブッ飛ばされるし(笑)

 中学時代、「前略おふくろ様」に憧れて、和食料理人を目指そうと思ったこともあるし、料理は好きだから苦にはならない。ストレス解消にもなり、その日の気分で何でもあり。冷蔵庫の残りものとかの簡単料理ばかりだが、何より作ってて愉しい。

「門前の小僧習わぬ経を読む」ではないが、食堂の子倅として育ったので味覚は確りしてると思う。得意料理は中華で、下手な中華屋より美味しいと自負してる。

 付き合っていく上で味覚というのは大事な価値観でもある。同じ料理を食べて互いに「うん、美味いなぁ」となればホンモノの関係だろう。何もこうした関係は夫婦に限らない。友人関係でも、同じ様に感じればそれは相性の好い印しと言える。

 料理の他にも、風景にしろ、同じ感動があるならそれは最高の相性と言える。だが、そこに政治や思想や宗教とかが絡んで来るとややこしくなるが(笑)

 閑話休題。昔は「男子厨房に入るべからず」だとか「男は台所へ首を突っ込むものではない」と聞いたものだが、誰がこんなことを言い始めたのだろう。やはり、男性社会日本の陋習とも言えなくもない。そりゃフェミニストらが騒ぐわな(笑)

「家庭料理は女性が作るもの」というのは単なる固定観念。男性が外で働き、女性が家を護る時代ならそんなこともあるのだろうが、「男子厨房に入るべからず」とは、家庭を預かる主婦の亭主への思いやりから出でた言葉ではなかろうか。

 織田信長にしろ豊臣秀吉にしろ、加藤清正や伊達政宗でも、戦国時代の一流の男達はみんな台所へ首を突っ込んでいる。愚生の好きな「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵や「剣客商売」の秋山小兵衛にしても料理を彼是と指南するシーンは多い。

 自分で包丁を持たなくても、きっちり女房に指示するのが亭主の責任でもある。偉そうにしているのもそれはそれで好いが、それでいて「これが不味い」「あれじゃダメだ」というのは、つまりは自ら甲斐性が無いと言っている様なものだ。

「馳走」とは、来客に食事などを振る舞って心から持て成すことをいうが、食材を選りすぐり、調達して、心を込めて料理をして相手を楽しませること。そういう意味では、料理を女房任せにするというのは持て成す側の心構えが乏しいと言える。

 寺院には「典座(てんぞ)」という僧がいる。多くの僧の床座や食事などの雑事を司る役僧で、今では食事係の僧のことを「典座」という様になったという。

 日本曹洞宗の開祖である道元の教えの一つに、「喜心老心大心(きしんろうしんだいしん)」というのがある。「喜心」とは、その名の通り喜ぶ心のことであり、料理する喜びや、食べてくれる人の笑顔に喜びを感じる心などのことだ。

「老心」は、子供を想う親の心で接しなさいという戒めで、「大心」というのは偏りのない広い心を持ち、謙虚にして初心忘れるべからずという意。この「喜心老心大心」の教えは料理人ならば絶対不可欠なものだが、横柄な店も少なくない。

 亭主というのは、ある意味で「典座」の僧の様であらねばならない。亭主関白ぶって自ら台所に立たずとも、客が来たなら「典座」の心で客を持て成し、また、毎日料理をしてくれる女房にも感謝することは忘れてはならないということだ。

 日々こういう心構えでいれば「男女共同参画社会」なんてのは要らないし、SDGsや補助金目当ての無駄な予算を廃止して少子化対策や国防費の充実に充てよ。

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2024年02月11日

奉祝・紀元節。建国を偲び、国を愛する心を涵養する日に思う

 本日は「建国記念日」であり、戦前は「紀元節」として国民挙って奉祝した日である。祝日法には「建国を偲び、国を愛する心を涵養する日」との趣旨がある。では、その「建国を偲び、国を愛する心を涵養する」とは如何なることなのか。

 国を愛する心とは、今どきの保守ブームの安っぽい愛国心を昂揚することではなく、八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと。つまりは神武肇国の大理想である「八紘一宇」を掲げ、天皇國日本の真姿開顕へ奮闘前進することである。

 日本人が失った徳目を呼び返す標語として「愛国心」は相応しいと思うが、ネット右翼や自称・愛国者の過熱ぶりを目の当たりにすると、国を愛する心を涵養するどころか、「愛国心」が軽薄なものになってしまっていることも無きにしも非ず。

 国旗や旭日旗を仰々しく掲げ、勇ましい言葉が乱舞するが、そこには日本的気風を感じることはなく、折角の「愛国心」が贔屓の引き倒しになってしまってる。

 三島由紀夫は嘗て「日本の様な国には、愛国心などという言葉はそぐはないのではないか。大和魂で十分ではないか」と語ったが、この言葉に激しく同意する。

 我ら日本人が持つべきは、「大和の心(大和魂)」であり、つまりそれは花鳥風月、山川草木、春夏秋冬の恵まれた自然に逆らわず調和して暮す従順な心である。

 国を愛する心の涵養とは、大和心を涵養であり、これ即ち、国学者・本居宣長の宣う、「敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花」、これに極まれり。

 明治22年2月11日、「大日本帝国憲法(欽定憲法)」が発布されると、全国各地の神社では紀元節祭を行うこととなる。青年団や在郷軍人会などを中心に建国祭の式典が全国各地で盛大に開催されることになった。だが、終戦で紀元節は廃止。

 GHQ統治下の昭和22年、日本国憲法に相応しい祝日の法案に紀元節が「建国の日」として盛り込まれるもGHQが削除。要は、2月11日は大日本帝国憲法の発布記念日であり、日本国憲法を押し付けた側にすれば怪しからんということだ。

 我が国がGHQの占領から解放された主権を回復した昭和27年4月28日、「紀元節復活運動」が起きる。昭和33年に国会へ紀元節に関する議案を提出する。

 昭和41年に祝日法が改正されると、翌年2月11日に漸く「建国記念の日」として実施され、今日に至っている。「紀元節復活運動」から実に15年の歳月を要した。

 本日も全国各地で「神武天皇陵遙拝式」や建国奉祝・紀元節パレードが行われるが、この国に生まれた者として建国を祝うことは至極当たり前の光景である。

 一方で「紀元節復活は科学的根拠がない」「軍国主義復活反対」などとして、共産党を始めとした売国団体や護憲派どもが「奉祝反対」の催しをしている。正に、戦後民主主義教育の弊害である「平和ボケ」の日本人を象徴するものである。

「紀元節奉祝反対」を叫ぶ連中の真意は外でもない、国家の大理想が掲げられてる大日本帝国憲法の復活を危惧してのものだ。逆を言えば、明治人の知恵の結晶でもある旧帝国憲法の復元と改正こそが日本人としての正義でもあるということ。

 建国を偲び、国を愛する心を涵養する日とするならば、次代を担う子供達や青少年に日本の神話を教え、建国の意義と大理想を伝えて行くべきであろう。

 そういう意味でも「建国記念の日」というより、「紀元節」と呼称するのが望ましく、国法である大日本帝国憲法の意義を考える日にしなくてはならないのだ。

「何故に日本人としてこの国に生まれてきたのだろう」と考える。自分に誕生日がある様に国にも誕生日があり、それを祝うのはその国に生まれた者の務めである。

 畏くも天皇を仰ぎ奉る大和民族の信念と道統を受け継ぎ、これを護持し、これを宣布し、そして子孫に伝える責任と使命を有するものは、我ら日本人である。

 本日の紀元節に当たり、神武肇国の大理想である八紘一宇の精神を天高く掲げ、天皇國日本の真姿開顕へ奮闘前進しようではないか。すめらぎいやさか!

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2024年02月09日

日本民族の生死を賭けた日露戦争開戦記念日を忘れるな!

 明治37(1904)年2月8日、旅順港に停泊中のロシア旅順艦隊に日本海軍駆逐艦が奇襲攻撃。日本陸軍先遣部隊が朝鮮仁川に上陸。翌9日、仁川港外に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ。

 この「仁川沖海戦(じんせんおきかいせん)」を以て、日本民族の生死を賭けた日露戦争の火蓋が切られた。翌10日、我が国政府はロシアに宣戦布告する。

 極東の小国に過ぎなかった我が国と、当時、世界最大の軍事大国と言われていたロシアとの戦いは実に一年半にも及び、我が国が奇跡的大勝利を成し遂げた。

 固唾を呑んで見守っていた世界の人々の誰もがロシアの勝利を疑わず、そんな中で「日本大勝利」の報は極東小国日本の存在を世界に知らしめ、人々を驚嘆させた。

 日露戦争前、ロシアに占領・弾圧されていたフィンランド、トルコ、ポーランドの国々や、有色人種として差別されていた民族にとって日露戦争での日本勝利という結果は、国家と民族の存在を決定的に変える程の影響を齎したのである。

 15世紀の大航海時代以来、白人に因る世界制覇の滔々たる流れがアジアにも押し寄せ、次々と植民地となって行った。こうした世界の流れに江戸幕府も対応に苦慮する。そんな中で民衆は「国家」というカタチを意識する様になって行った。

 そこで起きた明治維新である。我が国は中央集権国家を目指すこととなる。その後に起きた日清戦争、そして国家の存亡を賭けた日露戦争で我が国が勝利したことによって世界は大きく変化し、全世界の有色人種に強烈な影響を与えることなった。

 インドのガンジー、ネール、ビルマのオッタマ・ミール、フィリピンのリカルテ、ベトナムのファン・ボイ・チャウ、エジプトのムスタファ・カミール、トルコのケマル・パシャ等等、小国日本の勝利が及ぼした影響は計り知れない。

 世界の各地で「日本大勝利」に狂喜し、白人に抑圧されていた民衆は有色人種が白人に劣らないことに確信を持ち、各地で独立運動が湧き上がって行く。米国内でも黒人に人種平等の自信を与え、黒人解放運動の支えとなったのだった。

 黒人誌の「インディアナポリス・フリーマン」は当時、次の様な社説を掲げた。

「東洋のリングで、黄色い男達のパンチが白人を打ちのめし続けている。事実、ロシアは繰り返し何度も日本人にこっぴどくやられて、セコンドは今にもタオルを投げ入れ様としている。有色人種がこの試合をものにするには、もう時間の問題だ。長く続いた白人優位の神話が、遂に今突き崩され様としている・・・」

 日露戦争勝利から15年後、パリ講和会議に出席す我が国の全権使節団は、国際連盟規約に対し「人種平等の原則」を入れる提案を行う為にパリへ向かった。

 途中、ニューヨークに立ち寄った折に、黒人指導者四人が「世界のあらゆる人種差別と偏見を無くす事に尽力して欲しい」という嘆願書を日本全権団に提出する。

 だが、黒人指導者のその願い空しく、議長を務める米国大統領ウイルソンに、「採択は全会一致」との詭弁を弄され、この人種平等の要請は拒絶されてしまう。

 結局、日露戦争が齎した歴史的課題であった「人種平等の原則」という本格的実現は、大東亜戦争後に実現し、その歴史的大使命が果たされるのだった。

 こうした歴史の現実をみれば、我が国は先の大東亜戦争に敗れはしたが、その戦いは大義があり、我が国やアジアにとっても正に聖戦だったことが理解出来よう。

 世界史にとっても、日本史にとっても重要な日清戦争や日露戦争の意義と大勝利という輝かしい出来事が、国内では何故か余りにも軽く扱われているのは、未だ我が国がGHQが謀った戦後教育から脱却出来ていない証左でもあろう。

 故安倍首相は度度、総裁選や総選挙に於いて「誇りの持てる日本人を育てる」と訴えていたが、未だ自民党が我が国が誇る教育に着手しているとは思えない。

 嘗てアジアの、また世界の有色人種国の希望の星であった我が国が、国家の大本と歴史を忘却し、いつまでも米国の配下に甘んじてて好い筈がなかろう。

 日露戦争開戦記念日に当たり、先人が決然たる態度で一戦を決した日清・日露の大英断を、そして大東亜戦争の大義を「民族の魂の記憶」として誇り高く、永く後世に継承して往かねばならないと痛感して止まない。すめらぎいやさか。

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2024年02月06日

北方四島返還要求こそ事勿れ主義と軟弱土下座外交の象徴である

 2月7日の「北方領土の日」に合わせ、総理府は「北方領土は日本固有の領土です!」などと、御丁寧にも歯舞、色丹、国後、択捉四島の新聞広告を出している。この四島返還運動こそが事勿れ主義の象徴であって、何より税金の無駄使い。

 右翼民族派陣営は、国際条約である日ソ不可侵条約が蹂躪された8月9日を「民族痛恨の日・反ロシアデー」としてソヴィエト連邦(ロシア)を糾弾し、北方領土の奪還訴えているが、8月9日が無理ならば、2月7日ではなく、南樺太・全千島が日本に帰属した5月7日に訂正し、北方領土の歴史と事実を国民に啓蒙するべきである。

 誰でも自分の土地を他人に奪われて黙っている者はいないだろう。況してや、父祖伝来の国土が他国に強奪されて泣き寝入りする民族が何処にあろうか。

「北方領土奪還」は、正に日本民族の悲願である。ところが、戦後70年も経った今日でも北方領土問題は未だ解決の糸口すら見えて来ないのは一体何故なのか。

 思うに、北方領土を含めて領土主権そのものの重要性に対する認識不足と、如何にして不法に占拠されたかの真相把握が欠如していること、更には、ロシアへの認識の甘さと対ロ外交の甘さ等が綯い交ぜとなった結果が未解決の根源であろう。

 北方領土は国際条約の「樺太・千島交換条約」並びに「日露講和条約」の締結に拠って、歯舞、色丹、国後、択捉の四島を含む、北は占守(シュムシュ)島から得撫(ウルップ)島の全千島列島と南樺太が、我が国の固有の領土となった。

 領土問題では、共産党が「全千島、南樺太の主権」を訴えているが、この認識が正しく、共産党でも分かることが、自民党を始めとした保守を自任する政党や政治家が理解していないのは実に情けない。過去に国会に於いて「四島返還決議」を採択しているが、この四島返還要求こそ、事勿れ主義と軟弱土下座外交の象徴である。

 明治の先人達の外交努力を無視し、我が国に全千島列島及び南樺太の主権が在るにも拘らず四島のみの主張を明記し、見す見す権利を放棄するとは理解に苦しむ。

 ペリーが浦賀に来航した2年後の安政元年(1855)2月7日、江戸幕府は伊豆下田でロシアと交渉し、「日露和親条約」を締結。歯舞、色丹、国後、択捉の四島と千島列島の間に境界線が引かれ、樺太を混住の地と決めた。「北方領土の日」はこの歴史がその根拠となっているのだが、締結したのは江戸幕府であって日本国ではない。

 歴史には続きがある。明治維新を成し遂げた日本政府は、榎本武揚を全権特命大使として派遣して外交交渉を重ねた結果、明治8年(1875)5月7日、ロシアとの間で「樺太・千島交換条約(サンクトペテルブルク条約)」が締結されるに至った。

 その結果、ロシア人と日本人の混住の地であった樺太の北側と千島列島を交換したことで、南樺太と占守島までの全千島列島が我が国に帰属したのである。

 その後、1945年(昭和20年)2月4日から11日にかけて、米国のルーズベルト、ソ連のスターリン、英国のチャーチルらがロシア領のクリミア諸島のヤルタに集い密談が交わされた。この会談に於いて、ルーズベルトは、千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の破棄を進言し、ソ連の対日参戦を促している。

 ヤルタ協定では、「ソ連が日本との戦争に参戦すること」、「南樺太をソ連に返還すること」、「千島列島をソ連に引き渡すこと」などが決められた。この約束に従ってドイツが無条件降伏した約3ヶ月後の昭和20年8月9日未明、ソ連は「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄し参戦。鬼畜の如き行為が繰り返えされたのである。

 ソ連兵は日本人同胞の虐殺、強奪、婦女子の強姦、暴行、更には軍人、軍属、一般人を含め80万人以上をシベリアへ抑留し、そのうち半数以上を凍死、餓死させた。終戦間際のソ連軍の残酷無残な行為は正に悲憤断腸、鮮血の逆流するのを覚える。今を生きる我々はこうした歴史事実と日本人の悲劇を決して忘れてはならない。

 因みにソ連は、1926年から1941年までの15年間に、「不侵略条約」「中立条約」、或いは「不侵略」や「中立」の名を冠した国際条約を東西15ヶ国と結んでいる。だが、驚くことにそのうち14ヶ国との条約をソ連が蹂躙している。

 ロシアは「ヤルタ協定」を楯に北方領土の主権を主張しているが、ヤルタ協定は国際法的にも意味を成さない。我が国はヤルタ秘密協定の無効と、「樺太・千島交換条約」並びに「日露講和条約」という国際条約を論拠に、領土主権の正当性と即時返還、更には終戦間際のソ連蛮行とシベリア抑留への謝罪を強力に要求するべし。

 韓国が竹島を不法占拠し、中共、台湾が尖閣諸島の主権を主張しているが、これもまた北方領土同様に戦後の歴代政府や国会が、領土主権を理解せず、事勿れ主義から主張を疎かにしてきた結果である。現在、世界の各地で民族争いの中で国境紛争が頻繁に起きているが、世界では寸土たりとも主権確立には戦いをしてまで死守しているのが世界の常識であり、「奪われたものは奪い返す」以外に解決する手段は無い。

 世界の常識通り、奪われた領土は奪うことでしか解決出来ない。我が国の政治家にはそうした奪還しようという気概や覚悟が決定的に乏しい。国際環境が激変しつつある時に動くものが領土問題である。つまりそれは、北方領土や竹島を取り戻す機会が到来したと同時に、尖閣列島や対馬、或いは沖縄県を奪われる危機と自覚せよ!

