2024年11月20日
末期癌の宣告とその後の100日。そして死。
8月5日未明、トイレの最中に意識混濁状態となった。経験の無い不調に、翌日総合病院を受信した。結果は「末期癌」。胃癌が巨大化して既にステージ4。患部からの出血が酷く治療は困難ということで、「余命は数日かも」と伝えられた。応急処置として輸血の処置をして貰い2日間で退院し、勧められた在宅医療と契約した。
体調が優れないことは前々から薄々感じていた。筋トレやウオーキング効果が出てたと思ってた体重減少も癌の影響だったということだ。春先からウオーキングや階段の上り下りなどで息切れや動悸が激しかったのでもうその時は病魔は進行してたのだろう。そんなこともあって、末期癌を宣告された際は驚きはなかった。
一日一生を気取り、生命保険には入らず、家庭を顧みずに活動して来た愚生に過分な治療費など捻出出来るものでもないし、病院のベットで死を迎えるというのも死生観にそぐわない。隣で説明を聴いていたかみさんの涙が切なかった。
退院し、余命が少ないということで支援者への挨拶や友人・知人への連絡、兄姉への形見分けなど慌ただしく済ませた。かみさんには前々から「死んでから」のことは手紙に書いたり説明して来たが、葬儀告別式はやらないし、火葬も誰も呼ばないことなどを再確認。死ぬことは意外と面倒臭い。大変なのは本人よりかみさんだな。
退院後数日は入院前以上に眩暈や動悸が激しく横になってることが多くなった。それでも、輸血が効いたのか、支援者の強力な護摩焚きの御蔭か、徐々に動けるようになり、階段の上り下りや、外出や外食なども出来る様にもなった。
だがそれも束の間、徐々に体力は堕ち、体重が大幅に減って行った。癌の好物は筋肉や脂肪、幾ら体力増強を図っても老い付く手立ては無いし、食欲もガタンと落ちた。面会も友人との細やかな宴席が最後だったな。愚生は水杯で付き合った。
その数日後、いつもの様にうとうとしてると腹部に違和感。間もなく劇痛に襲われた。激痛でもある尿管結石の経験は4回ほどあり我慢は出来るが、その数倍の痛さに看護を要請して措置して貰った。モルヒネ投与の始まりとなった。
3ヶ月前は歳の割には筋骨隆々のおっさんがいたが、今や飢えで亡くなられた帝国軍人や徴用工の銅像そのものの骨と皮だけになってしまった愚生がいる。癌というのは斯くも壮絶なものなのか。10月も半ば過ぎになると食べものさえ受け付けなくなった。痛みも酷くなり、今はモルヒネの張り薬や痛み止めでどうにか抑えている。
年寄りというのは転ぶと顔面をよく強打する。愚生の知り合いもそうだったが、まさか自分は大丈夫だろうと思っていたら、過日、夜中にトイレに起きた際のよろけでて転んだ。咄嗟に手を付いたのだが筋力が落ちてるので身体の重みを支えきれず顔面を強打した。以来、トイレに行くのも儘ならず。何の為に生きてるのだろう。
「尊厳死」を優先して欲しいが、医は仁術ではなく算術なので儲かる終末医療を容易に手放すことはないだろうが、患者の痛みを思えば長生きさせることは虐待であり、人権の侵害だと思う。早く彼の世に連れてって欲しいものだ。11月に入ると立ち上がることも容易じゃ無くなり、水を飲んでも戻す様になってしまった。
看護婦が前々から「吐き気はありませんか?」としつこく聞いて来たのはこういうことだったのか。今は水は飲めないので氷をチョッとずつ舐めて渇きを防いでいる。栄養分もロクに採れないのでそんなに長くは生きないが、然し好く水だけで生きてるよなぁ。自分でも断食の修行僧より凄いのではと思ったりしている(笑)
「酔い覚めの水、千両と値が決まり」とか「酔い覚めの水、下戸知らず」というが、冷えたグラスで飲むあの冷たい水くらい美味しいものはない。サウナで汗かいて、心臓が止まりそうなくらいの水風呂に入って、湯上りに生ビール。考えただけでも堪らない。願いが叶うなら、死ぬ前に冷たい水を溺れるほど飲みたいものだ。
余命宣告を受けた8月に逝ってりゃこんな辛い目に合わずに済んだのかな。声も枯れてしまい思う様に出ないからかみさんを呼ぶのは熊除けの鈴。毎回、眠りに就く際には目が覚めないことを祈る。だが、目が覚めてがっガリの繰り返し。
癌は脳梗塞よりマシだと思っていたが辛いのは同じだな。やはり健康が一番。癌検診とまでは言わないが、せめて市から届く無料の健康診断は受けた方が好い。
「病気とは何を食べどんな生活をして来たか」に尽きるという。若い頃からの暴飲暴食や食べ歩きが悪かったかも知れないが、やはり、その人の持つ運命、寿命だろう。
当たり前に水が美味しく飲める普段の生活が有り難いこと。美味いと感じるのは健康だから。適度な運動と睡眠が大事。ストレスは溜めない。今更乍らの教訓として欲しい。モルヒネの薬が効いて脳が覚束無い中で最後のブログをアップしてみた。
右翼活動家として気の利いた辞世でも遺したいが謡心の無い乞食右翼だから儘ならない。最後に皆々様の益々の御健勝を祈念して擱筆します。合掌 佐久間五郎拝
体調が優れないことは前々から薄々感じていた。筋トレやウオーキング効果が出てたと思ってた体重減少も癌の影響だったということだ。春先からウオーキングや階段の上り下りなどで息切れや動悸が激しかったのでもうその時は病魔は進行してたのだろう。そんなこともあって、末期癌を宣告された際は驚きはなかった。
一日一生を気取り、生命保険には入らず、家庭を顧みずに活動して来た愚生に過分な治療費など捻出出来るものでもないし、病院のベットで死を迎えるというのも死生観にそぐわない。隣で説明を聴いていたかみさんの涙が切なかった。
退院し、余命が少ないということで支援者への挨拶や友人・知人への連絡、兄姉への形見分けなど慌ただしく済ませた。かみさんには前々から「死んでから」のことは手紙に書いたり説明して来たが、葬儀告別式はやらないし、火葬も誰も呼ばないことなどを再確認。死ぬことは意外と面倒臭い。大変なのは本人よりかみさんだな。
退院後数日は入院前以上に眩暈や動悸が激しく横になってることが多くなった。それでも、輸血が効いたのか、支援者の強力な護摩焚きの御蔭か、徐々に動けるようになり、階段の上り下りや、外出や外食なども出来る様にもなった。
だがそれも束の間、徐々に体力は堕ち、体重が大幅に減って行った。癌の好物は筋肉や脂肪、幾ら体力増強を図っても老い付く手立ては無いし、食欲もガタンと落ちた。面会も友人との細やかな宴席が最後だったな。愚生は水杯で付き合った。
その数日後、いつもの様にうとうとしてると腹部に違和感。間もなく劇痛に襲われた。激痛でもある尿管結石の経験は4回ほどあり我慢は出来るが、その数倍の痛さに看護を要請して措置して貰った。モルヒネ投与の始まりとなった。
3ヶ月前は歳の割には筋骨隆々のおっさんがいたが、今や飢えで亡くなられた帝国軍人や徴用工の銅像そのものの骨と皮だけになってしまった愚生がいる。癌というのは斯くも壮絶なものなのか。10月も半ば過ぎになると食べものさえ受け付けなくなった。痛みも酷くなり、今はモルヒネの張り薬や痛み止めでどうにか抑えている。
年寄りというのは転ぶと顔面をよく強打する。愚生の知り合いもそうだったが、まさか自分は大丈夫だろうと思っていたら、過日、夜中にトイレに起きた際のよろけでて転んだ。咄嗟に手を付いたのだが筋力が落ちてるので身体の重みを支えきれず顔面を強打した。以来、トイレに行くのも儘ならず。何の為に生きてるのだろう。
「尊厳死」を優先して欲しいが、医は仁術ではなく算術なので儲かる終末医療を容易に手放すことはないだろうが、患者の痛みを思えば長生きさせることは虐待であり、人権の侵害だと思う。早く彼の世に連れてって欲しいものだ。11月に入ると立ち上がることも容易じゃ無くなり、水を飲んでも戻す様になってしまった。
看護婦が前々から「吐き気はありませんか?」としつこく聞いて来たのはこういうことだったのか。今は水は飲めないので氷をチョッとずつ舐めて渇きを防いでいる。栄養分もロクに採れないのでそんなに長くは生きないが、然し好く水だけで生きてるよなぁ。自分でも断食の修行僧より凄いのではと思ったりしている(笑)
「酔い覚めの水、千両と値が決まり」とか「酔い覚めの水、下戸知らず」というが、冷えたグラスで飲むあの冷たい水くらい美味しいものはない。サウナで汗かいて、心臓が止まりそうなくらいの水風呂に入って、湯上りに生ビール。考えただけでも堪らない。願いが叶うなら、死ぬ前に冷たい水を溺れるほど飲みたいものだ。
余命宣告を受けた8月に逝ってりゃこんな辛い目に合わずに済んだのかな。声も枯れてしまい思う様に出ないからかみさんを呼ぶのは熊除けの鈴。毎回、眠りに就く際には目が覚めないことを祈る。だが、目が覚めてがっガリの繰り返し。
癌は脳梗塞よりマシだと思っていたが辛いのは同じだな。やはり健康が一番。癌検診とまでは言わないが、せめて市から届く無料の健康診断は受けた方が好い。
「病気とは何を食べどんな生活をして来たか」に尽きるという。若い頃からの暴飲暴食や食べ歩きが悪かったかも知れないが、やはり、その人の持つ運命、寿命だろう。
当たり前に水が美味しく飲める普段の生活が有り難いこと。美味いと感じるのは健康だから。適度な運動と睡眠が大事。ストレスは溜めない。今更乍らの教訓として欲しい。モルヒネの薬が効いて脳が覚束無い中で最後のブログをアップしてみた。
右翼活動家として気の利いた辞世でも遺したいが謡心の無い乞食右翼だから儘ならない。最後に皆々様の益々の御健勝を祈念して擱筆します。合掌 佐久間五郎拝
cordial8317 at 21:40|Permalink│Comments(0)
2024年08月18日
「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」
昭和20年、ポツダム宣言を受諾した8月14日以降もソ連の北方領土でへの侵略は収まる事はなく、同月18日には千島列島最北端の占守島にソ連軍が奇襲上陸する。
我が国の無条件降伏に拠り武装解除準備を始めていた守備隊は、この奇襲を受けると武装を整え直し、ソ連に対して自衛戦闘を開始した。占守島の守備隊は、終戦時点でも日本陸軍最強部隊と称された第91師団(2個旅団基幹)などを擁していた。
短い戦闘であったが日本軍の死傷者約600名、ソ連軍の死傷者約3000名に及んだ。日本軍の圧倒的勝利の中で、3日後の21日に武装解除に応じ戦闘が終結した。
日本軍が武装解除を終えたのは3日後の24日。 この「占守島の戦い」に拠って、ソ連軍の千島列島の占領が遅れ北海道への上陸が困難となったのは事実である。
占守島での戦いの間に米軍の北海道進駐が完了。米軍進駐に拠って、ドイツや朝鮮半島の様な北海道の分割統治は避けられたのだ。そういう意味でも、ソ連軍の北海道進駐を阻んだ「占守島の戦い」とは大きな意義があった戦いだったのである。
この戦いの後、占守島で自衛戦闘を戦った日本軍の兵士のみならず、中千島や南千島に駐留していた兵士全てがシベリアに強制連行された。理不尽な終戦後の戦争を勇敢に戦った兵士達は、こうした仕打ちさえも無条件降伏の条件だと信じたのだ。
ソ連軍は千島列島だけではなく、日本人が居住していた樺太でも蛮行を繰り返した。外務省の外交文書「ポ宣言受諾関係・善後措置及び各地状況関係」には、昭和20年8月9日以降のソ連軍の蛮行が生々しく書かれている。一部摘記する。
東部北鮮在留日本人の状況として「ソ連兵ハ30年来ノ怨ミヲ晴ラスハ此時ナリトシ邦人ノ所持品ハ一物ヲモ残サズ略奪シ婦女子ニ対シテハ時所ヲ弁エズ暴行ヲ加フルノ暴挙ノ出テ・・・」と記載されているが、怒りが込み上げる。
鉄原(京城東北八十キロ)の状況として、「ソ連進駐ト共ニ市街ノ様相ハ一変シ、ソ連兵市内ヲ横行シ略奪ヲ擅(ほしいまま)ニシ9月1日男24名ヲ本願寺ニ、女32名ヲ広島屋ニ監禁シ女ハ一室ニ一名宛閉ジ若キ娘ハ毎日14、5名、年配ノ婦人ハ毎日10名交代ニ暴行ヲ加ヘ其ノ結果6名ハ死亡シ、然ラザル者モ負傷ノ為歩行ノ自由ヲ失ウニ至ル・・・」と、拉致した女性らは慰安婦にさせられている。
捉えられた婦女子は「監禁され、ソ連兵に凌辱される」という恐怖から、自裁する道を選択せざるを得なかった女性も少なくなかった。樺太真岡郵便局の女子郵便局員も、ソ連軍が進行する中、職務を全うした後に自裁する道を選んだ。
伊藤千枝(23歳)、可香谷シゲ(23歳)、沢田キミ(19歳)、志賀晴代(22歳)、高石みき(24歳)、高城淑子(19歳)、松橋みどり(17歳)、吉田八重子(21歳)、渡辺照(17歳)の9名は、青酸カリを服用し壮絶な最後を遂げた。
彼女達の悲劇を伝えた映画「氷雪の門」という映画がある。その昔、この映画の権利は国際勝共連合が持っていて赤坂の本部事務所で観たのが最初だった。
(氷雪の門のあらすじ)昭和20年夏、樺太の西海岸に位置する真岡町でも日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦したソ連軍の侵攻に脅かされようとしていた。ソ連軍侵攻からの避難民は群をなして真岡町に向った。8月15日には玉音放送によって終戦が告げられ、樺太全土に婦女子の強制疎開命令が出されるも、20日のソ連軍の上陸で間に合わなかった。志願して職場に留まり、追い詰められた女性交換手達は、通信で寄せられるあちこちで次々と殺害される市民の状況から、自らも青酸カリによる自決を選ぶしかなかった。9人の乙女の像に刻まれている「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」が通信最後の言葉だった。(あらすじ終わり)
今ではこの映画もレンタルビデオでも気軽に見れる様になったが、この映画の上映が決定された昭和49年、ソ連の御先棒を担ぐ日本社会党(社民党)や日本共産党らは猛反対。上映阻止の運動を展開し、終には上映されることはなかった。
日頃、彼らは「平和」を口にして原爆投下の米国を糾弾するが、広島・長崎の原爆投下での犠牲者を遥かに超える死者を出したソ連の蛮行には口を噤む不思議。
原子爆弾で無辜の民を殺戮した米国に拠る原爆投下への批判はあって当然のことだが、連中の目的は執拗にこの古傷を暴いて日米離間を謀ると共に、党勢拡大と革命謀略の為に国民の安直な平和主義と幼稚な正義感を利用しているに過ぎない。
平和団体であるなら長崎への原爆投下が実行された同じ9日未明に断行された旧ソ連の対日参戦も糾弾すべきだが、未だ嘗て彼らから日ソ中立条約の蹂躙や北方領土での鬼畜の如き蛮行が語られることはない。何が「平和」か、何が平和団体か。
ソ連の終戦間際の鬼畜の如き蛮行は、米国の原爆投下と無差別爆撃と同じく「平和に対する罪」であり「人道に対する罪」である。平和団体が、こうしたソ連の蛮行とシベリア抑留という人権侵害など多くの不条理に何故に声を上げないのか。
国際法を無視し不当にシベリヤに抑留され、極寒の地で亡くなられた方も数え切れない。シベリアへ抑留された日本人は日本国内では一般に約60万人と言われているが、この数字は軍属だけの数字で、民間人を含めると更に多いという。
ロシアの資料でも約70万人、米国の資料では約90万人と言われているが、その中で亡くなられた方はどれ程に上るのか、正式な被害者数を調査すべきだろう。
日頃「平和」を口にする共産党や社民党とは所詮はこの程度のクソ政党であり、単なる党勢拡大と中国共産党の前衛として忠誠を尽くす反米運動でしかない。
政治家は軽々しく「平和を守る」というスローガンを掲げて有権者に訴える。だが、「平和」を口にはするが、どうやって我が国の防衛を強化して平和を創造するかという具体策は言わない。正に我が国の政治家こそが無防備の害となっている。
三島由紀夫は、「戦争を誘発する大きな原因の一つは、アンディフェンデッド・ウェルス(無防備の害)だ」と訓えたことがあった。軽々しく「平和」を訴えている政治家こそが政治や外交を危ぶみ、戦争を誘発する最大要因と自覚するべし。
御粗末なクソ憲法を守り、米軍に反対し、自衛隊が無くなれば当たり前に平和が存在するのだと疑って止まないが、平和を守るには自衛隊の存在なくして語れない。
我が国では愛国心が批判され、「自国の防衛を否定する現憲法には問題がある」と言った途端に反発を食らうが、正に思考停止であり無防備の害そのもの。
「平和」の反対が「戦争」ではない。戦争の反対は「話し合い」であり、正しく戦争は政治や外交の延長線上にあるものであって、国際法上も認められた正当な行為である。「平和」の反対は、戦争に因って引き起こされる「混乱」である。
「平和は当たり前」にあるものだと思っている。この「当たり前」の反対は「有り難い」であり、平和は当たり前ではなく稀に存在する「有り難い」ことなのだ。
「平和」という偶然に「有り難い」ことと感謝することは当たり前のことだが、珍左翼に足りないのは、米軍を「当たり前」の存在として敵視していることだ。
「平和」を口にしてる連中は「平和で有ることが難い」ことであるいう自覚が無く、平和は「当たり前」に存在することだと勘違いしている故に米軍や自衛隊に感謝することもない。「平和」というのは自らの懸命な努力で創り出さねばならない。
末尾に当り、北の島々に眠る日本人同胞の御霊に対し衷心より哀悼の意を表します。また長きに亘り、拙ブログを御愛顧頂きまして有難うございました。
※ここの所、体調が優れず病院で検査したところステージ4の癌と分かりました。治る見込みもないので治療はせずに退院し、余生を穏やかに過ごそうと思っています。活動家としては忸怩たる思いはありますが、後悔はありません。では、さらば!
我が国の無条件降伏に拠り武装解除準備を始めていた守備隊は、この奇襲を受けると武装を整え直し、ソ連に対して自衛戦闘を開始した。占守島の守備隊は、終戦時点でも日本陸軍最強部隊と称された第91師団(2個旅団基幹)などを擁していた。
短い戦闘であったが日本軍の死傷者約600名、ソ連軍の死傷者約3000名に及んだ。日本軍の圧倒的勝利の中で、3日後の21日に武装解除に応じ戦闘が終結した。
日本軍が武装解除を終えたのは3日後の24日。 この「占守島の戦い」に拠って、ソ連軍の千島列島の占領が遅れ北海道への上陸が困難となったのは事実である。
占守島での戦いの間に米軍の北海道進駐が完了。米軍進駐に拠って、ドイツや朝鮮半島の様な北海道の分割統治は避けられたのだ。そういう意味でも、ソ連軍の北海道進駐を阻んだ「占守島の戦い」とは大きな意義があった戦いだったのである。
この戦いの後、占守島で自衛戦闘を戦った日本軍の兵士のみならず、中千島や南千島に駐留していた兵士全てがシベリアに強制連行された。理不尽な終戦後の戦争を勇敢に戦った兵士達は、こうした仕打ちさえも無条件降伏の条件だと信じたのだ。
ソ連軍は千島列島だけではなく、日本人が居住していた樺太でも蛮行を繰り返した。外務省の外交文書「ポ宣言受諾関係・善後措置及び各地状況関係」には、昭和20年8月9日以降のソ連軍の蛮行が生々しく書かれている。一部摘記する。
東部北鮮在留日本人の状況として「ソ連兵ハ30年来ノ怨ミヲ晴ラスハ此時ナリトシ邦人ノ所持品ハ一物ヲモ残サズ略奪シ婦女子ニ対シテハ時所ヲ弁エズ暴行ヲ加フルノ暴挙ノ出テ・・・」と記載されているが、怒りが込み上げる。
鉄原(京城東北八十キロ)の状況として、「ソ連進駐ト共ニ市街ノ様相ハ一変シ、ソ連兵市内ヲ横行シ略奪ヲ擅(ほしいまま)ニシ9月1日男24名ヲ本願寺ニ、女32名ヲ広島屋ニ監禁シ女ハ一室ニ一名宛閉ジ若キ娘ハ毎日14、5名、年配ノ婦人ハ毎日10名交代ニ暴行ヲ加ヘ其ノ結果6名ハ死亡シ、然ラザル者モ負傷ノ為歩行ノ自由ヲ失ウニ至ル・・・」と、拉致した女性らは慰安婦にさせられている。
捉えられた婦女子は「監禁され、ソ連兵に凌辱される」という恐怖から、自裁する道を選択せざるを得なかった女性も少なくなかった。樺太真岡郵便局の女子郵便局員も、ソ連軍が進行する中、職務を全うした後に自裁する道を選んだ。
伊藤千枝(23歳)、可香谷シゲ(23歳)、沢田キミ(19歳)、志賀晴代(22歳)、高石みき(24歳)、高城淑子(19歳)、松橋みどり(17歳)、吉田八重子(21歳)、渡辺照(17歳)の9名は、青酸カリを服用し壮絶な最後を遂げた。
彼女達の悲劇を伝えた映画「氷雪の門」という映画がある。その昔、この映画の権利は国際勝共連合が持っていて赤坂の本部事務所で観たのが最初だった。
(氷雪の門のあらすじ)昭和20年夏、樺太の西海岸に位置する真岡町でも日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦したソ連軍の侵攻に脅かされようとしていた。ソ連軍侵攻からの避難民は群をなして真岡町に向った。8月15日には玉音放送によって終戦が告げられ、樺太全土に婦女子の強制疎開命令が出されるも、20日のソ連軍の上陸で間に合わなかった。志願して職場に留まり、追い詰められた女性交換手達は、通信で寄せられるあちこちで次々と殺害される市民の状況から、自らも青酸カリによる自決を選ぶしかなかった。9人の乙女の像に刻まれている「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」が通信最後の言葉だった。(あらすじ終わり)
今ではこの映画もレンタルビデオでも気軽に見れる様になったが、この映画の上映が決定された昭和49年、ソ連の御先棒を担ぐ日本社会党(社民党)や日本共産党らは猛反対。上映阻止の運動を展開し、終には上映されることはなかった。
日頃、彼らは「平和」を口にして原爆投下の米国を糾弾するが、広島・長崎の原爆投下での犠牲者を遥かに超える死者を出したソ連の蛮行には口を噤む不思議。
原子爆弾で無辜の民を殺戮した米国に拠る原爆投下への批判はあって当然のことだが、連中の目的は執拗にこの古傷を暴いて日米離間を謀ると共に、党勢拡大と革命謀略の為に国民の安直な平和主義と幼稚な正義感を利用しているに過ぎない。
平和団体であるなら長崎への原爆投下が実行された同じ9日未明に断行された旧ソ連の対日参戦も糾弾すべきだが、未だ嘗て彼らから日ソ中立条約の蹂躙や北方領土での鬼畜の如き蛮行が語られることはない。何が「平和」か、何が平和団体か。
ソ連の終戦間際の鬼畜の如き蛮行は、米国の原爆投下と無差別爆撃と同じく「平和に対する罪」であり「人道に対する罪」である。平和団体が、こうしたソ連の蛮行とシベリア抑留という人権侵害など多くの不条理に何故に声を上げないのか。
国際法を無視し不当にシベリヤに抑留され、極寒の地で亡くなられた方も数え切れない。シベリアへ抑留された日本人は日本国内では一般に約60万人と言われているが、この数字は軍属だけの数字で、民間人を含めると更に多いという。
ロシアの資料でも約70万人、米国の資料では約90万人と言われているが、その中で亡くなられた方はどれ程に上るのか、正式な被害者数を調査すべきだろう。
日頃「平和」を口にする共産党や社民党とは所詮はこの程度のクソ政党であり、単なる党勢拡大と中国共産党の前衛として忠誠を尽くす反米運動でしかない。
政治家は軽々しく「平和を守る」というスローガンを掲げて有権者に訴える。だが、「平和」を口にはするが、どうやって我が国の防衛を強化して平和を創造するかという具体策は言わない。正に我が国の政治家こそが無防備の害となっている。
三島由紀夫は、「戦争を誘発する大きな原因の一つは、アンディフェンデッド・ウェルス(無防備の害)だ」と訓えたことがあった。軽々しく「平和」を訴えている政治家こそが政治や外交を危ぶみ、戦争を誘発する最大要因と自覚するべし。
御粗末なクソ憲法を守り、米軍に反対し、自衛隊が無くなれば当たり前に平和が存在するのだと疑って止まないが、平和を守るには自衛隊の存在なくして語れない。
我が国では愛国心が批判され、「自国の防衛を否定する現憲法には問題がある」と言った途端に反発を食らうが、正に思考停止であり無防備の害そのもの。
「平和」の反対が「戦争」ではない。戦争の反対は「話し合い」であり、正しく戦争は政治や外交の延長線上にあるものであって、国際法上も認められた正当な行為である。「平和」の反対は、戦争に因って引き起こされる「混乱」である。
「平和は当たり前」にあるものだと思っている。この「当たり前」の反対は「有り難い」であり、平和は当たり前ではなく稀に存在する「有り難い」ことなのだ。
「平和」という偶然に「有り難い」ことと感謝することは当たり前のことだが、珍左翼に足りないのは、米軍を「当たり前」の存在として敵視していることだ。
「平和」を口にしてる連中は「平和で有ることが難い」ことであるいう自覚が無く、平和は「当たり前」に存在することだと勘違いしている故に米軍や自衛隊に感謝することもない。「平和」というのは自らの懸命な努力で創り出さねばならない。
末尾に当り、北の島々に眠る日本人同胞の御霊に対し衷心より哀悼の意を表します。また長きに亘り、拙ブログを御愛顧頂きまして有難うございました。
※ここの所、体調が優れず病院で検査したところステージ4の癌と分かりました。治る見込みもないので治療はせずに退院し、余生を穏やかに過ごそうと思っています。活動家としては忸怩たる思いはありますが、後悔はありません。では、さらば!
cordial8317 at 05:38|Permalink│Comments(0)
2024年08月16日
般若心経の「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」の響きが好きだ(笑)
般若心経の「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」(ぎゃーていぎゃーてい、はらそーぎゃーてい、ぼーじーそわか)の響きがラップっぽくて好きだ(笑)
「さぁ皆一緒に、真の幸せの世界に行こうではないか!」「悟りの彼岸に到達して一切を成就しよう」という、この呼びかけに応えるにはどう生きるべきか。
般若心経は、お釈迦様(釈迦牟尼)が弟子の舎利弗(子)に語った「悟りを成就する道」であり、その語った言葉を三蔵法師が訳したものだと言われている。
「三蔵法師」というと、愚生的にはその昔の「西遊記」の夏目雅子を思い浮かべてしまう。三蔵法師というのは、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶のことで、夏目雅子が演じた「玄奘三蔵」という人物も三蔵法師の一人に過ぎない。
般若心経は難しそうだが、文字数は題字を含め276文字。教育勅語の315字より少ない。「空」が7回、「無」が21回、「不」が9回。文字数的には「無」が多いが、般若心経の教えは「空」であり、その「空」を知り、「空」に生きることにある。
人間というのは、誰しも健康であれば明日があると思って生きている。自分だけは「直ぐには死ぬことはない」と思って生きている人が殆どだろう。「死」というものは、貧乏だろうが金持ちだろうが、誰にでも平等に与えられた道でもある。
人間というのは死に向かっているのに必死に生きる。「死と生」というこの二つは矛盾してる。生き続けるというのは、死に近付いているということでもある。
日本人の多くは仏教徒だろうが、その宗派も分からない人が多い。死んだ時だけ坊主のお経を有り難がり、死後に戒名を頂く意味すらも分かっていない(苦笑)
死んで戒名を頂くのは釈迦の弟子になるということだが、その意味を知らない仏教徒ばかり。戒名を貰ったら極楽浄土に往ける訳ではないのにな。死後も御釈迦様の弟子として修行の道を選ぶのということを理解もせずに戒名とは嗤うしかない。
仏教徒ならばせめて、「自ら苦労されて心理の世界に到達し、これこそが真理の道である」と説かれた般若心経くらいは覚えて損はないと思うが、先祖の宗派すら分からない人も多く、葬式があって初めて家の宗派を知ったなんて人はかなり多い。
愚生は仏教徒でもないし、日蓮などを信仰している訳でもないが、「仏」というのは夫夫の心に在り、「極楽浄土」は現世にこそ存在しているものだと思っている。
自分より能力的に劣る者、自分で答えが出せないでや悩んでる人に示唆したり、或いは貧しく、難渋している者を救うことこそ「極楽浄土」というものだろう。
極楽浄土や天国なんてのは、釈迦牟尼やキリストが死への恐怖を取り除く為に吐いた嘘。人間死んだら終わり、全てが「無」となる。極楽浄土とは現世に在り。
愚生は、自分の持っているものを惜しみなく与えること。何かで悩んでいる者や、自分より能力の劣る者、難渋している者を如何に助けてあげるかが極楽浄土だと思って生きて来た。そうやって生き抜いて、死を迎え「無」となるのだ。
死というものは人に平等に与えられたもので悲しいものではない。別れも宿命であり、運命なのだから起こった現実を諒として享け入れることこそ大事である。
人生とは一期一会であり、邂逅の一言に尽きると思ってはいる。人付き合いは「人に期待しない」ことを念頭に置いて人と接する方が相手のことがよく見える。
期待し過ぎると落胆も大きい。相手が裏切ろうという魂胆ならば敢えて騙されてみるのも悪くはない。人を見る目というのは生き様であり、人生哲学そのもの。
大乗仏教の中では、「華厳経」というのに興味があった。「一即一切一切即一」という「一塵の中に全世界が宿り、一瞬の中に永遠が在る」という教えが好い。人間の一生なんてホンの一瞬だ。富貴利達や功名なんぞ正に夢の跡である。
愚生の好い加減な性格だから大らかな神道が合う。戒律の厳しい仏教そのものに興味はない。生前に会った坊主や仏教関係者は会話してもカッコばっかでウイットに飛ばず、自分を豪く見せ様としたり、堅苦しい輩ばかりでつまらなかったな。
末期癌を宣告された愚生もそろそろ「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶(さぁ皆一緒に真の幸せの世界に行こうではないか)」という呼びかけに応じ様か。
余命僅かとなり、慌てふためくかと思ったが、意外と死への恐怖は無い。明日、死ななければならなかった特攻隊の渾身の悩みに比べたら幸せなものだ。死の世界から戻った者はおらず、彼の世っていうのは好い世界なのかも知れないなぁ(笑)
愚生の場合、身内や友人には「葬式はやらない」と伝えてある。愚妻には「死に顔は誰にも見せないで、棺桶は直ぐ閉じて早々に焼いてくれ」と伝えている。「年忌法要」や「偲ぶ会」なども煩わしいし、愚生のことなど忘れて欲しい。呵呵大笑。
「さぁ皆一緒に、真の幸せの世界に行こうではないか!」「悟りの彼岸に到達して一切を成就しよう」という、この呼びかけに応えるにはどう生きるべきか。
般若心経は、お釈迦様(釈迦牟尼)が弟子の舎利弗(子)に語った「悟りを成就する道」であり、その語った言葉を三蔵法師が訳したものだと言われている。
「三蔵法師」というと、愚生的にはその昔の「西遊記」の夏目雅子を思い浮かべてしまう。三蔵法師というのは、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶のことで、夏目雅子が演じた「玄奘三蔵」という人物も三蔵法師の一人に過ぎない。
般若心経は難しそうだが、文字数は題字を含め276文字。教育勅語の315字より少ない。「空」が7回、「無」が21回、「不」が9回。文字数的には「無」が多いが、般若心経の教えは「空」であり、その「空」を知り、「空」に生きることにある。
人間というのは、誰しも健康であれば明日があると思って生きている。自分だけは「直ぐには死ぬことはない」と思って生きている人が殆どだろう。「死」というものは、貧乏だろうが金持ちだろうが、誰にでも平等に与えられた道でもある。
人間というのは死に向かっているのに必死に生きる。「死と生」というこの二つは矛盾してる。生き続けるというのは、死に近付いているということでもある。
日本人の多くは仏教徒だろうが、その宗派も分からない人が多い。死んだ時だけ坊主のお経を有り難がり、死後に戒名を頂く意味すらも分かっていない(苦笑)
死んで戒名を頂くのは釈迦の弟子になるということだが、その意味を知らない仏教徒ばかり。戒名を貰ったら極楽浄土に往ける訳ではないのにな。死後も御釈迦様の弟子として修行の道を選ぶのということを理解もせずに戒名とは嗤うしかない。
仏教徒ならばせめて、「自ら苦労されて心理の世界に到達し、これこそが真理の道である」と説かれた般若心経くらいは覚えて損はないと思うが、先祖の宗派すら分からない人も多く、葬式があって初めて家の宗派を知ったなんて人はかなり多い。
愚生は仏教徒でもないし、日蓮などを信仰している訳でもないが、「仏」というのは夫夫の心に在り、「極楽浄土」は現世にこそ存在しているものだと思っている。
自分より能力的に劣る者、自分で答えが出せないでや悩んでる人に示唆したり、或いは貧しく、難渋している者を救うことこそ「極楽浄土」というものだろう。
極楽浄土や天国なんてのは、釈迦牟尼やキリストが死への恐怖を取り除く為に吐いた嘘。人間死んだら終わり、全てが「無」となる。極楽浄土とは現世に在り。
愚生は、自分の持っているものを惜しみなく与えること。何かで悩んでいる者や、自分より能力の劣る者、難渋している者を如何に助けてあげるかが極楽浄土だと思って生きて来た。そうやって生き抜いて、死を迎え「無」となるのだ。
死というものは人に平等に与えられたもので悲しいものではない。別れも宿命であり、運命なのだから起こった現実を諒として享け入れることこそ大事である。
人生とは一期一会であり、邂逅の一言に尽きると思ってはいる。人付き合いは「人に期待しない」ことを念頭に置いて人と接する方が相手のことがよく見える。
期待し過ぎると落胆も大きい。相手が裏切ろうという魂胆ならば敢えて騙されてみるのも悪くはない。人を見る目というのは生き様であり、人生哲学そのもの。
大乗仏教の中では、「華厳経」というのに興味があった。「一即一切一切即一」という「一塵の中に全世界が宿り、一瞬の中に永遠が在る」という教えが好い。人間の一生なんてホンの一瞬だ。富貴利達や功名なんぞ正に夢の跡である。
愚生の好い加減な性格だから大らかな神道が合う。戒律の厳しい仏教そのものに興味はない。生前に会った坊主や仏教関係者は会話してもカッコばっかでウイットに飛ばず、自分を豪く見せ様としたり、堅苦しい輩ばかりでつまらなかったな。
末期癌を宣告された愚生もそろそろ「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶(さぁ皆一緒に真の幸せの世界に行こうではないか)」という呼びかけに応じ様か。
余命僅かとなり、慌てふためくかと思ったが、意外と死への恐怖は無い。明日、死ななければならなかった特攻隊の渾身の悩みに比べたら幸せなものだ。死の世界から戻った者はおらず、彼の世っていうのは好い世界なのかも知れないなぁ(笑)
愚生の場合、身内や友人には「葬式はやらない」と伝えてある。愚妻には「死に顔は誰にも見せないで、棺桶は直ぐ閉じて早々に焼いてくれ」と伝えている。「年忌法要」や「偲ぶ会」なども煩わしいし、愚生のことなど忘れて欲しい。呵呵大笑。
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2024年08月06日
昭和20年8月6日、米爆撃機B29エノラ・ゲイが広島に原爆を投下!
昭和20年8月6日午前8時15分、米爆撃機B29エノラ・ゲイが広島に原爆「リトルボーイ」を投下。米国は一瞬にして14万人以上の無辜の民を虐殺した。
当日の小倉の天気が悪く、変更を余儀なくされる。実験データ収集の為には荒天では実験データの撮影も儘ならない為に小倉から急遽、長崎に変更した。
米国は更に3日後の9日午前11時02分、長崎に原爆「ファットマン」を投下。終に我が国はポツダム宣言の受諾を決定し、14日未明に終戦の詔勅を発布した。
この結果を見て「原爆投下が戦争の終結を早めた」という人がいる。コレ正しく戦後民主主義教育の洗脳であるが、歴史的事実はそう簡単なものではない。
「戦争を終わらせる」のが目的ならば広島だけで十分だった。だが、米国は二発目の原爆を落とさなければならなかった理由があった。広島と長崎に落とした原爆は種類が違う。広島はウラン型。長崎はプルトニウム型。この二つのデータ取集である。
エノラゲイから投下される原爆投下の一部始終撮影し、実験データを詳細に記録している。原子爆弾開発プロジェクトのコードネーム「マンハッタン計画」に因って、莫大な研究費を注ぎ込んだ米国は、議会でその成果を証明する必要があった。
抑抑、米国に因る二種類の原爆投下は、日本人への人種差別と原爆に因る人体実験を検証する為に行ったものであることは、今や歴史的にも明らかである。
米国側は、戦況が芳しくない日本政府が和平を模索していることを知っていた。天皇制存続を保障する案なら受け容れる可能性が極めて高いと考えていた。
そうしたこともあり、元駐日大使だったグルー国務長官代理が中心になって作成されたポツダム宣言の原案には「天皇制存続の保障」が盛り込まれていた。
ところが、スチムソン陸軍長官やバーンズ国務長官らは、元国務長官ハルの助言もあり、この項目をポツダム会議の直前で削除。即ち「天皇制存続」が明記されていないポツダム宣言は、我が国には極めて受け容れ難い内容になっていたのである。
そうした事情ををよく認識していたトルーマン大統領は、ポツダム宣言発表前日(7月25日)の日記に、「この兵器(原爆)は今から8月10日迄の間に使用されることになる」と記した。この事実は果たして何を意味しているのか。
米国側が「日本政府がポツダム宣言を黙殺したから原爆が投下された」という反論が真っ赤な嘘であることはこのトルーマンの日記が明瞭に証明している。
米国が原爆投下を決定したのは1943(昭和18)年5月のことであり、原爆搭載機を対日戦用のB29爆撃機を選んだ。翌年9月に米英間で交わされた秘密覚書「ハイド・パーク協定」には、「原爆は日本に対して使用されるであろう」と明記された。
こんな不可思議な決定は、人種偏見や日本人蔑視以外に合理的根拠は見つからない。況してや二種類の原爆を投下するとは日本人の抹殺行為の実行である。
米軍は原爆投下後「放射能治療方法交流禁止」「被爆者カルテ没収」などの人権蹂躪行為を謀っているが、正に原爆投下は日本人をサンプルにした人体実験である。
トルーマンは、「ジャップどもは野蛮人で、冷酷、無慈悲且つ狂信的な連中だ」と詰って憚らない。こうしたことでも当時の米国内で日本人蔑視が横溢してたのは明らか。原爆投下に至った背景は根強い人種偏見があったというのが窺い知れる。
悲しい哉、民間人殺戮の原爆投下という蛮行を忘れ去り、今や我が国は国家の大本を米国に依存し、米国の「核の傘」に甘んじるというマヌケさ。
沖縄の反基地運動にしても「米国の戦争に撒き込まれる」と同じ理由を吐けて反対しているが、これこそ正に平和ボケ。米軍撤退と同時に自衛隊強化を確立せねば意味は無く、米国依存から脱却するには真っ当な手順を踏まなければならない。
原爆投下から79年経った。今こそ核武装のタブーを排し「アジアから、そして世界から核兵器が無くなるまで我が国は暫定的に核を保有する」と表明することで、「アジアと世界の平和安定に貢献出来る」という認識を共有すべきである。
心の呵責無しに、核兵器を有する資格があるとすれば、それは世界で唯一の戦争被爆国である我が国だけであろう。戦争被爆国である我が国が核兵器を保有した上で、核の脅威と核廃絶を訴えることに大きな意味と効果を齎すのだ。
真の「平和」を創造する為にも限定的核武装を急がなければならない。だが「原爆投下が戦争の終結を早めた」という自虐史観が横溢してる現状は、原爆投下と占領政策が米国が意図した以上の成果を齎し続けているという証左とも言える。
広島には自虐史観の象徴とも言える「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」という碑が建っている。だが、原爆投下という過ちを犯したのは米国であり日本ではない。また、戦争そのものを「過ち」と捉えることもまた間違いである。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
当日の小倉の天気が悪く、変更を余儀なくされる。実験データ収集の為には荒天では実験データの撮影も儘ならない為に小倉から急遽、長崎に変更した。
米国は更に3日後の9日午前11時02分、長崎に原爆「ファットマン」を投下。終に我が国はポツダム宣言の受諾を決定し、14日未明に終戦の詔勅を発布した。
この結果を見て「原爆投下が戦争の終結を早めた」という人がいる。コレ正しく戦後民主主義教育の洗脳であるが、歴史的事実はそう簡単なものではない。
「戦争を終わらせる」のが目的ならば広島だけで十分だった。だが、米国は二発目の原爆を落とさなければならなかった理由があった。広島と長崎に落とした原爆は種類が違う。広島はウラン型。長崎はプルトニウム型。この二つのデータ取集である。
エノラゲイから投下される原爆投下の一部始終撮影し、実験データを詳細に記録している。原子爆弾開発プロジェクトのコードネーム「マンハッタン計画」に因って、莫大な研究費を注ぎ込んだ米国は、議会でその成果を証明する必要があった。
抑抑、米国に因る二種類の原爆投下は、日本人への人種差別と原爆に因る人体実験を検証する為に行ったものであることは、今や歴史的にも明らかである。
米国側は、戦況が芳しくない日本政府が和平を模索していることを知っていた。天皇制存続を保障する案なら受け容れる可能性が極めて高いと考えていた。
そうしたこともあり、元駐日大使だったグルー国務長官代理が中心になって作成されたポツダム宣言の原案には「天皇制存続の保障」が盛り込まれていた。
ところが、スチムソン陸軍長官やバーンズ国務長官らは、元国務長官ハルの助言もあり、この項目をポツダム会議の直前で削除。即ち「天皇制存続」が明記されていないポツダム宣言は、我が国には極めて受け容れ難い内容になっていたのである。
そうした事情ををよく認識していたトルーマン大統領は、ポツダム宣言発表前日(7月25日)の日記に、「この兵器(原爆)は今から8月10日迄の間に使用されることになる」と記した。この事実は果たして何を意味しているのか。
米国側が「日本政府がポツダム宣言を黙殺したから原爆が投下された」という反論が真っ赤な嘘であることはこのトルーマンの日記が明瞭に証明している。
米国が原爆投下を決定したのは1943(昭和18)年5月のことであり、原爆搭載機を対日戦用のB29爆撃機を選んだ。翌年9月に米英間で交わされた秘密覚書「ハイド・パーク協定」には、「原爆は日本に対して使用されるであろう」と明記された。
こんな不可思議な決定は、人種偏見や日本人蔑視以外に合理的根拠は見つからない。況してや二種類の原爆を投下するとは日本人の抹殺行為の実行である。
米軍は原爆投下後「放射能治療方法交流禁止」「被爆者カルテ没収」などの人権蹂躪行為を謀っているが、正に原爆投下は日本人をサンプルにした人体実験である。
トルーマンは、「ジャップどもは野蛮人で、冷酷、無慈悲且つ狂信的な連中だ」と詰って憚らない。こうしたことでも当時の米国内で日本人蔑視が横溢してたのは明らか。原爆投下に至った背景は根強い人種偏見があったというのが窺い知れる。
悲しい哉、民間人殺戮の原爆投下という蛮行を忘れ去り、今や我が国は国家の大本を米国に依存し、米国の「核の傘」に甘んじるというマヌケさ。
沖縄の反基地運動にしても「米国の戦争に撒き込まれる」と同じ理由を吐けて反対しているが、これこそ正に平和ボケ。米軍撤退と同時に自衛隊強化を確立せねば意味は無く、米国依存から脱却するには真っ当な手順を踏まなければならない。
原爆投下から79年経った。今こそ核武装のタブーを排し「アジアから、そして世界から核兵器が無くなるまで我が国は暫定的に核を保有する」と表明することで、「アジアと世界の平和安定に貢献出来る」という認識を共有すべきである。
心の呵責無しに、核兵器を有する資格があるとすれば、それは世界で唯一の戦争被爆国である我が国だけであろう。戦争被爆国である我が国が核兵器を保有した上で、核の脅威と核廃絶を訴えることに大きな意味と効果を齎すのだ。
真の「平和」を創造する為にも限定的核武装を急がなければならない。だが「原爆投下が戦争の終結を早めた」という自虐史観が横溢してる現状は、原爆投下と占領政策が米国が意図した以上の成果を齎し続けているという証左とも言える。
広島には自虐史観の象徴とも言える「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」という碑が建っている。だが、原爆投下という過ちを犯したのは米国であり日本ではない。また、戦争そのものを「過ち」と捉えることもまた間違いである。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
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2024年08月03日
「平和」という言葉は左翼陣営にとって最も効果的な武器となる
毎年夏の暑い時期になると、6日の広島、9日の長崎と原爆が投下された日に焦点を合わせ、所謂・平和団体の主催の「原水爆禁止世界大会」が開催される。
世界から核兵器が無くなることに越したことはないが現実的には不可能なこと。況してや核兵器も保持していない日本国内で「核兵器反対」を訴えても何の意味はない。この原水爆禁止運動は純然たる市民の署名活動から始まったものだ。
署名活動の輪が急速に全国に広がって行くのに目を付けた日本社会党と日本共産党が割り込みを図り、イデオロギーに汚染させ、終には主導権争いを演じて分裂させてしまう。それが社民党・民進党系の「原水禁」、共産党系の「原水協」である。
こうした分裂騒動は「日教組」と「全教」に分断した構図と同じだが、こうしたことだけでも連中に「平和」などを口にする資格はない。似非平和団体の目的は「平和」とは名ばかりで、原爆を投下したのが米国だから騒いでるだけのこと。
原水禁運動とは平和活動には程遠い「反米活動」である。彼らは平和主義に拠って世界平和という理想や効果を求めているのではなく、その目的は別に在る。
左翼革命を達成する上で「平和」という言葉こそが最も効果的な武器であることを知っている彼らのその目的とは、我が国の国體を破壊することに在る。
「平和」を語るなら、長崎へ原爆が投下された9日未明に、旧ソ連が謀った対日参戦を糾弾すべきだが、未だ嘗て、平和団体である筈の彼らの口から、国際条約であった日ソ中立条約の蹂躙や満州や北方領土での鬼畜の如き蛮行が語られることはない。
一般人を一瞬のうちに殺戮した米国の原爆投下への批判はあって当然のことだが、似非平和団体の彼らの目的は、執拗に古傷を暴いて日米離間を謀ると共に、党勢拡大と革命謀略に国民の安易で安直な平和主義を利用しているだけに過ぎない。
原爆投下を容認する訳ではないが、第二次世界大戦下で我が国と米国は国家の威信と民族の存続を賭けて戦っていたのである。勝利を目指し新しい兵器を開発すれば使用するのは当然であり、断腸の思いではあるが「三分の理」を認めざるを得ない。
珍左翼や自称・平和団体の「反米」も行き着く思想は、GHQが占領統治中に実行した戦後民主主義(自虐史観)による洗脳である。未だその洗脳から目覚めようともせず、いけしゃあしゃあと「反米」を口にするとはマヌケ過ぎるだろう(苦笑)
原爆投下の被害は甚大ではあったが、原爆投下の影響か、戦後こういう珍種が殖えてしまったのは皮肉な結果でもある。東京電力福島第一原発事故もそうだが。反原発派なんてのは放射線の影響なのだろう、かなりの効果がある様に見える(笑)
米国実行した戦後民主教育という洗脳にどっぷり漬かっている左翼や自称・平和団体らが叫ぶ「反米」は実に滑稽極まりないが、戦後GHQの統治下で実行された弱体化政策は、米国が当初に予想した以上の成果(悪害)を齎し続けている。
戦後民主主義とは、自国の歴史を汚辱に塗れた過去と捉える自虐史観。たった7年の統治で国柄が壊されて米国の価値観一辺倒の全く別な国になってしまった。
その歪な洗脳教育で育った者は、国家から恩恵を享けてい乍ら、個人と国家を常に対立させて、恰も「国家は人間を抑圧する組織」と見做し、反国家反体制のポーズを採ることが進歩的で文化的だと錯覚し、幼稚で安っぽい正義感を押し付ける。
「平和」「反戦」「核廃絶」「脱原発」を標榜する似非平和屋にとって、フクシマもまた勢力拡大の為の小道具に過ぎない。原発の問題は核武装という国防にも繋がる国家の大事であり、国民は珍左翼勢力の安っぽい平和運動に騙されてはならない。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
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世界から核兵器が無くなることに越したことはないが現実的には不可能なこと。況してや核兵器も保持していない日本国内で「核兵器反対」を訴えても何の意味はない。この原水爆禁止運動は純然たる市民の署名活動から始まったものだ。
署名活動の輪が急速に全国に広がって行くのに目を付けた日本社会党と日本共産党が割り込みを図り、イデオロギーに汚染させ、終には主導権争いを演じて分裂させてしまう。それが社民党・民進党系の「原水禁」、共産党系の「原水協」である。
こうした分裂騒動は「日教組」と「全教」に分断した構図と同じだが、こうしたことだけでも連中に「平和」などを口にする資格はない。似非平和団体の目的は「平和」とは名ばかりで、原爆を投下したのが米国だから騒いでるだけのこと。
原水禁運動とは平和活動には程遠い「反米活動」である。彼らは平和主義に拠って世界平和という理想や効果を求めているのではなく、その目的は別に在る。
左翼革命を達成する上で「平和」という言葉こそが最も効果的な武器であることを知っている彼らのその目的とは、我が国の国體を破壊することに在る。
「平和」を語るなら、長崎へ原爆が投下された9日未明に、旧ソ連が謀った対日参戦を糾弾すべきだが、未だ嘗て、平和団体である筈の彼らの口から、国際条約であった日ソ中立条約の蹂躙や満州や北方領土での鬼畜の如き蛮行が語られることはない。
一般人を一瞬のうちに殺戮した米国の原爆投下への批判はあって当然のことだが、似非平和団体の彼らの目的は、執拗に古傷を暴いて日米離間を謀ると共に、党勢拡大と革命謀略に国民の安易で安直な平和主義を利用しているだけに過ぎない。
原爆投下を容認する訳ではないが、第二次世界大戦下で我が国と米国は国家の威信と民族の存続を賭けて戦っていたのである。勝利を目指し新しい兵器を開発すれば使用するのは当然であり、断腸の思いではあるが「三分の理」を認めざるを得ない。
珍左翼や自称・平和団体の「反米」も行き着く思想は、GHQが占領統治中に実行した戦後民主主義(自虐史観)による洗脳である。未だその洗脳から目覚めようともせず、いけしゃあしゃあと「反米」を口にするとはマヌケ過ぎるだろう(苦笑)
原爆投下の被害は甚大ではあったが、原爆投下の影響か、戦後こういう珍種が殖えてしまったのは皮肉な結果でもある。東京電力福島第一原発事故もそうだが。反原発派なんてのは放射線の影響なのだろう、かなりの効果がある様に見える(笑)
米国実行した戦後民主教育という洗脳にどっぷり漬かっている左翼や自称・平和団体らが叫ぶ「反米」は実に滑稽極まりないが、戦後GHQの統治下で実行された弱体化政策は、米国が当初に予想した以上の成果(悪害)を齎し続けている。
戦後民主主義とは、自国の歴史を汚辱に塗れた過去と捉える自虐史観。たった7年の統治で国柄が壊されて米国の価値観一辺倒の全く別な国になってしまった。
その歪な洗脳教育で育った者は、国家から恩恵を享けてい乍ら、個人と国家を常に対立させて、恰も「国家は人間を抑圧する組織」と見做し、反国家反体制のポーズを採ることが進歩的で文化的だと錯覚し、幼稚で安っぽい正義感を押し付ける。
「平和」「反戦」「核廃絶」「脱原発」を標榜する似非平和屋にとって、フクシマもまた勢力拡大の為の小道具に過ぎない。原発の問題は核武装という国防にも繋がる国家の大事であり、国民は珍左翼勢力の安っぽい平和運動に騙されてはならない。
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2024年07月31日
パリオリンピック開会式での「最後の晩餐」のパロディに唖然!