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2024年02月04日

ロシアは「ヤルタ協定」を楯に北方領土の主権を主張しているがヤルタ協定は国際法的に意味を成さない

 中国共産党海警局は尖閣諸島空域を飛行する自衛隊機に対し「退去警告」した。日本政府は「断じて受入れらえない」として反論してるが、尖閣諸島が強奪されてからでは北方領土や竹島の二の前となる。強硬な姿勢と実効支配を急ぐべきだ。

 第二次世界大戦中の1945年2月4日から11日にかけて、米国のルーズベルト大統領、ソヴィエト連邦最高指導者のスターリン、英国のチャーチル首相らがクリミア諸島のヤルタに集い、密談が行われた。これが所謂「ヤルタ会談」である。

 この会談でルーズベルトはスターリンに対し「南樺太のソ連に返還」と「千島列島のソ連への引き渡し」を条件に日ソ中立条約の破棄を進言し、対日参戦を促した。

 ソ連は、この密約に従ってドイツが無条件降伏した約3ヵ月後の昭和20年8月9日、国際条約であった「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄し参戦。ソ満国境を越えたソ連軍は鬼畜の如き蛮行を繰り返し、南樺太並びに全千島列島を強奪するに至った。

 現ロシアは、北方領土の主権の正当性を「ヤルタ密約(ヤルタ協定のうち極東密約)」を論拠としているが、英国政府は、ヤルタ会談翌年の1946年2月、ヤルタ密約の有効性について疑義を呈していたことが明らかになっている。

 英国立公文書館所蔵の英外交電報に由ると、「ソヴィエトの四島占拠根拠なし」として、米英ソがヤルタ密約を公表する2日前に、英外務省から全世界の在外英公館54ヶ所に対して、緊急且つ極秘の内容として電報が送付されている。

「ルーズベルト大統領が権限を越えて署名したことや、米上院の批准もない状況下での有効性について米国内で論議が起こるかもしれない」として、「(英国は)その議論に巻き込まれないよう注意すべきだ」との警告を発している。

 密談が行われる約4年前の1941年8月、チャーチル首相はルーズベルト大統領と共に領土不拡大の原則を謳う「大西洋憲章」に署名している。つまり「ヤルタ密約はこの大西洋憲章に反する」との英政府の認識が示された形である。

 1953年に米国大統領に就任した共和党のアイゼンハワーが、年頭教書演説で「あらゆる秘密協定を破棄する」と宣言し、1956年には「ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、米政府の公式文書でなく無効である」との声明を発表している。

 ヤルタ協定に参加した米英が、ロシアの北方領土の主権に疑義を呈している中で、何故に当事国の我が国がロシアの主張をすんなりと認め、北方領土や南樺太での鬼畜の如き蛮行を赦すかの如く、二島先行返還に拘るのか理解に苦しむ。

 ロシアは、第二次大戦の勝利と「ヤルタ秘密協定」を楯に北方領土の主権の正当性を主張しているが、ヤルタ秘密協定こそが国際法的にも意味を成さない協定であり、更にはサンフランシスコ平和条約の千島関連の条項も無効である。

 ロシアの主張は、第二次世界大戦中の1943年に定められた「カイロ宣言」に明記されている「領土不拡大」の大原則を蹂躙する。ロシアはスターリンの主張を踏襲しているというが、このカイロ宣言にはスターリン自身が署名している。

 我が国は、米英が「ソ連の北方領土の占有に法的根拠がない」との立場を鮮明にしていることや、「ロシア側は明らかなカイロ宣言違反」と主張すべきではないか。

 対ロ外交では、ヤルタ会談の不当性とロシア側の主張の矛盾を糾した上で、我が国の領土主権の正当性を内外にアピールすることが大事である。だが、我が国は摩訶不思議なことに二島先行返還に固執し、ロシアに譲歩するばかり。

 己の土地を他人に奪われて黙っている者はいないだろう。況してや、父祖伝来の国土が強奪されて、同胞が虐殺され乍ら泣き寝入りする民族が何処にあろうか。戦後に放棄させられた領土を取り戻すことは正に日本民族の悲願である。

 北方領土然り、竹島然り、失地領土の恢復が未だ解決の糸口すら見えて来ないのは一体何故なのか。思うに、北方領土や竹島など領土の重要性に対する認識不足と、如何に敵国に不法に占拠されたのかという真相把握が欠如と、更には、ロシアや韓国への認識の甘さと対応の甘さ等が綯い交ぜとなった結果が未解決の根源であろう。

 GHQの洗脳及び敗戦コンプレックスである弱腰軟弱土下座外交と事勿れ主義が、未だに領土問題が解決しない元凶であるのは言うまでもない。世界の常識通り、「奪われた領土は奪うことでしか解決出来ない」という強烈な覚悟を持つべし。

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2024年01月31日

桐島聡にしろ永田洋子や坂口弘死刑囚も日教組の犠牲者である

 鎌倉市の病院に末期癌で入院していた桐島聡容疑者が死亡した。「死ぬときくらいは本名で死にたかった」などと話してたというが、最後まで身勝手な男だな。

 山岳ベース事件を指揮した、連合赤軍中央委員会委員長・森恒夫の遺書もそうだが、革命に向けて自ら行った虐殺の罪を悔い改めてはいるが、遺族への謝罪は全くない。全てが詭弁と我儘であり、左翼思想以前に人間的な幼稚さが露われている。

 桐島は昭和50(1975)年4月18日、東京銀座に在った韓国産業経済研究所を爆発させた「中央区内連続企業爆破事件」で指名手配されていた人物である。

 桐島が所属していた「東アジア反日武装戦線」は、「昭和49年8月14日を以て昭和時代を終わらせる作戦」として、荒川に架かる東北線(旧国鉄)の鉄橋にて昭和天皇が御乗車遊ばされていた御召し列車を爆破し殺害する計画を進めていた。

 爆破計画は断念したが、鉄橋と車両を爆破する為の爆発物を転用してテロを行ったのが三菱重工本社ビル爆破事件。死者8名、負傷者376名が犠牲となった。

 ターゲットの三菱重工の社員ですらない死者に対しても「無関係な一般市民」ではなく「植民地人民の血で肥え太る植民者だ」と断言した声明文を公表している。

 東アジア反日武装戦線の前身組織は「興亜観音・殉国七士之碑爆破事件」を惹起。「鹿島建設爆破事件」「間組本社ビル及び大宮工場同時爆破事件」「間組江戸川作業所爆破事件」「間組京成江戸川橋工事現場爆破事件」に桐島が関与している。

 昭和52年、ハイジャック事件が発生。日本政府は東アジア反日武装戦線のメンバー3人を含む11人の獄中テロリストを「人命は地球より重い」として釈放した。

 左翼という生き方がそうさせるのか、人間的な幼稚さを垣間見る。桐島が左翼運動に傾倒して行ったのは時代背景もあるが、教師の教えが大きかったと思う。

 定例の日教組教研集会が札幌市で行われたが、左翼教師どもは漫画「はだしのゲン」を教材に朝鮮人の「強制連行」に焦点を当て、子供達の洗脳を謀っている。

 自分達は血税である報酬を頂戴し、悠々自適な生活を送り乍ら、子供達を革命戦士に育て上げようとは虫が好過ぎる。子供達へ人間的な教えを施すことなく、反自民や反与党を反体制運動と勘違いしてる。桐島にしても日教組の犠牲者と言える。

 日教組倫理綱領第八項には「教師は学校を職場として働く労働者である。教師は労働が社会における一切の基礎であることを知るが故に、自己が労働者であることを誇りとする」「教師は労働者として自己の立場を自覚して、強く人類の歴史的進歩の理想に生き、一切の停滞と反動を敵とする」と厭きれる条文が列記されている。

 日教組の教師らは自らを労働者と呼び、労働者として現体制の否定と革命謀略の推進を謀った。日教組の優秀な生徒が重信であり、中核、核マル、連合赤軍、日本赤軍などの極左暴力集団であり、最高の教え子が永田洋子や坂口弘死刑囚である。

 あの時代の若者らは流行り病に罹ったかの様に共産主義を信じ、暴力革命に狂奔した。正否は兎も角として、彼らは若者の特権でもある純粋な正義感を貫いた。

 公務員には統一ストは認められていない。「煽り」「唆し」「誑かし」は地方公務員法第三十七条違反に問われる犯罪行為である。だが、当局の対応は「触らぬ神に祟りなし」的な甘い対応に終始し、反国家・反民族の不逞行為を看過している。

 若者らの昨今の政治参加ブームは、売国マスコミを始め、こうした確信的左翼集団に因る「煽り」「唆し」「誑かし」であろうことは想像するに余りある。

 斯くいう愚生も、若い頃にありがちな幼い正義感から右翼こそが正義だと確信し、右翼の世界に入った。世間から見れば、右翼なんぞドロップアウトにしか見えないだろうが、昭和50年代の右翼活動というのは毎日が刺激的だったのも確か。

 行動右翼のパイオニアと言われた防共挺身隊に入隊してみたものの理想と現実の違いに失望したのもまた事実。桐島や永田、坂口ら極左らも刺激的な時代を過ごしたであろうことは察するが、その後の失望は更に深いものがあったに違いない。

 安保闘争以降、日本や世界を変えようという若者が熱く生きていた時代だった。だが、その裏で若者を扇動した教師や文部省は猛省したのだろうか。政府は、反国家・反民族の不逞行為を看過しているのが現状であり、政治の混乱はここに在る。

 それにしても思うのは、桐島も若気の至りで活動家となったのは好いが、晩年は惨めな生活だった様だ。その昔、テイケイの高花豊先生に言われた「活動家が長生きすると惨めな生活が待ってませんよ!」との言葉がリフレインする。呵呵。

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2024年01月29日

皇統断絶が目的の「女性宮家」「女性天皇」「女系天皇」論に騙されるな!

 皇統断絶を目指す反天皇勢力に因る「女性天皇」や「女系天皇」の啓蒙活動というか策謀が功を奏し、世論調査では実に国民の約70%が賛成しているという。だが、アンケートに答えた人が「女系天皇」の本当の意味を知っているとは思えない。

 新聞では「女性天皇」や「女系」とのタイトルが躍り皇位継承の危機を煽る。今上陛下が即位し、秋篠宮皇嗣殿下と秋篠宮悠仁親王殿下の皇位継承が確実なのに何を急ぐ必要があるのか。要は、敬宮愛子内親王殿下を即位させる為の姦策に過ぎない。

 日本国憲法第二条には「皇位は世襲のものである」と明記されている。皇統断絶を謀る勢力というのは護憲(誤憲)派であり、今後はこの憲法二条を理由に、「秋篠宮殿下への皇位継承は憲法違反である」と騒ぎ立てて来るのは明らかである。

 故安倍首相を始め、その周辺のネトウヨや営業保守派らが憲法九条改正に躍起になっているが、「取り敢えず第九条改正」こそ究極の護憲運動である。九条を改正することに因って、GHQ製のクソ憲法が絶対的なものとなってしまう危険を孕む。

 三島由紀夫は「国防とは、それを失えば日本では無くなってしまうことを護ること」と訓えた。国防とは領土主権だけではなく、畢竟、皇統の死守こそが肝要であり、憲法九条より、第一章「天皇」の条項と第二条の矛盾こそ議論すべきである。

 女性(愛子内親王殿下)が天皇に就くというのは、普通の生活は送れないということを意味する。女性天皇論者は、天皇としての国事行為や祭事の重要性を理解していないから安易に語れる訳で、要は天皇という存在を軽んじてる証左でもある。

 皇統の歴史に於いて、過去に八人の女性天皇が存在したがその全ては男系の「女性天皇」であり、愛子内親王が天皇に即位されてもそれは男系の女性天皇となる。愛子天皇が御成婚となり、第一子を生んだ場合それは男系ではなく「女系」となる。

「旧皇族と結婚すれば問題ない」という声もあるが、ならば皇籍復帰を先に行うべきであり、本末転倒とはこのことだ。若し、愛子天皇の御相手が元皇族でなかったらどうなるのか。過去八人の女性天皇が嫡子を産まなかった重い意味を知るべし。

 女性皇族が結婚することで皇籍を離れるのは、「今後は、一般人としての生活を重んじよ」との天皇の大御心でもある。そうしたことを理解せず、現代の価値観で「女性が天皇に成れないのは女性差別」であるかの様に語ることこそ女性差別だ。

 多くの国民は、天皇陛下の国事行為や御負担を「女性宮家創設で軽減する」と思っている。だが、天皇が重んずべき「祭祀」の代行は名代として掌典長のみが許され、国事行為の代行は憲法第四条の第二項よる委任か摂政のみが可能である。

「摂政」を置くにしても皇室典範と憲法に基づかねばならず、若し女性宮家を創設し、国事行為を担わせるのならば憲法第四条を改正しなければならないのだ。

 中共の脅威を理由にした営業保守派や自称・愛国者らの改憲論は第九条ばかりで、国事行為の条項や「第一章・天皇」の条項が議論されることはない。

 皇位継承に関する有識者を見ても尊皇精神乏しき学匪ばかり。上皇陛下が退位させられたのも所謂「生前退位を考える有識者会議」だったではないか。

 皇統のことは皇族の意見を尊重するべきであるが、昭和22年、GHQはこの皇室典範を改悪し、憲法や法律以前の御存在であらされる天皇を法律の配下に置いた。

 現在の「皇室会議」は、皇族2名と衆参両院正副議長、最高裁長官、宮内庁長官ら非皇族8名の10人で構成されている。驚くことに皇室会議の予備議員には、「天皇は逮捕されるべきだ」と断じて憚らない反天皇活動家の菅直人が名を連ねたことも。

 明治皇室典範下の「皇族会議」は、成年男子皇族20名に拠って組織された機関だった。非皇族は内大臣、枢密院議長、宮内大臣、司法大臣、大審院長の5名で、皇族の意見が重んじられたが、現在では有識者なる胡散臭げな連中の意見が優先される。

 成年皇族が少ないのは戦後、GHQに強制的に11宮家が臣籍降下させられたことが原因であり、皇統を盤石の安きに置くなら旧皇族の復帰を成す以外には無い。

 旧宮家とは「伏見(ふしみ)宮」「閑院(かんいん)宮」「山階(やましな)宮」「北白川宮」「梨本宮」「久邇(くに)宮」「賀陽(かや)宮」「東伏見(ひがしふしみ)宮」「竹田宮」「朝香(あさか)宮」「東久邇(ひがしくに)宮」。

 旧11宮家の方々は北朝第3代崇光天皇の皇子、栄仁親王から始まる伏見宮の系統に属し今上天皇との関係は、室町時代の伏見宮貞成親王を共通の祖先とされている。

 内「山階」「北白川」「梨本」「東伏見」の4宮家は断絶しているが、東久邇家の系統には、歴代天皇と男系で繋がる男子が7名、悠仁親王殿下と又従兄弟になる男子が9名、他の旧宮家にも男系男子がおり、皇籍復帰で皇統は盤石となる。

 東久邇宮盛厚王(明治天皇の孫)の妻は、昭和天皇の長女である茂子内親王であり、上皇后陛下が民間から嫁がれていることをしても男系男子の正統性を有する。

 旧皇族の皇籍復帰にイチャモンを吐けて難色を示す勢力と、「女性宮家」「女性天皇」「女系天皇」を推進している連中は同じ穴の狢である。如何にも皇室の将来を案じているかの様に装ってるが、こうした奸賊共の策謀に騙されてはならない。

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2024年01月27日

旧宮家の再興は皇室の本分である祭祀を継承して戴くということにある

 反天皇運動に与するマスコミは、敬宮愛子内親王殿下の動向を好意的に報道している。英国などの王室には尊称付きで報道するマスコミは、皇族に関しては徹底して「さま」呼ばわり。こんなんで宮家論や皇位継承を語ることが不思議でならない。

 以前、保守論客の重鎮でもあった京都産業大学名誉教授の所功も「愛子さまが結婚されても皇室に留まり、御両親を支えられる様にする必要がある」と「さま付け」、両陛下を「御両親」と不敬千万な宮家論を垂れ流していることに驚いたっけ。

 自民党内には「安定的な皇位の継承に向けて、女系天皇についても選択肢の一つとして検討すべき」とか「今の時代に女性の天皇が即位出来ない方が可笑しい」という意見が横溢してるのは、所功を始めとした営業保守に因るところが大きい。

 自民党の二階俊博や河野太郎らは「わが国の皇室はずっと男系で継承されてきているので、男系による皇位継承が続くのが一番望ましいと考えている。ただ現状は秋篠宮殿下、次の世代は悠仁親王殿下しかいらっしゃらないのが現状」と語っている。

 秋篠宮皇嗣殿下並びに悠仁親王までの皇位継承が決まっているのに、何故に今、女性宮家や女系天皇、更には「内親王家」の議論をしなければならないのか。

「現在の皇室で男系を維持して行くのはかなりのリスクがある」との声が上がる。だが、そのリスクとは何ぞや。況してや「女系天皇についても選択肢の一つとして検討を行うべき」と言うが、そのリスクの方が大きいとは思わないのか。

「男系が継承されていることを強く期待するものだが、やはり万が一という事態を想定しておかなければいけないと思う」との「万が一」とは何を指すのか。こうした考えは、女性宮家創出や女系天皇容認論者の皇統断絶を謀る戯言に過ぎない。

 河野太郎は「例えば、内親王殿下、女王殿下が女性宮家として皇室に残られ、そのお子様が皇位を継承するというやり方もあるでしょうし、或いはGHQによって皇籍を離脱することになった旧宮家の男子が宮家を復活させるのか、養子に入るのか。養子に入るのも皇室典範の改正が必要だ」と述べているが、詭弁そのものである。

 これは皇室典範第12条並びに第15条の改正が必要との認識だろう。女性宮家推進派は、皇室典範第12条の「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」との条項を見直し女性宮家の創設を謀ろうとしている。

 旧皇族の皇籍復帰にしろ、養子縁組を成立させるにしろ、同第15条の「皇族以外の者及びその子孫は、女子が皇后となる場合及び皇族男子と婚姻する場合を除いては、皇族となることがない」の条項の見直しが必要となるのは何故に言わない。

「1428年に御即位された後花園天皇の弟君が伏見宮を継承されて、その血筋の方々なので600年前に男系が分かれたのが旧宮家。そういう家の男子を戻す、或いは復活させることに国民の合意、支持が得られるのかという議論も当然ある」と指摘してるが、旧宮家の方には現在の陛下よりも血筋としては正統な方もおられる。

「今の日本国憲法第1条では、天皇の地位は国民の総意に基づく、とあるので、やはり国民の広い議論、国民の支持が必要になるんだろうと思う」とは正論だが、天皇を否定する共産党や左翼勢力らが存在する限り「総意」にはならない。

 抑々、天皇とはどの様な存在であるかを理解していないから、「男系」や「女性宮家」「女系天皇」などという末の議論に終始してしまっているのだ。況してや、反天皇勢力は憲法第2条の「世襲」を曲解し、愛子内親王殿下の即位を謀る。

 天皇とは、諸外国の様な「王室」や「国王」の存在だと思っている国民が殆どだが、分かり易く言えば、日本固有の信仰である神道を伝え導く神主(神官)の最高の地位者であり、つまりはローマ法王と同じく祈りを重んずる「祭主」である。

「女性天皇」「女性宮家」では天皇の重んじる祭祀が叶わない、神に仕える神事を執り行うことが憚れるのだ。別に女性差別ではなく、これが伝統というものである。女性宮家や女系天皇論者らは国事行為をさせる便利な存在としか思っていない。

 女性が天皇に就くというのは、普通の生活は送れないということを意味する。過去8人の女性天皇は全員独身で即位し、譲位以後も独身を通した意味は重い。

 女性天皇論者は、神道そのものの無理解と天皇が祭主としての祭事の重要性を理解していないから安易に語れる訳で、これこそ天皇を軽んじてる証左でもある。

 過去10代8人全ては男系の「女性天皇」であり「女系天皇」ではない。若し、敬宮愛子内親王が天皇に即位されてもそれは男系の9人目の女性天皇となる。だが、愛子天皇が御成婚遊ばされ第一子を生んだ場合それは男系ではなく「女系」となる。

「旧皇族と結婚すれば問題ない」という声もある。ならば、昭和天皇が最後まで反対なされた皇籍離脱させられた旧宮家の方々の皇籍復帰を先に行うべきだろう。

 若し、愛子内親王の御相手が元皇族でなかったらどうなるのか。過去8人の女性天皇が嫡子を産まなかった重い意味を知るべきだ。女性皇族が結婚することで皇籍を離れるのは、「一般人としての生活を重んじよ」との天皇の大御心でもある。

 そうしたことを理解することなく、「今の時代、女性宮家が無いのが可笑しい」だとか「女性が天皇に成れないのは女性差別」と安易に語る。女性皇族を天皇の国事行為を補佐させる便利な存在と思ってることこそ女性差別ではあるまいか。

 安っぽい風潮(ジェンダー平等)で皇位継承を語り、「結婚されても皇室に留まり、御両親を支える」とは何事か。こうした愚論を垂れ流す保守派が国を亡ぼす。

 祭祀を継承するには旧皇族の復帰を図ることが重要で、廃絶になった秩父宮・高松宮、女性皇族しかいない常陸宮と三笠宮の祭祀を旧宮家を再興し継承するべし。

 皇位継承で大事なのは神武天皇以来の「男系」の血筋であり、「今上陛下とは血筋が違う」というのは近年の反天皇勢力に拠って創られた現代の価値観に過ぎない。

「長く民間人だった人が皇族になることに違和感」というのは付けたりに過ぎない反対理由であり、宮家を再興するということは、男系男子の皇位継承の安定を図るだけではなく、皇室の本分である祭祀を継承して戴くということにある。

 大体「宮家」とは男系だからこそ宮家なのである。憲法以前の御存在であらされる天皇が、今や憲法中心の国事行為をやらせるだけの傀儡となってしまっていることを憂慮せざるを得ない。日本国憲法第1条から8条までの「天皇」条項を議論せよ!