パリオリンピックが開幕した。開会式オープニングでは、フランス革命に際しギロチン処刑されたにマリーアントワネットに扮した生首が登場。余りの悪趣味に驚愕したが、こんなのが芸術か。つ~か、フランスは死刑廃止国ではなかったのか。
このシーンは、フランス革命での処刑を誇りに思っていることを世界に知らしめた。我が国の死刑制度にイチャモンを吐けてるフランスだが、何が死刑廃止だ。
開会式の生首が革命歌を歌い始め、ヘビメタに合わせて幽閉されてた城が血に染まる。悪趣味と言えばそれまでだが、「芸術の都」とか「花の都」と言われたフランスの好き時代は疾うに過ぎ去り、フランス社会主義国の歪さを露呈した。
パリオリンピックは「スポーツの祭典」でも「平和の祭典」ではなく、政治的で気色悪いLGBTやリベラル変態左翼のプロパガンダの祭典に成り下がってしまった。
救いなのは、競技に打ち込む選手達の健気な姿だけだ。日本選手団のメダルラッシュに若者の凄さと逞しさを感じると共に、我が国の将来の明るさが垣間見える。
生首の悪魔崇拝に続いて更に驚いたというか厭きれたのは、レオナルド・ダビンチが、キリストが処刑される前夜を描いたとされる「最後の晩餐」のパロディ。
キリストに扮したドラァグクイーンやトランスジェンダーのモデルが登場し、キモいパフォーマンス。青いオッサンと左側のゲイはどさくさに紛れてタマ袋まで露出していた。これの何処が芸術なのか。まぁ芸術というよりゲイ術だわな(笑)
「最後の晩餐」で、裏切り者のユダが座ってた位置には普通の女の子が座っていたが、何が多様性か。普通の少女をLGBTのパフォーマンスに利用するなっての。LGBTへの理解増進というが、こんな変態どもの行為を理解しろってのが無理。
フランス国内のカトリック教徒やキリスト教団体からの抗議で公式ホームページから削除したが、キリスト教への侮辱はそう簡単には治まらないだろう。
主催者側は「特定の宗教を貶すことが目的ではなく、多様性を表現した」などと言い張っていたが、抗議の声が治まらない中で騒動に関して謝罪した。だが、演出での過ちを認めた訳ではない。醜い言い訳は、同じ過ちを繰り返すことになる。
マクロン大統領はオープニングセレモニーを絶賛してたというが、「キリスト教を侮辱している」との批判が相次ぎ、IOC(国際オリンピック委員会)が公式に謝罪している中で、多様性を謀る極左のマクロンは沈黙を極め込んでいる。
今回のこの騒動に、カトリックの司教が、「同じ様にイスラムをコケにする勇気があるのか」と批判していたが正しく。イスラム教への揶揄やイスラム教徒への侮辱だったら、この程度で治まることはなくテロの連鎖を生んだことだろう。
「最後の晩餐」を風刺しただけで悪気は無いというのが、フランス人の感覚なのだろう。何故なら風刺は、フランス人にとってはエスプリ(精神・知性)を表す表現。つまり、風刺画に拠って相手を嘲笑するのはフランスの伝統・文化とも言える。
皮肉交じりの、下品極まる風刺やパフォーマンスを真に受けて相手にするのもアホ臭いが、風刺するにも、相手に対する尊重と配慮を忘れてはならない。
節度が欠如した風刺というのはそれは単に相手への罵詈であり、雑言であり、侮辱でしかなく、差別と偏見に満ちた嘲りは、怨みや怒りを増大させるだけ。
その結果の末に起こったのが、フランス週刊紙シャルリエブド襲撃事件である。襲撃した犯人はイスラム過激派。シャルリエブド紙はこれまでも、政治や宗教などさまざまなジャンルの有名人を攻撃する風刺画を数多く掲載している愉快犯でもある。
中でもイスラム教徒の怒りを買ったのは、預言者ムハンマドに関する表現だった。2011年には、ムハンマドを同紙の新しい編集長に指名したという風刺画を掲載。
風刺画には「笑いすぎて死ななかったら、むち打ち100回の刑だ」と書かれていた。その翌日に、同紙事務所に火炎瓶が投げ込まれ全焼する事件が起きている。
フランス国内に住むイスラム教徒の組織「フランス・イスラム評議会」が、同週刊紙を訴える事態となるも、最新号では、イスラム国が預言者ムハンマドの首を切るマンガを掲載した。これが襲撃事件の決定的要因になったのは想像するに余りある。
襲撃事件で殺害された編集長のステファン・シャルボニは「何も恐れない挑発的な人物」として持ち上げられてたというが、本人にとっては本懐と言う他は無い。今回のオリンピック開会式も同じく、批判が起きることを想定していたのなら罪深い。
フランスの風刺は、精神や知性(エスプリ)を表すものではなく、単に売り上げを伸ばす為の羊頭狗肉であり、つまりは営利至上主義に他ならない。フランス人に良識ある知性があるなら、相手を侮辱する行為や揶揄こそ諌めるべきだと思う。
オリンピック開会式のパフォーマンスもLGBTに乗じた洗脳であるが、こういう変態どもを理解しろいうのは無理なこと。まぁ逆を言えば、LGBTと左翼政権の胡散臭さが世界に広まったことで、その怪しい流れは停滞するのではあるまいか。
フランスは移民大国でもあるが、日本政府も他山の石と捉えて、LGBT法や労働者不足を理由にした実質的移民政策といった愚策の見直しを急ぐべきである。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
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2024年07月29日
所謂「南京大虐殺」は知っているが「通州事件(通州虐殺事件)」を知る国民は少ない
東京裁判史観に冒されてる国民は、「盧溝橋事件」にしろ、所謂「南京大虐殺」は、日本人に因る侵略や虐殺だと未だに信じてるが、何故か「通州事件(通州虐殺事件)」については知ろうともしない。この通州での支那人に因る残虐行為は全く語られることはなく、学校の教科書にも歴史書や年表にも載ってはいない。
「通州事件」こそ消された戦後の歴史の一つである。「東京裁判」で日本側弁護団は、盧溝橋事件の約3週間後の7月29日未明に起こった「通州事件」について、外務省の公式声明を証拠として提出を図るが、ウェッブ裁判長がそれを却下する。
通州での支那人に因る虐殺事件を取り上げることは「日本悪玉論」の論拠を失うばかりか、東京裁判を進める上で「通州事件」は、実にやっかいな不都合な事件だった。通州虐殺事件を知らずして、この後に日本政府の執った行動は理解出来ないだろうし、先の大戦の評価をする上でも決して忘れてはならない歴史なのである。
北京から東に18キロほど下った通州という街は、明朝時代に城壁が築かれ、天津からの集荷の拠点として栄えた運河の街だ。通州には日本軍が駐屯しており治安も安定していた。規律正しく公正な日本軍は何処の街でも庶民から歓迎された。ところが、治安の良いはずのその通州で、昭和11年頃から不穏な空気が漂い始める。
最初に騒ぎ始めたのが朝鮮人らだった。興奮し易く、直ぐに舞い上がり、感情的になるのは古来変わらぬ朝鮮人の特徴で、中華民国や中国共産党の工作員にとってこれほど利用し易い民族はいなかっただろう。「日本は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしている」と言い触らし、「次は支那を領土にして支那人を奴隷にしようとしている」などと根拠のないデタラメを半ば公然と吹聴し始める。
昭和12年になると「日本軍と日本人を追い出さなければならない。いや日本人は皆殺しにしなければなない」と言い出す迄になり、そうした風評は止まることはなく、益々エスカレートし民衆は殺気立った。仄聞はもちろん現地に駐屯していた日本軍にの耳にも入ってはいたが、現地の日本軍は「その様な根も葉もない噂など相手にする必要はない」と問題にしなかった。この日本人的気風が禍を齎すこととなる。
多くの日本人は、物事を客観的にバランス好く捕らえ様と努力する。これは日本人にとっては至極当たり前のことで美徳とも言えるものだ。だが、何も反論もせず、怒らないことで朝鮮人や支那人を付け上がらせる結果になってしまったのも事実。
昭和12(1937)年7月29日午前3時頃、通州にいた冀東防共自治政府の保安隊(「張慶餘」が率いる第一総隊と「張硯田」が率いる第二教導総隊)の合わせて3000人が突如として日本軍を襲撃する。襲撃された際、通州には日本人380名、内軍関係者110名で残りは全員が婦女子だった。不意を突かれた日本兵は防戦一方。
襲撃開始と同時に日本兵30名が死亡。防戦の最中、支那人学生や朝鮮人が日本人の居留区を襲撃し日本人居留民260名を残虐な方法で虐殺するに至った。
支那駐屯歩兵第2連隊小隊長・桜井文雄証人の証言がある。守備隊の東門を出ると、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわり一同悲憤の極みに達した。
〈「日本人はいないか」と連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体が其処彼処のゴミ箱の中や壕の中から続々出てきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は14、5歳以上は悉く強姦されており全く見るに忍びなかった。「旭軒」では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、一家6人数珠繋ぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水が血で赤く染まっていたのを目撃した・・・〉
東京裁判で証人に立った桜井文雄支那駐屯歩兵第2連隊小隊長の証言や、虐殺事件を目撃した女性の体験談もあるが、筆舌に尽くし難い凄惨なものばかり。
「盧溝橋事件」や「通州事件」の真相を知ることが大事。その真相を知れば東京裁判で断罪された多くの罪が如何に不当なものであり、不公平な人倫にも悖るものであったことが分かるだろう。アジア動乱の濫觴はいつの時代も中共が元凶である。
1989年の天安門事件にしろ、チベット、ウイグルなどで中共軍が行ってきた虐殺や弾圧は筆舌に尽くし難い。天然ガス盗掘にしろ、尖閣諸島での挑発行為にしろ、沖縄併呑の策謀にしろ、日本人はこれらを余りにも軽く考えてはいないだろうか。
沖縄や国内での反基地や反政府運動は中共に因る策謀である。混乱に乗じて沖縄県民が第二の「通州事件」に捲き込まれないという確証は何処にも無い。米国依存からの脱却を急ぎ、自主独立の防衛体制の充実且つ法整備を急がねばならない。
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「通州事件」こそ消された戦後の歴史の一つである。「東京裁判」で日本側弁護団は、盧溝橋事件の約3週間後の7月29日未明に起こった「通州事件」について、外務省の公式声明を証拠として提出を図るが、ウェッブ裁判長がそれを却下する。
通州での支那人に因る虐殺事件を取り上げることは「日本悪玉論」の論拠を失うばかりか、東京裁判を進める上で「通州事件」は、実にやっかいな不都合な事件だった。通州虐殺事件を知らずして、この後に日本政府の執った行動は理解出来ないだろうし、先の大戦の評価をする上でも決して忘れてはならない歴史なのである。
北京から東に18キロほど下った通州という街は、明朝時代に城壁が築かれ、天津からの集荷の拠点として栄えた運河の街だ。通州には日本軍が駐屯しており治安も安定していた。規律正しく公正な日本軍は何処の街でも庶民から歓迎された。ところが、治安の良いはずのその通州で、昭和11年頃から不穏な空気が漂い始める。
最初に騒ぎ始めたのが朝鮮人らだった。興奮し易く、直ぐに舞い上がり、感情的になるのは古来変わらぬ朝鮮人の特徴で、中華民国や中国共産党の工作員にとってこれほど利用し易い民族はいなかっただろう。「日本は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしている」と言い触らし、「次は支那を領土にして支那人を奴隷にしようとしている」などと根拠のないデタラメを半ば公然と吹聴し始める。
昭和12年になると「日本軍と日本人を追い出さなければならない。いや日本人は皆殺しにしなければなない」と言い出す迄になり、そうした風評は止まることはなく、益々エスカレートし民衆は殺気立った。仄聞はもちろん現地に駐屯していた日本軍にの耳にも入ってはいたが、現地の日本軍は「その様な根も葉もない噂など相手にする必要はない」と問題にしなかった。この日本人的気風が禍を齎すこととなる。
多くの日本人は、物事を客観的にバランス好く捕らえ様と努力する。これは日本人にとっては至極当たり前のことで美徳とも言えるものだ。だが、何も反論もせず、怒らないことで朝鮮人や支那人を付け上がらせる結果になってしまったのも事実。
昭和12(1937)年7月29日午前3時頃、通州にいた冀東防共自治政府の保安隊(「張慶餘」が率いる第一総隊と「張硯田」が率いる第二教導総隊)の合わせて3000人が突如として日本軍を襲撃する。襲撃された際、通州には日本人380名、内軍関係者110名で残りは全員が婦女子だった。不意を突かれた日本兵は防戦一方。
襲撃開始と同時に日本兵30名が死亡。防戦の最中、支那人学生や朝鮮人が日本人の居留区を襲撃し日本人居留民260名を残虐な方法で虐殺するに至った。
支那駐屯歩兵第2連隊小隊長・桜井文雄証人の証言がある。守備隊の東門を出ると、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわり一同悲憤の極みに達した。
〈「日本人はいないか」と連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体が其処彼処のゴミ箱の中や壕の中から続々出てきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は14、5歳以上は悉く強姦されており全く見るに忍びなかった。「旭軒」では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、一家6人数珠繋ぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水が血で赤く染まっていたのを目撃した・・・〉
東京裁判で証人に立った桜井文雄支那駐屯歩兵第2連隊小隊長の証言や、虐殺事件を目撃した女性の体験談もあるが、筆舌に尽くし難い凄惨なものばかり。
「盧溝橋事件」や「通州事件」の真相を知ることが大事。その真相を知れば東京裁判で断罪された多くの罪が如何に不当なものであり、不公平な人倫にも悖るものであったことが分かるだろう。アジア動乱の濫觴はいつの時代も中共が元凶である。
1989年の天安門事件にしろ、チベット、ウイグルなどで中共軍が行ってきた虐殺や弾圧は筆舌に尽くし難い。天然ガス盗掘にしろ、尖閣諸島での挑発行為にしろ、沖縄併呑の策謀にしろ、日本人はこれらを余りにも軽く考えてはいないだろうか。
沖縄や国内での反基地や反政府運動は中共に因る策謀である。混乱に乗じて沖縄県民が第二の「通州事件」に捲き込まれないという確証は何処にも無い。米国依存からの脱却を急ぎ、自主独立の防衛体制の充実且つ法整備を急がねばならない。
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2024年07月28日
「敗戦は必定なれど三春に倣うべからず」(二本松藩家老・丹羽一学)
戊辰戦争は西軍と東軍の戦いであり、決して「官軍」と「賊軍」が戦った訳ではない。「賊軍」や「逆賊」の汚名を雪がねばならない。会津武士道の昇華を白虎隊に例えるのなら、二本松少年隊は正しく二本松武士道の昇華そのものだろう。
慶応4(1868)年、西軍の会津征伐に於いて二本松藩の家老・丹羽一学は「敗戦は必定なれど三春に倣うべからず。二本松は城が灰燼に帰し、一族屍を野に曝すとも武士道と信義に殉ずべきである」と、藩論を徹底抗戦に纏め上げた。
同年7月27日、木村銃太郎隊長(22)に率いられた少年隊士23名が蹶起する。会津白虎隊士の構成年齢が16~17歳だったことに対し、二本松少年隊の最年少隊士の年齢は僅か12歳だった。少年隊は、城下西口の要衝である大壇口に布陣。
7月29日午前9時頃、少年隊は隊伍を組んで進軍してくる西軍に向かい、銃太郎の号令一下、轟然と火を吹いた大砲によって、終に戦史に残る激戦が開始される。だが、奮闘空しくその日のうちに落城してしまう。これを以て「二本松藩との戦いは易易だった」と罵詈を浴びせる歴史家もいるが、事実はそんな簡単なものではない。
「竹薮に一弾入るや、竹幹に当りて所謂外れ丸となりカラカラと物凄き音を立て飛び去るを以て危険更に増さりぬ、余鉄砲を取直して打たんとすればこは如何に先に竹薮に駆け入りし時敵弾に引金を打貫かれて用をなさず、如何はせんとためらふ不図見付けたるは、砲車の側は横はれる一大木材なり、一抱えもありて長さは四五間に余れり。是れ屈竟の物なりと直に其木材にひたと許りに伏し附き、是れにて大安心いざ戦況を窺はんとせし刹那、隊長打たれたりと云ふ声あり」(二本松少年隊記より)
圧倒的な武力を前に「東北列藩の信を以て滅びよう」と義を貫いた。当時、西軍隊長だった板垣退助も「一藩挙って身命を擲(なげう)ち、斃れて後已むまで戦い抜く、武士道の精髄を尽くしたのは二本松を以て最上とする」と讃えている。
幕末の薩摩藩士で陸軍元帥の野津道貫は、回顧談で「兵数不詳の敵兵は砲列を布いて我軍を邀撃するのであった。我軍は早速之に応戦したが敵は地物を利用して、おまけに射撃はすこぶる正確で、一時我軍は全く前進を阻害された。我軍は正面攻撃では奏功せざる事を覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し辛うじて撃退することを得たが怨恐らく戊辰戦中第一の激戦であったろう」と語っている。(近世国民史)
「おまけに射撃は頗る正確で・・・」というのは、スペンサー(元締め)銃を手に奮闘した二本松少年隊の小澤幾弥のことだろう。幾弥この時、弱冠17歳。戊辰戦争前まで江戸で育った幾弥は、新式のスペンサー銃を二本松藩に持ち込んだ。
二本松の戦いでは、阿武隈川を超え霞ヶ城(二本松城)に殺到する西軍を丘の上から次々と撃ち倒すも、「最早これまで」と砲術師範の朝河八太夫と討ち死にする。八太夫は、平和主義者などと持て囃されている朝河貫一博士の祖父である。
二本松藩には、代々「必殺を期すには、斬らずに突くべし」という刀法が伝わっている。その理由は、浅野内匠頭が江戸城内での一件を聞いた二本松藩初代藩主・丹羽光重が、「何故、浅野公は斬り付けたのか。斬り付けずに突けば好かったものを」と、酷く悔しがったという由来から、以来「斬らずに突け」が伝統となった。
少年隊士・成田才次郎が、出陣の際に父から厳しく訓えられたのも「斬らずに突け」の刀法だった。大壇口から敗走中の混乱で隊士はバラバラになってしまったが、才次郎は単独で行動し二本松城下の郭内まで戻るも戦意は尚も旺盛だった。
才次郎は「必ず敵将を斃してやる」との思いで、一の丁の物陰に潜んでいたところ、馬上豊かな武士が一隊を率いてやってくるのが見えた。長州藩士・白井小四郎が率いる長州藩の部隊だった。才次郎、隊列が目前に来るまで充分に引き付る。
「此処ぞ」と才次郎は大刀を真っ直ぐに構えるや、一気に先頭の白井に向って突進した。然し、歴戦の長州兵はこの遮二無二突進する小さな刺客に即座に反応し、隊長を護るべく馬前に出る。白井は「子供じゃ、手を出すでない」と声を掛ける。
白井は、突っ込んで来るのが子供だと瞬時に見抜き、兵を制した。だが、それが徒となり、才次郎の剣は狙い違わずこの敵将の脇の下から胸部を突き刺した。
白井、堪らず馬上から崩れ落ちた。驚愕した長州兵らは慌てて才次郎を捕えようとするが、刀を振り回す才次郎に近寄ることも出来ない。已む無く鉄砲を使い、漸くこの小さな勇士を倒すことが出来たという。この時、才次郎は若干14歳。
現在、長州藩士・白井小四郎の墓が市内の真行寺に残っている。維新後の明治3年には、長州藩から香華料として金二両が納められた。少年への一瞬の憐憫が自らの死を招いたこの将の墓前には、今でも多くの参詣者からの香華が絶えない。
西軍が城に迫ると、大城代・内藤四郎兵衛は「我は城の主将たり、虚しく内に在って死すべきにあらず」と城門を開いて討って出る。敵軍との奮戦激闘の中、見事な最期を遂げた。四郎兵衛の最期、潔さは、二本松藩士の鑑と称されている。
二本松藩軍事奉行の丹羽和左衛門は床机に腰掛けて割腹し、膝上に広げた軍扇の上に自らの内臓を引き出して立亡していたという。正に鬼神となりし。
「三春に倣うべからず」と徹底抗戦を唱えた家老・丹羽一学は、城の土蔵奉行宅で郡代見習・丹羽新十郎と城代・服部久左衛門と共に壮絶な割腹自刃を遂げた。「風に散る 露の我が身はいとはねど 心にかかる 君が行末」との辞世が、心に響く。
少年隊を始め、多くの二本松藩士や先人らは藩と己の名誉を守る為に堂々と戦い、そして潔く散った。断じて「賊軍」や「逆賊」ではない。こうした純真無垢な殉国精神は、大東亜戦争で散華した特攻隊の英霊の精神と通ずるものが在るだろう。
祖国を守る為に尊い命を捧げた特攻精神は、祖国愛の極致であり、大東亜戦争が自存の為の防衛戦争であったことの証である。人生はどれだけ生きたかではなく、どう生きたかであり、特攻隊員や二本松少年隊の覇気に学ぶものは多い。
山河麗しい二本松に生まれ育った者として、また二本松剣友会の末席を汚した者として、二本松少年隊や先人の生き様に感謝せずにはいられない。合掌再拝。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。会費一般30,000(月2500)円。法人120,000円。協賛会員300,000円~。
慶応4(1868)年、西軍の会津征伐に於いて二本松藩の家老・丹羽一学は「敗戦は必定なれど三春に倣うべからず。二本松は城が灰燼に帰し、一族屍を野に曝すとも武士道と信義に殉ずべきである」と、藩論を徹底抗戦に纏め上げた。
同年7月27日、木村銃太郎隊長(22)に率いられた少年隊士23名が蹶起する。会津白虎隊士の構成年齢が16~17歳だったことに対し、二本松少年隊の最年少隊士の年齢は僅か12歳だった。少年隊は、城下西口の要衝である大壇口に布陣。
7月29日午前9時頃、少年隊は隊伍を組んで進軍してくる西軍に向かい、銃太郎の号令一下、轟然と火を吹いた大砲によって、終に戦史に残る激戦が開始される。だが、奮闘空しくその日のうちに落城してしまう。これを以て「二本松藩との戦いは易易だった」と罵詈を浴びせる歴史家もいるが、事実はそんな簡単なものではない。
「竹薮に一弾入るや、竹幹に当りて所謂外れ丸となりカラカラと物凄き音を立て飛び去るを以て危険更に増さりぬ、余鉄砲を取直して打たんとすればこは如何に先に竹薮に駆け入りし時敵弾に引金を打貫かれて用をなさず、如何はせんとためらふ不図見付けたるは、砲車の側は横はれる一大木材なり、一抱えもありて長さは四五間に余れり。是れ屈竟の物なりと直に其木材にひたと許りに伏し附き、是れにて大安心いざ戦況を窺はんとせし刹那、隊長打たれたりと云ふ声あり」(二本松少年隊記より)
圧倒的な武力を前に「東北列藩の信を以て滅びよう」と義を貫いた。当時、西軍隊長だった板垣退助も「一藩挙って身命を擲(なげう)ち、斃れて後已むまで戦い抜く、武士道の精髄を尽くしたのは二本松を以て最上とする」と讃えている。
幕末の薩摩藩士で陸軍元帥の野津道貫は、回顧談で「兵数不詳の敵兵は砲列を布いて我軍を邀撃するのであった。我軍は早速之に応戦したが敵は地物を利用して、おまけに射撃はすこぶる正確で、一時我軍は全く前進を阻害された。我軍は正面攻撃では奏功せざる事を覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し辛うじて撃退することを得たが怨恐らく戊辰戦中第一の激戦であったろう」と語っている。(近世国民史)
「おまけに射撃は頗る正確で・・・」というのは、スペンサー(元締め)銃を手に奮闘した二本松少年隊の小澤幾弥のことだろう。幾弥この時、弱冠17歳。戊辰戦争前まで江戸で育った幾弥は、新式のスペンサー銃を二本松藩に持ち込んだ。
二本松の戦いでは、阿武隈川を超え霞ヶ城(二本松城)に殺到する西軍を丘の上から次々と撃ち倒すも、「最早これまで」と砲術師範の朝河八太夫と討ち死にする。八太夫は、平和主義者などと持て囃されている朝河貫一博士の祖父である。
二本松藩には、代々「必殺を期すには、斬らずに突くべし」という刀法が伝わっている。その理由は、浅野内匠頭が江戸城内での一件を聞いた二本松藩初代藩主・丹羽光重が、「何故、浅野公は斬り付けたのか。斬り付けずに突けば好かったものを」と、酷く悔しがったという由来から、以来「斬らずに突け」が伝統となった。
少年隊士・成田才次郎が、出陣の際に父から厳しく訓えられたのも「斬らずに突け」の刀法だった。大壇口から敗走中の混乱で隊士はバラバラになってしまったが、才次郎は単独で行動し二本松城下の郭内まで戻るも戦意は尚も旺盛だった。
才次郎は「必ず敵将を斃してやる」との思いで、一の丁の物陰に潜んでいたところ、馬上豊かな武士が一隊を率いてやってくるのが見えた。長州藩士・白井小四郎が率いる長州藩の部隊だった。才次郎、隊列が目前に来るまで充分に引き付る。
「此処ぞ」と才次郎は大刀を真っ直ぐに構えるや、一気に先頭の白井に向って突進した。然し、歴戦の長州兵はこの遮二無二突進する小さな刺客に即座に反応し、隊長を護るべく馬前に出る。白井は「子供じゃ、手を出すでない」と声を掛ける。
白井は、突っ込んで来るのが子供だと瞬時に見抜き、兵を制した。だが、それが徒となり、才次郎の剣は狙い違わずこの敵将の脇の下から胸部を突き刺した。
白井、堪らず馬上から崩れ落ちた。驚愕した長州兵らは慌てて才次郎を捕えようとするが、刀を振り回す才次郎に近寄ることも出来ない。已む無く鉄砲を使い、漸くこの小さな勇士を倒すことが出来たという。この時、才次郎は若干14歳。