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2024年01月25日

近い将来、子供が就きたい職業の凡そ49%をAIやロボットが担う様になる

 公益社団法人「ACジャパン」のラジオCMは衝撃的だ。女の子の「わたしの将来の夢は・・・」の声に続き、子供達が「スポーツ選手」「ユーチューバー」「保育士」「医師」「ゲームクリエイター」「パティシエ」「作家」「芸能人」「プログラマー」など、将来なりたい職業を語る。そして、次のナレーションが流れる。

「今ある様々な仕事。近い将来、その凡そ49%をAIやロボットが担える様になるという予測がある。未だ見ぬ仕事や働き方が生まれて行く白紙の未来。子供達が自分らしい道を一歩ずつ切り拓いて行ける様に。子供達と向き合い共に歩んで行く社会へ」と提言が続き、女の子が「わたしの将来の夢は・・・」と語り、CMは終わる。

「働き方改革」というが、将来の日本を担う子供達の仕事はどんなになっているのだろう。ACジャパンは「不安もありますが未知は可能性とも捉えられます。必要なのは新しい価値観、日々変化する世界と正面から向き合っていく寛容さ」だと説明しているが、「新しい価値観」とは国連が薦めるグローバル化なら不安しかない。

 子供達の仕事が無くなるというのに、目先のカネ儲けや営利至上主義から移民を受け入れて労働力不足を解消しようというのは正に売国奴の所業である。何が「必要なのは新しい価値観、日々変化する世界と正面から向き合っていく寛容さ」だ。

「子供達と向き合い共に歩んで行く社会へ」と言うのなら、先ずは大人が我慢すべきだろうし、今の時代さえ好ければという現代に蔓延してる価値観を見直すべきだ。現在の職業の半数が消え様としているのに、何故に外国人労働者を受け入れるのか。

 報道に由れば、我が国の2023年の総生産(GDP)はドル換算でドイツに抜かれ第4位に転落したという。ドイツの人口は約8400万人と日本より少ないのに、GDPが伸びてる理由は何なのか。日本は労働力不足というより経営者の無能の方が大きい。

 政治家が経団連を始めとした経済団体の要請に無条件で応える姿は、国益や国體を護ろうなどという意思は無く、政治を単なる生業にしているとしか感じない。

 嘗ては「世界一安全」と言われた日本だが、不良外国人の急増に因って安全を脅かされている。そこに外国人労働者や自称難民を受け入れるとは狂気の沙汰だ。国民の生命の保証と財産の安全こそ日本人の願望であり、これに優る国益はない。

「警察白書」では、令和2年(2020年)の来日外国人に因る刑法犯の検挙件数に占める共犯事件の割合は35.5%と日本人(12.5%)の約2.8倍に上っている。国別ではベトナム人がトップで、シナ人は第二位と依然国内犯罪の多くを占めている。

 今や日本の永住者の数は「在日」を抜き「シナ人」がトップに膨れ上がった。日本国籍取得者や不法滞在者を加えると100万人を遥かに超えるのではなかろうか。最近ではベトナム人や難民を自称するクルド人の犯罪が顕著になっている。

 令和5年1月での不法滞在外国人の数は実に7万491人に及ぶ。不法滞在者の国籍は第1位がベトナム、第2位が韓国、第3位タイ、第4位中国、第5位フィリピン、以下、インドネシア、台湾、スリランカ、マレーシア、カンボジアと続く。

 以前は、特別在留者である在日朝鮮人やシナ人、フィリピン人、ブラジル人などが暗躍していたが、今では不良ベトナム人やクルド人の勢力が拡大している。

「国を持たない最大の民族」と言われるトルコ系クルド人。 強制送還に抵抗する理由に「戻れば命の危険が」という。そんなことを言ってないで、命懸けで祖国を建設しろよ。珍左翼と連携して政治活動してるクルド人の強制送還は当たり前だ。

 不法移民者らを支援する団体は、「人道的配慮に欠ける。特別に在留を許可するべきだ」と批判の声を上げて、「日本で長期間、家族と共に地域に根差して暮らす非正規滞在者に在留特別許可を出すべきだ」と指摘するが、本末転倒とはこのこと。

「地域に根差している」と本気で思っているとしたら実にノー天気なことだ。要は、不法に入国したり、或いは、ビザが切れても違法行為さえ見つからずに長く滞在していれば、「犯罪を犯そうが何をしようが御構い無し」ということなのか。

 外国人犯罪者の強制送還に因る家族分断について、法務省入国管理局は「外国人を自国内に受け入れるか否か、受け入れる場合に如何なる条件を付すかは国際慣習上、国家が自由に決められるのが原則」と回答しているが、至極御尤な意見である。

 岸田首相の「(シナ人留学生は)国の宝」発言には開いた口が塞がらない。更には欧米の多くの国が失敗した移民や難民を受け入れるというのだから厭きれるばかり。いっそのこと、政治の世界もAIにした方が、今よりマシになるかもな。呵呵。

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2024年01月23日

外国人の政経パーティーチケット購入は我が国への主権侵害である

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 マスコミは恣意的に清和政策研究会を「安倍派」と報じて元首相を貶める。だが、やってることは岸田派の方が悪質。抑々、安倍元首相は裏金作りの陋習を改めようとしていたのは周知の事実。安倍元首相が亡くなり復活した経緯は実に胡散臭い。

 岸田文雄首相は、政治資金パーティーでの裏金問題が騒がれ出すと、逸早く清和政策研究会の松野博一官房長官、西村康稔経済産業相、鈴木淳司総務相、宮下一郎農林水産相を更迭した。更に羽生田光一政調会長も党の要職を解かれた。

 だが、何れの議員も東京地検の結論は問題無し。岸田派(宏池会)は会計責任者が立件される。なのに岸田首相が、首相に居座り続けることに違和感を覚える。

 政治資金パーティー事件を受け、清和会と宏池会、志帥会(二階派)が派閥を解消するらしいが論点ずらしだ。どんな組織でも気の合う奴と馬が合わないのはいるもので、咽元過ぎて元の鞘に納まる。政策グループに名を変えて仲間が集う(笑)

 政治資金パーティーの問題は政治家のカネへの執着とさもしさから出た錆であり、所詮は政治資金規正法の不記載でしかない。裏金問題より悪質なのは外国人の政治資金パーティーへの参加であり、宏池会代表の岸田首相は自ら身を退くべきだ。

 画像は、宏池会(岸田派)の政治資金パーティー。岸田首相の左隣りのカツラの御仁が地元郡山市を地盤とする宏池会副会長で事務総長の根本匠。事務総長が責任を問われず、会計責任者が逮捕されるという事実に検察への絶望を感じてしまう。

 政治家はよく「政治をやるにはカネがかかる」という。暴力団と化した現代ヤクザがいう「ヤクザをやるのはカネがかかる」のと同義語だろうな。ヤクザがカネを追って任侠道を無くした様に、政治より資金集めに狂奔した政治家は恥を知りなさい。

 国会議員には政党助成金が拠出されてる訳で、政党助成法の趣旨から鑑みても政治資金パーティー及び政治献金の廃止は当然のこと。だが、日本共産党は政党助成金を受け取っておらず、法の下の平等から政党助成金の在り方も見直すべきだ。

 現在の政党助成法は、有権者が支持していない政党へもバラ撒かれる。一票を投じる際、その候補者に助成金が入るなどの法整備は出来ないものだろうか。

 今回の裏金問題で許せないのは、法を作る側の国会議員が、政治資金規正法の裏を掻い潜り、政治資金パーティーを公然と行い、裏金を作っていたことだ。況してや、政治資金パーティーの参加は外国人でも問題が無いというのはどういうことか。

 民主党政権下、前原誠司や菅直人が外国人から政治資金を貰っていたことが問題となった。前原については、自民党・西田昌司の執拗な追求し、前原は「故意ではない」と詭弁を弄するも、在日朝鮮人の婆さんからの献金の事実を認め外相を辞した。

 西田議員は在日からの献金問題と在日の政治活動に対して、「これは日本人の主権が侵害されている大問題なんだよ」と喝破していたが、正にその通りである。菅直人に至っては不法献金を誤魔化す為に原発事故を利用したことは万死に値する。

 現在、国内にはシナ人などの一般永住者が約80万人、韓国人などの特別永住者が約30万人、技能実習者約38万人、留学者約28万人、定住者約20万人と家族約20万人など、実に約289万人の外国人が住み、不法滞在者を加えると恐ろしい数だ。

 外国人の中でもシナ人や在日朝鮮人らは「外国人地方参政権付与」に躍起になり、国内の珍左翼や左翼メディアを利用して「地域主権」などという妄言で国民を騙し、外国人への権利付与が当然であるかの如く騒ぎ立て、アホな政治家が賛同する。

「岸田派(宏池会)」の政治資金パーティーでは、シナ人が大量にチケットを購入している。他の派閥や野党も同じだろう。外国人からの政治献金は違法なのに、外国人の政治資金パーティーチケット購入が問題ではないというのはどういうことか。

「政治資金規正法」は議会制民主主義の根幹を成す法律である。政治資金の実態を偽ることは国民を欺いて政治判断を歪めることに他ならない。況してやパーティー券購入は政治資金規正法には問われないとしてやっているとしたら実に悪質である。

 今回の政治資金パーティー裏金問題は自民党の陋習が生んだ破廉恥行為であり、国民への裏切りであるが、外国人のパーティー券購入が政治献金の替りだとしたら断じて赦されることではない。 外国人の派閥パーティー参加は氷山の一角だろう。

 自民党岸田派を筆頭に売国議員どもが中国共産党関係者からの不法献金を受け、忠誠を誓うが如く活動し、売国法案成立に躍起になっていることは疑い様のない事実である。これ以上の我が国への主権侵害を拱手傍観している訳には参らない。

 岸田派の事務総長は根本匠だが、こんなことでも根本の劣化を垣間見る。根本も引退した方が好い。政治資金パーティー裏金問題で自民党政権への批判は留まることを知らないが、野党の為体というかオウンゴールで自公連立政権が生き延びる(笑)

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2024年01月21日

政治資金規正法に罰則規定は無く空文化状態で穴だらけ

 派閥の解散を示唆した岸田首相だが、別に派閥が悪い訳ではなく、政治資金パーティーを利用して裏金を捻出したという問題が国民の怒りと不信を招いたのだ。政治資金パーティーは、自民党だけじゃなく、ポンコツ野党の立憲共産党も同じだろう。

 笑えるのは、立憲民主党代表の泉健太が、裏金を「ウラキン」と呼んでたな。そういや手当を「テトウ」と読んだ田島麻衣子ってのも居たし。ああいうのが「良識の府」と言われる参院議員だというのだから、自民党が負ける訳はないわな(笑)

 岸田文雄首相や閣僚11人は1000万円以上集める「特定パーティー」を開催している。閣僚の政治資金パーティーは政治資金規正法には抵触しないが大臣規範に抵触する。大臣規範は常識的申し合わせであり、罰則規定は無く、空文化状態で穴だらけ。

 政治資金規正法では政治資金パーティーを認めている。パーティー券の購入額が20万円以下なら名前の記載は不要。自民党5派閥の政治資金パーティーの不記載は報告書の訂正で問題は無いが、政治資金規正法と政党助成法との矛盾は明らか。

 政党助成法に拠る「政党交付金」は政治献金禁止の代償であるが、未だに企業献金や政治資金パーティーを続けてるのは如何なものか。国民への約束を反故し、未だに企業や団体からの献金を続けていることは国民への詐欺行為そのものである。

 政党交付金の目的は「企業・労働組合・団体から政党・政治団体への政治献金を制限する代償」だが、「禁止」ではなく「制限」としているところがミソか。

 何れにしても、政党交付金を受け取るなら企業・団体からの政治献金は止めるべきだし、政治献金を受け続けるというのなら政党交付金制度は止めるべきだ。

 政党交付金は、細川護煕首相が「ドイツでは国民がカネを出し合って政党を援助している。政治家がカネ集めに奔走しなくて済むし、何よりクリーンな政治を実現出来る」と国民に説明し、政治とカネの問題解決として政党助成法を成立させた。

 政党助成法の成立で企業献金や政治資金パーティーは無くなり、政治家は国家国民の為に汗してくれるものと国民の誰もがそう信じた。だが、クリーンな政治どころか、国政そっちのけで企業・団体献金や個人献金とカネ集めに狂奔している。

 政党交付金は、国民一人当たり約250円。国民総額約320億円。国会議員一人当たり約5000万円が配られる計算で、導入から9兆円以上が政治家に渡っている。

 議員には歳費として年間2300万円、文書交通費1200万円、公設秘書の給料や議員会館、議員宿舎など年間合わせて1億円以上の国費が支払われる。政治活動には十分な金額だろうが、政治家どもの金銭欲は凄まじく留まるところを知らない。

 政党交付金制度が企業、労働組合、団体からの政治献金禁止の代償であるのに、政治献金パーティーが無くならない現状は国民への裏切りであり、降り込め詐欺と同じ政党交付金詐欺である。物価高騰で喘いでいる国民をどれだけ蔑ろにするのか。

 政党交付金は「政治活動の自由」との観点から使途には制限も無ければ、立法事務費の報告義務や党解散時の返納義務もない。法律を作る側に立つ国会議員が、「合法的なら」とか「法律の範囲内なら」と法を巧妙に抜けて遣りたい放題し放題。

 政党交付金をネコババしたといえば小沢一郎。小沢は「新生党」と「自由党」解党時の交付金23億円を着服し不動産を購入。小沢が立憲民主党と国民民主党の合併に躍起になっていたのも、約80億円と言われる政党交付金目当てだった。

 正に「政党助成法」は国民をバカにした法律であり、小沢一郎の政治とカネの問題は、本を糺せばこの政党交付金の在り方を論じなければならない問題だった。

 旧民主党の議員が沈黙する中で、「井戸塀政治家は知ってるが、政治資金で不動産を買ったのは小沢君くらいだ(笑)」と小沢を揶揄した故渡部恒三を思い出す。

 相変わらず国会議員らは企業献金やら個人献金、政経パーティーと、国政そっちのけで金策に狂奔している。これ即ち「クリーンな政治を実現する」という趣旨からも逸脱しており、国民への裏切りである政党交付金は即時廃止するべきだ。

 日本共産党は、政党助成法に反対する立場から政党交付金は受け取らない。敵乍ら大したものだ。交付金を受取る政党と受取らない政党が存在している現状は「法の下の平等」とは程遠いものだ。受取らない日本共産党が何故か立派に見える(笑)

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2024年01月17日

防災と国防が万全なものにすることが犠牲者に応える唯一無二のものである

 能登半島地震での政府の対応を見てると隔靴掻痒の感は否めない。平成7(1995)年1月17日に起きた阪神淡路大震災(阪神大震災)の後に起こった東日本大震災を始めとした災害を見る限り、政府が万全な体制を執って来たとは思えない。

 そうした原因は、敗戦の汚辱を払拭せずに、戦後の経済的繁栄だけに現を抜かし、国家の大本を忘れ国民精神を失ひ、本を正さずして末に奔り、国家百年の大計は米国に依存し続けて来たことに起因するといっても過言ではないだろう。

 大東亜戦争の敗戦の教訓を活かすことは当然乍ら、震災や災害等で被災された多くの方々の犠牲を無駄にすることなく、今後の我が国の危機管理と防災と国防が万全なものとなる様に、更なる高度な対策が構築されて行くことを望むばかり。

 阪神大震災が起こった際の首相は最低・最悪の村山富市だった。こうした無能な左翼議員を持ち上げ連立を組み、首班指名した自民党にも責任があろう。

 村山が首相指名を受ける前年、羽田内閣が少数与党内閣となり総辞職。政権復帰を目指した自民党は、日本社会党(村山富市委員長)・新党さきがけ(武村正義代表)と連立政権を組むことに合意した。自民党総裁はあの河野洋平とは何か況や。

「自衛隊違憲合法論」を標榜する社会党の党首でもあった村山は、自衛隊の出動に難色を示した。その対応の拙さから数千人もの助かる命が失われたのだった。

 日本社会党の施策である「自衛隊違憲合法論」を優先する余り、自衛隊への出動命令を出せなかった。対応の拙さを批判された村山は、驚くことに「なんせ初めてのことじゃけ~」と他人事の様に語ったことを国民は決して忘れはしない。

「言い訳は見苦しいばかりではなく同じ過ちを繰り返す」とは徳富蘇峰。村山はその後、日韓併合の植民地支配と大東亜戦争を「侵略」と断じ「談話」を発表した。

 震災対応の過ちに続き、慰安婦問題や歴史問題で火に油を注いだ村山はその後も我が国を貶め続け、老醜を曝け出した。東日本大震災時の首相であった菅直人も同じく、現場視察強行やSPEDDIの数値隠蔽で要らぬ被曝を招いたこと然り。

 社会党の村山や民主党の菅といった、最低・最悪の政権の時に何故に史上最悪といえる天災が起こるのだろう。これはやはり天譴、天罰であったのだろうか。そう考えると、能登半島地震もまた岸田文雄や自民党の無能が重なって見える。

 三上卓作詞・作曲の「青年日本の歌(昭和維新の歌)」に一節に、「天の怒りか地の声か、そもただならぬ響きあり、民永劫の眠りより、醒めよ日本の朝ぼらけ」とある様に、今こそ我々は戦後のあらゆる不条理から覚醒せねばならない。

 占領下だった昭和25(1950)年の警察予備隊発足以来、阪神淡路大震災や東日本大震災を始めとした災害派遣や平和と独立、国民の生命財産を守る為に行われている訓練などで、実に2054名(陸自1102柱、海自485柱、空自436柱、機関31柱)の自衛官が殉職されていることを、我々国民はどう思っているのだろうか。

 国家の防衛と国民の生命・財産を守るべき自衛体が、災害救助などの都合の好い便利屋的な任務で殉職していることも知らされないというのはどうしたものか。

 殉職自衛官に対し、如何に慰霊・顕彰すべきなのか。財政再建よりも優先されるべき喫緊の課題であろう。自衛隊殉職者追悼式は市ヶ谷駐屯地内の慰霊碑の前で、政府や自衛隊関係者のみで行われており、国民が慰霊・顕彰することはない。

 殉職された自衛官は靖國神社に祀り、国民が感謝の誠を捧げるべきだと思う。だが、如何せん、自衛隊の存在があやふや故に儘ならないのが現実である。

 小林弘樹陸上幕僚副長(陸将)ら陸自幹部が、靖國神社に参拝したことが何故か問題となっている。国家に殉じた英霊を祀る神社に現職自衛官が感謝の誠を捧げることは当然であり、こうした問題が出ていることこそ戦後の不条理の現れである。

 三島由紀夫は、携行した檄文の中で「自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず」と喝破した。だが、三島の声は届くことはなく、未だに自衛隊は違憲の儘に放置され続けている。

 現憲法の第9条・第2項に「陸海空軍の戦力は保持しない」と明記されている。素直に読めば、悲しい哉、自衛隊は明らかな憲法違反の存在である。然し乍ら、阪神大震災や東日本大震災などに於ける災害救援活動や民生支援など正に命を賭して活動し、日夜訓練に励む自衛隊を、まともな日本人ならば感謝こそすれ否定はしまい。

 取り敢えず9条改正論ではなく、何故に堂々と現憲法の矛盾点と不条理を指摘し、国軍であるべき自衛隊を名誉ある軍隊にしようとしないのだ。現憲法の矛盾を解消することに、誰に何を慮るというのか。これ以上の政治の怠慢は赦されない。

 我が国の危機管理と防災と国防が万全なものとなり、より高度な対策が構築されて行くことが、震災での犠牲になられた方々の無念さに応える唯一無二のものであると信じて止まない。震災で犠牲となられた方々に哀悼の意を表します。合掌。

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2024年01月16日

自衛隊幹部の靖國神社参拝批判に見る戦後の歪んだ陋習を払拭しよう!

 陸上自衛隊の小林弘樹陸上幕僚副長(陸将)ら陸自幹部が、靖國神社に参拝したことが何故か問題となっている。国家に殉じた英霊を祀る神社に現職自衛官が感謝の誠を捧げ、自衛隊の活動への御加護を懸けることに何の問題があるというのか。

 自衛隊員を庇うべき木原実防衛相は、情けないことに「誤解を招く行動は避けなければならない」と述べたが、大臣の発言に違和感を覚えた国民は少なくない。

 更に「宗教上の礼拝所を部隊で参拝することを禁じる防衛次官通達に違反するか調査し、厳正に対処する」と自衛隊員の処分を示唆しているが、靖國神社を礼拝所と認識してることは実に御粗末だし、通達より憲法上の信仰の自由を重んじるべき。

 木原大臣の対応は、共産党機関紙「赤旗」の取材に屈した結果だが、反自衛隊勢力のあからさまな反日行為と自衛隊批判であり、陋習というべき通達を自衛隊批判の道具にされたことを重く受け止め、早急に防衛次官通達こそ破棄しなさいな。

 現憲法20条第3項は「国及びその機関は宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と明記されている。つまり、総理大臣や閣僚の靖國参拝も条項に抵触してるのは明らかであるが、靖國神社の宗教法人格を取り消せば問題は解決する。

 最高裁が示した憲法の禁止する「宗教的活動」の定義は、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進または圧迫等も含まれているる。つまり、所謂「A級分祀論」なども第20条違反に問われる行為でもある。

 本来ならば、昭和27年4月28日に我が国の主権が恢復した折に、靖國神社と全国の護国神社は「宗教法人」ではなく国家で管理するべきだった。だが、政治の怠慢に加え、政府自民党の無作為で国家護持が成されずに現在に至っている。

 今回の騒動の根底には反靖國神社勢力が蠢く。我が国には所謂「A級戦犯」「B・C級戦犯」「戦争犯罪人」はいない。未だに東京裁判史観の「日本悪玉論」が罷り通り、日本は未来永劫「悪い国」でなければならない勢力がそれを利用する。 

 昭和27年4月28日、我が国は主権を回復した。翌年の第16国会の議決に拠り「戦傷病者戦没者遺族援護法」が改正されたことを以て法的に復権されている。未だに「戦犯」と呼称する政治家が後を絶たないが国会軽視との自覚は無いのか。

 連合国側が定めたA・B・C級の区分に関係なく、刑死・獄中死された方は「法務死」と称され、靖國神社では「昭和殉難者」として、不当に処刑された所謂B・C級戦犯1068名を始め、リンチ等で亡くなった方が約100名が御祭神となっている。

 世界のどんな国でも国民でも、国家に殉じた「英霊」には最大の名誉が与えられている。それに比べて経済大国である我が国の精神的貧困さには呆れるばかり。

 故中曽根康弘や小沢一郎、前原誠司、石破茂などの曲学阿世の大馬鹿者が韓国や中共に阿り、昭和殉難者である英霊の方々を「A級戦犯」や「戦争犯罪人」と断じ、「分祀論」を提言し、国民世論を煽り分断を謀ってることは万死に値する。

 容共派からは「靖國参拝は中韓を刺激するから、外交的にマイナスだ」という声が聞こえるが、中共については軍事力を増強し続け、海洋調査船が日本の排他的経済水域に於いて不当な活動を繰り返し、加えて尖閣諸島の領有権を主張している。

 韓国にしても同じく、我が国の固有の領土である島根県竹島を未だに不法占拠した儘で、北方領土海域に於ける漁業権確保をロシアとの間で契約している。つまり、今日只今を以てしても中韓は日本への敵対行為を採っている国家なのである。

 そうした我が国への敵対行為や侮蔑には目を瞑り、相手国を刺激する事のみを心配する論理は、正に東京裁判史観に毒された自虐思想以外の何ものでもない。

 凡そ国家が存在するならば、他国を刺激しないなどということがあるだろうか。国家は自存の為に国益を主張し、国益は往々にして対立することを免れない。然らば、他国を刺激しないという理由は、自国の国益を放棄することに他ならない。

「近隣諸国を刺激しない」という、戦後日本の国是は誤りなのだ。皮肉なことに、過去に於いて被害者であったと声高に主張する国こそが、現代では我が国の主権を侵し続けている。この事実をしても連中に被害などを口にする資格はない。

 百歩も千歩も譲って、我が国が、過去のある時代に悪逆非道の犯罪者だったらどうだというのか。それでも我等は歩みを止めず生きて行かねばならないのだ。

 北朝鮮に日本人同胞を拉致され乍ら、他人事の様に涼しい顔をし、先祖の領土を略奪され主権を侵害されてるのに、拱手傍観している訳には参らないのだ。

 大切なのは古今東西、世界に蔓延る覇権主義の克服を主張すべきであって、他国の覇権主義に目を瞑り、一方的に自虐の淵に止め処なく漬かり込むことではない。今回の自衛隊幹部の靖國神社参拝騒動は、正に戦後日本の御花畑の象徴でもある。

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2024年01月15日

靖國神社を参拝した自衛隊幹部を庇わない木原実防衛大臣にはガッカリ

 陸上自衛隊ナンバー2の小林弘樹陸上幕僚副長(陸将)ら陸自幹部が、先週の9日に靖國神社に参拝したことが何故か問題となっている。日本国憲法原理主義と未だにGHQの神道指令を忠実に守ろうとしてることに、戦後日本の問題点を垣間見る。

 小林陸将は、共産党機関紙「赤旗」の取材に「自衛隊幹部の参拝は毎年のこと」と応えた。共産党は、公用車を使っての参拝を「憲法20条が定める政教分離に抵触する可能性がある」と糾弾し、NHKや共同通信など左翼メディアや珍左翼が便乗。

 能登半島地震が発生し、突発的な対応を迫られる場合もあり、幹部が官用車を使用するのは当然だと思うが、木原実防衛相は、恒例行事とはいえ、自衛隊幹部の行動を軽挙と言わんばかりに「誤解を招く行動は避けなければならない」と述べた。

 小林陸将は、去年4月に沖縄県の宮古島沖で起きたヘリコプターの事故の調査委員会委員長を務めている。陸将は「航空機の安全を祈願する為の参拝」と応えているが、「殉職した自衛隊員の顕彰と慰霊である」と堂堂と語れば好かったと思う。

 防衛省の通達では、集団で神社などに参拝することを禁止しているという。国家国民の安全と領土を守る自衛隊が、天佑神助を祈願する神社への参拝を禁止してどうするのか。GHQの神道指令の名残であるこんな通達は早々に取っ払うべきである。

「航空機の安全祈願」という欺瞞は止めた方が好い。我が国周辺の緊張感が高まってる中で、近い将来、平和・安定の為に自衛官の「戦死」が生じる場合があるだろう。殉職自衛官を慰霊し、顕彰するのは、やはり「靖國神社」を於いて他にない。

 平成10年、防衛省の六本木から市ヶ谷への移転に伴い、敷地内に自衛隊殉職者慰霊碑が建立され、毎年、御遺族、内閣総理大臣、防衛大臣以下高級幹部などが参列し追悼式が行われている。防衛省は一般国民が足を踏み入れることは出来ない。

 国家国民を護る為に、また災害時の復興で殉職された自衛隊員に感謝の誠を捧げ、如何にして慰霊と顕彰を行うべきか、我々は考えたことがあるだろうか。

 昭和25年8月9日の自衛隊の前身である警察予備隊発足以来、阪神淡路大震災や東日本大震災を始めとした災害派遣や平和と独立、国民の生命財産を守る為に行われている訓練などで、実に2054名(陸自1102柱、海自485柱、空自436柱、機関31柱)の自衛官が殉職されていることを、国民は知っているのだろうか。

 然し乍ら、靖國神社を否定する勢力が、自衛隊員の靖國合祀に賛成することは有得ず、自衛隊殉職者慰霊碑を市谷から千鳥ヶ淵墓苑に移すことで千鳥ヶ淵墓苑が戦没者追悼施設にされる可能性もあるが、大事なことは慰霊ではなく顕彰である。

「顕彰」とは、生前の功績や善行などを称えて広く世間に知らせることである。靖國神社は追悼施設ではなく、英霊の顕彰を重んじていることを理解していない。「哀悼」とか「追悼」とは、死者の生前を偲び、その死を悼み悲しむことである。

 木原防衛相は「宗教上の礼拝所を部隊で参拝することを禁じる防衛次官通達に違反するか調査し厳正に対処する」としているが、靖國神社を礼拝所と認識してることは実に御粗末だ。チョッとは気骨ある保守政治家だと思ってたからガッカリ。

 部隊での靖國神社参拝がダメなら、防大生有志の恒例行事である横須賀~九段迄の東京行進も特攻観音や戦没者慰霊碑の清掃作業も防衛次官通達違反ということか。

 木原大臣は政治の混乱を避ける為に自衛隊幹部の処分を公言したのだろうが、反靖國勢力への譲歩は更なる譲歩を生むということを何故に理解出来ないのか。

 自衛隊や自衛官へ敬意を払うことは日本人としての当然の義務であるが、我が国は未だに平和ボケの真っ只中。国防への常識が欠落し、自衛隊に敬意を払うどころか、自衛権をも否定しているクソ憲法を国民不在の政争の道具に利用し続ける。

 今回の自衛隊幹部の参拝が批判されるのは、靖國神社が「宗教法人」だからだ。靖國問題を解決するには分祀論や憲法解釈ではなく、靖國神社の「宗教法人格」を見直せば済むことなのに、政治家どもが手を拱いていることは不思議でならない。

 靖國神社というのは戦後、GHQの統治下で行われた「神道指令」に因って、解体や焼き打ちされそうになったのは有名な話し。当時の関係者がGHQの目を逸らす為に一時的に英霊ではなく別な御祭神を祀り「一宗教法人」として存続を図った。

 本来ならば、昭和27年4月28日に我が国の主権が恢復した折に、靖國神社と全国の護国神社は「宗教法人」ではな国家で管理するべきだったのだが、政治の怠慢に加え、政府自民党の無作為で国家護持が成されずに現在に至っている。

 自衛隊幹部の靖國神社参拝が問題というのなら、保守議員が団結して「靖國神社法案」を提出可決し、宗教法人格を取っ払い、不毛な靖國論議に終止符を打て!

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2024年01月12日

今は「反共右翼からの脱却」ではなく反共右翼への回帰を目指すべし!

 行動右翼の防共挺身隊(防挺)に所属しつつ、国士舘大学時代に右翼理論を学ぼうと「日本論壇倶楽部」という同好会を創った。新右翼のカリスマ・野村秋介が「反共右翼からの脱却」や「理論武装」を訴えていることも知らずにいた頃だった。

「友よ山河を亡ぼすなかれ(反共右翼からの脱却)」の復刻版を読み直している。改めて、野村の峻烈な生き様と強力な理論に裏付けられた言霊に敬服する。

 反共右翼からの脱却(われわれは現体制の手先ではない)が論じられたのは、安保改定から20年も経っていなかった昭和51年のこと。当時は「反共」から安保支持に回った戦後右翼を批判することが、新しい右翼の選択だったのだろう。

 愚生は「安保支持に回った戦後右翼」の選択は間違っていなかったと思う。安保反対の当時の学生の多くは共産主義に傾倒したというより、先の大戦で米国に負けたという悔しさからの行動であり、野村は彼らの行動に共鳴したのだと思う。

 戦前の右翼と戦後の右翼は全く違う存在である。戦前の右翼は「国粋主義」的要素が強く、外国思想は全て悪と捉えるという考えであり、それは共産主義であろうが、資本主義であろうが、民主主義であろうが批判されるべき対象だった。

 GHQは占領下に於いて、戦争を引き起こしたのは日本国内の右翼勢力だとして、右翼団体や危険人物を潰そうとする。だが、第二次世界大戦が終結すると日独の防共の砦が崩壊するとアジアを始め世界各地で共産党に因る革命や暴動が起こった。

 GHQに処刑された東条英機も遺書の中で、ドイツと日本の防共の防波堤が崩壊したことで世界が混乱してることを憂いている。日本国内で共産主義が席巻すると、それを危惧したGHQは右翼解体の方向を転換し、右翼団体を「反共」に利用する。

 A級戦犯だった児玉誉志夫と笹川良一が反共運動に参画し、反共右翼が登場する。児玉も笹川も、GHQの意の儘に「共産主義」のみを悪とし、忠実に実行した。

 児玉や笹川らが「米国のスパイ」と言われるのはその所為でもある。児玉は「児玉機関」で貯め込んだ潤沢な資金を基に、全国の博徒(ヤクザ)や香具師(テキヤ)を纏め上げ、愚連隊的右翼団体を次々と立ち上げ、「反共運動」に乗り出した。

 右翼団体の「反共」運動は間違ってはいないが、右翼団体の多くが「憲法改正」や「靖國神社国家護持」「北方領土奪還」などの自民党のスローガンを忠実に遂行し、自民党の「院外団」的行動をしていたことは児玉や笹川の影響が大きい。

 院外団的右翼は代わりに経済的恩恵を享けた。防共挺身隊総隊長の福田進もその一人。例えば、福田総隊長は神奈川県葉山地区の二束三文の土地を取得している。取得後、間もなく有料道路が建設されることとなり莫大な資金を得ている。

 福田総隊長は、日本に帰属される前の沖縄で、那覇空港内に「福田商店」という免税店を開業していたが、児玉のそうした裏の人脈と政治力の賜物だろう。

 悲しい哉、極貧を経験した人というのはカネの使い方が分からない。資産数百億円と言われた福田総隊長は後進を育てることなく幽冥境を異にしてしまった。

「反共右翼」に反省を求めるのなら、院外団として恩恵を享け、居の安きに甘んじたことを猛省するべきだろう。そんな右翼だったから権力に使い捨てされたのだ。

 ヤクザが「仁侠道」を忘却し、カネ儲け至上主義から暴力団化したのと同じく、右翼も維新者としての「大義」を忘れて、資本主義に溺れ、目先のカネ儲けなどに興じていれば、必要価値のないものに成り下がって行くのは必然だろう。

 反共右翼こそが現在の右翼に求められる行動であると考える。野村ー鈴木の対談から47年経つが、その後の共産主義はどうなったのか。実に巧妙となり、国内のあらゆる処に蔓延し、我が国體を棄損し続けている。嘗て三島由紀夫はこう語った。

「我々はあらゆる革命に反対するものではない。暴力的手段たると非暴力的手段たるとを問わず、共産主義を行政権と連結せしめようとするあらゆる企画、あらゆる行動に反対するものである。この連結の企画とは、所謂民主連合政権(容共政権)の成立及びその企画を含むことを言うまでもない。名目的たると実質的たるとを問わず、共産主義が行政権と連結するあらゆる態様に我々は反対するものである」

 今や「男女共同参画社会」「ジェンダーフリー」「SDGs」「LGBT法案」「人権擁護法案」「協働・共生社会」「外国人参政権」「外国人住民基本法案」「アイヌ新法」「女性天皇・女性宮家創設」など、次から次へと策謀が重ねられている。

 野村と左翼の太田竜との対談は読み応えがある。太田の理論は現代左翼のバイブルの様なもので、中でもアイヌを日帝に因る圧迫民族であるとの主張は、法制化された「アイヌ法案」に通ずる。太田も草葉の陰でほくそ笑んでるに違いない。

 こうした左翼の策謀と政府の愚策に因って国體や国柄が破壊され続けている。つまりは、三島が悲観した予言より酷い状況に陥っているが現在の日本であるのだ。

 これらの姦策に対峙するべき愛国陣営や右翼を見れば、共産主義の行政への浸食への危機感が乏し過ぎる。野村の「理論武装」や「反共右翼からの脱却」を穿違えてはいないだろうか。右翼人を自任する愚生としては隔靴掻痒の感は否めない。

 行動右翼のパイオニアを標榜する防挺が一世を風靡した時代、求められたのは理論より激しく派手な行動力だった。その昔、幹部が放った「右翼は理論より行動。パクられたら弁護士先生が巧い理屈を考えてくれるよ」との言葉を思い出す(笑)

 右翼・民族派は維新者として日々研鑽を積み、理論を武装し、テロリストの如く身体を鍛え、反共右翼に回帰して、強烈な反共・救国運動を展開するべし。呵呵。

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2024年01月10日

弱者を気取りさえすれば救済される今の風潮に違和感を覚える

 正月も終わったが、浪人暮らしの愚生は毎日が休みの様なもの。他人から似れば気楽な稼業に見えるだろうが、先々の事を考えると不安が無い訳ではない。

 若い頃は宵越しのカネも持たず、僅かなカネを得てはパーッと使って気にも留めなかったが、歳をとった所為か明日の事を考える様になってしまった(笑)

 防共挺身隊本部の総隊長代行に就いた30代から約20年間、物心両面で支援して頂いていた帝友会の高花豊先生に幾度となく言われた、「佐久間さん、活動家が長生きすると惨めな生活しか待ってませんよ!」という言葉が脳裏に焼き付いている。

 カネというのは「持ってれば何かと便利」「無いよりは有った方が好い」という代物でしかないし、使わなきゃ意味は無い。カネがあれば生活するには困らないし、低迷する右翼活動の立て直しも出来るし、頑張ってる右翼後進らへの支援も出来る。

 右翼の先生方を見ると、企業献金などもあり資金が潤沢だった頃に蓄財に励み、その貯め込んだ金で自宅を購入し、居の安きに甘んじ、右翼を志した純粋な気持ちなんぞ疾うの昔に忘れ去り、終身保険に入ってるのに「一日一生」とはコレ如何に。

 野村秋介が師と仰いだ、昭和維新を夢見た三上卓は、台湾からの密輸事件(海烈号事件)で逮捕されているが、これも革命(昭和維新)資金の調達が目的だった。活動資金獲得に合法も違法も無い。右翼陣営の立て直しは資金確保の成否にある。

 弱者を気取りさえすれば救済される今の風潮に違和感を覚える。己の努力不足を自覚せず、「困ってる」「助けて欲しい」などと他人に溢してどうするの。

「乞食に氏無し」という言葉があるが、何事も、その者の心がけの悪さからなるものである。弱音を吐いたり、ボヤくと、笑われて「わが好ぎだ」と亡き母に言われたことを思い出す。要は、自分で蒔いた種であり、自業自得、因果応報である。

 他人の痛みを分かれというがそんな人間はいない。泣き言は言わない方が好い。悩みや不安、痛みなんぞ他人には分からないものだし、己の恥を曝すだけだ。

 ワーキングプア(働く貧困層)という連中に小遣いを与え、住居を提供し、生活保護の大盤振る舞いしている。働く気もない連中を国の政策の被害者扱いし、またそれを「可哀想」といって支援するボランティアなんぞ偽善以外の何物でもない。

 安易な生活支援が愚民を生む原因である。弱者を標榜する人々を嘗て曽野綾子は「老人業」や「難民業」と揶揄したが正論だろう。弱者を標榜する連中は「私達は優遇されるのが当然だ」という態度で権利ばかりを主張するが、実に甘えた話だ。

 買って欲しくて駄々を捏ねる子供と同じで、何でも無暗に貰いたがることを「乞食根性」と言う。右翼浪人ではあるがここまで賤しい人間にはなりたくないものだ。

「乞食の朝謡(あさうたい)」という諺もある。サラリーマンなら忙しい朝の時間にも暢気に謡ってられる様に、難民業や老人業も右翼浪人も気楽な境遇でもある。

「乞食も三日すれば忘れられぬ」とも言うし、不如意と雖も気楽なもので、三日もすればそれが忘れられなくなる。実に悪習は染まり易く、これを改めるのは困難であり、働く意欲の無い連中への生活支援なんぞ根本的な解決にはならない。

 その昔、横山武彦という破天荒な右翼浪人がいた。歳は二回り程違うが、妙に馬が合った。その横山曰く「乞食でもホンモノは信用出来る」と語っていたのを思い出す。右翼の中にもホンモノは極僅かで、インチキ右翼が幅を利かせている。

 福沢諭吉の「心訓」というものが在る。

 一 世の中で一番楽しく立派なことは一生涯を貫く仕事を持つ事です
 一 世の中で一番みじめな事は人間として教養のない事です
 一 世の中で一番さびしい事はする仕事のない事です
 一 世の中で一番みにくい事は他人の生活をうらやむ事です
 一 世の中で一番尊い事は人の為に奉仕して決して恩にきせない事です
 一 世の中で一番美しいことはすべてのものに愛情をもつ事です
 一 世の中で一番悲しい事はうそをつく事です

 右翼人という一生涯を貫く生き方を持ったことは立派なことなのだろうが、福沢翁に言わせれば、勤労の義務を果たさないのは寂しい人生だということだ。

 吉田兼好の様に職を捨て、自由気儘に生きて行くのは至難の業。カネが無いのは実に不安なもので、これは経験した者でなければ分かるまい。くだらない意地を捨てて、仕事をすれば好いのだが、それが出来ないから始末に負えない(笑)

 実家の家訓というか亡き父の教えに「他人の生活を羨んでいると自分の幸せに気が付かない」と教えられてたので、他人の生活を羨むことはない。だが「働く凡人は気の多い秀才より役に立つ」というもう一つの家訓は守れずにいる。呵呵

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2024年01月08日

国體破壊が目的であるハッピーマンデーを粉砕しよう!