現在、長州藩士・白井小四郎の墓が市内の真行寺に残っている。維新後の明治3年には、長州藩から香華料として金二両が納められた。少年への一瞬の憐憫が自らの死を招いたこの将の墓前には、今でも多くの参詣者からの香華が絶えない。
西軍が城に迫ると、大城代・内藤四郎兵衛は「我は城の主将たり、虚しく内に在って死すべきにあらず」と城門を開いて討って出る。敵軍との奮戦激闘の中、見事な最期を遂げた。四郎兵衛の最期、潔さは、二本松藩士の鑑と称されている。
二本松藩軍事奉行の丹羽和左衛門は床机に腰掛けて割腹し、膝上に広げた軍扇の上に自らの内臓を引き出して立亡していたという。正に鬼神となりし。
「三春に倣うべからず」と徹底抗戦を唱えた家老・丹羽一学は、城の土蔵奉行宅で郡代見習・丹羽新十郎と城代・服部久左衛門と共に壮絶な割腹自刃を遂げた。「風に散る 露の我が身はいとはねど 心にかかる 君が行末」との辞世が、心に響く。
少年隊を始め、多くの二本松藩士や先人らは藩と己の名誉を守る為に堂々と戦い、そして潔く散った。断じて「賊軍」や「逆賊」ではない。こうした純真無垢な殉国精神は、大東亜戦争で散華した特攻隊の英霊の精神と通ずるものが在るだろう。
祖国を守る為に尊い命を捧げた特攻精神は、祖国愛の極致であり、大東亜戦争が自存の為の防衛戦争であったことの証である。人生はどれだけ生きたかではなく、どう生きたかであり、特攻隊員や二本松少年隊の覇気に学ぶものは多い。
山河麗しい二本松に生まれ育った者として、また二本松剣友会の末席を汚した者として、二本松少年隊や先人の生き様に感謝せずにはいられない。合掌再拝。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
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2024年07月26日
活動家に求められるのはアジテーター(扇動者)としての資質である
毎日の様に備忘録と暇潰しを兼ねて、徒然なるまゞにSNSやブログでアレコレと綴っている。政治思想や時局への獅子吼もあれば、地元の企業や経営者のスキャンダルもあれば、趣味や酒や食べ歩き、処世術や自戒を込めた記事だったりと色々。
意見の隔絶した人との討論くらい無意味なものはない。思想的な意見なら意見の違いは分かるが、主張が正しいものだという主観が入ると翻意させるのは至難の業だ。それなのに、あ~だこ~だと真剣に論争してる様子は実に滑稽でもある。
珍左翼らや似非平和主義者、或るいは幼稚な反原発派などに共通するのは、自分達こそ正義と思い込み過ぎて言葉が通じないことが実に多い。論争に行き詰まると文章の一部や言葉を論い、己の偏狭な視野で断定して、人格まで否定される。
直接会って話すれば互いの人となりも言わんとすることも、その人の表情などで理解も出来るというものだが、取り繕った上辺の文章だけで伝えるのは至難の業。
相手側の理論的な間違いを文章で指摘したところで、相手側が此方に「敬」を抱くことがなければ、喩えそれが正論であり、また相手を慮っての意見と雖も相手に通ずることはな。相手が左翼となると尚更だが、ネット右翼も似た様なもの(笑)
それだけ固定観念や先入観に囚われてる輩の屁理屈というものは実に厄介なものである。左翼は確信犯だから間違いを指摘されても翻意することはないが、無自覚左翼という戦後民主主義者には聞く耳を持たず、屁理屈を垂れる輩が実に多い。
「人間というものは知性に根拠を持たず、大抵は無意識に、唯感情によってのみ支えられた先入観に囚われていることが稀ではない。こういった本能的な嫌悪、感情的な憎悪、決めつけられた拒否という様な柵を乗り越えることは、欠点のある、或いは誤った学説を正しく直すことよりも千倍も困難である」とはアドルフ・ヒトラー。
愚生はSNSでアレコレと綴っているが文筆家だとは思ってはない。どちらかと言えば愚生は演説家であって、右翼浪人の今でもアジテーターとしての気概は失ってはいない。演説をしてると相手の表情や内面を察することに長けるようにもなる。
文筆家というのは見えない相手に訴えるだけで、その反応や反対意見に接するのもまた文章に因ってだが、演説家というのは話し乍ら相手の反応を窺い知ることが出来るから臨機応変にもなる。噺家(落語家)なんでのは演説家の典型だと思う。
落語家というのは凄いと思う。サゲ(オチ)を知ってる古典落語は何度聞いても笑える。右翼も空気をカネにするなら読書より会話を磨かなきゃダメだ。営業保守らの本なんか買うより、寄席に行って話術というのを盗んで来なさいな(笑)
落語家が聴衆を引き込むにはマクラ(本題に入る前の面白話)が大事で、マクラで聴衆を引き込んで笑いを取ってから本題に入るのだが、マクラが上手いとつい引き込まれてしまう。右翼の演説もいきなり本題から入るから誰も立ち止まらない。
右翼陣営の悪い処は一度書いたものや一度話したことは二度とやらない人が多いが、観念的に同じことを訴えて行くことは大事なことだ。落語家なんて同じ話で儲けてるし、大日本愛国党総裁の赤尾敏の街頭演説なんていつも同じだった。
演説で大事なのは上手く喋ろうというのではなく、自分の言葉で懸命に訴えるのが好い。それが、見栄なのか、恥ずかしいのか、同じ話はやりたがらない。下手くそな演説を勿体ぶってどうすんの。同じ話だってイイじゃないか右翼だもの(笑)
多くの人は自分の意見や理論こそが正しいと思っている。だから、自分の意見と異にする者を説き伏せようとしたり、感化させようとしたりするものだが、これが文章でやるのは至難の業で、やはり顔を合わせて言葉での遣り取りが好い。
ヒトラーはこうも訓えている。「偉大な理論家が偉大な指導者であることは稀で、寧ろ演説家の方が指導者に向いているだろう。指導者であるということは大衆を動かし得るということだからである」。成否は別に田中角栄がその好い喩えだろう。
我が国の政治家が偉大な指導者とは言い難いし演説家は見当たらない。アジテーター(扇動者)として長けてるのは山本太郎くらいなものか。「日本第一党」党首 で「行動する保守運動」代表 の桜井誠なんてのは典型的なアジテーターだ。
桜井は今回の都知事選を最後に第一線からの引退を表明した。何やら人工透析をしてるらしく、肉体的にも限界だったのだろう。愚生の周りの多くは、暴飲暴食を繰り返し不摂生から腎臓を壊した者ばかり。桜井も同じ理由ではなかろうか。
人工透析患者も飽食の時代に於いて年々増加の一途を辿る。透析治療には年間一人約500万円が投入され、一級身体障碍者としての給付金など財政を窮迫している。障碍者として国家に世話になり乍ら、行政批判してりゃ矛盾を突かれるわな。
桜井を嫌う右翼人は少なくないが、日頃から、敵を相手にして説伏しているからああした口調にもなる。そんな反桜井の愛国者に限って何故か山本太郎を持ち上げたりしてるが、要は有名人好きの権威主義なのだがそれさえも気付いていない(笑)
野村秋介の影響か、理論武装宜しく「反共右翼からの脱却」などと悦に入ってるが、右翼の基本は行動であり、アジテーターで在らねばならない。単なる受け売りの文章を上手に喋ろうとするから相手に通じないし、感化されることもない。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。会費一般30,000(月2500)円。法人120,000円。協賛会員300,000円~。
意見の隔絶した人との討論くらい無意味なものはない。思想的な意見なら意見の違いは分かるが、主張が正しいものだという主観が入ると翻意させるのは至難の業だ。それなのに、あ~だこ~だと真剣に論争してる様子は実に滑稽でもある。
珍左翼らや似非平和主義者、或るいは幼稚な反原発派などに共通するのは、自分達こそ正義と思い込み過ぎて言葉が通じないことが実に多い。論争に行き詰まると文章の一部や言葉を論い、己の偏狭な視野で断定して、人格まで否定される。
直接会って話すれば互いの人となりも言わんとすることも、その人の表情などで理解も出来るというものだが、取り繕った上辺の文章だけで伝えるのは至難の業。
相手側の理論的な間違いを文章で指摘したところで、相手側が此方に「敬」を抱くことがなければ、喩えそれが正論であり、また相手を慮っての意見と雖も相手に通ずることはな。相手が左翼となると尚更だが、ネット右翼も似た様なもの(笑)
それだけ固定観念や先入観に囚われてる輩の屁理屈というものは実に厄介なものである。左翼は確信犯だから間違いを指摘されても翻意することはないが、無自覚左翼という戦後民主主義者には聞く耳を持たず、屁理屈を垂れる輩が実に多い。
「人間というものは知性に根拠を持たず、大抵は無意識に、唯感情によってのみ支えられた先入観に囚われていることが稀ではない。こういった本能的な嫌悪、感情的な憎悪、決めつけられた拒否という様な柵を乗り越えることは、欠点のある、或いは誤った学説を正しく直すことよりも千倍も困難である」とはアドルフ・ヒトラー。
愚生はSNSでアレコレと綴っているが文筆家だとは思ってはない。どちらかと言えば愚生は演説家であって、右翼浪人の今でもアジテーターとしての気概は失ってはいない。演説をしてると相手の表情や内面を察することに長けるようにもなる。
文筆家というのは見えない相手に訴えるだけで、その反応や反対意見に接するのもまた文章に因ってだが、演説家というのは話し乍ら相手の反応を窺い知ることが出来るから臨機応変にもなる。噺家(落語家)なんでのは演説家の典型だと思う。
落語家というのは凄いと思う。サゲ(オチ)を知ってる古典落語は何度聞いても笑える。右翼も空気をカネにするなら読書より会話を磨かなきゃダメだ。営業保守らの本なんか買うより、寄席に行って話術というのを盗んで来なさいな(笑)
落語家が聴衆を引き込むにはマクラ(本題に入る前の面白話)が大事で、マクラで聴衆を引き込んで笑いを取ってから本題に入るのだが、マクラが上手いとつい引き込まれてしまう。右翼の演説もいきなり本題から入るから誰も立ち止まらない。
右翼陣営の悪い処は一度書いたものや一度話したことは二度とやらない人が多いが、観念的に同じことを訴えて行くことは大事なことだ。落語家なんて同じ話で儲けてるし、大日本愛国党総裁の赤尾敏の街頭演説なんていつも同じだった。
演説で大事なのは上手く喋ろうというのではなく、自分の言葉で懸命に訴えるのが好い。それが、見栄なのか、恥ずかしいのか、同じ話はやりたがらない。下手くそな演説を勿体ぶってどうすんの。同じ話だってイイじゃないか右翼だもの(笑)
多くの人は自分の意見や理論こそが正しいと思っている。だから、自分の意見と異にする者を説き伏せようとしたり、感化させようとしたりするものだが、これが文章でやるのは至難の業で、やはり顔を合わせて言葉での遣り取りが好い。
ヒトラーはこうも訓えている。「偉大な理論家が偉大な指導者であることは稀で、寧ろ演説家の方が指導者に向いているだろう。指導者であるということは大衆を動かし得るということだからである」。成否は別に田中角栄がその好い喩えだろう。
我が国の政治家が偉大な指導者とは言い難いし演説家は見当たらない。アジテーター(扇動者)として長けてるのは山本太郎くらいなものか。「日本第一党」党首 で「行動する保守運動」代表 の桜井誠なんてのは典型的なアジテーターだ。
桜井は今回の都知事選を最後に第一線からの引退を表明した。何やら人工透析をしてるらしく、肉体的にも限界だったのだろう。愚生の周りの多くは、暴飲暴食を繰り返し不摂生から腎臓を壊した者ばかり。桜井も同じ理由ではなかろうか。
人工透析患者も飽食の時代に於いて年々増加の一途を辿る。透析治療には年間一人約500万円が投入され、一級身体障碍者としての給付金など財政を窮迫している。障碍者として国家に世話になり乍ら、行政批判してりゃ矛盾を突かれるわな。
桜井を嫌う右翼人は少なくないが、日頃から、敵を相手にして説伏しているからああした口調にもなる。そんな反桜井の愛国者に限って何故か山本太郎を持ち上げたりしてるが、要は有名人好きの権威主義なのだがそれさえも気付いていない(笑)
野村秋介の影響か、理論武装宜しく「反共右翼からの脱却」などと悦に入ってるが、右翼の基本は行動であり、アジテーターで在らねばならない。単なる受け売りの文章を上手に喋ろうとするから相手に通じないし、感化されることもない。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。会費一般30,000(月2500)円。法人120,000円。協賛会員300,000円~。
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2024年07月23日
「病気とは何を食べどんな生活をして来たかに尽きる」という
「病気とは何を食べどんな生活をして来たかに尽きる」という。斯くいう愚生もここのところ調子が悪く、血液検査をしたら「要精密検査」。親が亡くなって初めて親の有難味が分かる様に、体調を崩して初めて健康の有難さというものを痛感する。
令和4年度の医療費は約46兆円で2年連続で過去最高を更新した。単純に、我が国の歳入約70兆円の約7割が医療費。医療費が50兆円を超えるのは必至で、歳入が減れば医療費に因って国家財政が危機的状況になってしまう可能性は少なくない。
何故に医療費が増大して行くのかといえば、日本医師会の我田引水的な拝金主義的医療制度に目を瞑り、票とカネ(政治献金)目当ての政治家に因って医療制度や医療行政の改革に手を拱いたことが大きな要因である言っても過言ではない。
医療制度の改革は先ず、自民党を始めとした政治家と日本医師会との卑しい関係を矯正し、補助金利権の闇を糺す必要があるが、その実行は限りなく不可能に近い。医療や社会福祉を優先する余りに、国家が破綻することがあってはならない。
以前、自民党の麻生太郎が医療費負担について「食いたいだけ食って、飲みたいだけ飲んで、糖尿病になって病院に入っているヤツの医療費は俺達が払っている。公平ではない。無性に腹が立つ」と語り、物議を呼んだことは記憶に新しい。
麻生は、医療費の抑制策として、健康で病院に通わずに医療費の負担が無かった高齢者に対して「『10万円をあげる』と言ったら、医療費は下がる。それが最もカネが掛からない方法だ」とのアイデアを披歴したが、一理あるアイデアだった。
医療費に限らず、介護保険でもそうだが「利用しなきゃ損」みたいな風潮に一石を投じる意味でも、麻生の「健康高齢者褒賞金制度」は面白い試みであり、是非とも実行して頂きたいものだと思ったものだが未だ実現には至っていない。
麻生は終末医療についても「私は少なくとも遺書を書いて、そういうことをして貰う必要はない、さっさと死ぬからと書いて渡しているが、そういうことが出来ないと死ねません。いい加減、死にたいと思っても『生きられますから』なんて生かされたんじゃ、叶わない。しかも政府の金で(高額医療を)やってもらっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねる様にして貰わないと」と語ってるがこれも正論だ。
「残存生命期間にかける金が月に一千何百万円だという現実を厚労省も一番よく知っている筈だ」とし、終末医療での財政負担が重い現状を指摘している。
人工透析患者も飽食の時代の弊害か年々増加の一途を辿る。透析治療には年間一人約500万円が投入され、一級身体障碍者としての給付金など財政を窮迫している。人工透析の予算はあらゆる病理に対する社会保障の中でも伸び率が断トツで高い。
以前、元フジテレビアナウンサーの長谷川豊が、自身のブログ「本気論・本音論」で「医者の言うことを何年も無視し続けて、自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか?」と訴え、「人工透析患者は実費負担にさせよ。無理だと泣くなら殺せ!」と問題提起した。検証の上に立った正鵠を射た意見だったが、何故か「殺せ!」が曲解され総バッシングを受けることとなった。
国家予算に占める医療費負担は年々殖えるばかりで、今や我が国の財政を危機的な状況にしている。医療費の現実や医療の実態を国民一人一人が知り、考えることは大事なことで、長谷川のブログはそうした医療の現状に一石を投じるものだった。だが、ブログの真意が曲解され伝わっていることに違和感と危機感を覚えた。
長谷川の「医者の言うことを何年も無視し続けて、自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか?今のシステムは日本を亡ぼすだけだ」との主張と、麻生の「食いたいだけ食って、飲みたいだけ飲んで、糖尿病になって病院に入っているヤツの医療費は俺達が払っている。公平ではない。無性に腹が立つ」との意見は然程変わらないと思うが、何故か長谷川だけが糾弾された。
ブログでの「殺せ!」との言葉だけを以て指弾されるのであれば本末転倒である。長谷川への抗議や番組降板の裏で全国腎臓病協議会(全腎協)や日本医師会の圧力があったのだとすれば言語道断、忌忌しき事態であると言わざるを得ない。
「医者の言うことを何にも聞かず、医者が処方する薬も正確に飲みもせず、看護師に暴言を吐き、家族が止めても酒を飲み続け『うまいもん食って何が悪いんだ!』と暴れ…その結果、人工透析まで至った患者がいますよね?正直に答えてくださいよ。大変申し訳ないが、かなりの数、いますよね?そういう人たちにまで、『全額を国で負担しましょうね~』なんて…そんなシステム…もう持つわけないでしょうが」
その上で長谷川は、全腎協などに対し「責任ある社団法人の、それは勤めではないですか?あなた方は透析患者と透析病院の利権集団のおつもりか?だとしたら、とっとと解散すべきだ。そんな集団は今の時代に合わない!」。これこそブログタイトル通りの「本気論」「本音論」だと思うが、長谷川の苦言は届くことは無かった。
愚生の身近な人工透析患者も、或いはサウナなどで会った人工透析を受けてる人になった原因を聞くと、「バカみたいに暴飲暴食を繰り返す」「腹は出る、腰は痛める。周囲に注意されているのに、無視」「それでも食べ続け、運動もしない」「周囲は必死に注意。でも無視」「で、糖尿病になる」「にも関わらず、運動もしない、食事も先生から言われたことをろくに守らず好き放題」と、長谷川が指摘した通り。
そして、ついに人工透析患者になった。愚生の周りには、刺青や覚醒剤が原因でC型肝炎になった奴も少なくないが、これも自業自得で、それらの治療の優遇制度にも違和感を覚える。肝炎になった要因次第では治療費の見直しは必要だと思う。
正に「病気とは何を食べどんな生活をして来たかに尽きる」に尽きる訳で、長年の日常生活の悪因悪果は自業自得という他は無い。そうした自堕落な生活を問題にせず、無制限に血税を投入することに違和感を覚えるのは当然のことで、長谷川に限らず現在の医療行政に一石を投じることは、恕(じょ)から出でる正義感でもある。
斯くいう愚生の病状も自堕落な生活からの悪因悪果か。高度医療などは財政的余裕が無いから自然治癒に頼るしかない。余命宣告でも受けたら、その天命を諒として、余生を維新者として足掻いてみたいとは思うが、晩節は穏やかな日々を過ごした方が好いな。まぁ「憎まれっ子世に憚る」で意外と自然治癒するかもな。呵呵
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。会費一般30,000(月2,500)円。法人120,000円。協賛会員300,000円~。
令和4年度の医療費は約46兆円で2年連続で過去最高を更新した。単純に、我が国の歳入約70兆円の約7割が医療費。医療費が50兆円を超えるのは必至で、歳入が減れば医療費に因って国家財政が危機的状況になってしまう可能性は少なくない。
何故に医療費が増大して行くのかといえば、日本医師会の我田引水的な拝金主義的医療制度に目を瞑り、票とカネ(政治献金)目当ての政治家に因って医療制度や医療行政の改革に手を拱いたことが大きな要因である言っても過言ではない。
医療制度の改革は先ず、自民党を始めとした政治家と日本医師会との卑しい関係を矯正し、補助金利権の闇を糺す必要があるが、その実行は限りなく不可能に近い。医療や社会福祉を優先する余りに、国家が破綻することがあってはならない。
以前、自民党の麻生太郎が医療費負担について「食いたいだけ食って、飲みたいだけ飲んで、糖尿病になって病院に入っているヤツの医療費は俺達が払っている。公平ではない。無性に腹が立つ」と語り、物議を呼んだことは記憶に新しい。
麻生は、医療費の抑制策として、健康で病院に通わずに医療費の負担が無かった高齢者に対して「『10万円をあげる』と言ったら、医療費は下がる。それが最もカネが掛からない方法だ」とのアイデアを披歴したが、一理あるアイデアだった。
医療費に限らず、介護保険でもそうだが「利用しなきゃ損」みたいな風潮に一石を投じる意味でも、麻生の「健康高齢者褒賞金制度」は面白い試みであり、是非とも実行して頂きたいものだと思ったものだが未だ実現には至っていない。
麻生は終末医療についても「私は少なくとも遺書を書いて、そういうことをして貰う必要はない、さっさと死ぬからと書いて渡しているが、そういうことが出来ないと死ねません。いい加減、死にたいと思っても『生きられますから』なんて生かされたんじゃ、叶わない。しかも政府の金で(高額医療を)やってもらっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねる様にして貰わないと」と語ってるがこれも正論だ。
「残存生命期間にかける金が月に一千何百万円だという現実を厚労省も一番よく知っている筈だ」とし、終末医療での財政負担が重い現状を指摘している。
人工透析患者も飽食の時代の弊害か年々増加の一途を辿る。透析治療には年間一人約500万円が投入され、一級身体障碍者としての給付金など財政を窮迫している。人工透析の予算はあらゆる病理に対する社会保障の中でも伸び率が断トツで高い。
以前、元フジテレビアナウンサーの長谷川豊が、自身のブログ「本気論・本音論」で「医者の言うことを何年も無視し続けて、自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか?」と訴え、「人工透析患者は実費負担にさせよ。無理だと泣くなら殺せ!」と問題提起した。検証の上に立った正鵠を射た意見だったが、何故か「殺せ!」が曲解され総バッシングを受けることとなった。
国家予算に占める医療費負担は年々殖えるばかりで、今や我が国の財政を危機的な状況にしている。医療費の現実や医療の実態を国民一人一人が知り、考えることは大事なことで、長谷川のブログはそうした医療の現状に一石を投じるものだった。だが、ブログの真意が曲解され伝わっていることに違和感と危機感を覚えた。
長谷川の「医者の言うことを何年も無視し続けて、自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか?今のシステムは日本を亡ぼすだけだ」との主張と、麻生の「食いたいだけ食って、飲みたいだけ飲んで、糖尿病になって病院に入っているヤツの医療費は俺達が払っている。公平ではない。無性に腹が立つ」との意見は然程変わらないと思うが、何故か長谷川だけが糾弾された。
ブログでの「殺せ!」との言葉だけを以て指弾されるのであれば本末転倒である。長谷川への抗議や番組降板の裏で全国腎臓病協議会(全腎協)や日本医師会の圧力があったのだとすれば言語道断、忌忌しき事態であると言わざるを得ない。
「医者の言うことを何にも聞かず、医者が処方する薬も正確に飲みもせず、看護師に暴言を吐き、家族が止めても酒を飲み続け『うまいもん食って何が悪いんだ!』と暴れ…その結果、人工透析まで至った患者がいますよね?正直に答えてくださいよ。大変申し訳ないが、かなりの数、いますよね?そういう人たちにまで、『全額を国で負担しましょうね~』なんて…そんなシステム…もう持つわけないでしょうが」
その上で長谷川は、全腎協などに対し「責任ある社団法人の、それは勤めではないですか?あなた方は透析患者と透析病院の利権集団のおつもりか?だとしたら、とっとと解散すべきだ。そんな集団は今の時代に合わない!」。これこそブログタイトル通りの「本気論」「本音論」だと思うが、長谷川の苦言は届くことは無かった。
愚生の身近な人工透析患者も、或いはサウナなどで会った人工透析を受けてる人になった原因を聞くと、「バカみたいに暴飲暴食を繰り返す」「腹は出る、腰は痛める。周囲に注意されているのに、無視」「それでも食べ続け、運動もしない」「周囲は必死に注意。でも無視」「で、糖尿病になる」「にも関わらず、運動もしない、食事も先生から言われたことをろくに守らず好き放題」と、長谷川が指摘した通り。
そして、ついに人工透析患者になった。愚生の周りには、刺青や覚醒剤が原因でC型肝炎になった奴も少なくないが、これも自業自得で、それらの治療の優遇制度にも違和感を覚える。肝炎になった要因次第では治療費の見直しは必要だと思う。
正に「病気とは何を食べどんな生活をして来たかに尽きる」に尽きる訳で、長年の日常生活の悪因悪果は自業自得という他は無い。そうした自堕落な生活を問題にせず、無制限に血税を投入することに違和感を覚えるのは当然のことで、長谷川に限らず現在の医療行政に一石を投じることは、恕(じょ)から出でる正義感でもある。
斯くいう愚生の病状も自堕落な生活からの悪因悪果か。高度医療などは財政的余裕が無いから自然治癒に頼るしかない。余命宣告でも受けたら、その天命を諒として、余生を維新者として足掻いてみたいとは思うが、晩節は穏やかな日々を過ごした方が好いな。まぁ「憎まれっ子世に憚る」で意外と自然治癒するかもな。呵呵
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。会費一般30,000(月2,500)円。法人120,000円。協賛会員300,000円~。
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2024年07月18日
汝、ゆめ晴天の友となる勿れ、雨天の友となれ!