 今日は成人の日。国民の祝日に関する法律(祝日法)第2条には「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」との趣旨が明記されている。本来、成人式は「小正月」の1月15日に行われていた。

 昭和23年に公布・施行された「祝日法」では、成人式は1月15日と決められた。元旦を大正月と呼ぶのに対して15日を小正月と呼ぶ。その年の初めての満月の日に、一家の行く末を託す男子の「元服」を行ったのが成人式の由来である。

 皇居では、神道の儀式の一つである男子皇族の「元服の儀」が小正月の15日に行われていた。「男子の元服」というのが、性差別を叫ぶジェンダーフリーを叫ぶキチガイどもの怒りを買って、所謂「ハッピーマンデー」が誕生することとなった。

 平成10年の「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律」及び、平成13年の「国民の祝日に関する法律及び老人福祉法の一部を改正する法律」である、所謂「ハッピーマンデー」の施行に伴い、夫夫の月の第二月曜日に行うこととなった。

 抑々「ハッピーマンデー」なる愚策こそ、共産主義者に因る国體破壊が目的であり、左翼陣営というのはこうした既成事実を積み重ねることに拠って、我が国の歴史や伝統、文化、更には皇統を否定する論拠とするのが常套手段でもある。

 況してや、成人式を前倒しして日曜日にやる自治体も多い。「ハッピーマンデー」なんぞ無意味どころか百害有って一利無し、早々に改定を図るべきだ。旧暦を復活させて、新暦と併用すれば祝日の意味も国民には分かり易くなるだろう。

 皇統断絶と国體破壊を目論む左翼陣営の究極の目的は「女系天皇」と「宮中祭祀」の妨害であるのは明らか。宮中祭祀で特に重要なものは正月、元旦に執り行われる「四方拝」と、11月の2回目の「卯の月」に行われる「新嘗祭」である。

 祭祀は女性天皇では適わない。また祭祀こそ、決められた日の決められた時間にすべきものであり、国民が共に祝う日であって、祝日は単なる休日ではないのだ。諸外国に比べ、日本の祝祭日ほど「国柄」の分かる素晴らしい伝統、文化はない。

 戦前の祝祭日の殆どが神道の祭日だった。現在は半数近くになってしまったが、多くの日本人が、神道に由来する祝祭日を単なる休み(休日)としか考えていないのは悲しいことだ。今こそ祝祭日の意義を教えて行かねばならないと痛感する。

「成人の日」を1月15日、「海の日」を7月20日に戻し、建国記念の日を「紀元節」、春分・秋分の日を「春季・秋季皇霊祭」、勤労感謝の日を「新嘗祭」との名称に改め、4月3日の「神武天皇祭」及び10月17日の「神嘗祭」を復活させることは国體の精華を取り戻すことでもある。「憲法記念日」や「山の日」は必要なし。

「こどもの日」の本来の趣旨は、「未来を担う子供の人格を重んじ、幸福を図ると共に、子供は自分を生み育ててくれた母に感謝する日」であった。だが、この「母」にいつもの性的変質者のオバハンらが騒ぎ立て「親」と偏向されることとなった。

 昭和6年、昭和天皇の皇后である香淳皇后の御生誕日である3月6日が「母の日」に定められた。現在の母の日は3月6日ではなく、米国と同じ5月の第二日曜日。

 我が国の母の日は皇后陛下の御誕生日である「地久節」の日にするべきである。母の日然り、クリスマス然り、米国の価値観の押付けは数多に及んでいる。

「日本はフジヤマ、ゲイシャガール、ハラキリの低開発国だ」とする米国は、占領下に於いて戦後民主主義教育を始め、日本弱体化政策実行し日本人の矯正を謀った。

 日本国憲法が米国製というのは余程のバカでない限り知ってるが、「労働三法」と呼ばれる法律にしろ、教育委員会制度にしても日本を実験台にしたものだ。

 現憲法を始めとして、悉く失敗した米国の策謀を有難く思い、それを当たり前だと錯覚し、それを変えることすら躊躇している日本というのは滑稽という他はない。 

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2024年01月04日

最低・最悪の政権の際に最悪といえる天災が起こるのは何故!?

 1日午後4時10分頃、石川県を震源地とする能登半島地震は北海道から九州という広範囲に及び、73人(3日現在)が死亡した他、近県でも怪我人が出た。翌日には羽田空港で日航機と海上保安庁の航空機が衝突し、海保職員5名が犠牲となった。

 能登半島地震で犠牲となられた方々にお悔やみを申し上げると共に、被災地への救援物資の輸送に対応していた海上保安上職員の殉職に対し哀悼の意を表したい。

 立憲民主党の原口一博はX(旧twitter)で、能登半島地震への岸田文雄首相の初動対応の遅れを指摘し、「岸田首相に危機管理を任せられない」と批判していた。

 このツイートに「発生は、2024年1月1日16時10分頃であり、全国的な祝休日であることを考慮する必要があります。発生5分後には総理指示が発出され、首相によるポストで18時15分に発生直後の官邸対策室立ち上げ、その後特定災害対策本部を設置しています」とのコミュニティノートが付き、原口のデマを指摘していた。

 原口は東日本大震災での民主党の対応を持ち上げてたが、これにも「東日本大震災の発生は、2011年3月11日14時46分であり、国会開催中です。また緊急災害対策本部設置は15時14分であり、当時の首相菅による総理指示は、15時27分です。全閣僚出席の会議は16時12分です」とのコミュニティノートが付けられてた(笑)

 民主党時代はどうだったのか。引退会見で原発事故後の対応を問われた菅直人は、「対応を誤れば関東地方全部が住めなくなる。ぎりぎりの状況という危機感を覚えて対応に当たった」と宣ってたが、菅の現場視察が事故後の混乱を招いた。

「現場訪問で事故対応が遅れた」「対策本部の乱立で指揮命令系統が混乱した」などの国民の不満について、「当時色んな見方があったが、最終的に私が率先してやったことで、被害があれ以上拡大せずに済んだ」との自賛には思わず仰け反った。

 東電は、東日本大震災当日から炉心溶融という「最悪のシナリオ」を予測していたが、菅自らが強く望んだ福島第一原発への現地視察に因って、事故拡大防止の為に採るべき第二第三の矢を放つのが遅れてしまったことは見逃せない事実である。

 政府関係者は「首相を被曝させない」ことを優先する余り、1号機の炉圧を低下させる為の「ベント」と呼ばれる応急措置が遅れた事実こそ括目すべきだろう。

 現場視察という軽挙妄動こそが、原発事故の現場の対応に要らぬ混乱を招き、被害が拡大したことは明らかである。菅直人こそ業務上過失致死傷で起訴され、刑務所に送り込まねばならない大悪党である。逮捕し、余生を刑務所で送らせろ。

 阪神大震災が起こった際の首相は、国政史上最低・最悪の村山富市だった。「自衛隊違憲合法論」を標榜する社会党の党首でもあった村山は、自衛隊の出動に難色を示した。その結果として、対応の拙さから数千人もの助かる命が失われた。

 自衛隊への出動命令の遅れを批判された村山は、「なんせ初めてのことじゃけえ」と他人事の様に語ったことは決して忘れはしない。「言い訳は見苦しいばかりではなく同じ過ちを繰り返す」とはよく言ったもので、その後、村山は日韓併合の植民地支配と大東亜戦争を「侵略」と断じ、どさくさに「村山談話」を発表した。

 現場視察強行やSPEDDIの数値隠蔽で要らぬ被曝を招いた菅直人然り。何故に、最低・最悪の政権の際に最悪といえる天災が起こるのだろう。やはり天譴であり、天罰なのだろうか。そう考えれると、自公政権や岸田文雄首相は悪害なのかもな。

 余談だが、相変わらずネット上では、「ご冥福」という言葉が氾濫している。犠牲になられた方や故人への純粋なお悔やみを否定する訳ではないが、「冥福」というのは「死後の幸福をお祈りします」意味であり、現世が地獄という訳ではない。

 例えば、浄土真宗では「死というのは穢れではない」と教えているから、「死後の幸せ」を意味する「冥福」は忌み嫌われる言葉でもある。キリスト教も同じ。

 浄土真宗は、「故人を阿弥陀如来の智慧の光明によって極楽浄土へと導く」という真理であり、死後の幸せより、阿弥陀如来への信心を重視している宗派である。「ご冥福」というとそれらしく聞こえるからつい使いたがるが間違っている。

 浄土真宗やキリスト教など宗派に拠っては故人への冒涜となることもあるから易易と使ってはいけません。故人の宗派が分からない場合は、「お悔やみ申し上げます」「ご愁傷様です」「哀悼の意を表します」などと言い換えた方が好い。

 政治家の選挙活動の一環である弔電も、浄土真宗とか関係なく「ご冥福」のオンパレード。恐らくは宗教の訓えなんぞ知らないバカな秘書がやってるのだろうが、こういう一票欲しさの選挙運動である弔電披露なんてのは故人への冒涜でしかない。

 末尾に当たり、危機管理と防災と国防が万全なものとなり、より高度な対策が構築されて行くことが犠牲になられた方々の無念さに応える唯一無二のものであると信じて止まない。今回犠牲となられた方々に改めて哀悼の意を表します。合掌再拝。

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2024年01月03日

父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました(円谷幸吉)

 愚生の住む福島県内を始めとする東北地方や北関東の一部の地域では、正月の3日にはとろろメシ(汁)を食べる風習がある。ということで、朝は三日とろろ。

「三日とろろ」を食べるとその年は風邪をひかないと言われている。まぁ、風邪をひかない様にというより「七草粥」の様に、年末年始で飲み過ぎて疲れた胃腸を労わり滋養を付けるという意味からとろろを食べる様になったのだと思う。

「三日とろろ」でいつも思い出すのは、福島県須賀川市出身で東京五輪マラソン銅メダリストの円谷幸吉選手を思い出す。遺書の最初に「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました」と認められ、家族皆への感謝が綴られている。

 遺書の最後には「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれ、中でも「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい」の言葉は、マラソントップ選手故の苦悩の現れであり、衝撃的でもある。

 円谷選手が遺書は、世話になった方々から頂いた美味しい食べ物への感謝の言葉で綴られ、彼の人となりが十分伝わってくる内容だ。(以下、遺書の全文)

 父上様、母上様、三日とろろ美味しうございました。
 干し柿、もちも美味しうございました。
 敏雄兄姉上様、おすし美味しうございました。
 勝美兄姉上様、ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。
 巌兄姉上様、しそめし南ばんづけ美味しうございました。
 喜久造兄姉上様 ブドウ液養命酒美味しうございました。
 又いつも洗濯ありがとうございました。
 幸造兄姉上様、往復車に便乗さして戴き有難とうございました。
 モンゴいか美味しうございました。
 正男兄姉上様、お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
 幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になってください。
 父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
 何卒お許し下さい。
 気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
 幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。

 アジアで初であり、有色人種国として初めて開催された東京オリンピックで銅メダル獲得という快挙を成し遂げた幸吉は、レース後の会見でこう語った。

「私一人が走っているのではなく、日本国民全部の人が後ろから私を押していてくれるという感じを受けました」。この言葉は正しく幸吉が国士だった証しだろう。

 遺書というのはその人の人物像が現れる。中でも、特攻隊員や靖國に眠る英霊の遺書は正しく「神」そのものの渾身の叫びであり、その言葉には言霊が宿り、その精神は日本人の心の奥に響き、時空を超えて明らかに現代に感応している。

 右翼人の愚生には左翼という生き方はどんなものかは知らないが、二十八歳で自裁した連合赤軍中央委員会委員長・森恒夫の遺書には「自己の責任の重さに絶望し、自らに死刑を下す」と綴られている。その内容は次の様なものだった。

 御遺族のみなさん、
 十二名の同志はぼくのブルジョア的反マルクス的専制と戦い、
 階級性、革命性を守ろうとした革命的同志であった。
 責任はひとえにぼくにある。
 同志のみなさん、常に心から励まして下さってありがとう。
 お元気で。父上、ぼくはあなたの強い意志を学びとるべきだった。
 強い意志のない正義感は薄っぺらなものとなり、変質したのである。
 お元気で。愛する人へ、希望をもって生きて下さい。
 さようなら。荷物は坂東君に。

 森は逮捕されてからはキリスト教に関心を示していたという。革命に向けて自ら行った虐殺の罪を悔い改めてはいるが、それはその手法であって遺族への謝罪は全くないことをしても左翼思想云々以前に人間的な幼稚さが露われている。

 一方で、浅沼稲次郎社会党委員長を刺殺した山口二矢は供述調書を取り終えると移送された練馬鑑別所で自裁。その調書の中で遺族に対して心境を吐露している。

 浅沼委員長を倒すことは日本の為と堅く信じ殺害したのですから、
 行為については法に触れることではありますが今何も悔いる処はありません。
 しかし、浅沼委員長は最早故人となった人ですから、
 生前の罪悪を追及する考えは毛頭なく唯故人の冥福を祈る気持ちであります。
 又浅沼委員長の家族に対しては、如何なる父、夫であっても情愛に変わりなく、
 殺害されたことによって悲しい想いで生活をし迷惑を掛けたことは事実ですので、
 心から家族の方に申し訳ないと思っています。

 二矢は練馬鑑別所に於いて、「國のため 神洲男児晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅へ」「大君に 仕えまつれる 若人は 今も昔も 心かわらじ」の辞世を遺し、「天皇陛下万歳」と従容として死に就いた。享年十七歳。

 二矢は、「私には日本人の血が流れており唯物論では到底割り切れない。持って生まれた日本精神という唯心論的なものが滾っており、天性からこういう人生観、思想などが形成されたと思っています。尚、本当の日本人であれば、私の様な人生観、思想というものが心の奥底には必ず在ると思います」と述べている。

 十七歳の二矢と二十八歳の森恒夫との人生観の違いは歴然だろう。二矢と円谷幸吉の遺書に日本人としての惻隠の情を犇々と感じ、人というのはどれだけ長く生きたかではなく、どう生きたか、どう生きるかが大事だと痛感する。合掌再拝。

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2024年01月01日

皇紀2684年(令和6年)を迎え、恭しく聖寿の万歳を寿ぎ奉りまする

 皇紀2684年、令和6年を迎えるに当たり、恭しく聖寿の万歳を寿ぎ奉り、愈々肇国の精神を顕揚し、本年が光輝ある年たらしめんことを堅く誓い、併而、御支援御厚情を賜ります皆々様方の益々の御隆昌と御健康を祈念申し上げます。

 我が国の政治の混迷の一端は、戦後政治の総括を怠り、自己保身と偽善に狂奔して来た政治の陋習と国家観無き政治家の怠慢に在ると言っても過言ではない。

 今日の祖国日本を覆う重苦しい閉塞感と惨憺たる現況を救う為に要用なものは、「我らは日本人である」という自覚と誇りを取戻すこと以外に無いと感じる。

 今、我が国が直面している全ての問題は先人の努力を無視し、「日本人が日本人であることを見失った」ことに起因していると言っても好いのではなかろうか。

 これはつまり、どの国で生まれ、何処の国で生き、何の為に働き、何を尊び、何を信じるのか、子供達に何を語り、友人や朋輩と何を分かつのか、そうした生き方を見失ってしまったことから、現在の混乱と精神的貧困は起きていると考える。

 現代を生きる我々は「祖国日本とは何か」「日本人であるとはどういうことなのか」ということを自問自答し乍ら、世界と向い合うべきではないだろうか。

 欧米主導の西欧時代の終焉が叫ばれている今、我々は悠久の歴史を有する祖国日本について考え、「日本人である」という証を示さなければならない時なのである。

 本来の日本人ならば、心の中に「日本人の魂」というものを持っているだろう。それはつまり、この国の歴史伝統や先人達に対する尊敬や愛着の想いである。

 例えば、先の戦争に負けたという事実を限りなく口惜しいと思い、占領で失われたものがあるならば、それを何としても取り戻したいと思う「心」である。

 だがどうだろう、右翼陣営を始め自称愛国者や政治家から、魂から発する「思い」を感じることはなく、右顧左眄型の偽善者ばかりが目立つ気がしてならない。

 我が国は世界の中で、最も優れた精神文化と独自の価値を有する国家であり、我々は日本民族として随神の道である神道、宗教、言語、悠久の歴史や価値観、習慣や制度といった精神文化を死守し、未来に継承して行かなくてはならないのだ。

 その為には何をするべきか。先ずは国家の基本法として機能していない矛盾だらけの現憲法を破棄することが最善である。現憲法の無効を宣言し、先人の智慧の結晶でもある大日本帝国憲法を復元し、現代に合わせて改正することが求められる。

 更には、靖國神社の宗教法人格を取っ払い国家で護持した上で、日本国民の「義務」として、靖國神社に眠る英霊に感謝の誠を捧げることこそ大事である。

 我が国の長い歴史の中でこれ程迄に堕落し、自己犠牲の精神を忘却し、まやかしの平和と繁栄に現を抜かし、自己本位の享楽にばかりに狂った時代は無いだろう。

 そんな中でも、真保守主義に覚醒し、山積する諸問題を如何に打破し、日本再生の転換点と成すべきかと行動する日本人が多く出て来たことは喜ばしい限り。

 愚生は右翼浪人ではあるが、天皇国日本を盤石の安きに置く為に微力乍ら迫り来る祖国日本の危機に対処し、粉骨砕身、奮励邁進することこそ使命だと確信しておりますれば、本年も何卒、叱咤激励、御支援の程を宜しく御願い申し上げます。

 皇紀2684年 歳旦 佐久間五郎拝

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2023年12月31日

今年は当該ブログは一日も欠かさずアップしてみたが・・・

「徒然草」の書き出しは「つれづれなるままに 日ぐらしすずりにむかひて 心にうつりゆくよしなしごとを そこはかとなく書きつくれば あやしうこそものぐるほしけれ」と綴られている。ブログやSNSも似た様なもので、毎日起こる意味もない由無し事を綴っては、もの狂おしく一喜一憂しているというのも空しいものである。

 吉田兼好の様に、職を辞し精神の自由を求めれば生活は困窮するし、暮らしを楽にしようとすれば心が拘束される。愚生も右翼浪人という生き方に限界を感じつつも、この身在る限りせめてその精神だけは一維新者として自由で強く在りたいと思う。

 今年は期することがあり、政治思想の当該ブログは元旦から一日も欠かさずにアップしてみた。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」というが、遣り過ぎというのは厭きられるということを痛感した。やはり、何事も程程が肝要ということだ(笑)

「預言者郷里(世)に容れられず(新約聖書ルカ福音書四章)」という言葉がある。優れた人物は、故郷や世の中では受け容れられないことが多いという喩えである。「受け容れられない」というより「受け容れたくない」というのがホンネだろう。

「受け容れたくない」という気持ちにしても、批判にしても、往往にして嫉妬から出てることが多く、友人知人など身近な者が出世したり、カネ儲けで成功したり、優れていればいる程ヤキモチを焼くのは人間の性というもなのかも知れない。

 見方を変えれば、批判や嫉妬というものはその人の実力を認めてる裏返しでもあるから、一々気に留める必要もないのは分かってはいるが、やはり批判は気になるものだ。批判を受け入れることで気付くこともあり、批判と賛同は表裏一体である。

「人は故郷を離れて貴し」という。また「 近くの坊さんえらくない」という喩えもあれば、「遠きは花の香、近きは糞(クソ)の香」という諺もある。

 身近な者や身近な人の意見というのは中々耳に入ることもない。例えば、近所の神社仏閣というのは身近過ぎて有難く感じないもので、それと同じで身近な人からの意見や苦言は軽んじられることが少なくない。愚生のブログも似た様なものか(笑)

 だが、その軽んじられてる意見が正論だったり事実だったりするもの。愚生のブログを偉人と比べるのは僭越だが、例えばキリストは愛を説いて十字架に架けられた。日蓮は道を説いて流罪に遭った。また政治家も偉いヤツほど殺されている。

 古来、真理を説き、道理を訴えた者は世の中に受け容れられることはなく、その多くは「バカ」とか「キチガイ」扱いされた上に、罰せられるか殺されている。

 ガリレオ・ガリレイは「天動説」が当り前だった時代に、地球が太陽の周りを廻ってるなどとは考えても見なかったのは当然のことといえば当然のこと。結果、「地動説」を唱えたガリレオは「世を誑かす者だ」として宗教裁判に懸けられた。

 これが当時の大勢であり正論だった訳だが、今も当たり前だとか正論だと思っていることも、後の世には間違いや非常識だったとされる場合も無きにしも非ず。

 正しいことというのは、いつの世も後になって気付くもので、そんな時代に、必死に「正しい」と唱えたところで理解してくれないのは当然のことでもある。

 何しろ世の中にはバカの方が多いのだから、どうしてもそういう結果になってしまうのは自明の理とも言えなくもな。「あの人はイイ人だ」とか「あのことは正しい」などというのも、古来に学べば大半は間違っていると思った方がイイだろう。

 大勢の意見や正論というのはいつの世も創られるもので、単に平均的意見に過ぎない。愚生にしても、ブログやSNSでいつもいつも同じ様な薀蓄や能書きを綴ってると、有難みも薄れるし、軽んじられてしまうのは当たり前のことでもある。

 まぁ、愚生は預言者ではなく無頼派右翼。「郷里に受け容れられず」というより「近きは糞の香」くらいにしか思われてはいないのは何となく気付いている。毎日毎日、同じ様な主張を垂れ流されてうんざりした人も少なくなかったかもなぁ。

 読めばかなり勉強になると自負してるが、文章は長いし、難解な漢字も登場するから、「難しい」とロクに読まないで拒否してる人も少なくない。「読書百遍義自ずから見る」という様に繰り返し読むことで、真意を得ることが出来るだろう。

 顧みれば、今年も怠惰な一年があっという間に過ぎ様としている。右翼団体の活動が岐路を迎えているが、今後も組織に与せず、新たな運動形態を模索しつつ、微力乍ら天皇国日本を盤石の安きに置くべく程程に獅子吼して行くつもりです(笑)

 今年一年、拙ブログを閲覧して頂いた方々及び御支援を賜った皆様方に心より感謝を申し上げると共に、謹んで陛下と皇室の弥栄を寿ぎ奉り、併而、来る年が皆様にとって実りある一年と成ります様に御祈念申し上げます。すめらぎいやさか。

 令和五年 皇紀二千六百八十三年 師走臘日 佐久間五郎拝

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2023年12月30日

どうだろう、皆さんは「らしく」生きていますか?

 日本人は勤勉な国民だと言われる。何故に勤勉なのかと問えば、「貧しかったから」だと答える人が多い。だが、日本より貧しい国は沢山在ったが、それらの国民も勤勉かといえばそうとは限らない。日本人の美徳とされたものに「勤勉と貯蓄」というものがある。それを提唱し、生活思想に高めたのが石田梅岩という人物である。

「学者(学ぶ人)は、知識よりも心を磨くことを先にしなければならない。心を磨けば自らの行いを慎み、自らの行いを慎めば『礼』に合致し心は安らかとなる。心の安らかなのが『仁』である。仁は天に備わる根本の『気』である。天の気は万物を生み出して養育する。この心を会得することが学問の初めであり終わりでもある」

 石田梅岩は「石門心学の祖」といわれているが「石門心学」は余り知られていない。梅岩自身が商人の出ということもあり「町人哲学」といわれ、今日でも関西では「事業に行き詰まったら梅岩を読みなはれ」と言われ、「都鄙問答(とひもんどう)」と「斉家論(せいかろん)」は経営者のバイブルとなっている。

 江戸時代にあって商人は「士農工商」の最下位に置かれ「金儲け=賤しい」と軽蔑の対象にあった。商人の役割について「余ったものを足りない所に送り、社会全体を過不足なくすることだ」と推教え、倹約の公共的な経済効果を打ち出した。

 この教えは現在も同じこと。景気低迷の一因には、経営者らは倹約はすれどその余った分を足らない所へ送らず自分の所に留めてしまっている。最近の経営者というものは目先の儲けばかり考えて、また儲けたカネは身の回りだけで使ってしまうから経済が上手に廻らなくなる。要は、吝嗇家の経営者が多過ぎるということに尽きる。

 昔の企業家というのは営利よりも、先ず日本国の将来や国民の幸福を重んじていたのだが、今は米国の自由主義経済に毒され、梅岩の唱えた経営論なんて疎んじられる様になってしまった。企業人とはやはり社稷を重んじることこそ大事である。

 会社を興し稼ぐことは悪い訳ではないが、「その金を稼ぐ行為が最終的には国(社会)を豊かにするということが稼いだ意味である」ということを自覚しなきゃ稼ぐ意味は無い。新自由主義などの「自分が豊かになること」が目的である人というのは、幾ら稼ごうがその欲望は治まることはなく自分の人生に満足することが無い。

 悲しい哉、我が国の経済界は「青年日本の歌」の通り、正に財閥富を誇れども社稷を想う心なし。我が国の景気低迷の一因は経済人の心の乏しさに起因している。上杉鷹山の「心の赤字の解消」もそうだが、梅岩の経済理論も啓蒙すべきだ。

 日本再建を図る上で真の保守政治家を育てることも大事だが、営利至上主義を糺し、社稷を重んじる経済人を育むことが日本再建の鍵となるだろう。梅岩の教えの終局の目的は、日常生活の仕事を通して人格修行をするというところに在った。

 その答として、梅岩は「ボウフラは人を刺さない。だが蚊になれば人を刺す。これは蚊に人を刺してやろうという心があるからだ。また蛙は蛙だから蛇を怖がる。つまり全ては心が決める」と独自の見解を述べた上で更にこう付け加えている。

「即ち心とは形となって表れる。何かの形は、そのものの心を表している。従って正しい行いをしたければ、先ず正しい心を持たねばならない」。「心学」と云われる所以である。 そこで得られる結論は、簡単に言えば「らしく」ということ。

 武士は武士らしく、農民は農民らしく、商人は商人らしく、夫夫の道があり、その役割と責任を果たすことに拠って、社会の秩序安寧を保つというものである。

 政治家が経営者の様に、先生が生徒の様に、右翼がサラリーマンの様に生きてはダメだということ。政治家は政治家らしく、経営者は経営者らしく、先生も先生らしく、サラリーマンはサラリーマンらしく、右翼は右翼らしく生きることが正道。

「自分らしく」生きる。日本人の勤勉さは、先人のこうした教えや智慧を連綿と受け継いでいる。まぁそんなとこで、皆さんは「らしく」生きてますか。呵呵

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2023年12月29日

今の境遇に合わせて、家に閉篭り、寝て暮らそうと考えている(葉隠)

 座右の書ではないが「徒然草」と「葉隠」は折折目を通す。「徒然草」三十八段に「名利に使われて、閑かなる暇もなく、一生を苦しむこそ、愚かなれ」とある。

「世俗的な名声とか地位とか財産とかに身も心も使われて、心静かにゆったりと生活を楽しむ余裕もなく、一生あくせくと暮らすなど実に愚かなことだ」と訓える。

「葉隠」というのは逆説的で、例えば「自分は寝ることが好きだ。だから、今の境遇に合わせて、家に閉篭り、寝て暮らそうと考えている」との一節がある。

 葉隠や徒然草の教えを真似している訳ではないが、団体を辞して以来、家に閉篭って、只管果報を寝て待つが如く、日々成るが儘に身を委ねて過ごしている。

 蟄居というのはチョッとカッコ付け過ぎで、何のことはない、「出れば出銭」ともいうし、慢性的手元不如意という今の境遇では、やりたいことがあっても儘ならないというのが正直なところで、「閑居して不善を成す」と言ったところか(笑)

「葉隠」の正式名称は「葉隠聞書」とか「葉可久礼」とも言う。佐賀藩士・山本常朝が、同藩の田代陣基(つらもと)に語った口述記録。「葉隠」の冒頭に書かれた「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」との一節は誰もが知る言葉だろう。

 我が国の「武士道」を著した本というと「葉隠」よりも、新渡戸稲造の「武士道」を挙げる人は多いのではなかろうか。「武士道」とは違って、一般の人が「葉隠」から思い浮かべるのは「右翼的」とか「忠君愛国的」というイメージだろうか。

「葉隠」は、親鸞の「歎異抄(たんいしょう)」と共に、大東亜戦争時代に学徒出陣で戦地に赴いた学生達に最も読まれた本でもある。それは歎異抄が「死の平安」を語り、葉隠が「死の覚悟」を語ったものだったからだろうと推測する。

 多くの人は、冒頭に書かれた「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」だけが独り歩きし、ロクに読みもせずに「危険な書」だと決め付けているのではないだろうか。

 三島由紀夫は「葉隠入門」で、葉隠とは「行動の知恵と決意が自ずと逆説を生んで行く、類の無い不思議な道徳書。如何にも精気に溢れ、如何にも明朗な人間的な書物」と語っているが、危険な書というより道徳を分かり易く教えている。

 例えば「意見の仕方」というのがある。「『人に意見してその人の欠点を直す』ということは大切なことであり、慈悲の心とも言える。ただ、意見の仕方には骨を折る必要がある。大方の人は、人に好まれない言い難い事を言ってやるのが親切の様に思い、それが受け入れられなければ、自分の力が足りなかったとしている様だ。こうしたやり方は何ら役に立たない。ただ悪戯に人に恥をかかせ、悪口を言うだけの事と同じ結果になってしまう」と教えてる様に、意見や苦言というのは意外に難しい。

「意見というものは先ず、その人がそれを受け入れられるかどうかを見極め、相手と親しくなり、何時も信用する様な状態で仕向ける処から始めなければならない。言い方なども工夫し、時節を考え、自分の失敗談等を話しながら、余計な事を言わなくても思い当たる様に仕向けるのが良い。先ずは良い処を褒めて気分を引き立てる様に心を砕き、そうした上で欠点を直していくというのが意見というものである」と説く。

 なんと細やかな心遣い、これ程の気遣いをする現代人はいないだろう。「葉隠」は「死に狂いの思想」と云われている様に、狂信的な箇所も少なくない。だが、一方で現代人にも通用する教えも多く、非常に役に立つ内容も少なくない。「如何にして美しく死ぬか」と教えるが、同時に「何の為に生きるか」とも説いているのだ。

「人間の一生なんて真に短いものだ。だから、好きなことをして暮らすべきである。夢の間の間の中にあって、嫌なことばかりして苦しんで暮らすことは愚かなることである。だが、このことは悪く解釈されては害になるので、若い人などには最後まで話すことがなかった秘伝といったものである。自分は寝ることが好きだ。だから、今の境遇に合わせて、家に閉篭り、寝て暮らそうと考えている」と語っている。

 三島由紀夫はこれらの教えを「逆説である」と説いている。葉隠は「書かれている内容のその裏の真実を読み取る術が要求される」とも語っているが正しく。

「封建道徳は悪である」といった概念で読む人には「葉隠」は全く理解されることはないだろうが、「葉隠」に接することで、武士道の世界というのは現代人よりも、もっと優しさと慈愛に満ち溢れた世界だったことが理解出来るのではなかろうか。

 常朝は世知に長けた人物であり、常朝の日常の言葉を連ねた「葉隠」とは、日本人の優れた道徳規範と処世術を教えてくれる日本人必読の名著である。まぁ、取り敢えず三島由紀夫の「葉隠入門」から読んでみるのが好いと思う。

「家に閉篭って、只管果報を寝て待つが如く、成るが儘に身を委ねている」という、愚生の心の裏の叫びを読み取って、「一維新者としての残り少ない人生を全うさせてやろう」と物心両面で応援してくれる強力な支援者が現れないだろうか。呵呵

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2023年12月28日

「何れの道にも別れを悲しまず」剣豪・宮本武蔵の処世術に学ぶ

「葉隠」は「武士道とは死ぬことと見つけたり」というが、宮本武蔵の「五輪書」はもっとクールで合理的な武士道であり、「死ぬということ位なら、僧侶でも女でも百姓その他でも弁えている、武士に限ったことではない」と言い放つ。

「武士が兵法を実行する場合は何事に於いても他人より優れている事が第一の条件である。個人対個人の戦いに勝ち、数人の戦いに勝つのは主君の為、我が身の為、名を上げて身を立てる為である。万事に役立つ様に心掛けてこそ兵法の徳である」

 要するに、武蔵は武士が死ぬことを覚悟しているのは当然で、その本質は「常に勝つこと」であり、それによって名を上げる事が目的だと教えている。

「葉隠」の武士道が主従関係に重きを置いているのに対して、武蔵の武士道は戦国の世を如何に勝ち抜き、如何に生き抜くかの現実的な兵法であったのだろう。

「五輪書」には、「山水三千世界を万里一空に入れ、満天地とも攬(と)る」という一節が在る。「山水三千世界」とは、仏教の世界観に於ける宇宙の単位のことであり、「万里一空」とは「世界はどこまでいっても空は一つ」とか「全てのものは一つの世界に留まっている」という考え方である。

 万里一空の意味は、「どんなに遥か遠くまでいっても空は一つしかない。全ては一つの世界に留まっている」。これこそが、武蔵の実践した思想の根本でもある。

「何事も動揺せず、常に冷静な気持ちで事に当たる」「一つの目標に向かって精進する」などの意味として解釈される。頭では理解するもののコレをいざ実践するとなると実に難しい。人の死や別れに限らず、何か些細な事でさえも右往左往してしまいがちだが、何事も万里一空と思えば冷静にもなれるというものだろう。

 正統右翼浪人を自任している愚生は、世の中の由無し事に一喜一憂し、ブログやフェイスブックなどで尤もらしく時局厳正批判を披歴しているが、目先のことを語ることやSNSでの意見の一致を見ない喧々諤々の議論に何の意味もないことを悟る。

「自然体」とは普段通りではなく相手に合わせることでもある。読書などでの理論武装も好いが、それよりも天地自然や人間の大道を心得えや時の動きに従いつつも正義を踏み外さず、危機に際しても平時と同じ様に対処出来る心構えを日頃から意識することこそ大事であり、そういう意味では「日々修行」ということに尽きる。

 武蔵は弟子に「独行道」という21ヶ条の置文を遺した。その一部を列記する。

 一、世々の道に背くことなし
 一、身を浅く思い、世を深く思う
 一、一生の間欲心思はず
 一、我事に於いて後悔をせず
 一、善悪に他を妬む心なし
 一、何れの道にも別れを悲しまず
 一、神仏は貴し、神仏を恃まず

 この中に「何れの道にも別れを悲しまず」というものが記されてあるのに刮目する。それでは、宮本武蔵という人物は血も涙も無い冷血漢だったのだろうか。

 例えば、酒を嫌いな人が「我、酒を絶つ」とか、或いはタバコを吸わない者が「タバコを絶つ」などと書かない。飲みたいが、或いは吸いたいが止めようと自分に誓願した者が「絶つ」と言ってこそ、人に訴えるものがあるのではないか。

 そう考えれば武蔵は寧ろ、人一倍感情豊かで熱血漢だったのではないだろうか。別離に人並み以上の涙を流しながら、涙を見せまいと努力した人間に違いない。

 愚生の盟友だった蒼穹社代表の瀬野壽夫を思い出す。理由は解らぬが、死なねばならない悩みや苦痛が有ったのだろう。盟友として少しでも力になれなかった事を悔やむばかりだが、その苦痛や悩みが「渾身の悩み」なのかは調べる術も無い。

「渾身の悩み」とは、明日には必ず死に逝く特攻隊の方々の悩みである。この英霊の方々の悩みに比べれば、我々の悩みなんぞちっぽけなものだと思うのだが・・・。「何れの道にも別れを悲しまず」 。愚生も斯くありたいものだ。合掌。

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2023年12月27日

さてさて、目明きとは不自由なものだなぁ(塙保己一)

 盲聾唖という視覚・聴覚・言語という三重苦を克服した偉人というとヘレン・ケラーが有名だが、塙保己一(はなわほきいち)を知っている人は少ないだろう。

 ヘレンは幼少時代、母親から塙保己一の話を聞かされていた。訪日した際、渋谷の温故学会の講堂で「私は塙先生のことを知った御蔭で障害を乗り越えることが出来ました。人生の目標であり、心から尊敬する人です」と語ったことは有名である。

 延享3(1746)年5月5日、武蔵国児玉郡保木野村(現・埼玉県本庄市児玉町)出身。江戸時代の国学者。幼名は寅之助。3歳の時に眼病に罹り、7歳で失明。失明後に辰之助と改め、多聞房(たもんぼう)とも名乗ったこともあった。

 15歳で雨富検校に入門してからは、千弥(せんや)を名乗り、その後、保木野一(ほきのいち)、保己一と改名している。文久2(1862)年、長州の伊藤博文と山尾庸三に暗殺されたとされている国学者・塙忠宝は保己一の息子でもある。

 盲目ということで、保己一も他の盲目者と同じく針や按摩を身に付け様とするもさっぱり上達しなかった。身体の弱かった保己一を心配した雨富検校は、「旅をすれば丈夫になるだろう」と、21歳の春、父と共に関西への旅を勧めた。

 北野天満宮を詣でた際に、保己一は「菅原道真」を守護神と決めたという。約2ヵ月の旅行を終え、保己一の身体は丈夫になり、学問への集中力が高まった。それから3年後、最晩年の国学者・賀茂真淵に入門し「六国史」などを学ぶ。

 賀茂真淵に入門した期間は僅か半年ではあったが、真淵から得た学問や同じ志しを持つ仲間は保己一にとって生涯貴重な財産となった。才能を認めた水戸藩や幕府が支援し、国学研究の「和学講談所」を立ち上げ、多くの弟子を育てた。

 天明5(1785)年、水戸藩の彰考館に招かれ「参考源平盛衰記」を校訂。続いて水戸光圀の「大日本史」の校正に参画し、幕府からその学問的力量を認められた。

 保己一が編纂した「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」は、実に41年もの歳月を費やし、木版1万7244枚で作り上げたもので、実に666冊にも及ぶ。

 群書類従が完成したのは文政2年、保己一74歳。群書類従は我が国の貴重な古文書などを「全集」として形にしたもので、国の重要無形文化財に指定されている。

 群書類従に続いて「続群書類従」などを編纂中に体調を崩す。文献の行く末を案じ乍らも、惜しむらく、同4年9月12日に幽明境を異にする。享年76歳。

 保己一と弟子の逸話がある。源氏物語の講義をしていた夜、風で灯りが消えた。弟子達は、「先生、ちょっとお待ち下さい」と申し出ると、事情を知った保己一は、「さてさて、目明きとは不自由なものだなぁ」と朗笑したという。

 ヘレンが何故、「塙保己一」という名前を知っていたかというと、サリバン先生を紹介したベル博士が、ヘレンの両親に語って聞かせてたからで、このベル博士に保己一のことを教えたのが伊沢修二という留学生。後に、文部省高官・教育者となった著名な人物で、「雲に聳 ゆる 高千穂の~♪」で始まる「紀元節」の作曲家でもある。

「されさて、目明きとは不自由なものだなぁ」とは実に意味深な言葉だ。「盲(めくら)千人、目明き千人」という言葉があるが、世の中には物の分かる人もいれば分からない人もいる。人を外見で判断したり、或いは安っぽい世論のムードに流されてはいないだろうか・・・。皆さんには物事がきちんと見えてますか(笑)

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2023年12月26日

戦国武将・斎藤道三の「時代や人を見抜く」処世術に学ぶ

 美濃国に斎藤道三という武将がいた。「まむしの道三」という名の通り、悪名高い戦国武将である。愚生も、こうした削げ者というか変わり者は好きだ。道三は郷士の家に生まれるも、郷士では出世は出来ないと十一歳の時に僧門に入る。

 貧乏人の子は坊主になるのが出世の早道だった。法蓮坊という学僧となり将来を期待される。然し、仏門の世界と雖も家柄とか財産が物言うことを悟る。

 坊主では女も抱けない。魚も食えない。嫌気が差して環俗して油屋・山崎屋庄九郎になった。油商人となり、一文銭の孔から油を注ぐ方法で金儲けに成功するも、士農工商の時代、商人にも満足せず、足を洗って武士になろうと決心する。

 三間半の長槍の使い方を編み出し槍の使い手となり、諸国にその名が知られることとなる。そして土岐頼芸に仕官し、その多才ぶりを発揮する。家老となった道三は事実上美濃一国を掌握する。そして主人頼芸をも殺し終には大守となった。