過日、日暮里在住の畏友から鬼子母神の入谷朝顔市の鉢植えが届いた。もう何年になるだろう。団体を辞して以来、兄弟分やら舎弟分やら諸先生方、諸先輩などが離れて行く中で、昔と変わらず付き合ってくれる友がいるというのはホント有り難い。
クーラーが無い拙宅では朝顔は正に一服の清涼剤である。だが、昨年の猛暑は朝顔と扇風機では対処出来ずに夫婦共に熱中症になり罹りエライ目に遭った。流石に今年はエアコンが無いとヤバそうなのでジャパネットたかたに世話になりました(笑)
「汝、ゆめ晴天の友となる勿れ、雨天の友となれ」という言葉がある。天気の良い時というか、順調な時にだけは付き合うが、少し具合が悪くなると、いつの間にか遠ざかって寄り付かなくなる。こういう付き合いを「晴天の友」という。
「晴天(順調な人生)の人と友達になろうとはするな。寧ろ雨天(苦難に直面)の人に心を寄り添える様な人間になろう」という意味だが、人間落ち目になったりすると遠ざかって行くのは常。人というのは多くは権威主義だから当然のことでもある。
「人の痛みの分かる人間になれ」というが、人の痛みなんぞそう分かるものではなく、他人の痛みというのは所詮は他人事。愚生も64年生きて来たが、痛み(苦労)を分かるのは両親や女房くらいなもので、そんな御仁に御目にかかったことも無い。
いたとしても、相手の悩みや苦しみを聞いて、如何にも同情しているフリをしているに過ぎない。そういうヤツに悩みや弱みを見せれば、単に恥を曝すことにもなり兼ねない。「人の不幸は蜜の味」ではないが、それが人間の性でもある(笑)
出世出来ないのも、設立した会社が倒産したりするのも要は実力が無いからに尽きる。そんな弱者に寄り添ってくれる人など世の中にはいないと思った方が好い。
逆境やピンチになると、人というのは潜在能力を発揮するものなのだが、その逆境やピンチを避けてしまったり、悩み事を直ぐに吐露するというのは如何なものか。
人間というのは精神が弱い故に誰かに縋りたくなるのだろうが、困難を経験することでその先に繋がるのも確かなこと。それらの悩みや困難を避けてどうするのか。眼前の悩みなんぞ死に逝く特攻隊員の渾身の悩みに比べればどうってことは無い。
苦難とは危険を教える慈悲の鞭でもある。幸福と苦難は表裏一体であり苦難の本質を弁えれば、人生の苦難や悩みとはやはり天の与えた試練と考えるべきだ。
未だ起きてもいないことに、また将来のことを気に病んでいるよりも、今日一日を本気で真剣に生きることに心血を注げ。「一日一生」とはそういうことである。
人というのはどうしても自分よりも強い者には媚び諂うが、自分より弱い者や自分の能力より劣る者には強気に出るし、外見や肩書などで見下したりする。
「弱きを助け、強きを挫く」のが仁侠道だが、今やそうしたヤクザはおらず単なる暴力団と化してるが、社会全体も弱い者が淘汰される「仁義なき戦い」そのもので、社会構造そのものが自己中心的で金銭欲逞しい暴力団とどっこいどっこい。
ヤクザというのはそうしたことを理解しているから見栄を張る。高級車を乗り回し、仕立物の背広を着て、高給時計を身に着けては偉くなったと勘違い。
組織の名刺ひとつでも貫目が違えば見下し、上の者には諂屈する。漢(おとこ)の世界などとカッコつけたところで、所詮は見かけ倒しの世界でしかない。今や右翼団体もその任侠道とは程遠い暴力団傘下に甘んじているのだから何かを況んや。
要するに、現代に生きる人というのは外見や肩書でしか判断しないし、そうした者にとっての価値感というのはその程度のものなので気にする必要もない。
愚生の嫌いな輩というのは「貧銭を以ってこれを軽蔑する者は 富貴を以ってこれに諂屈する(吉田松陰)」という手合い。こういう手合いが暴力団や右翼の世界にはうじゃうじゃいる。こういう輩は何事も掌返しが御上手で晴天の友ばかり(笑)
そういう意味では幼馴染みや同級生というのは貴重な存在で、ノンポリで政治のことなんぞ知らないが、会えばいつも同じに接してくれる。順調な時も、そうでない時も同じ様に接してくれる友が一人でもいてくれたら人生捨てたもんじゃない。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30,000円(月2500円)。法人120,000円。協賛会員300,000円~。
クーラーが無い拙宅では朝顔は正に一服の清涼剤である。だが、昨年の猛暑は朝顔と扇風機では対処出来ずに夫婦共に熱中症になり罹りエライ目に遭った。流石に今年はエアコンが無いとヤバそうなのでジャパネットたかたに世話になりました(笑)
「汝、ゆめ晴天の友となる勿れ、雨天の友となれ」という言葉がある。天気の良い時というか、順調な時にだけは付き合うが、少し具合が悪くなると、いつの間にか遠ざかって寄り付かなくなる。こういう付き合いを「晴天の友」という。
「晴天(順調な人生)の人と友達になろうとはするな。寧ろ雨天(苦難に直面)の人に心を寄り添える様な人間になろう」という意味だが、人間落ち目になったりすると遠ざかって行くのは常。人というのは多くは権威主義だから当然のことでもある。
「人の痛みの分かる人間になれ」というが、人の痛みなんぞそう分かるものではなく、他人の痛みというのは所詮は他人事。愚生も64年生きて来たが、痛み(苦労)を分かるのは両親や女房くらいなもので、そんな御仁に御目にかかったことも無い。
いたとしても、相手の悩みや苦しみを聞いて、如何にも同情しているフリをしているに過ぎない。そういうヤツに悩みや弱みを見せれば、単に恥を曝すことにもなり兼ねない。「人の不幸は蜜の味」ではないが、それが人間の性でもある(笑)
出世出来ないのも、設立した会社が倒産したりするのも要は実力が無いからに尽きる。そんな弱者に寄り添ってくれる人など世の中にはいないと思った方が好い。
逆境やピンチになると、人というのは潜在能力を発揮するものなのだが、その逆境やピンチを避けてしまったり、悩み事を直ぐに吐露するというのは如何なものか。
人間というのは精神が弱い故に誰かに縋りたくなるのだろうが、困難を経験することでその先に繋がるのも確かなこと。それらの悩みや困難を避けてどうするのか。眼前の悩みなんぞ死に逝く特攻隊員の渾身の悩みに比べればどうってことは無い。
苦難とは危険を教える慈悲の鞭でもある。幸福と苦難は表裏一体であり苦難の本質を弁えれば、人生の苦難や悩みとはやはり天の与えた試練と考えるべきだ。
未だ起きてもいないことに、また将来のことを気に病んでいるよりも、今日一日を本気で真剣に生きることに心血を注げ。「一日一生」とはそういうことである。
人というのはどうしても自分よりも強い者には媚び諂うが、自分より弱い者や自分の能力より劣る者には強気に出るし、外見や肩書などで見下したりする。
「弱きを助け、強きを挫く」のが仁侠道だが、今やそうしたヤクザはおらず単なる暴力団と化してるが、社会全体も弱い者が淘汰される「仁義なき戦い」そのもので、社会構造そのものが自己中心的で金銭欲逞しい暴力団とどっこいどっこい。
ヤクザというのはそうしたことを理解しているから見栄を張る。高級車を乗り回し、仕立物の背広を着て、高給時計を身に着けては偉くなったと勘違い。
組織の名刺ひとつでも貫目が違えば見下し、上の者には諂屈する。漢(おとこ)の世界などとカッコつけたところで、所詮は見かけ倒しの世界でしかない。今や右翼団体もその任侠道とは程遠い暴力団傘下に甘んじているのだから何かを況んや。
要するに、現代に生きる人というのは外見や肩書でしか判断しないし、そうした者にとっての価値感というのはその程度のものなので気にする必要もない。
愚生の嫌いな輩というのは「貧銭を以ってこれを軽蔑する者は 富貴を以ってこれに諂屈する(吉田松陰)」という手合い。こういう手合いが暴力団や右翼の世界にはうじゃうじゃいる。こういう輩は何事も掌返しが御上手で晴天の友ばかり(笑)
そういう意味では幼馴染みや同級生というのは貴重な存在で、ノンポリで政治のことなんぞ知らないが、会えばいつも同じに接してくれる。順調な時も、そうでない時も同じ様に接してくれる友が一人でもいてくれたら人生捨てたもんじゃない。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30,000円(月2500円)。法人120,000円。協賛会員300,000円~。
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2024年07月15日
「海の日」は7月20日でなくてはならない理由がある
今日は「海の日」。本来は7月20日でなければならない理由がある。祝日法では「国民が海の恩恵に感謝し、海洋国家の繁栄を祝う日」とされている。だが、海の日の本来の意味は「海の恩恵に感謝する」という趣旨とは全く違うものだ。
「国民が海の恩恵に感謝し、海洋国家の繁栄を祝う日」という趣旨は、本来の「海の日」の趣旨とは全く違う。「海の日」が単なる休日の一つにされ、ハッピーマンデーとされてしまっていることは、日本人の精神的幼稚さを示すものの一つである。
「海の日」をハッピーマンデーに組み入れてるのに、何故か「山の日」は8月11日と固定化されている。「山の日」は「八」と「11」で「山」とは単なる語呂合わせで出来た祝日だが、盆入りを早めて観光や経済浮揚に繋げようとは笑止千万。
戊辰戦争で「朝敵」「逆賊」に仕立てられた会津藩を始めとした東軍は、不毛の領地であった「斗南藩」に移されることで終結する。開拓は艱難辛苦を極めたが、その開拓がその後の津軽、青森の発展に寄与したことは言うまでもない。
戊辰戦争で徳川幕府に恩義を感じ、敗戦を覚悟の上で抗戦し、敗れた東軍の雄藩は、長州閥の新政府に参政することなく不毛の地で辛苦の日々を送っていた。
西軍に因って「賊軍」との汚名を着せられた東日本の方々は、新政府に対して言いたいことは山程あっただろう。だが、彼らは臥薪嘗胆、自分達が耐えることで国家全体が保たれるのならばと悲運を甘受し、その抗し難い天命を潔しとした。
明治9年6月2日、明治天皇は「明治丸」にて横浜港を出港し、東北・北海道へ約50日に及ぶ巡幸に臨まれた。東北の各地を巡り、函館に寄港し、そして横浜に帰港された日が7月20日であり、この帰港の日に因んだ記念日が「海の日」である。
明治天皇巡幸の目的は、戊辰戦争に敗れて以降、艱難辛苦の日々を送っていた人々を慰撫し、激励する為のものに他ならない。本来ならばこの巡幸を以て、賊軍とされた方々の汚名を雪ぐべきだったが長州閥の明治政府は傍観を極め込んだ。
明治丸で福島県いわき市に上陸。一路馬車で郡山へ向かう。福島から仙台、岩手、青森と北上。次いで明治丸で津軽海峡を渡り函館を経て、三陸沖を海路を戻るというコースを辿っている。 この間、東北の人々は巡幸の先々で奉迎した。
明治天皇は各地で開墾や産業の振興に尽くした功労者を労らわれている。愚生の住む郡山市(安積村)では、荒野を拓いて出来たばかりの桑野村(桑野)まで分け入り、士族であった開拓者の苦労話に耳を傾けられ、金5万円を下賜されたという。
青森県弘前に在る私学「東奥義塾」では外国人教師による英語教育が行われていて、生徒10名が陛下の前で英語を披露した。明治天皇はその進取の気象に感心され「ウェブスター辞書を買う代金に」と一人一人に金5円を与えられたという。
別の地では、小学生が献上してくれた蛍一籠を嘉納され、岩手の地では太布半纏(ふとのばんてん)と呼ばれる農民の仕事着まで買い上げられたという。東北の人々との間に親しく絆を結ぼうと努める明治天皇の面影が偲ばれる逸話であろう。
東日本大震災と原発事故に疲弊する我々東北人にとって、被災地に思いを寄せる上皇陛下の大御心と通じるものがある。この様な由緒を持つ記念日が「ハッピーマンデー」などの都合で、その意味を薄れさせ単なる休日の一つにされてしまった。
「ハッピーマンデー」の目的は国體の破壊であり、左翼陣営はこうした既成事実を積み重ねることで、我が国の歴史や伝統、文化を否定する論拠とする。こうした愚策に自民党や保守を標榜する政治家が同調して来たのは実に御粗末なことだ。
国體破壊を目指す左翼陣営の最終目的は「勤労感謝の日(新嘗祭)」と「建国記念日(紀元節)」を「ハッピーマンデー」に組み入れることである。国民もまた「連休は嬉しい」などと安易な気持ちで同調することがあってはならない。
我が国の祝日の半分が、神道の祭日に由来することが我慢ならない左翼陣営は、「ハッピーマンデー」という愚策で神道を葬ろうとしているが、祝祭日を本来の我が国の在るべき姿に見直すことは喫緊の課題であり、日本人としての義務である。
建国記念の日を「紀元節」、春分の日を「春季皇霊祭」、秋分の日を「秋季皇霊祭」、勤労感謝の日を「新嘗祭」と本来の名称に戻し、意味の無い祝日を廃止し、4月3日を「神武天皇祭」、10月17日を「神嘗祭」として復活させる事は、GHQが謀った戦後体制からの脱却及び我が国體と国柄を取り戻すことにもなるのだ。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。会費一般30,000(月2,500)円。法人120,000円。協賛会員300,000円~。
「国民が海の恩恵に感謝し、海洋国家の繁栄を祝う日」という趣旨は、本来の「海の日」の趣旨とは全く違う。「海の日」が単なる休日の一つにされ、ハッピーマンデーとされてしまっていることは、日本人の精神的幼稚さを示すものの一つである。
「海の日」をハッピーマンデーに組み入れてるのに、何故か「山の日」は8月11日と固定化されている。「山の日」は「八」と「11」で「山」とは単なる語呂合わせで出来た祝日だが、盆入りを早めて観光や経済浮揚に繋げようとは笑止千万。
戊辰戦争で「朝敵」「逆賊」に仕立てられた会津藩を始めとした東軍は、不毛の領地であった「斗南藩」に移されることで終結する。開拓は艱難辛苦を極めたが、その開拓がその後の津軽、青森の発展に寄与したことは言うまでもない。
戊辰戦争で徳川幕府に恩義を感じ、敗戦を覚悟の上で抗戦し、敗れた東軍の雄藩は、長州閥の新政府に参政することなく不毛の地で辛苦の日々を送っていた。
西軍に因って「賊軍」との汚名を着せられた東日本の方々は、新政府に対して言いたいことは山程あっただろう。だが、彼らは臥薪嘗胆、自分達が耐えることで国家全体が保たれるのならばと悲運を甘受し、その抗し難い天命を潔しとした。
明治9年6月2日、明治天皇は「明治丸」にて横浜港を出港し、東北・北海道へ約50日に及ぶ巡幸に臨まれた。東北の各地を巡り、函館に寄港し、そして横浜に帰港された日が7月20日であり、この帰港の日に因んだ記念日が「海の日」である。
明治天皇巡幸の目的は、戊辰戦争に敗れて以降、艱難辛苦の日々を送っていた人々を慰撫し、激励する為のものに他ならない。本来ならばこの巡幸を以て、賊軍とされた方々の汚名を雪ぐべきだったが長州閥の明治政府は傍観を極め込んだ。
明治丸で福島県いわき市に上陸。一路馬車で郡山へ向かう。福島から仙台、岩手、青森と北上。次いで明治丸で津軽海峡を渡り函館を経て、三陸沖を海路を戻るというコースを辿っている。 この間、東北の人々は巡幸の先々で奉迎した。
明治天皇は各地で開墾や産業の振興に尽くした功労者を労らわれている。愚生の住む郡山市(安積村)では、荒野を拓いて出来たばかりの桑野村(桑野)まで分け入り、士族であった開拓者の苦労話に耳を傾けられ、金5万円を下賜されたという。
青森県弘前に在る私学「東奥義塾」では外国人教師による英語教育が行われていて、生徒10名が陛下の前で英語を披露した。明治天皇はその進取の気象に感心され「ウェブスター辞書を買う代金に」と一人一人に金5円を与えられたという。
別の地では、小学生が献上してくれた蛍一籠を嘉納され、岩手の地では太布半纏(ふとのばんてん)と呼ばれる農民の仕事着まで買い上げられたという。東北の人々との間に親しく絆を結ぼうと努める明治天皇の面影が偲ばれる逸話であろう。
東日本大震災と原発事故に疲弊する我々東北人にとって、被災地に思いを寄せる上皇陛下の大御心と通じるものがある。この様な由緒を持つ記念日が「ハッピーマンデー」などの都合で、その意味を薄れさせ単なる休日の一つにされてしまった。
「ハッピーマンデー」の目的は国體の破壊であり、左翼陣営はこうした既成事実を積み重ねることで、我が国の歴史や伝統、文化を否定する論拠とする。こうした愚策に自民党や保守を標榜する政治家が同調して来たのは実に御粗末なことだ。
国體破壊を目指す左翼陣営の最終目的は「勤労感謝の日(新嘗祭)」と「建国記念日(紀元節)」を「ハッピーマンデー」に組み入れることである。国民もまた「連休は嬉しい」などと安易な気持ちで同調することがあってはならない。
我が国の祝日の半分が、神道の祭日に由来することが我慢ならない左翼陣営は、「ハッピーマンデー」という愚策で神道を葬ろうとしているが、祝祭日を本来の我が国の在るべき姿に見直すことは喫緊の課題であり、日本人としての義務である。
建国記念の日を「紀元節」、春分の日を「春季皇霊祭」、秋分の日を「秋季皇霊祭」、勤労感謝の日を「新嘗祭」と本来の名称に戻し、意味の無い祝日を廃止し、4月3日を「神武天皇祭」、10月17日を「神嘗祭」として復活させる事は、GHQが謀った戦後体制からの脱却及び我が国體と国柄を取り戻すことにもなるのだ。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。会費一般30,000(月2,500)円。法人120,000円。協賛会員300,000円~。
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2024年07月13日
「みたままつり」に行くべきか、やっぱり止めようか・・・
本日13日~16日、靖國神社では「みたままつり」が斎行される。春秋の例大祭などとは違い堅苦しさもなく、英霊の方々に対する畏敬や欽仰を肌で感じる。祖先霊を供養し、苦しんでいる亡者を救う祭りは支那大陸でも行われている風習と同じ。
「みたままつり」は盆行事ということもあって、御霊の囁きに触れる好い機会であり、みたままつりに靖國の本来の日本の姿を見る。こうした伝統行事に触れる度に、正に我が国は随神(かんながら)の道を歩んで来た有難い国だと痛感する。
団体(防共挺身隊)を辞してからというもの慢性的不如意もあって上京する機会もめっきり減って、贔屓の店にもとんと行かなくなってしまった。自称・愛国者に怒られそうだが、靖國神社に詣でた後の直会というか一献が愉しみでもある。
上野で下車し、「蓬莱屋」のとんかつや「蓮玉庵」の蕎麦前をつまみにでチョイ飲み。蓮玉庵は池波正太郎や文人墨客、落語家などに愛された名店。福島や山形の本物の蕎麦を知っている者として流石に江戸前の蕎麦はイマイチだが雰囲気が好い。
「切って切れるは蕎麦なれど、切っても切れぬは蕎麦と酒」。風情の好い蕎麦屋というのは客の空いた時間にスッと寄って飲むのが好いが、人気蕎麦店になると忙しい時間帯の酒飲みの客というのは歓迎されない。昼過ぎに蕎麦前を楽しむのが好い。
鰻なら石川台のその名も「鰻家」が最高。ここは蒲焼きも絶品だが、女将が作る茶碗蒸しが絶品。鰻家の近くでは、長嶋終身名誉監督が贔屓にしてる田園調布駅前の人気店「鳥鍈(とりえい)」や、鰻屋の名店「平八」で昼呑みするのが至福。
平八の一階は焼鳥屋で夕方からの営業だが、二階は鰻屋になっていて雰囲気好し。酒肴といい、銘酒が揃っていて、限定の肝焼きや気の利いたつまみで冷酒を愉しんで鰻重で〆るのが好い。田園調布本町に住んでた頃は、酔った最後は雪が谷大塚の「B-奈」でカラオケってのが定番だった。奈ちゃんの「渡良瀬橋」を聴きたいなぁ♪
旗の台に在る焼鳥屋「鳥樹」は鳥鍈より美味い。この店を知ったのは、何故か郡山市の某ヤクザから「鳥樹に行きたいな」と言われたのがきっかけだった。
プロレスラー御用達の五反田の「ステーキ・リベラ」も久しく行ってないな。ビックサイズのステーキを食べると何となく元気が出る様な気がするし(笑)
浜松町のもつ焼きの名店「秋田屋」のつくね(特製たたき肉だんご)や、蒲田の「八幸」も恋しいなぁ。愚生が防挺に入隊した頃の本部事務所は浜松町に在り、ビラ貼りや運動の帰りに「秋田屋」に立ち寄り、先輩に馳走に預かったのを思い出す。
銀座では路地裏の名店「小笹寿司」や、その向かいに在るフレンチの「ビストロ・カシュカシュ」。銀座のおねえちゃんと同伴してた頃が懐かしいな(笑)
寿司屋じゃ、九段下の「寿司政」が好いが、それより浅草小島の「秀鮨」が落ち着くな。祭り好きの江戸っ子の大将は人相はかなり悪くて近寄り難そうだが、酒肴といい、江戸前の握りといい、どれも絶品なんです。何より親方夫婦の人柄好し。
浅草も名店揃いでどこに行くか迷ってしまうが、昼なら「まさる」の天丼か。昼飲みなら「駒形どぜう」より、「飯田屋」からの「神谷バー」が御気に入り。
江戸前の小鍋で食べるすき焼きが味わえる、江戸情緒たっぷりの「米久本店」からの神谷バーってのもあるな。それとも銀座線地下街の場末の店で酔っぱらうか。久々に両国や森下に足を延ばして、「ももんじゃ」や「みの家」ってのも悪くない。
マニアックな処では赤羽も好い。孤独のグルメでも登場した「川栄」で昼飲みってのも堪らないし、絶品の馬刺しを出す「きらく」も捨て難い。赤羽の名店「米山」は、もつ焼きなど絶品なんだが、大将の対応がイマサンなんだよなぁ(笑)
上野の焼肉店「板門店」も好いが、以前、畏友に連れて行って貰った「東京苑」を再訪してみたいな。店はとても綺麗とはいえないが、出される焼肉は絶品だった。まぁ何処で呑むかはアメ横の「大統領」でチョい呑みし乍ら考えるとするか。
つ~か、ここのところ1ヶ月程無収入。凌いでた競輪競馬もイマイチ噛み合わない。更に、算段に加えて体調まで芳しくない。先日、血液検査をした翌日、クリニックから「要精密検査」との連絡が来たが、深刻な状況になってるかもなぁ。
上京したいが新幹線での往復だけじゃつまらない。やっぱり直会を兼ねた一人呑みが愉しみ。まぁその前に、体調と不如意をどうにかせねばならない。呵呵。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
「みたままつり」は盆行事ということもあって、御霊の囁きに触れる好い機会であり、みたままつりに靖國の本来の日本の姿を見る。こうした伝統行事に触れる度に、正に我が国は随神(かんながら)の道を歩んで来た有難い国だと痛感する。
団体(防共挺身隊)を辞してからというもの慢性的不如意もあって上京する機会もめっきり減って、贔屓の店にもとんと行かなくなってしまった。自称・愛国者に怒られそうだが、靖國神社に詣でた後の直会というか一献が愉しみでもある。
上野で下車し、「蓬莱屋」のとんかつや「蓮玉庵」の蕎麦前をつまみにでチョイ飲み。蓮玉庵は池波正太郎や文人墨客、落語家などに愛された名店。福島や山形の本物の蕎麦を知っている者として流石に江戸前の蕎麦はイマイチだが雰囲気が好い。
「切って切れるは蕎麦なれど、切っても切れぬは蕎麦と酒」。風情の好い蕎麦屋というのは客の空いた時間にスッと寄って飲むのが好いが、人気蕎麦店になると忙しい時間帯の酒飲みの客というのは歓迎されない。昼過ぎに蕎麦前を楽しむのが好い。
鰻なら石川台のその名も「鰻家」が最高。ここは蒲焼きも絶品だが、女将が作る茶碗蒸しが絶品。鰻家の近くでは、長嶋終身名誉監督が贔屓にしてる田園調布駅前の人気店「鳥鍈(とりえい)」や、鰻屋の名店「平八」で昼呑みするのが至福。
平八の一階は焼鳥屋で夕方からの営業だが、二階は鰻屋になっていて雰囲気好し。酒肴といい、銘酒が揃っていて、限定の肝焼きや気の利いたつまみで冷酒を愉しんで鰻重で〆るのが好い。田園調布本町に住んでた頃は、酔った最後は雪が谷大塚の「B-奈」でカラオケってのが定番だった。奈ちゃんの「渡良瀬橋」を聴きたいなぁ♪
旗の台に在る焼鳥屋「鳥樹」は鳥鍈より美味い。この店を知ったのは、何故か郡山市の某ヤクザから「鳥樹に行きたいな」と言われたのがきっかけだった。
プロレスラー御用達の五反田の「ステーキ・リベラ」も久しく行ってないな。ビックサイズのステーキを食べると何となく元気が出る様な気がするし(笑)
浜松町のもつ焼きの名店「秋田屋」のつくね(特製たたき肉だんご)や、蒲田の「八幸」も恋しいなぁ。愚生が防挺に入隊した頃の本部事務所は浜松町に在り、ビラ貼りや運動の帰りに「秋田屋」に立ち寄り、先輩に馳走に預かったのを思い出す。
銀座では路地裏の名店「小笹寿司」や、その向かいに在るフレンチの「ビストロ・カシュカシュ」。銀座のおねえちゃんと同伴してた頃が懐かしいな(笑)
寿司屋じゃ、九段下の「寿司政」が好いが、それより浅草小島の「秀鮨」が落ち着くな。祭り好きの江戸っ子の大将は人相はかなり悪くて近寄り難そうだが、酒肴といい、江戸前の握りといい、どれも絶品なんです。何より親方夫婦の人柄好し。
浅草も名店揃いでどこに行くか迷ってしまうが、昼なら「まさる」の天丼か。昼飲みなら「駒形どぜう」より、「飯田屋」からの「神谷バー」が御気に入り。
江戸前の小鍋で食べるすき焼きが味わえる、江戸情緒たっぷりの「米久本店」からの神谷バーってのもあるな。それとも銀座線地下街の場末の店で酔っぱらうか。久々に両国や森下に足を延ばして、「ももんじゃ」や「みの家」ってのも悪くない。
マニアックな処では赤羽も好い。孤独のグルメでも登場した「川栄」で昼飲みってのも堪らないし、絶品の馬刺しを出す「きらく」も捨て難い。赤羽の名店「米山」は、もつ焼きなど絶品なんだが、大将の対応がイマサンなんだよなぁ(笑)
上野の焼肉店「板門店」も好いが、以前、畏友に連れて行って貰った「東京苑」を再訪してみたいな。店はとても綺麗とはいえないが、出される焼肉は絶品だった。まぁ何処で呑むかはアメ横の「大統領」でチョい呑みし乍ら考えるとするか。
つ~か、ここのところ1ヶ月程無収入。凌いでた競輪競馬もイマイチ噛み合わない。更に、算段に加えて体調まで芳しくない。先日、血液検査をした翌日、クリニックから「要精密検査」との連絡が来たが、深刻な状況になってるかもなぁ。
上京したいが新幹線での往復だけじゃつまらない。やっぱり直会を兼ねた一人呑みが愉しみ。まぁその前に、体調と不如意をどうにかせねばならない。呵呵。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
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2024年07月10日
安倍晋三元首相が亡くなってからの日本の転げ具合が凄い
令和4年7月8日、安倍晋三元首相が、天皇の国事行為である参議院選挙中に暴漢の銃弾に斃れた。この銃撃事件に関し、未だ真相解明が成されていないことに違和感を覚える。側聞されている様な別の組織に因る犯行だったのではとの疑いもある。
政治的な理由で左翼の銃弾に斃れたというなら「男子の本懐」というものだが、選りにも選って、カルト宗教である統一教会(現・世界平和統一家庭連合)絡みのとばっちりで命を狙われたのが真実ならば安倍元首相の御霊も浮かばれない。
安倍元首相は長野県選挙区の自民党候補のスキャンダルもあり、予定を変更して奈良に向かったという。奈良への変更は山上容疑者にしたら天佑と思ったに違いない。そこに加えて警備や警護のミスが重なってしまった。運命とは実に非常である。
安倍政権の功罪はあるが、外交では日本という国を世界にアピールしたのも事実。過去に、我が国で米国大統領に直接意見を出来た首相は安倍晋三だけだろう。
LGBT法案成立を強要し「G7の中でLGBT法案が無いのは日本だけ」という全くの嘘やデマを垂れ流し、「次は同性婚」「日本は進化の過程」などと宣っているエマニュエル駐日大使の度重なる内政干渉に沈黙してる岸田文雄首相とは偉い違いだ。
そんな安倍はトランプとの良好な関係をプーチンにも重ねて二島返還を示す。だが逆に、プーチンに北方領土は実質的なロシア領ということ内外に知らしめることとなった。外交に自信を持ってた安倍だったが、逆に外交で墓穴を掘った。
愚生は常々、安倍の謀る憲法九条改正は究極の護憲運動だと指弾してきた。「退位法案」を皇室典範に附帯し上皇陛下の退位を強行し、御代が替わるや否や天皇の大権である元号権を簒奪し、行政権を優先させたことは万死に値すると断じた。
安倍の歴史認識も「河野談話」や「村山談話」と大して変わらなかった。戦没者追悼式に於いても「心ならずも戦場で斃れ」だとか、「多くの国々、とりわけアジアの諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えて来た」と語ったことも記憶に新しい。
安倍の掲げた「戦後レジームからの脱却」なんぞ自称・保守派を誑かす画餅に過ぎない。画餅故に実行する気など毛頭なく、勇ましいスローガンだけで事を濁す。
野党に転落して臨む総選挙前に、安倍は前政権下での靖國不参拝を問われ「断腸の思い」とその悔しさを滲ませた。そういう安倍の無念さに国民は共鳴し支持した。なのに「とりわけアジアの諸国の人々に」などとは厭きれてしまった。
安倍の言行は保守とは程遠く、靖國問題など見向きもしない政治家より悪質で始末が悪い。保守仕草だけで騙される自称保守派や自称愛国者とは実に単純。
拉致問題も安倍政権の最重要課題とし「我が政権で解決を図る」と公言していただけに、任期途中での退任は無念さが滲んでた。総理の座を辞しても拉致問題を見捨てることなく、元総理として単独で訪朝してでも解決して欲しかった。
政治で大事なことは「国防」と「教育」であり、その認識を共有する安倍は、中でも教育に対し「将来を担う子供達が自分の国に誇りの持てる教育を施す」と訴えた。愚生は安倍信者ではないが、この主張だけでも安倍を支持する理由になった。
政権に返り咲き、教育大国を目指し教育改革を打ち出すのかと思いきや傍観を極め込む。「戦後レジームからの脱却」は教育改革無くして語れない。況してや教育は国家百年の大計であり、政治家が行うべき最大のものだが語られることが少ない。
「国防」も然り、尖閣列島などの領土防衛は国防の一つではあるが、国防とは「それを亡くしてしまえば日本ではなくなってしまうもの」を死守することであり、つまり我が国の歴史・伝統・文化を守り、天皇を戴く日本という国柄を護り抜くことだ。
然し乍ら、安倍を始めとした営業保守や自称・愛国者らは、天皇条項である憲法第一条~第八条の見直しではなく、憲法九条のみに拘る。憲法九条こそが大事と思っている点では、保守派と言うのは左翼護憲派の「九条の会」とどっこいどっこい。
憲法九条改正を訴え、自衛隊を「我が国を防衛する為の必要最小限の実力組織」にすると語っている。この認識こそが占領下時代の警察予備隊の儘なのだ。安倍らの謀る憲法改正はインチキであり、究極の護憲運動と批判するのはそういうことだ。
安倍に期待してただけに裏切られた思いが強いのか元々見る目が無かったのか。抑々、安倍というのはベターなだけでベストな首相ではない。所詮は「安倍より他はいない」程度のものと知りながら、それでもと期待したのが間違いだった。
愚生は安倍政権に対しては、幾度となく「新自由主義を盲信し、経済至上主義に奔る安倍に、吾、疑心暗鬼どころか屋上屋を架す大馬鹿者である」と安倍を評し、苦言を呈してきたが、安倍が亡くなった以降の日本の左傾化ぶりには目に余る。
安倍を保守派だと思ったことは無いが、清濁併せ呑む政治家の一人には違いない。安倍の去った自民党員を見れば、保守派とは程遠い単なる投票党員ばかりなり。
皇統を棄損し兼ねないLGBT法を対米追随の一環で成立させるなど、安倍亡き後の転げ具合が凄い。何事も極一部の人間(指導者)の判断で決まるもので、大衆はいつの時代も指導者の意に沿って、どっちにも動き流されるものなのだと悟る。
ヒトラーは、「必要不可欠なのは、一人の指導者の意志、一人が命じ、他の人はそれを実行すればよい」と訓えている。つまりトップに立つ人の意思が大事なのだが、そのトップに立つ人に国家観や人間性が乏しいと国民が不幸に陥ることとなる。
LGBT法案での岸田首相や自民党執行部のエマニュエル駐米大使や米国民主党への追随ぶりには厭きれるばかりだが、党内保守派の右往左往ぶりを目の当たりにすると、強固な意志(国家観)を持った政治家がいないことを悲観せざるを得ない。
自民党総裁選が迫る中で、国家観逞しい高市早苗が党総裁に就けば保守支持層は戻って来るだろうが、小石河連合や茂木、上川なんぞが神輿となれば自民党は終わる。現在の自民党の転げ様に、草葉の陰の安倍元首相も嘆いているに違いない。合掌。
※ブログコメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円(月2500円)。法人120000円。協賛会員300000円~。
政治的な理由で左翼の銃弾に斃れたというなら「男子の本懐」というものだが、選りにも選って、カルト宗教である統一教会(現・世界平和統一家庭連合)絡みのとばっちりで命を狙われたのが真実ならば安倍元首相の御霊も浮かばれない。
安倍元首相は長野県選挙区の自民党候補のスキャンダルもあり、予定を変更して奈良に向かったという。奈良への変更は山上容疑者にしたら天佑と思ったに違いない。そこに加えて警備や警護のミスが重なってしまった。運命とは実に非常である。
安倍政権の功罪はあるが、外交では日本という国を世界にアピールしたのも事実。過去に、我が国で米国大統領に直接意見を出来た首相は安倍晋三だけだろう。
LGBT法案成立を強要し「G7の中でLGBT法案が無いのは日本だけ」という全くの嘘やデマを垂れ流し、「次は同性婚」「日本は進化の過程」などと宣っているエマニュエル駐日大使の度重なる内政干渉に沈黙してる岸田文雄首相とは偉い違いだ。
そんな安倍はトランプとの良好な関係をプーチンにも重ねて二島返還を示す。だが逆に、プーチンに北方領土は実質的なロシア領ということ内外に知らしめることとなった。外交に自信を持ってた安倍だったが、逆に外交で墓穴を掘った。
愚生は常々、安倍の謀る憲法九条改正は究極の護憲運動だと指弾してきた。「退位法案」を皇室典範に附帯し上皇陛下の退位を強行し、御代が替わるや否や天皇の大権である元号権を簒奪し、行政権を優先させたことは万死に値すると断じた。
安倍の歴史認識も「河野談話」や「村山談話」と大して変わらなかった。戦没者追悼式に於いても「心ならずも戦場で斃れ」だとか、「多くの国々、とりわけアジアの諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えて来た」と語ったことも記憶に新しい。
安倍の掲げた「戦後レジームからの脱却」なんぞ自称・保守派を誑かす画餅に過ぎない。画餅故に実行する気など毛頭なく、勇ましいスローガンだけで事を濁す。
野党に転落して臨む総選挙前に、安倍は前政権下での靖國不参拝を問われ「断腸の思い」とその悔しさを滲ませた。そういう安倍の無念さに国民は共鳴し支持した。なのに「とりわけアジアの諸国の人々に」などとは厭きれてしまった。
安倍の言行は保守とは程遠く、靖國問題など見向きもしない政治家より悪質で始末が悪い。保守仕草だけで騙される自称保守派や自称愛国者とは実に単純。
拉致問題も安倍政権の最重要課題とし「我が政権で解決を図る」と公言していただけに、任期途中での退任は無念さが滲んでた。総理の座を辞しても拉致問題を見捨てることなく、元総理として単独で訪朝してでも解決して欲しかった。
政治で大事なことは「国防」と「教育」であり、その認識を共有する安倍は、中でも教育に対し「将来を担う子供達が自分の国に誇りの持てる教育を施す」と訴えた。愚生は安倍信者ではないが、この主張だけでも安倍を支持する理由になった。
政権に返り咲き、教育大国を目指し教育改革を打ち出すのかと思いきや傍観を極め込む。「戦後レジームからの脱却」は教育改革無くして語れない。況してや教育は国家百年の大計であり、政治家が行うべき最大のものだが語られることが少ない。
「国防」も然り、尖閣列島などの領土防衛は国防の一つではあるが、国防とは「それを亡くしてしまえば日本ではなくなってしまうもの」を死守することであり、つまり我が国の歴史・伝統・文化を守り、天皇を戴く日本という国柄を護り抜くことだ。
然し乍ら、安倍を始めとした営業保守や自称・愛国者らは、天皇条項である憲法第一条~第八条の見直しではなく、憲法九条のみに拘る。憲法九条こそが大事と思っている点では、保守派と言うのは左翼護憲派の「九条の会」とどっこいどっこい。
憲法九条改正を訴え、自衛隊を「我が国を防衛する為の必要最小限の実力組織」にすると語っている。この認識こそが占領下時代の警察予備隊の儘なのだ。安倍らの謀る憲法改正はインチキであり、究極の護憲運動と批判するのはそういうことだ。
安倍に期待してただけに裏切られた思いが強いのか元々見る目が無かったのか。抑々、安倍というのはベターなだけでベストな首相ではない。所詮は「安倍より他はいない」程度のものと知りながら、それでもと期待したのが間違いだった。
愚生は安倍政権に対しては、幾度となく「新自由主義を盲信し、経済至上主義に奔る安倍に、吾、疑心暗鬼どころか屋上屋を架す大馬鹿者である」と安倍を評し、苦言を呈してきたが、安倍が亡くなった以降の日本の左傾化ぶりには目に余る。
安倍を保守派だと思ったことは無いが、清濁併せ呑む政治家の一人には違いない。安倍の去った自民党員を見れば、保守派とは程遠い単なる投票党員ばかりなり。
皇統を棄損し兼ねないLGBT法を対米追随の一環で成立させるなど、安倍亡き後の転げ具合が凄い。何事も極一部の人間(指導者)の判断で決まるもので、大衆はいつの時代も指導者の意に沿って、どっちにも動き流されるものなのだと悟る。
ヒトラーは、「必要不可欠なのは、一人の指導者の意志、一人が命じ、他の人はそれを実行すればよい」と訓えている。つまりトップに立つ人の意思が大事なのだが、そのトップに立つ人に国家観や人間性が乏しいと国民が不幸に陥ることとなる。
LGBT法案での岸田首相や自民党執行部のエマニュエル駐米大使や米国民主党への追随ぶりには厭きれるばかりだが、党内保守派の右往左往ぶりを目の当たりにすると、強固な意志(国家観)を持った政治家がいないことを悲観せざるを得ない。
自民党総裁選が迫る中で、国家観逞しい高市早苗が党総裁に就けば保守支持層は戻って来るだろうが、小石河連合や茂木、上川なんぞが神輿となれば自民党は終わる。現在の自民党の転げ様に、草葉の陰の安倍元首相も嘆いているに違いない。合掌。
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2024年07月08日
東京都知事選は予想通り小池百合子の圧勝だったな(笑)
東京都知事選挙は大方の予想通り小池百合子が圧勝した。現職の強みもあるが、対抗馬が立憲共産党の蓮舫やイマイチ正体不明の石丸伸二とか、田母神元幕僚長じゃ、小池の勝利は目に見えていた。小池を支持した自民党も安堵しただろう(笑)
元広島県安芸高田市の市長だった石丸がこれほどの票を得たのは驚きだが、若者の票を掴んだことは側聞されてる様な「ドトール方式」の効果だろうか。石丸は新党結成に動くのか、次期総選挙は岸田と闘うのか、今後の動きに注目が集まる。
蓮舫は2位どころか石丸にも負けて3位。やっぱ1位目指し、勝利しなきゃダメというのが分かっただろう。蓮舫の負けは実力不足に加えて共産党候補となったことで有権者が離れた。今回の結果を受けて、立憲民主党の分裂は避けられないだろう。
過日、某企業の社長と吞んでたら都知事選の話しになり、「小池の圧勝でしょ。ダブルスコアで!」というと「私は蓮舫が勝つと思いますよ」と言ってたっけ。結果は愚生の予想通り。別に賭けた訳では無いが、次に会うのが愉しみだな(笑)
平成28(2016)年の都知事選挙に出馬表明した小池は、都議会のドン・内田茂幹事長(当時)を「既得権益を仕切るボス政治」と批判し反自民党色を鮮明にした。
猪瀬、舛添と二人続けて任期途中で辞任するに至ったが、都議会と自民党東京都連は、舛添前知事の公私混同疑惑問題を何ら追求することなく他人事を極め込んだ。
自民党は本来、当時は自民党員でもあった小池を推薦するべきなのに、自民党は元岩手県知事の増田寛也を擁立。女の恨みというものは強烈なもので、都議会と自民党東京都連を「都政改革の元凶(抵抗勢力)」と捉え、当選後の「都議会の冒頭解散」を打ち出し、都政最大のガンである既得権益を仕切る「ボス政治」を糾弾した。
「都政を(都民に)取り戻す」をスローガンに、小池の一大旋風を巻き起こし初当選を果たした。都知事選の結果を受け内田は引退を表明しこの世の春は終わった。
豊洲市場移転問題は宇都宮健児と連帯して政局に持ち込んだ。この協定が後々事をややこしくしたが、対自民党の選挙戦は有権者には分かり易い構図だった。
増田の惨敗を受け、石原伸晃自民党東京都連会長(当時)が「全責任は谷垣禎一幹事長だ」と責任逃れしたのを思い出す。石原は間もなく都連会長を辞任した。
どうせ辞めざるを得ないのだから「都連会長として全責任は私に在る」といえば好いものを、あろうことか、全責任を谷垣幹事長に押し付けるとは何事か。こんな人品だから、選挙でボロ負けし、参院選狙いも誰からも支持されないのは当然のこと。
谷垣幹事長は、サイクリング中の頸椎損傷で恐らくは政治家生命も潰えた訳で、そんな病床にある谷垣幹事長にその責任を押し付けるのは卑怯という他ない。
伸晃は、小池百合子を扱き下ろしてたが、伸晃こそ人間として、否、日本人の男としての最低限の美学も持ち合わせていないサイテーな野郎。親(石原慎太郎)の七光りで政治家になっただけの能無しの修行不足のボンクラ男というのが正しい。
大体、大きな敗因は小池が糺した通り、自民党東京都連幹事長の旧態依然の陋習であり、それに苦言も呈せない伸晃ら都連幹部の為体。選挙後半での石原慎太郎の「厚化粧の大年増」発言が響いたが、オヤジの暴言は小池有利に動いた(笑)
令和2(2020)年の都知事選は小池百合子の秒殺で決着。前回の都知事選で小池と共闘した宇都宮健児と山本太郎の票を足してもダブルスコアの大勝利。
マスコミは前回お都知事選も前々回も「小池ややリード」と報道してたが、結果を見れば「ややリード」どころじゃなかった。こうした情勢分析の乏しさはマスコミの劣化を如実に現わしている。要は、マスコミの分析は己らの願望でしかない。
それにしても自民党は節操の無さ過ぎる。前々回では小池を推薦せずに党員でもない増田を推薦し惨敗。前回は都民ファースト人気に肖ろうと小池支持に回った。
今回も次期総選挙を優先する余り小池支持に回ったが、「政策よりも何よりも当選しなきゃ議員として存在価値が無い」という考えならば余りにも軽薄過ぎる。
8年前の知事選で小池が勝利し、陋習蔓延る旧態依然の自民党政治は終焉するのかと思いきや、自民党というのは実に強かだ。尤も、野党に転落した自民党は社会党の村山富市を担ぎ上げたくらいだもの、節操の無さは今に始まったことではない。
国民は自民党を保守政党と勘違いしてるが、自民党というのは昔から中道左派。自由と民主主義というその名の通りリベラル。そこに輪を掛けて親中派が席巻する。親中派の公明党と連立を組むのも当然で、国益を害していることさえ気付かない。
以前「自民党への不満・民主党への不安」と揶揄されたが、民主党政権に騙された経験から立憲共産党が支持されることは無い。自民党は結党精神に回帰し、保守政党として生まれ変わらなければ国民から三下り半を突き付けられるだろう。
自民党の恢復に先んじて野党が再結成し非共産党の健全野党として生まれ変われるのか、或いは日本保守党など新たな保守政党が支持を広げ、我が国の眼前の危機に警鐘を鳴らし、政界浄化を目指すのか、今後の政界の動きから目が離せない。
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元広島県安芸高田市の市長だった石丸がこれほどの票を得たのは驚きだが、若者の票を掴んだことは側聞されてる様な「ドトール方式」の効果だろうか。石丸は新党結成に動くのか、次期総選挙は岸田と闘うのか、今後の動きに注目が集まる。
蓮舫は2位どころか石丸にも負けて3位。やっぱ1位目指し、勝利しなきゃダメというのが分かっただろう。蓮舫の負けは実力不足に加えて共産党候補となったことで有権者が離れた。今回の結果を受けて、立憲民主党の分裂は避けられないだろう。
過日、某企業の社長と吞んでたら都知事選の話しになり、「小池の圧勝でしょ。ダブルスコアで!」というと「私は蓮舫が勝つと思いますよ」と言ってたっけ。結果は愚生の予想通り。別に賭けた訳では無いが、次に会うのが愉しみだな(笑)
平成28(2016)年の都知事選挙に出馬表明した小池は、都議会のドン・内田茂幹事長(当時)を「既得権益を仕切るボス政治」と批判し反自民党色を鮮明にした。
猪瀬、舛添と二人続けて任期途中で辞任するに至ったが、都議会と自民党東京都連は、舛添前知事の公私混同疑惑問題を何ら追求することなく他人事を極め込んだ。