 歴史では「主人殺し」と非難されて、「まむしの道三」と毛嫌いもされているが、こうしたことは戦国時代にはよくあること、頼芸がボンクラだっただけだろう。

 悪名高い道三だがその才能は非凡。太守になって城下町を岐阜に造ったが当時の我が国では初めての試みだった。道三の娘・帰蝶(濃姫)を信長と政略結婚させる。だが、周りでは信長を「あの戯(たわ)け殿」と嘲笑っていたが、道三は違った。

「残念だが、今にあの戯け殿の門前にワシが子供らは馬を繋ぐことになろう」と喝破した。この見識ぶりと時代を見抜く目、人を見る目など道三から学ぶものは多い。

 悪口を言うのは容易いことだが、人を見た目で判断したり、目先で見てはダメだということだ。悪口というのは嫉妬であり、見方を変えれば実力を認めてるという裏返し。そういう意味では褒められるより貶されてることの方が好都合でもある。

 人を見抜く力というのは人生経験を積むしか無い。信じた人に騙されるのは人を見る目が無かったということに尽きる。だが、相手が騙そうとしてるなら別に身構えることなく騙されてみるのも悪くない。負い目を感じるのは騙した方だし。

 愚生の経験上、笑顔を浮かべてるヤツや、愛想好く振る舞ってるヤツというのは意外と性格が悪いのが多く、単に調子がイイだけに過ぎない。「笑うと目が無くなるヤツは信用するな!」という訓えがあるが、強ち間違いではない。

 作られた笑顔の裏の顔というのは実に醜いもので、自分を誤魔化そうと必死になっている。逆にブスっと無表情のヤツの方が案外信頼出来るものだ。「剛毅朴訥は仁に近し」とは正しく。その逆が八方美人的な「巧言令色鮮し仁」である。

 返事もそうで、何でもかんでも直ぐに「ハイ、分かりました」なんていうヤツは実は意外と聞いていない。話をしてて此方の目をじっと目を見ているヤツもダメ。

 そういうのは相手側に自分の気持ちを悟られまいとしてるだけ。目は口程に物を言うが、浮気を疑った女房が「私の目を見て話せ」というのはそういうことだ(笑)

 此方の話を聞き乍ら時々目を伏せ要点をメモしたり、同意した内容があれば視線を上げ、此方の目を合わせ相槌を打つ様な人物なら使い物になるだろう。 

 何事も、信用し過ぎず、違う角度から穿った見方をすることも必要なことでもある。何故なら、現在の常識や多くの意見というのは、マスコミや或いは戦後に創られた米国の価値観だったり。大事なのは、常に人を見抜く眼力を養うことだ。

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2023年12月25日

「早く死んでは夢も叶うまい」北条早雲の処世術に学ぶ

 愚生は、主君(会社)に仕えることなく俸禄(給料)も無いので、素浪人(正統右翼浪人)を自任している。侍(サムライ)は主君に仕え、侍(さぶら)うこと。つまり、俸禄を頂くことであって、浪人とは侍(さぶら)うことではない。

 昔の右翼の世界にはそうした素浪人が多かったが、今は働き乍ら活動してる右翼人ばかり。破天荒さはこじんまりと治まってしまった。野武士から身を起こして、伊豆、相模両国の大守となった武将の北条早雲の生き様は見倣うことが多い。

 早雲は、若い頃には「新九郎」と呼ばれて伊勢地方で育った。四十近くまで裸馬の生活をしていた変わり者で、そんな中でも一国一城の主を夢見ていたという。

 そんな伊勢時代に、早雲は仲間六人と神水を飲み交し、「我ら七人、如何なることがあっても仲違いなどすまい。互いに力になり合って武功を立てて立身しよう。もし、この中の一人が大守になったら、残る六人はその家人となって助けようぞ」との誓いを立てたという。三国志の「桃園の誓い」の日本版でもある。

 三国志の「我ら三人、生まれし日、時は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年同月同日に生まれることを得ずとも、同年同月同日に死せん事を願わん」という桃園の誓いは名シーンだが、所詮アレは創作でしかない。

 早雲の契りは実話だから面白い。新九郎(早雲)らが契りを交わしてから十五年、新九郎が五十五、六歳になって漸く、小さい乍らも一国一城の主となった。

 新九郎が一国一城の主になると、誓いを交わした他の六人は約束を守って家臣となり、やがて新九郎が北条早雲と名を改め、伊豆、相模両国を支配する戦国大名にのし上がった時には、六人は家老として仕え、その関係は終生変わらなかった。

 好い時も悪い時も同じ様に付合い、幼き頃の高が知れてる約束事を忘れることなく実行したというのは素晴らしい。男の約束、男の友情とは斯く在りたいものだ。

 早雲の立派なことは、民心を安定させ、領民の全てを心服させていたことだろう。戦国の世の中というのは戦争に明け暮れていた関係で、どこの国でも農民を苛め、分けても関東地方一帯は、租税の厳しさでは群を抜いていた。

 当時の租税を「七公三民」といって七割を領主が召し上げる制度で、現在の税制と同じ様なもの。早雲はこれを「六公四民」に改め、百姓を苛める役人を処罰し、病弱者の為に今でいう診療所を開いた。領民の喜びの大きさは計り知れない。

「政」というのは斯く在るべきだろう。北条家が後に五代続いたのも早雲のこうした善政の賜物。五十半ばから芽が出た早雲は、大器晩成の模範の様な男である。

 早雲が伊豆、相模を平定し、関東を制圧したのが実に八十七の時である。その翌年、八十八で亡くなる。長生きは流石に真似出来ないが、還暦を迎えた愚生ではあるが、右翼人として活躍の場は未だ在ると思えば活力が漲るというもの(笑)

 愚生も「大器晩成」と自任しているが、活動家にしては長生きし過ぎた。「憎まれっ子世に憚る」というし、大いに憎まれ口や耳の痛い話をしてやろう。呵呵。

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2023年12月24日

明治維新を導く上に欠くるべからざる礎になった人物「藤田東湖」

 西郷隆盛、吉田松陰、橋本左内を始め、多くの明治維新の志士達が師事し、学び、彼らに最大の感化、影響を与えたのが常盤国水戸藩士の藤田東湖である。

 明治維新を成就せしめた第一人者であり、代表的日本人の筆頭である西郷隆盛が最も敬愛し師事したのは、島津成彬を別としては藤田東湖であったと言われている。

 西郷は、安政元年(1854)春、28歳の時に東湖にしばしば会ったという。東湖49歳の時である。東湖に会った悦びを、西郷は近親者に次の様に語っている。

「東湖先生も至極丁寧なる事にて、彼の宅へ差し越し候と清水の欲した塩梅にて、心中一点の雲霞なく唯清浄なる心に相成り、帰路を忘れ候次第にござ候。彼の方の学問は終始忠義を主とし武士となる仕立にて、学者風とは大いに違い申し候。自画自賛にて人には申さず候得ども、東湖も心に悪まれ候向きにてはござなく、いつも丈夫と呼ばれ過分の至りにござ候。もしや老公(斉昭)鞭を挙げて異船へ魁ござ候わば、逸散駆けつけむべ草に成りともまかりなり申したく心酔仕り申し候・・・」

 西郷が如何に東湖を敬仰し心酔したか思いやられる。東湖もまた西郷を「丈夫」「偉丈夫」と殊に親愛し「自分の志を継ぐに足る人物は西郷」と語り両者は相許した。 幕末の生んだ一大天才、橋本左内も東湖を最も敬慕して止まなかった。

 左内曰く、「小拙も心服致し候者は水府(水戸)藤田氏に止り申し候」。人物、学問、見識、手腕何れも飛び抜けていた左内は謙虚さを失わなかったが、自負心甚だ高く容易に人を許さなかった。唯一、東湖には心から敬服したという。

 越前藩家老鈴木主税がある時「吾が藩は人材が乏しい」と嘆いたという。すると東湖は「それは燈台下暗しだ。貴藩には立派な人材がいるではないか」と言い放つ。主税が「一体それは誰か」と問うと、東湖は「橋本左内である」と答えて笑った。

 左内この時22歳、父の後を継いで藩医となったものの全くの無名の時代であった。 松陰もまた東湖崇拝者の一人で、尊王攘夷派の思想的な基盤を東湖に学んだ。

 水戸を訪れるも謹慎中だった東湖には会えなかったが、東湖の著作を愛読し、松下村塾では「生気歌」「回天詩史」「常陸帯」等を使って人々に教えたという。

 松陰の一番弟子である、久坂玄瑞も東湖を崇拝した一人でもある。年齢がかけ離れて会うことが叶わなかった久坂は「自分は是非お目に掛かりたかった」と嘆じていたが、遂に夢にまで出て来た東湖に会うことが出来て悦んだという。

 西郷、松陰、左内、久坂という維新の英傑達に斯くも決定的感化を及ぼした藤田東湖は、安政2年の地震で不慮の死を遂げるが、明治維新を導く上に欠くるべからざる礎になったのである。正しく明治維新とは東湖の集大成でもあったのだ。

 神武肇国から続く我が国の長い歴史の中で、時代の陋習を打ち破らんと維新という大業が成し遂げられた。「大化の改新」「建武の中興」「明治維新」である。

「維新」とは「維(こ)れ新(あらた)なり」と全てが改まって新しくなることだが、日本維新の会など尊皇精神に乏しい右顧左眄の自己保身に狂奔する政治家や政党が痴がましくも口に出すものではない。 元号を軽々しく使っている政党も然り。

 尊王攘夷派の思想的な基盤を築いた藤田東湖が示した「大義を明にし、人心を正さば、皇道奚(いずく)んぞ興起せざるを憂えん」こそ維新の精神である。

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2023年12月23日

東条英機元首相らの靖國合祀は当然であり名誉回復こそ急ぐべきである

 本日は上皇陛下の御生誕日。謹んで陛下の長久を祈念申し上げます。また今日は、所謂「A級戦犯」として処刑された方々の命日であることを忘れてはならない。

 GHQは、日本人に戦争犯罪の贖罪意識を持たせる為に敢えて皇太子(当時)の生誕日を選び処刑した。こうしたことでも、連合国が如何に非情かが解るだろう。

 靖國問題を語る上でよく耳にするのが「A級戦犯が後から合祀され、天皇陛下が行かれなくなったことが大きなポイントで、分祀が実現すれば天皇陛下、首相が参拝できる環境が整う」などという戯言。御親拝が出来なくなったのは、恰もA級戦犯であるとしてあろうことに陛下を利用し国民世論を誑かす政治家は後に絶えない。

 何より英霊の名誉が恢復されず、何が日本再生か。抑々、我が国には「A級戦犯」や「B・C級戦犯」「戦争犯罪人」などという呼称はない。昭和27年4月28日の講和条約発効翌年の第十六国会の議決に拠り、「戦傷病者戦没者遺族援護法」が改正され、それを以て法的に復権されている。何が「戦犯か」、恥を知りなさい。

 連合国側が定めた、A、B、C級の区分に関係なく、刑死・獄中死された方は「法務死」と称され、靖國神社では「昭和殉難者」として御祀りしている。

 今迄にも大勲位である中曽根康弘や、中共の御先棒を担ぐ小沢一郎や石破茂、前原誠司ら曲学阿世の大馬鹿者が、韓国や中共の内政干渉に屈し、A級戦犯と呼称した挙句に英霊を戦争犯罪人と断じ、「分祀論」を提言して国民を撹乱している。

 御親拝を騙る「分祀論」こそ神道への無理解に加えて非常識且つ無責任な論理であり、国を誤る最も危険な愚論としか言い様が無い。こうした主張が左翼ではなく、保守を標榜する議員から発せられること自体、実に悪質且つ御粗末なものである。

 大東亜戦争終結後、GHQは一方的に我が軍民5700名余りをロクな調査もせずに「戦争犯罪者」と決め付け、A・B・Cの三段階に分けて軍事裁判に附した。

 A級戦犯として起訴されたのは、東条元首相始め28名であったが、極東軍事(東京)裁判で「絞首刑」とされた方が、東条元首相の他、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、武藤章、広田弘毅の7名、他数名が獄死している。 

 更には、所謂「B・C級戦犯」は1068名が、それ以外リンチに等しいもので亡くなった方が約100名とされ夫夫靖國神社に祀られている。「愚かな戦争」と断じることは容易だが、東京裁判の茶番劇で、或いは異国の地で、その不正義や不条理に言い訳もせず、その罪を諒として償ってくれた方々の命は決して軽いものではない。

 東条英機元首相ら、所謂「A級戦犯」14名が靖國神社に祀られていることを以て、陛下の御親拝に繋げ「分祀論」を展開するなど不敬千万、勘違いも甚だしい。

 A・B・Cの区分は罪の重さではない。然らば、A級戦犯を分祀したとして、他のB・C級の戦犯はどうすれば好いというのか。A級戦犯の分祀を以て、「B・C級も分祀せよ!」となることは自明の理である。B・C級で処刑された方々1068の方々は、昭和27年4月28日の講和条約成立後、約1年毎に靖國神社に合祀されて来た。

 A級戦犯の方々の合祀は見送られて来たが、靖國神社側が昭和53年に「33年祭」を執行した際に、「合祀は適当である」との判断の下に靖國神社崇敬者総代会に提案し、全員の合意を得て決まったもので、至極適切妥当な措置と言えよう。

 何度も言うが我が国には「戦犯」はいない。「戦犯」との名称は連合国側が一方的に唱えたものであり、日本国民が使用すべきでないのは当然のことだ。

 祖国や愛する者の為に身を賭して戦った方々を「戦犯」だとか「戦争犯罪者」呼ぶことは以ての外である。況してや政治家が使うことは先の大戦を否定し、また、「戦傷病者戦没者遺族援護法」改正をも否定する無知以外の何ものでもない。

 東京裁判始め、外地での軍事裁判も愚劣極まるもので、勝者に因る日本への復讐である。然も、それは国際法をも無視した恥ずべき事後法で裁かれたのである。

 連合国側も、流石に裁判の形式での復讐劇に良心の呵責に堪えなかったのか、良心の抵抗を感じてか、軍事裁判の主席検察官のキーナンはその冒頭陳述で、「我々の総括的な目的は正義の正しき執行である・・・」と弁明している。

 ウエップ裁判長も、白々しくも「我々は法に照らし、公正明大なる判決を下すべしとの共同宣言に署名した。当裁判所の大いなる任務は、事実と法との両者に就き虚心坦懐公平なる態度を持するにある」と大見得を切った。

「正義の正しき執行」とか「公正明大なる判決」とはよくもヌケヌケと言えたものだと、ある意味その厚顔さに感心さえ抱く。正義の正しき執行、公正明大なる判決は「戦争当事国」、況してや勝者が敗者に対して行えるものではない。

 厳密に言えば神に拠ってのみ可能であり、求め得る有資格者はスイスの様な永世中立国しかあるまい。A級が裁かれたのは「平和に対する罪」であり、B級が「通例の戦争犯罪」、C級が「人道に対する罪」であるがこれら全てが事後法なのだ。

 それなら問う。広島・長崎へ原爆を投下し、非戦闘員20数万人を殺傷した行為や、東京大空襲や都市部への無差別爆撃は、彼らが東京三番で掲げた「平和に対する罪」や「通例の戦争犯罪」や「人道に対する罪」とどう違うというのか。

「日ソ中立条約」を蹂躙し、我が北方領土を侵略し、在満同胞に悪逆非道の限りを尽くしたソ連もまた然りではないか。「正義の正しき執行と公正明大なる判決」は我が国ではなく、米ソに対してこそ向けられ、下されるべきではないのか。

 斯く考える時、連合国に拠って「戦犯」として断罪された東条大将らは、正に「昭和殉難者」というのが正しく、これらの方々を靖國神社に合祀し、その霊を慰藉し顕彰することは今を生きる我々の責任であろ義務でもあると言えよう。

 護国の英霊を祀る靖國神社を国家で護持することもまた当然である。米国人弁護人、ブレイクニーは「広島・長崎への無差別殺戮兵器の原子爆弾の投下を命じた者に被告らを裁く資格は無い」と叫んだ。同じ米国人弁護人のローガンは「欧米から経済的、軍事的に追い詰められた結果の日本の自衛戦争である」と指摘している。

 インドのパール判事は被告全員の「無罪」を主張した。パル判事は、東京裁判の無罪判決の最後を「時が、熱狂と偏見を和らげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には、そのときこそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くに、そのところを変えることを要求するであろう」と結んでいる。

 今こそ、極東軍事(東京)裁判の不当性と不正義を検証し、「戦犯」との汚名払拭と名誉回復を急ぎ、祖国日本と日本人の誇りを取り戻そうではないか!

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2023年12月22日

刮目して拝読せよ!〈東条英機遺言書全文〉

 昭和23年12月22日夜、東条英機閣下は死刑執行の数時間前の東京巣鴨で教誨師の花山信勝師の前で遺言書を朗読した。以下転載する。(一部校正してます)

 開戦の時のことを思い起こすと実に断腸の思いがある。
 今回の処刑は個人的には慰められるところがあるけれども、
 国内的の自分の責任は、死をもって償えるものではない。
 しかし国際的な犯罪としては、どこまでも無罪を主張する。
 力の前に屈した。自分としては、国内的な責任を負うて、満足して刑場に行く。
 ただ同僚に責任を及ぼしたこと、下級者にまで刑の及びたることは、
 実に残念である。
 天皇陛下および国民に対しては、深くおわびする。
 元来、日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志により行動すべきものであったが、
 一部あやまちを生じ、世界の誤解を受けたるは遺憾である。
 日本の軍に従事し、倒れた人および遺家族に対しては、
 実に相済まぬと思っている。
 今回の判決の是非に関しては、もとより歴史の批判に待つ、
 もしこれが永久の平和のためということであったら、
 もう少し大きな態度で事に臨まなければならぬのではないか。
 この裁判は、結局は政治裁判に終わった。
 勝者の裁判たる性質を脱却せね。
 天皇陛下の御地位および陛下の御存在は、動かすべからざるものである。
 天皇陛下の形式については、あえて言わぬ。存在そのものが必要なのである。
 それにつきかれこれ言葉をさしはさむ者があるが、
 これらは空気や地面のありがたさを知らねと同様のものである。
 東亜の諸民族は、今回のことを忘れて将来相協力すべきものである。
 東亜民族もまた他の民族と同様の権利をもつべきであって、
 その有色人種たることをむしろ誇りとすべきである。
 インドの判事には、尊敬の念を禁じ得ない。
 これをもって東亜民族の誇りと感じた。
 今回の戦争にて、東亜民族の生存の権利が了解せられはじめたのであったら、
 しあわせである。列国も排他的な考えを廃して、
 共栄の心持ちをもって進むべきである。
 現在の日本を事実上統治する米国人に一言するが、
 どうか日本の米国に対する心持ちを離れしめざるように願いたい。
 また、日本人が赤化しないように頼む。東亜民族の誠意を認識して、
 これと協力して行くようにしなければならぬ。
 実は、東亜の多民族の協力を得ることができなかったことが、
 今回の敗戦の原因であると考えている。
 今後日本は米国の保護の下に生活していくのであるが、
 極東の大勢はどうであろうか。
 終戦後わずかに3年にして、アジア大陸赤化の形勢はかくのごとくである。
 今後のことを考えれば、実に憂なきを得ぬ。
 もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上ないではないか。
 日本は米国よりの食糧その他の援助を感謝している。
 しかし、もしも一般人が自己の生活の困難や、インフレや、
 食糧の不足などを米軍の日本にあるがためなり
 というような感想をもつようになったならば、それは危険である。
 実際にかかる宣伝をなしつつある者もあるのである。
 よって、米軍は日本人の心を失わぬように注意すべきことを希望する。
 米国の指導者は、大きな失敗を犯した。
 日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。
 いまや満州は赤化の根拠地である。
 朝鮮を二分したことは東亜の禍根である。
 米英はこれを救済する責任を負っている。従って、
 その意味においてトルーマン大統領が再任せられたことはよかったと思う。
 日本は米国の指導にもとづき武力を全面的に放棄した。
 それは一応は賢明であるというべきである。
 しかし、世界が全面的に武装を排除していないのに、
 一方的に武装をやめることは、
 泥棒がまだいるのに警察をやめるようなものである。
 私は、戦争を根絶するには、欲心を取り払わねばならぬと思う。
 現に世界各国はいずれも自国の存立や、自衛権の確保を説いている。
 これはお互いに欲心を放棄していない証拠である。
 国家から欲心を除くということは、不可能のことである。
 されば世界より戦争を除くということは不可能である。
 結局、自滅に陥るのであるかもわからぬが、事実はこの通りである。
 それゆえ、第3次世界大戦は避けることができない。
 第3次世界大戦において、おもなる立場に立つものは米国およびソ連である。
 第2次の世界大戦において、日本とドイツが取り去られてしまった。
 それゆえ、米国とソ連が直接に接触することになった。
 米ソ2国の思想上の相違はやむを得ぬ。
 この見地からいうも、第3次世界大戦は避けることはできぬ。
 第3次世界大戦においては、極東がその戦場となる。
 この時にあたって、米国は武力なき日本をいかにするのであろうか。
 米国はこの武力なき日本を守るの策をたてなければ、
 また何をかいわんや。そうでなしとすれば、
 米国に何らかの考えがなければならぬ。
 米国は、日本8千万国民の生きてゆける道を考えてくれねばならない。
 およそ生物としては、生きんことを欲するのは当然である。
 産児制限のごときは神意に反するもので、行うべきではない。
 なお言いたきことは、最近に至るまで戦犯容疑者の逮捕をなしつつある。
 今や戦後3年を経ておるのではないか。
 新たに戦犯を逮捕するというごときは、即時にやめるべきである。
 米国としては、日本国民が正業につくことを願い、
 その気持ちでやって行かなければならぬ。
 戦犯の逮捕は、我々の処刑をもって、一段落として放棄すべきである。
 戦死傷者、抑留者、戦災者の霊は、遺族の申し出があらば、
 これを靖国神社に合祀せられたし。
 出征地にある戦死者の墓には、保護を与えられたし。
 従って遺族の申し出あらば、これを内地に返還せられたし。
 戦犯者の家族には、保護を十分に与えられたし。
 青少年の保護ということは、大事なことである。
 近時いかがわしき風潮は、占領軍の影響からきているものが少なくない。
 この点については、わが国古来の美風をも十分考慮にいれられたし。
 今回の処刑を機として敵、味方、
 中立国の罹災者の一大追悼会を発起せられたし。
 もちろん、日本軍人の間に間違いを犯した者はあろう。
 これらについては衷心、謝罪する。
 これと同時に、無差別爆撃や原子爆弾の投下をなしたことについて、
 米国側も大いに考えなければならぬ。
 従って、さようなことをしたことについては、
 米国側も大いに悔悟すべきである。
 最後に軍事的問題について一言するが、
 我が国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。
 あれでは陸海軍一本の行動はとれない。兵役については、
 徴兵制によるか、傭兵制によるか考えなければならぬ。
 我が国民性を考えて、再建の際に考慮すべし。
 教育は精神教育を大いにとらなければならぬ。
 忠君愛国を基礎としなければならぬが、
 責任感をゆるがせにしてはならぬ。
 この点については、大いに米国に学ぶべきである。
 学校教育は、人としての完成を図る教育である。
 従前の醇朴剛健のみでは足らぬ。宗教の観念を教えなければならぬ。
 欧米の風俗を知らせる必要もある。
 俘虜のことについても研究して、
 国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。