自民党は本来、当時は自民党員でもあった小池を推薦するべきなのに、自民党は元岩手県知事の増田寛也を擁立。女の恨みというものは強烈なもので、都議会と自民党東京都連を「都政改革の元凶(抵抗勢力)」と捉え、当選後の「都議会の冒頭解散」を打ち出し、都政最大のガンである既得権益を仕切る「ボス政治」を糾弾した。
「都政を(都民に)取り戻す」をスローガンに、小池の一大旋風を巻き起こし初当選を果たした。都知事選の結果を受け内田は引退を表明しこの世の春は終わった。
豊洲市場移転問題は宇都宮健児と連帯して政局に持ち込んだ。この協定が後々事をややこしくしたが、対自民党の選挙戦は有権者には分かり易い構図だった。
増田の惨敗を受け、石原伸晃自民党東京都連会長(当時)が「全責任は谷垣禎一幹事長だ」と責任逃れしたのを思い出す。石原は間もなく都連会長を辞任した。
どうせ辞めざるを得ないのだから「都連会長として全責任は私に在る」といえば好いものを、あろうことか、全責任を谷垣幹事長に押し付けるとは何事か。こんな人品だから、選挙でボロ負けし、参院選狙いも誰からも支持されないのは当然のこと。
谷垣幹事長は、サイクリング中の頸椎損傷で恐らくは政治家生命も潰えた訳で、そんな病床にある谷垣幹事長にその責任を押し付けるのは卑怯という他ない。
伸晃は、小池百合子を扱き下ろしてたが、伸晃こそ人間として、否、日本人の男としての最低限の美学も持ち合わせていないサイテーな野郎。親(石原慎太郎)の七光りで政治家になっただけの能無しの修行不足のボンクラ男というのが正しい。
大体、大きな敗因は小池が糺した通り、自民党東京都連幹事長の旧態依然の陋習であり、それに苦言も呈せない伸晃ら都連幹部の為体。選挙後半での石原慎太郎の「厚化粧の大年増」発言が響いたが、オヤジの暴言は小池有利に動いた(笑)
令和2(2020)年の都知事選は小池百合子の秒殺で決着。前回の都知事選で小池と共闘した宇都宮健児と山本太郎の票を足してもダブルスコアの大勝利。
マスコミは前回お都知事選も前々回も「小池ややリード」と報道してたが、結果を見れば「ややリード」どころじゃなかった。こうした情勢分析の乏しさはマスコミの劣化を如実に現わしている。要は、マスコミの分析は己らの願望でしかない。
それにしても自民党は節操の無さ過ぎる。前々回では小池を推薦せずに党員でもない増田を推薦し惨敗。前回は都民ファースト人気に肖ろうと小池支持に回った。
今回も次期総選挙を優先する余り小池支持に回ったが、「政策よりも何よりも当選しなきゃ議員として存在価値が無い」という考えならば余りにも軽薄過ぎる。
8年前の知事選で小池が勝利し、陋習蔓延る旧態依然の自民党政治は終焉するのかと思いきや、自民党というのは実に強かだ。尤も、野党に転落した自民党は社会党の村山富市を担ぎ上げたくらいだもの、節操の無さは今に始まったことではない。
国民は自民党を保守政党と勘違いしてるが、自民党というのは昔から中道左派。自由と民主主義というその名の通りリベラル。そこに輪を掛けて親中派が席巻する。親中派の公明党と連立を組むのも当然で、国益を害していることさえ気付かない。
以前「自民党への不満・民主党への不安」と揶揄されたが、民主党政権に騙された経験から立憲共産党が支持されることは無い。自民党は結党精神に回帰し、保守政党として生まれ変わらなければ国民から三下り半を突き付けられるだろう。
自民党の恢復に先んじて野党が再結成し非共産党の健全野党として生まれ変われるのか、或いは日本保守党など新たな保守政党が支持を広げ、我が国の眼前の危機に警鐘を鳴らし、政界浄化を目指すのか、今後の政界の動きから目が離せない。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
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2024年07月05日
いのちのバトンを受けついで いまここに 自分の番を生きている
最近は「結婚しない」とか「子供は産まない」という価値観が然も当たり前の様に語られ受け入れられている。出産を「生産性」という言葉で表すのは如何かと思うが、結婚して子供を産み育てることは世界の何処の国でも当たり前の行為である。
ジェンダー平等やLGBTQという性的変質者どもの価値観が席巻し、己の欲望を満たすことこそが当然と考える人が多くなった。結婚して子育てにカネを使うより「稼いだカネは自分の為に使いたい」との考えに至れば、国家は成り立たない。
相田みつをの「自分の番 いのちのバトン」という詩がある。
父と母で二人
父と母の両親で四人
そのまた両親で八人
こうしてかぞえてゆくと十代前で
千二十四人
二十代前では・・・?
なんと百万人を越すんです
過去無量の
いのちのバトンを受けついで
いまここに
自分の番を生きている
それが
あなたのいのちです
それがわたしのいのちです
今の自分が存在は代々続く御先祖様のお蔭であり、その先祖の誰一人が欠けても今の自分が存在しないのは言うまでもない。父と母で2人、父と母の両親で4人、そのまた両親で8人。10代前では1024人。20代前ではナント100万人を越す。
己(個)の存在とは、代々の長い歴史から考えればホンの一瞬の出来事に過ぎない。人生とは御先祖からバトンを受け継いでるリレー走者に過ぎない。
先祖から紡いできた歴史を顧みることもなく、結婚もせずに子供を産まないとなれば、自分の代で紡いできた永い先祖の歴史が終わるということでもある。
珍左翼のカリスマ・福島瑞穂の「生まない選択 子供を持たない楽しさ」というトンデモ本がある。当の福島本人には子供がいないかというとそうではない。
「子供を生まない」「子供を持たない」とは性的変質者らしい発想だが、子供が出来ないなら仕方ないが「生まない」「持たない」とは実に身勝手な扇動である。
LGBTQなんてのは、性的嗜好を優先しているだけ。SEXなんてやってる様じゃ本物の愛ではない。SEXが無くなっても「この人といたい」と思えれば本物の愛だろう。性的少数派というより性的嗜好を優先する性的変質者そのものでしょ(笑)
「子供を産まない」「子供を持たない」とは当然の権利であり、男女共同参画社会に逆行しているというが、子供を産み育てることは人生の大仕事でもある。
何より、家庭(家族)とは、未熟な夫婦が結婚して、子供を育て上げる過程で精神的にも肉体的にも共に成長して本物の夫婦となって行くものである。
今の自分が存在しているのは、沢山の御先祖様のお蔭であり、現代の安っぽい「子供を生まない」「持たない」という価値観に共鳴するというのは、自分の代で紡いで来た永い歴史が終わるという自覚に乏しいし、余りにも身勝手な生き方である。
何より家族とは、未熟な夫婦が子供を産み、共に育てることで、精神的にも肉体的にも共に成長して行くものだと思っている。 同じ様に、国家にも歴史がある。
我が国は歴史上、人口移動の殆どない稀有な国だ。日本列島に存在していた方々は皆、我々の御先祖様なのである。 その共通の御先祖様からの流れの中に今日の我々が存在している。 我が国の歴史は、正に我々の御先祖様の歩みなのである。
その祖先の歴史を貶し、罵る連中がいる。これ即ち御先祖様の歩みを否定していることであり、つまりは、自分という存在自体を否定していることと同じだ。
男女共同参画社会とかジェンダー平等だとか、「子供は生まない」「子供は持たない」というヘンテコな価値観を強要してる連中は自国を貶め、政府を如何に腐すかに躍起になっている。問題が出ればその萌芽は我が国に在ると貶し、罵る。
愚生は右翼と蔑視されてはいるが、別にマルクスや毛沢東理論に対抗している訳では無い。単純に祖国日本という奇跡の国に生まれ、国家の恩恵を享け乍ら、その国家を貶めてる連中が大嫌いなだけ。そんなクソどもの反対が右翼ならそれで結構。
我が国は我々が考えてる以上に左翼勢力が蔓延っている。戦後の米国の価値観の押付けから、現代に於いては国連や米国民主党が扇動する左翼政策が罷り通る。
左翼の謀った諸問題を解決するには、現代の薄っぺらい価値観や短い人生の経験を基に解決を急ぐよりも、先人の多くの経験や教えから学ぶことこそ懸命である。
壊れつつある我が国を建て直すには、日本人として御先祖様の営為を学ぶことこそが近道でもある。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」とは蓋し名言である。
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相田みつをの「自分の番 いのちのバトン」という詩がある。
父と母で二人
父と母の両親で四人
そのまた両親で八人
こうしてかぞえてゆくと十代前で
千二十四人
二十代前では・・・?
なんと百万人を越すんです
過去無量の
いのちのバトンを受けついで
いまここに
自分の番を生きている
それが
あなたのいのちです
それがわたしのいのちです
今の自分が存在は代々続く御先祖様のお蔭であり、その先祖の誰一人が欠けても今の自分が存在しないのは言うまでもない。父と母で2人、父と母の両親で4人、そのまた両親で8人。10代前では1024人。20代前ではナント100万人を越す。
己(個)の存在とは、代々の長い歴史から考えればホンの一瞬の出来事に過ぎない。人生とは御先祖からバトンを受け継いでるリレー走者に過ぎない。
先祖から紡いできた歴史を顧みることもなく、結婚もせずに子供を産まないとなれば、自分の代で紡いできた永い先祖の歴史が終わるということでもある。
珍左翼のカリスマ・福島瑞穂の「生まない選択 子供を持たない楽しさ」というトンデモ本がある。当の福島本人には子供がいないかというとそうではない。
「子供を生まない」「子供を持たない」とは性的変質者らしい発想だが、子供が出来ないなら仕方ないが「生まない」「持たない」とは実に身勝手な扇動である。
LGBTQなんてのは、性的嗜好を優先しているだけ。SEXなんてやってる様じゃ本物の愛ではない。SEXが無くなっても「この人といたい」と思えれば本物の愛だろう。性的少数派というより性的嗜好を優先する性的変質者そのものでしょ(笑)
「子供を産まない」「子供を持たない」とは当然の権利であり、男女共同参画社会に逆行しているというが、子供を産み育てることは人生の大仕事でもある。
何より、家庭(家族)とは、未熟な夫婦が結婚して、子供を育て上げる過程で精神的にも肉体的にも共に成長して本物の夫婦となって行くものである。
今の自分が存在しているのは、沢山の御先祖様のお蔭であり、現代の安っぽい「子供を生まない」「持たない」という価値観に共鳴するというのは、自分の代で紡いで来た永い歴史が終わるという自覚に乏しいし、余りにも身勝手な生き方である。
何より家族とは、未熟な夫婦が子供を産み、共に育てることで、精神的にも肉体的にも共に成長して行くものだと思っている。 同じ様に、国家にも歴史がある。
我が国は歴史上、人口移動の殆どない稀有な国だ。日本列島に存在していた方々は皆、我々の御先祖様なのである。 その共通の御先祖様からの流れの中に今日の我々が存在している。 我が国の歴史は、正に我々の御先祖様の歩みなのである。
その祖先の歴史を貶し、罵る連中がいる。これ即ち御先祖様の歩みを否定していることであり、つまりは、自分という存在自体を否定していることと同じだ。
男女共同参画社会とかジェンダー平等だとか、「子供は生まない」「子供は持たない」というヘンテコな価値観を強要してる連中は自国を貶め、政府を如何に腐すかに躍起になっている。問題が出ればその萌芽は我が国に在ると貶し、罵る。
愚生は右翼と蔑視されてはいるが、別にマルクスや毛沢東理論に対抗している訳では無い。単純に祖国日本という奇跡の国に生まれ、国家の恩恵を享け乍ら、その国家を貶めてる連中が大嫌いなだけ。そんなクソどもの反対が右翼ならそれで結構。
我が国は我々が考えてる以上に左翼勢力が蔓延っている。戦後の米国の価値観の押付けから、現代に於いては国連や米国民主党が扇動する左翼政策が罷り通る。
左翼の謀った諸問題を解決するには、現代の薄っぺらい価値観や短い人生の経験を基に解決を急ぐよりも、先人の多くの経験や教えから学ぶことこそ懸命である。
壊れつつある我が国を建て直すには、日本人として御先祖様の営為を学ぶことこそが近道でもある。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」とは蓋し名言である。
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2024年07月02日
明治神宮外苑再開発計画での樹木伐採ばかりが問題にされているが
明治神宮外苑再開発問題が都知事選挙でも取り上げられている。神宮球場や秩父宮ラグビー場の老朽化での建て替えは当然だと思うが、球場にホテルを併設したり、複合商業施設が民間企業の営利の為の建て替えが再開発なら賛同し兼ねる。
外苑周辺の樹木の伐採計画が発表されたのは令和4年2月頃だったか。外苑再開発は都民だけの問題ではなく、国民への説明が求められる。だが、都議会で形だけの議論が交わされ、同年4月には事業計画が早々と承認されている。
三井不動産などの事業者は、伐採した樹木の替わりに新しい木を植樹する計画だという。計画反対派は「樹齢100年を超える樹木も多く、景観が失われる」として懸念を示している。事業者に何故か明治神宮が参画していることが解せない。
新宿区と港区、及び渋谷区と広範囲に跨る神宮外苑は、教育や文化を重んじた明治天皇の思召しに沿って計画され、大正15年に完成された都市公園であり、エリア内には国立競技場や神宮球場、秩父宮ラグビー場やテニスコートなどが造られた。
再開発計画では、神宮球場の建て替えを中心に秩父宮ラグビー場は移転して建て替えられる。商業施設などが入る2棟の複合ビルが新たに建設される予定だという。
事業者が新宿区に提出した資料では、再開発エリア内の高さ3メートル以上の樹木1904本の内、国立競技場南側の一帯や「聖徳記念絵画館」前の広場を中心に892本を伐採する予定だったが、苦情が相次いでその後は743本に修正している。
実際には3メートル以下の樹木を併せると3000本以上になるという。樹木には寿命があり、倒壊する危険のある樹木の伐採は理解する。伐採する代わりに新たに979本を植樹するらしいが、都内の豊かな森が無くなる不安は拭い切れない。
太陽光パネルを義務化した小池百合子都知事は、更に葛西臨海公園の1400本の樹木伐採しメガソーラーを造るというが、樹木を伐採してまでやる事業ではない。
東京大学石川幹子名誉教授は「伐採される木の中には赤松やスダジイ(すだ椎 )、楠など大正時代に植えられた樹齢100年を超える樹木が多く、新しい樹木を植えたとしても代わりになるものではない。歴史と文化のある景観が一気に失われてしまう。確りと説明して議論するべきではないか」との懸念を示している。
東京都が開いた審議会で担当者は「事業者からは日本らしい樹木を植えると説明があり、更に緑ある環境を作るものと認識している」と説明。再開発の計画そのものは承認したが、樹木の伐採については今後、都が事業者と協議を進めるとしている。
時代の流れでこうした再開発は避けられないのだろうか。神宮外苑とはその名前の通り、明治神宮の外苑であり、神宮への影響を最大限に考慮する必要があるが、伐採に反対するべき神宮側が率先して開発に携わるというのは如何なものか。
明治神宮は国民の総意に由り、明治天皇と憲昭皇太后の御遺徳を偲び、大正9年に創建された神社である。明治神宮が、平成16年に、神社本庁から離脱し一宗教法人となったことは記憶に新しい。明治神宮側と神社庁との確執が原因だった。
明治神宮側は離脱の理由として、平成16年4月の陛下の御親拝なされる際の関係者への案内状に、本来「陛下」とするところを「殿下」と誤記してしまった責任を取って離脱したと説明しているが、これは堅白同異の弁であったのは明らか。
国民の総意で建立した神社を宮司どもが私物化し営利至上主義に奔っている現状は憂慮すべき事態である。 明治神宮側のこうした姿勢は表参道や周辺に蔓延し、明治天皇と憲昭皇太后の御遺徳を偲ぶ神社には相応しくない事態になってるのも確か。
表参道がその好い喩えだ。表参道とは名前の通り明治神宮の参道として整備された通りである。神社=神道とは日本人の心に清む惟神(かんながら)の道である。その表参道が例年、クリスマス商戦からイルミネーションで埋め尽くされる。
日本の教えである神道であり、明治天皇及び憲昭皇太后の御遺徳を偲ぶ神社に続く参道がキリスト教に侵略されたかの様な光景は日本にはそぐわない光景である。
過去に、大日本愛国党の筆保泰禎書記長を始め、右翼団体からの抗議で表参道のイルミネーションが撤去されたことがあるが、その自粛も一時的なものだった。
明治神宮が一宗教法人となること自体赦されることではないし、戦神道指令やGHQの占領政策を容認することに他ならない。更に、先人の努力や国民の総意を踏み躙るもので神宮建立の趣旨から鑑みても逸脱する愚行であると断じて好かろう。
それにも況して問題なのは神職に携わる者が営利に奔っている事である。神職らのこうした賤しい営利主義が周辺に及ぼしているのを憂慮せざるを得ない。
明治神宮外苑の再開発は、樹木の伐採ばかりが問題とされ、また野党や左翼活動家に利用されつつある。外苑は明治天皇の思し召しに沿う教育・文化を重んじる区域とするべきで、神職らは国民の神宮外苑の再開発計画反対の声に耳を傾けよ。
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《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円(月2500円)。法人120000円。協賛会員300000円~。
外苑周辺の樹木の伐採計画が発表されたのは令和4年2月頃だったか。外苑再開発は都民だけの問題ではなく、国民への説明が求められる。だが、都議会で形だけの議論が交わされ、同年4月には事業計画が早々と承認されている。
三井不動産などの事業者は、伐採した樹木の替わりに新しい木を植樹する計画だという。計画反対派は「樹齢100年を超える樹木も多く、景観が失われる」として懸念を示している。事業者に何故か明治神宮が参画していることが解せない。
新宿区と港区、及び渋谷区と広範囲に跨る神宮外苑は、教育や文化を重んじた明治天皇の思召しに沿って計画され、大正15年に完成された都市公園であり、エリア内には国立競技場や神宮球場、秩父宮ラグビー場やテニスコートなどが造られた。
再開発計画では、神宮球場の建て替えを中心に秩父宮ラグビー場は移転して建て替えられる。商業施設などが入る2棟の複合ビルが新たに建設される予定だという。
事業者が新宿区に提出した資料では、再開発エリア内の高さ3メートル以上の樹木1904本の内、国立競技場南側の一帯や「聖徳記念絵画館」前の広場を中心に892本を伐採する予定だったが、苦情が相次いでその後は743本に修正している。
実際には3メートル以下の樹木を併せると3000本以上になるという。樹木には寿命があり、倒壊する危険のある樹木の伐採は理解する。伐採する代わりに新たに979本を植樹するらしいが、都内の豊かな森が無くなる不安は拭い切れない。
太陽光パネルを義務化した小池百合子都知事は、更に葛西臨海公園の1400本の樹木伐採しメガソーラーを造るというが、樹木を伐採してまでやる事業ではない。
東京大学石川幹子名誉教授は「伐採される木の中には赤松やスダジイ(すだ椎 )、楠など大正時代に植えられた樹齢100年を超える樹木が多く、新しい樹木を植えたとしても代わりになるものではない。歴史と文化のある景観が一気に失われてしまう。確りと説明して議論するべきではないか」との懸念を示している。
東京都が開いた審議会で担当者は「事業者からは日本らしい樹木を植えると説明があり、更に緑ある環境を作るものと認識している」と説明。再開発の計画そのものは承認したが、樹木の伐採については今後、都が事業者と協議を進めるとしている。
時代の流れでこうした再開発は避けられないのだろうか。神宮外苑とはその名前の通り、明治神宮の外苑であり、神宮への影響を最大限に考慮する必要があるが、伐採に反対するべき神宮側が率先して開発に携わるというのは如何なものか。
明治神宮は国民の総意に由り、明治天皇と憲昭皇太后の御遺徳を偲び、大正9年に創建された神社である。明治神宮が、平成16年に、神社本庁から離脱し一宗教法人となったことは記憶に新しい。明治神宮側と神社庁との確執が原因だった。
明治神宮側は離脱の理由として、平成16年4月の陛下の御親拝なされる際の関係者への案内状に、本来「陛下」とするところを「殿下」と誤記してしまった責任を取って離脱したと説明しているが、これは堅白同異の弁であったのは明らか。
国民の総意で建立した神社を宮司どもが私物化し営利至上主義に奔っている現状は憂慮すべき事態である。 明治神宮側のこうした姿勢は表参道や周辺に蔓延し、明治天皇と憲昭皇太后の御遺徳を偲ぶ神社には相応しくない事態になってるのも確か。
表参道がその好い喩えだ。表参道とは名前の通り明治神宮の参道として整備された通りである。神社=神道とは日本人の心に清む惟神(かんながら)の道である。その表参道が例年、クリスマス商戦からイルミネーションで埋め尽くされる。
日本の教えである神道であり、明治天皇及び憲昭皇太后の御遺徳を偲ぶ神社に続く参道がキリスト教に侵略されたかの様な光景は日本にはそぐわない光景である。
過去に、大日本愛国党の筆保泰禎書記長を始め、右翼団体からの抗議で表参道のイルミネーションが撤去されたことがあるが、その自粛も一時的なものだった。
明治神宮が一宗教法人となること自体赦されることではないし、戦神道指令やGHQの占領政策を容認することに他ならない。更に、先人の努力や国民の総意を踏み躙るもので神宮建立の趣旨から鑑みても逸脱する愚行であると断じて好かろう。
それにも況して問題なのは神職に携わる者が営利に奔っている事である。神職らのこうした賤しい営利主義が周辺に及ぼしているのを憂慮せざるを得ない。
明治神宮外苑の再開発は、樹木の伐採ばかりが問題とされ、また野党や左翼活動家に利用されつつある。外苑は明治天皇の思し召しに沿う教育・文化を重んじる区域とするべきで、神職らは国民の神宮外苑の再開発計画反対の声に耳を傾けよ。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