 以上が、死刑執行の前日に朗読した東条閣下の遺言書の摘要である。

 主権回復後の第十六国会に於いて名誉が恢復している。英霊の方々への「戦犯」との汚名を雪ぐのは我ら日本人の使命である。改めて、先人が国家と日本民族の命運を賭けて戦った大東亜戦争の真実と意義を考えねばならない。すめらぎいやさか。

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2023年12月21日

色と慾と酒とを敵と知るべし!(水戸光圀)

 時代劇では「水戸黄門」が好きだった。東野英次郎の黄門様が一番好きだ。悪人を懲らしめ、弱い者を助けるという、勧善懲悪のドラマはワンパターンではあるが観てて愉しい。水戸光圀は日本人なら誰もが頭の中に焼き付いている名前だろう。

 ドラマの「水戸黄門」は、スポンサーの松下電気産業の創立者である松下幸之助が、少年時代に読んだ、立川文庫の講談本「水戸黄門漫遊記」を基に、松下幸之助の発案で始まったドラマだということを知ってる人は少ないだろう。

「TBSナショナル劇場」として、ドラマが始まる前に流される音楽の、「明る~いナショナル 明る~いナショナル みんな~ うちじゅう~ 明る~いナショナル♪」という歌詞を、何気に口ずさめる人は多いのではなかろうか(笑)

 そんな松下電器産業が、訳の分からん「パナソニック」との名称に替わってしまい、更には中国共産党に諂ってることに、松下幸之助はどう感じているだろう。

 水戸光圀(徳川光圀)は領民を愛し、善政を施した名君であり、多くの著書を遺した学者であり、将軍家の近親でありながら、尊皇思想の魁となった人物である。

「大日本史」を編纂し、勤王の志士を鼓舞した人物であり、この日本学を「水戸学」といい、佐久間象山や吉田松陰、西郷隆盛、坂本龍馬、桂小五郎など多くの志士が影響を受け、水戸学を知ることで天朝の尊厳性を崇し鼓舞し奮い立ったのだ。

 江戸時代に培った「国学」や「日本学」に拠る勤王思想や武士道精神と、大和魂という国益中心の「愛国」及び「憂国」の心の成果という教えが、「大政奉還」と「大政復古」の見事な明治維新を成し遂げたといっても過言ではない。

 因みに、「大日本史」は水戸光圀一人で書き上げたものではない。水戸藩の人々がその意思を引き継ぎ、完成を見たのは明治39年。実に260年の歳月を要している。「大日本史」は、神武天皇から第百代の後小松天皇までの歴史が綴られている。

 優れた学者を集め、調査・研究を重ねた。ドラマの「助さん」は、ドラマでは佐々木助三郎になっているが、佐々宗淳(別名、佐々介三郎)といい、「格さん」は渥美格之進。どちらも優れた学者で、光圀の代わりに全国に資料を求め旅をした。

「大日本史」という一つの書物を作るのに260年の歳月、然も一つの精神に拠ってこれを貫いているというのは古今東西に例がない。これ偏に水戸光圀の偉大なリーダーシップ故であり、松下幸之助もこうした人物像に心打たれたのだろう。

 水戸光圀は少年の頃、手の付けられない不良だったという。それが18歳の時、司馬遷の歴史書「史記」を読み、学問と修養に勤める様になり、「史記」に負けない歴史書を作ろうと志を立てたのだ。水戸光圀の訓戒というものがある。

 一 正直は一生の賓、堪忍は一生の相続、慈悲は一生の祈祷。
 一 苦は楽の種、楽しみは苦しみの種と知るべし。
 一 主人と親は無理なるものと思へ、下人は足らぬものと知るべし。
 一 恩を忘るる勿れ。
 一 子程に親を思へ、子なきものは身に比べ、近き手本とすべし。
 一 掟に怖(お)ぢよ、火に怖ぢよ、分別なきものに怖ぢよ。
 一 分別は堪忍なり、小なる事は分別せよ、大なることは驚くべからず。
 一 九分に足らば、十分に零るると知るべし。
 一 朝寝すべからず、話の長者すべからず
 一 色と慾と酒とを敵と知るべし。

 この教えを信条として修養を積んだという。この教えの一つに「欲と色と酒を敵と知るべし」というのがあるのが目に留まる。酒を飲まない人や、欲の無い人が、態態、こういうことは記さない。そういう意味でも黄門様でさえ、若い時分には女と酒に溺れ、失敗したのだろうなぁと思えば、少しは気が楽だ。呵ッ呵ッ呵ッ~!

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2023年12月20日

偉人が「戒語」を遺したが戒語とは己の経験に基く自戒である

「我仏 隣の宝 婿舅 天下の軍 人の善悪」という教えがある。人の集まる所では決して口にしてはならないものを並べたもので、茶道の教えの一つである。千利休の高弟・山上宗二が茶会の席で豊臣秀吉に向かって説いたと言われている。

 山上宗二の「一期に一度の会と思って亭主を畏敬すべし」とは「一期一会」の語源ともなった一文である。茶席で先の戦話を自慢する秀吉に「我仏 隣の宝 婿舅 天下の軍 人の善悪」と繰り返す。これが徒で秀吉の逆鱗に触れ殺されたも言われている。

 戒めというものは失敗も成功も経験者であればある程、その言葉は相手の心に響くものだ。戒めを説く偉人は多いのは経験の豊かさでもある。人との付き合いの中での「戒め」を分かり易く教えた、大愚良寛の「良寛戒語(九十戒)」もその一つ。

「言葉の多き」「話の長き」「負け惜しみ」「返らぬことを幾度も言う」「客の前に人を叱る」「人の恥かくことを言う」「人を嫉むことを言う」「おれがこうした」「手柄話」「人を敬いすぎる」「言うこと言わぬ」「あゝ致しました、こう致しました、ましたましたのあまり重なる」「たやすく約束する」「言い足らぬことは又つぎても言うべし」「言うたことは再び返らず」「ことばの過ぐるは愛想なし」・・・

 どうだろう、各各感ずるものがあるだろう。愚生には耳が痛い言葉ばかり。嫁には「ゲラゲラ笑い、ふくれ面、無駄口など固く止めなさい」と戒める。

 良寛というと「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候」との訓えが有名だろう。

「地震は信まことに大変に候そうろう。野僧(※良寛のこと)草庵何事もなく候。親類中、死人もなくめでたく存じ候。うちつけに死なば死なずて存ながらへて、かかる憂き目を見るがわびしさ、しかし災難にあう時節には、災難にてあうがよく候。死ぬる時節には、死ぬがよく候。是はこれ、災難をのがるる妙法にて候」ー良寛

 文政11年(1828年)、越後の国(新潟県)で大きな地震に襲われる。死者1559人、負傷者2666人、家屋の全壊、焼失を含め20000軒を超える大災害であった。

 災難に遭ってしまうことは誰でもあること。それが何処でいつ起きるかは分からない。起こってしまった災難を取り消すことは出来ないし、災難に慌てふためいたりしてしまうと、過った対処をして災難を大きくしてしまうという戒めである。

 小さなことで慌てたり驚いたりしてばかりいれば、心の中で災難が大きくなってしまい、いざという時には冷静な判断が出来ないということが多い。起こってしまった不幸には「人生にはこういう時もある」と受け容れることも大事なことだ。

 良寛は70歳にして若くて美しい貞心尼と巡り逢い純真な恋をした。その貞心尼に看取られ乍らこの世を去った。愚生から見ても実に幸せの絶頂での死にも思える。そんな良寛和尚の辞世の句は「散る桜 残る桜も 散る桜」。諸行無常やるせない。 

「戒語」というのは経験に基く自戒でもある。例えば、少年の頃には手の付けられない不良だったという水戸光圀公は、18歳の時に司馬遷の「史記」を読み、学問と修養に励む出す。史記に負けない歴史書を作ろうと志を立てたという。

 光圀公の教えの一つに、「欲と色と酒を敵と知るべし」というのがある。酒を飲まない人や、欲の無い人が、こういうことは記さない。あの天下の副将軍でもある黄門様でさえ、若い時分には女と酒に溺れ、失敗を経験したのだろう。

 宮本武蔵の「独行道」に「如何なる別れも悲しまじ」という教えがある。この教えを掘り下げれば、冷血ならばこんなことは書かない。武蔵というのは人一倍涙脆く、人情深い故に感情を表に現さない厳しい修行を積んだのだろうと覚る。

 まぁ、己を戒めるのも好いことだが、余り気にし過ぎると人間、こじんまりしてしまいますし、自動車のハンドルでも遊びが無いと直ぐに事故りますよ。呵呵

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2023年12月19日

日本こそ万国に卓越した中華・中国と呼ぶにふさわしい国である(中朝事実)

 日本人の多くは、戦後教育もあって日中関係は「同文同種」とか「一衣帯水」という認識を持ち、「四書五経」のイメージで支那への憧れを膨らませている。

 中国共産党に忠誠を誓うかの如く「中国」と呼称する。だが、日中関係が樹立されたのは20世紀に入ってからであり、未だその関係は100年程しか経っていない。

 先の大戦で戦ったのは中華民国である。だが、中華民国が中国共産党との国共戦争で敗れると、摩訶不思議なことに中共が戦勝国として国連常任理事国に就いた。

 中共は、我が国を属国と見做しており、日本にだけ「北京が世界の中心」との意味の「中国」との呼称を強いる。中共からの理不尽な言い掛かりは昭和21年6月に遡る。形式上、連合国の一員であった中共は、その力関係を盾に「中国」を強要した。

 外務省は外務省次官・局長通達として、「理屈抜きにして先方の嫌がる文字を使わぬこと」と言論機関などにこれを強制し、疑いもなく「中国」を使い続けている。

 右翼陣営や保守を自任している人でも「支那」や「中華人民共和国(中共)」を一括りにして「中国」と呼んでる人がいるが、我が国での中国といえば「中国地方」のことである。況してや「中華人民共和国」を「中国」と呼ぶのは間違いだ。

「中国」という言葉の一番古い意味は「首都」という意味で、中共政府の言う「国民国家」を意味するものではない。現代中国は「中共」と呼ぶのが相応しい。

「支那(シナ)」という呼称は差別だという人もいるが、ならば、世界地図で表記されている「東シナ海」「南シナ海」「インドシナ半島」などは差別表記になるのか。支那がダメならば、大好きな「支那そば」なんて食べられないな(笑)

「支那」という言葉は、最初の統一王朝の「秦」に由来しているという。世界中の多くの国々では支那を「シン」や「China」を母国語の近似音で呼んでいる。

 英語圏は「チャイナ」、フランス「シーヌ」、ドイツ「ヒーナ」、イタリア「チーナ」、ペルシャ「チーン」、アラビア「スィーン」、インド「シナスタレ」など。

 因みに、ロシアは中共のことをチャイナとかではなく「キタイ」と呼ぶ。キタイとは 支那大陸の北部を支配しただけの契丹のことだ。大統一帝国の秦どころか、契丹と呼称とするロシアに、中共から「差別だ」との抗議の声が上がったことがない。

「支那」がダメなら、そうか「チャイナ」と呼べば好いのか。カタカナ表記の「シナ」や「チャイナ」も差別というのだろうか。清朝の公的文書にも「支那」は出てくる。「支那」を漢字にしたのは新井白石で「チーナ」を翻訳したものである。

「支那」とは、易姓革命で政権や王朝が代わっても、その基底にある自然・民族・文化を意味する名称として使われてきた国名であり、浪漫溢れる美しい国名である。

 共産党一党独裁で浪漫も何も感じない、建国70年そこそこの近代国家である中華人民共和国如きを「支那」と呼ぶのは、差別どころか分不相応というものだろう。

 尊皇愛国の書として有名な山鹿素行(やまがそこう)の「中朝事実」では、世の学者の外国(主として漢土)崇拝を批判し、皇統の一貫を根拠に「日本こそ万国に卓越した中華・中国と呼ぶに相応しい国である」と日本主義を主張している。

 我が国の「神国思想」では、「天皇を戴く我が国こそが世界の中心である」という教えに導き、人々も「日本こそが特別な神の国である」と信じる様になった。

 中朝事実では外国(主として漢土)崇拝を批判し、皇統の一貫を根拠に「日本こそ万国に卓越した中華・中国と呼ぶに相応しい国である」と日本主義を主張している。

 鎌倉時代末期、当時、地中海から日本海に至るまで支配力を強めていたモンゴル帝国が日本に襲来した際も、二度の台風に拠ってモンゴル軍を敗走に導いたのは、台風を「神の吹かせた風(神風)」と解釈したことで一層流布することとなった。

 神国思想では、国土を「神州」、国民を「神裔=神の子孫」、国権を「神授(神から委託された権利)」という。国民は神の子として「子が親に孝養を尽くす様に、国民が国に尽くすのは最も現実なる道徳である」との教えに辿り着く。

「教育勅語」も正にこの教えであるが、この神国思想を否定する左翼勢力や反皇室活動家らは「忠孝」を曲解し、根本的な「孝養」の教えも拒絶する。何故に拒絶するのかといえば、先の大戦と神国思想を結び付けてるからに他ならない。

 山鹿素行は、陸奥国会津若松城下生まれ。「山鹿流軍学の祖」として知られており、赤穂浪士の精神的支柱でもあった。江戸時代に於ける武士道の理論を確立した人物であり、素行の談話を筆記した「山鹿語類」は日本人必読の名著である。

 余談だが、日本を「ジャパン」と呼ぶが、本来は「ニッポン」が正しく、国際会議やオリンピックなどで「JAPAN」との表示を「NIPPON」と改めるべきだと思う。

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2023年12月18日

武道や芸事の世界では「守・破・離(しゅ・は・り)」の意味を重視する

「十五ヨリ三十マデ万事ヲ師ニマカスル也。三十ヨリ四十マデハ我ガ分別ヲ出ス。四十ヨリ五十マデ十年間ハ師ト西ヲ東ト違ッテスル也。其ノ内、我流ヲ出シテ上手ノ名ヲトル也。又、五十ヨリ六十マデ十年ノ間ハ師ノ如クスル也。名人ノ所作ヲ万手本ニスル也。七十ニシテ宗易ノ今ノ茶湯ノ風体、名人ノ他ハ無用也」

 上の教えは、茶人・山内宗二が記した「茶湯年来稽古」のものである。その意味は、15歳から30歳迄は師の教えを忠実に守ること。30歳からは自分なりに思索してみること。40歳からは師の教えとは逆にやってみる必要があるという。50歳からは師の如く振る舞うことで己も名人の域になれるということ修行の極意である。

 この教えの基となっているのが、宗二の師である千利休の「守・破・離」の心の大切さである。武道や芸事の世界ではこの「守・破・離」の意味を重視する。

「守(しゅ)」とは「修める」ことであり、師の教えや古からの教えを学び、修行に拠って技芸を身に付けること。修行を始める上での基礎となるものである。

「破(は)」は、そうした今迄の既存の概念や枠組み、秩序というものを破壊してみること。要するに固定観念を棄てることが、その上を目指す意味で重要となる。

「離(り)」とは、師匠や既存の教えから離れて自分で思索して自身の型を創造してみること。この新しい発想と失敗や思索と経験が未来へ繋がって行く。

 伝統を重んじる武道や芸事とあろうと、単に伝統を守り伝えようとするだけでは、結局のところ行き詰まり、伝統を守れなくなってしまうということでもある。

 今に伝えられてることは、古より先人が失敗に失敗を積み重ねた中で、思索して厳選して遺した教えである。こうした先人の当時の悩みや困難を少しも考えずに学ぶということは、大きな失敗もせずに近道で辿り着こうとしているということだ。

 師の教えだけ学んだところで、師や先人が辿り着いた処からは先へ進むことは出来ない。修行とはそんな楽なことではない。そこで「破」と「離」が必要となる。

「温故知新」という言葉があるが、古きを訪ねて新しきを知るには、そこから突き抜ける強烈な努力が必要となるのだ。修行不足では古き教えに気が付かない。

 伝統を受け継ぐには、先ず伝統に学び、根本的な精神を後世に存続させて行くには、新しい息吹を注入する必要がある。そうすることで伝統が再生し、更なる伝統となって受け継がれて行くのである。伊勢の遷宮である「床若(とこわか)」がそう。

 唯唯、闇雲に新しいことをやれば好いというものでもない。古に学び、習得し、それを確り護るというのが何より大事なことである。武道や芸事に限らず、何事に対しても確りとした土台がなければ、伝統を後世に存続させて行くことは出来ない。

 現在の我が国の政治に欠けているものも古(先人)の教えであり、保守派を気取る議員の多くが、未来志向の新自由主義者ばかり。国家というのは未来が全てではない。過去を振り返り、そこから学び、古人の教えを未来に活かすことが必要となる。

 正統の保守主義者に於いて時間を体験する仕方は、過去の意味を直視し、その中に価値を見出す発見に拠って未来を創造して行くものである。我が国の保守政治家は先人や過去を軽んじ過ぎだ。政治こそ守破離の教えを実践するべきである。

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