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2024年06月28日
古い日本語が差別用語として規制されてるのは逆差別にも感じてしまう
映画が好きでジャンルは問わず年間500本以上は観てるだろうか。ん~どんだけ暇なの。日本映画の中でも「鬼平犯科帳」は愚生のバイブルでもある。若い頃は、原作者・池波正太郎の愛した店に通っては長谷川平蔵を気取ったものだ(笑)
鬼平犯科帳では軍鶏鍋屋の「五鉄」など小料理屋や蕎麦屋などで呑むシーンが多い。吞み終えた平蔵は女将に心付けを渡す。高が心付けなのだが、平蔵の何気ない渡し方が完璧で、アレは池波正太郎自身の普段の姿をダブらせたものだろう。
鬼平犯科帳の処世術は実に参考になった。例えば、相手への礼金にしても「相手が恐縮する程の金を渡さなければ意味はない」というのには刮目。小銭を貰っても有難みが無い。「過分なカネを払ってこそ相手に感謝されるもの」とは蓋し正論。
田村正和主演の「眠狂四郎」も好きだったが今では中々観られなくなった。眠狂四郎は、今は亡き市川雷蔵のあのドSぶりが堪らない。昔の日本映画や落語などには盲(めくら)、唖(おし)、吃(ども)り、跛(びっこ)、聾(つんぼ)などの放送禁止用語がバンバン飛び交っていて、台詞そのものが実に興味深いものばかり。
古い映画や古典落語には差別用語だけではなく、懐かしくも美しい日本語が処処に溢れていて、日本の原風景が浮かんできそうだ。こうしたことを気にしながら、観たり聴いたりすることこそ生きた耳学問であり、実践した教育でもある。
現代の価値観で差別表記が禁止され、放送禁止用語ばかりでリアルな小説が書けるとは思えないし、そんな小説を読んだところで興覚めだ。こうした現代の安っぽい風潮に一石を投じる小説家やジャーナリストがいないというのも情けない。
「憚(はばか)り様でした」(ご苦労様です。恐れ入ります)
「傍杖(そばづえ)を食う」(思わぬ災難に遭う)
「荷が勝つ」(責任・負担が重過ぎる)
「武士は相身互い」(同じ立場の者は助け合うべし)
「罪業の深さ」(罪の原因となる行為)
「浮世に拗(す)ねる」(世の中に逆らう)
「卒爾(そつじ)ながら」(人に声をかける時に言う語)
その他にも、「阿漕(あこぎ)な奴」とか「お為倒し(おためごかし)」「朝未(ま)だき」「足元から鳥が立つ」など、現代では余り馴染みのない言葉や台詞のオンパレード。こうした難解な言葉を四六時中考え、気にしている観ている訳ではないが、古典落語や日本映画から昔の日本語を知るのはそれはそれでで楽しい。
「四六時中」という言葉も、昔は「二六時中」と言ってたそうだ。一日を十二刻で数えていた時代には「二六時中」だったが、二十四時間になって「四六時中」に変わったというから面白い。言葉は時代と共に移ろうものだが、時代時代でどういう風に使っているのかを知れば、また違った世界観を知ることが出来るというもの。
言葉は移ろうものだが、どういう人がどういう風に使っているのかを知れば、また違った世界を知ることが出来る。日本語と言うのは実に素晴らしいと思う。
「武士は相身互い」という。同じ立場にいる仲間なら助け合うのが当たり前だったが、今ではライバル心剥き出しで相手の足を引っ張るのが当たり前になってしまった。右翼の世界も武士の生き様とは程遠く、己のことが精一杯で仲間を疎んじる。
外国語に比べ、日本語というのは実に素晴らしい語彙である。現代の思想家でもある新崎智こと呉智英(くれ ともふさ、ご・ちえい)は、「差別は正しい、差別と闘うのが正しいのと同じぐらい正しい。人類が目指すべきは『差別もある明るい社会』である。差別さえない暗黒社会にしてはならない」と逆説的に述べている。
哲学的ではあるが実に示唆に富んでいる。くだらない倫理観やキレイゴトに因って、古い日本語が差別用語として規制されてるのは逆差別にも感じてしまう。
保守陣営などからは「教育勅語を道徳教育の指導原理と成し、また戦前の『修身』を復活せよ!」との声も聞こえる。修身では、例えば「おたけがめくらのてをひいて」と、幼少のおたけの障碍者への労りや優しさを教えている。だがどうだろう。
「めくら」は、現代では差別用語でもあり、放送禁止用語でもある。これを現代風に「視覚障碍者の手を引いて横断歩道を渡りました」などと表したとしても、真意は伝わらない気がする。放送禁止用語や差別用語は撤廃させるのが先決だろう。
差別用語が羅列されてる「修身」の復活は、現代の教育に使うことは不可能に近い。「差別用語を使用しなければ良いだろう」というが、眠狂四郎や他の時代劇のリメイク版の様にリアル感が無くなり、相手(子供や学生)の心にに響くものが無ければ実践することもなく、実践の伴わない修身や道徳教育なんぞに意味は無い。
「忙中閑あり」というより「閑中閑ばかり」。時代劇や小津安二郎など古い映画から、混迷する我が国の本来の在るべき姿が見えて来るかもしれませんぞ。呵呵。
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鬼平犯科帳では軍鶏鍋屋の「五鉄」など小料理屋や蕎麦屋などで呑むシーンが多い。吞み終えた平蔵は女将に心付けを渡す。高が心付けなのだが、平蔵の何気ない渡し方が完璧で、アレは池波正太郎自身の普段の姿をダブらせたものだろう。
鬼平犯科帳の処世術は実に参考になった。例えば、相手への礼金にしても「相手が恐縮する程の金を渡さなければ意味はない」というのには刮目。小銭を貰っても有難みが無い。「過分なカネを払ってこそ相手に感謝されるもの」とは蓋し正論。
田村正和主演の「眠狂四郎」も好きだったが今では中々観られなくなった。眠狂四郎は、今は亡き市川雷蔵のあのドSぶりが堪らない。昔の日本映画や落語などには盲(めくら)、唖(おし)、吃(ども)り、跛(びっこ)、聾(つんぼ)などの放送禁止用語がバンバン飛び交っていて、台詞そのものが実に興味深いものばかり。
古い映画や古典落語には差別用語だけではなく、懐かしくも美しい日本語が処処に溢れていて、日本の原風景が浮かんできそうだ。こうしたことを気にしながら、観たり聴いたりすることこそ生きた耳学問であり、実践した教育でもある。
現代の価値観で差別表記が禁止され、放送禁止用語ばかりでリアルな小説が書けるとは思えないし、そんな小説を読んだところで興覚めだ。こうした現代の安っぽい風潮に一石を投じる小説家やジャーナリストがいないというのも情けない。
「憚(はばか)り様でした」(ご苦労様です。恐れ入ります)
「傍杖(そばづえ)を食う」(思わぬ災難に遭う)
「荷が勝つ」(責任・負担が重過ぎる)
「武士は相身互い」(同じ立場の者は助け合うべし)
「罪業の深さ」(罪の原因となる行為)
「浮世に拗(す)ねる」(世の中に逆らう)
「卒爾(そつじ)ながら」(人に声をかける時に言う語)
その他にも、「阿漕(あこぎ)な奴」とか「お為倒し(おためごかし)」「朝未(ま)だき」「足元から鳥が立つ」など、現代では余り馴染みのない言葉や台詞のオンパレード。こうした難解な言葉を四六時中考え、気にしている観ている訳ではないが、古典落語や日本映画から昔の日本語を知るのはそれはそれでで楽しい。
「四六時中」という言葉も、昔は「二六時中」と言ってたそうだ。一日を十二刻で数えていた時代には「二六時中」だったが、二十四時間になって「四六時中」に変わったというから面白い。言葉は時代と共に移ろうものだが、時代時代でどういう風に使っているのかを知れば、また違った世界観を知ることが出来るというもの。
言葉は移ろうものだが、どういう人がどういう風に使っているのかを知れば、また違った世界を知ることが出来る。日本語と言うのは実に素晴らしいと思う。
「武士は相身互い」という。同じ立場にいる仲間なら助け合うのが当たり前だったが、今ではライバル心剥き出しで相手の足を引っ張るのが当たり前になってしまった。右翼の世界も武士の生き様とは程遠く、己のことが精一杯で仲間を疎んじる。
外国語に比べ、日本語というのは実に素晴らしい語彙である。現代の思想家でもある新崎智こと呉智英(くれ ともふさ、ご・ちえい)は、「差別は正しい、差別と闘うのが正しいのと同じぐらい正しい。人類が目指すべきは『差別もある明るい社会』である。差別さえない暗黒社会にしてはならない」と逆説的に述べている。
哲学的ではあるが実に示唆に富んでいる。くだらない倫理観やキレイゴトに因って、古い日本語が差別用語として規制されてるのは逆差別にも感じてしまう。
保守陣営などからは「教育勅語を道徳教育の指導原理と成し、また戦前の『修身』を復活せよ!」との声も聞こえる。修身では、例えば「おたけがめくらのてをひいて」と、幼少のおたけの障碍者への労りや優しさを教えている。だがどうだろう。
「めくら」は、現代では差別用語でもあり、放送禁止用語でもある。これを現代風に「視覚障碍者の手を引いて横断歩道を渡りました」などと表したとしても、真意は伝わらない気がする。放送禁止用語や差別用語は撤廃させるのが先決だろう。
差別用語が羅列されてる「修身」の復活は、現代の教育に使うことは不可能に近い。「差別用語を使用しなければ良いだろう」というが、眠狂四郎や他の時代劇のリメイク版の様にリアル感が無くなり、相手(子供や学生)の心にに響くものが無ければ実践することもなく、実践の伴わない修身や道徳教育なんぞに意味は無い。
「忙中閑あり」というより「閑中閑ばかり」。時代劇や小津安二郎など古い映画から、混迷する我が国の本来の在るべき姿が見えて来るかもしれませんぞ。呵呵。
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《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
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2024年06月25日
朝鮮戦争と日本国憲法と自衛隊
我が国が未だGHQの占領下だった1950(昭和25)年6月25日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が突如として大韓民国のソウルに侵攻する。これを機に同じ民族同士が相討つ戦争となり、数百万人が犠牲となる大惨事となった。朝鮮戦争である。
朝鮮戦争を遡ること5年前の1945年8月9日、ソ連は我が国と締結していた「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄し参戦。その3日後には朝鮮半島北部に侵攻した。
朝鮮への侵攻準備が出来ていなかった米国はこのソ連の侵攻に慌て、急遽、ソ連との間で朝鮮占領の協議が行われた。結果、38度線で分割する事で合意した。
北朝鮮でソ連は、日本人の軍人・行政官・警察官を抑留すると共に親日派を一掃し、共産主義者を中心に人民委員会を組織させ委譲する。1946年2月、ソ連の傀儡として、重慶に亡命していた金日成を首班とする政権を誕生させた。
一方、南朝鮮では、米国に因って総督府の残留朝鮮人官吏を活用し軍政権を敷く。1946年1月に、間接選挙による「過度立法議院」を構成させ、翌年の2月、安在鴻を長官とする過度政府を発足させた。 ヤルタ協定では1948年3月迄、国連の信託統治を予定していたが、米ソの対立で全ての協議が決裂することとなった。
1948年8月、米国は反日活動家の李承晩を初代大統領に据え、大韓民国を建国させる。そしてソ連は、この翌月に朝鮮民主主義人民共和国を建国させた。
北朝鮮では金日成の支配下で着々と国政の整備が進んだのに対し、韓国は官僚や亡命先からの帰国者、米国の措置で監獄から解放された共産主義者が入り乱れ、政権は安定せず、労働組合によるストライキが多発し、社会混乱が加速した。
1946年10月以降、それまで容共的だった米国は次第に共産党の拡大を危惧し抑圧政策に転じる。米国の傀儡政権である李承晩は、日本と共同歩調を執ろうとした呂運亮を暗殺し、自ら大統領に就くと「反日・反共」を国是としたのである。
李承晩が最初にやった仕事は親日派の追放であり、その結果、日本に育てられた優秀な官僚は次々と追放されて行った。現在の文在寅大統領の目的は、この李承晩の行った親日派の追放の完遂であり、「反日と反共」であった国是が、いつの間にやら容共国家となり、「反日」のみとなってしまっているのが現在の韓国である。
こうした中で米ソの対立に因って朝鮮戦争が勃発する。韓国内で指揮を執っていたマッカーサーは危機感から吉田茂首相に、日本の国内警察力と海上警備力の強化を促す書簡を送った。所謂「マッカーサー書簡(文書)」と言われるものである。
この文書はマッカーサーが実質、押し付けた日本国憲法の破棄を促したものだ。このマッカーサー書簡から1ヶ月後には「警察予備隊令」が決定、翌日公布、即日施行というスピードで準備が整えられ、自衛隊の前身たる警察予備隊が誕生した。
当時は、日本国憲法に違反しない為に警察予備隊は「軍隊」ではないという欺瞞の下で「師団」を「管区」、「歩兵」を「普通科」、「砲兵」を「特科」、「兵器」は「武器」、「戦車」に至っては「特車」という御粗末なものだった。
故安倍首相は、憲法九条改正を訴え、自衛隊を「我が国を防衛する為の必要最小限の実力組織」にすると語っている。この認識こそが占領下時代の警察予備隊の儘なのだ。正に安倍らの謀る憲法改正はインチキであり、究極の護憲運動と言える。
我が国が主権回復した昭和27(1952)年の8月1日、警察予備隊と海上警備隊を統合し「保安庁」が設置される。政府は「保安庁法」」を提出するも、野党は「憲法9条」を楯に政府を攻撃した。この野党の不毛な議論の構図は今も変わらない。
吉田茂はその答弁に於いて、「戦力とは近代戦を実行する力であり、保安隊、警備隊にその力はない」と詭弁を弄した。その結果として、自衛隊は永い間「戦力なき軍隊」と言われた儘で、今も吉田発言と現憲法の呪縛に囚われて続けている。
吉田が日本国憲法を見直さず遵守を明言したことで、我が国が朝鮮戦争やベトナム戦争に駆り出されなかったのは事実だろうが、「マッカーサー書簡」が送られたのを機に憲法を破棄していれば、我が国はまともな国家になっていたに違いない。
当時の吉田茂の判断が良かったかどうかなど議論したところで意味はないが、この時の憲法解釈が未だに大きく圧し掛かっているのは紛れもない事実である。
誤(護)憲派は「平和主義の理念を守る」と叫ぶ。自衛隊の存在を認めることなく、国家の防衛を怠り何が「平和主義」か。自民党に対しては「戦争を出来る国にしようとしている」などと「平和」という言葉を武器に国民を誑かし続ける。
我が国が目指すべきは「戦争出来る国」ではなく「戦争しても負けない国」であり、自らの国家の防衛や国防の義務を放棄した現憲法は無用の長物と化す。
憲法とは国家の基本法であり、時代の流れに応じて変えて行くものであり、不可侵ではない。環境問題、情報公開、プライバシー保護、尖閣列島や竹島に見られる主権問題など、憲法を施行した時代からは想像もしなかった程社会は変化している。
そうした社会に適応出来る様にすることは何も平和に逆行することではない。寧ろ、矛盾だらけの憲法を後生大事に崇めている方が平和に逆行する行為だ。
三島由紀夫は「戦争を誘発する大きな原因の一つは、アンディフェンデッド・ウェルス(無防備の害)だ」と訓えていたが、正に護憲派こそ無防備の害そのもの。
我が国と国民を危険に曝す誤憲派の「平和主義」というキレイゴトが我が国の在るべき姿を失する結果となっていることは余程のバカじゃない限り理解している。
国際情勢や近隣アジアや朝鮮半島情勢が不穏な時代に於いて、国民が真に平和を望むならば、米国依存ではなく、日本人自らが命懸けで創り出さなければならない。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
朝鮮戦争を遡ること5年前の1945年8月9日、ソ連は我が国と締結していた「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄し参戦。その3日後には朝鮮半島北部に侵攻した。
朝鮮への侵攻準備が出来ていなかった米国はこのソ連の侵攻に慌て、急遽、ソ連との間で朝鮮占領の協議が行われた。結果、38度線で分割する事で合意した。
北朝鮮でソ連は、日本人の軍人・行政官・警察官を抑留すると共に親日派を一掃し、共産主義者を中心に人民委員会を組織させ委譲する。1946年2月、ソ連の傀儡として、重慶に亡命していた金日成を首班とする政権を誕生させた。
一方、南朝鮮では、米国に因って総督府の残留朝鮮人官吏を活用し軍政権を敷く。1946年1月に、間接選挙による「過度立法議院」を構成させ、翌年の2月、安在鴻を長官とする過度政府を発足させた。 ヤルタ協定では1948年3月迄、国連の信託統治を予定していたが、米ソの対立で全ての協議が決裂することとなった。
1948年8月、米国は反日活動家の李承晩を初代大統領に据え、大韓民国を建国させる。そしてソ連は、この翌月に朝鮮民主主義人民共和国を建国させた。
北朝鮮では金日成の支配下で着々と国政の整備が進んだのに対し、韓国は官僚や亡命先からの帰国者、米国の措置で監獄から解放された共産主義者が入り乱れ、政権は安定せず、労働組合によるストライキが多発し、社会混乱が加速した。
1946年10月以降、それまで容共的だった米国は次第に共産党の拡大を危惧し抑圧政策に転じる。米国の傀儡政権である李承晩は、日本と共同歩調を執ろうとした呂運亮を暗殺し、自ら大統領に就くと「反日・反共」を国是としたのである。
李承晩が最初にやった仕事は親日派の追放であり、その結果、日本に育てられた優秀な官僚は次々と追放されて行った。現在の文在寅大統領の目的は、この李承晩の行った親日派の追放の完遂であり、「反日と反共」であった国是が、いつの間にやら容共国家となり、「反日」のみとなってしまっているのが現在の韓国である。
こうした中で米ソの対立に因って朝鮮戦争が勃発する。韓国内で指揮を執っていたマッカーサーは危機感から吉田茂首相に、日本の国内警察力と海上警備力の強化を促す書簡を送った。所謂「マッカーサー書簡(文書)」と言われるものである。
この文書はマッカーサーが実質、押し付けた日本国憲法の破棄を促したものだ。このマッカーサー書簡から1ヶ月後には「警察予備隊令」が決定、翌日公布、即日施行というスピードで準備が整えられ、自衛隊の前身たる警察予備隊が誕生した。
当時は、日本国憲法に違反しない為に警察予備隊は「軍隊」ではないという欺瞞の下で「師団」を「管区」、「歩兵」を「普通科」、「砲兵」を「特科」、「兵器」は「武器」、「戦車」に至っては「特車」という御粗末なものだった。
故安倍首相は、憲法九条改正を訴え、自衛隊を「我が国を防衛する為の必要最小限の実力組織」にすると語っている。この認識こそが占領下時代の警察予備隊の儘なのだ。正に安倍らの謀る憲法改正はインチキであり、究極の護憲運動と言える。
我が国が主権回復した昭和27(1952)年の8月1日、警察予備隊と海上警備隊を統合し「保安庁」が設置される。政府は「保安庁法」」を提出するも、野党は「憲法9条」を楯に政府を攻撃した。この野党の不毛な議論の構図は今も変わらない。
吉田茂はその答弁に於いて、「戦力とは近代戦を実行する力であり、保安隊、警備隊にその力はない」と詭弁を弄した。その結果として、自衛隊は永い間「戦力なき軍隊」と言われた儘で、今も吉田発言と現憲法の呪縛に囚われて続けている。
吉田が日本国憲法を見直さず遵守を明言したことで、我が国が朝鮮戦争やベトナム戦争に駆り出されなかったのは事実だろうが、「マッカーサー書簡」が送られたのを機に憲法を破棄していれば、我が国はまともな国家になっていたに違いない。
当時の吉田茂の判断が良かったかどうかなど議論したところで意味はないが、この時の憲法解釈が未だに大きく圧し掛かっているのは紛れもない事実である。
誤(護)憲派は「平和主義の理念を守る」と叫ぶ。自衛隊の存在を認めることなく、国家の防衛を怠り何が「平和主義」か。自民党に対しては「戦争を出来る国にしようとしている」などと「平和」という言葉を武器に国民を誑かし続ける。
我が国が目指すべきは「戦争出来る国」ではなく「戦争しても負けない国」であり、自らの国家の防衛や国防の義務を放棄した現憲法は無用の長物と化す。
憲法とは国家の基本法であり、時代の流れに応じて変えて行くものであり、不可侵ではない。環境問題、情報公開、プライバシー保護、尖閣列島や竹島に見られる主権問題など、憲法を施行した時代からは想像もしなかった程社会は変化している。
そうした社会に適応出来る様にすることは何も平和に逆行することではない。寧ろ、矛盾だらけの憲法を後生大事に崇めている方が平和に逆行する行為だ。
三島由紀夫は「戦争を誘発する大きな原因の一つは、アンディフェンデッド・ウェルス(無防備の害)だ」と訓えていたが、正に護憲派こそ無防備の害そのもの。
我が国と国民を危険に曝す誤憲派の「平和主義」というキレイゴトが我が国の在るべき姿を失する結果となっていることは余程のバカじゃない限り理解している。
国際情勢や近隣アジアや朝鮮半島情勢が不穏な時代に於いて、国民が真に平和を望むならば、米国依存ではなく、日本人自らが命懸けで創り出さなければならない。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
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2024年06月23日
「沖縄慰霊の日」に平和の意味を考えてみよう!
6月23日は沖縄戦が終結した「慰霊の日」。沖縄戦での日本人の死者・行方不明者は188,136人。沖縄出身者122,228人の内94,000人の民間人が犠牲となった。
マスコミは「沖縄戦では、県民の4人に1人が亡くなった」として悲惨さを煽るが、沖縄や日本を守ろうとした沖縄県民の自己犠牲の精神は立派なものだ。
昭和20年4月1日、米軍はついに沖縄に上陸する。それを牛島満中将指揮下の師団と旅団、及び大田実海軍少将指揮下の海軍部隊、棚町整海軍大佐が指揮する約7千人の航空関係員が迎え撃つ。更には「鉄血勤皇隊」や「ひめゆり学徒隊」に代表される少年少女など、軍は当然乍ら民間人も決死の沖縄防衛戦を展開した。
米軍の沖縄上陸に対して本土からは、第二艦隊の出撃として「菊水一号作戦」や、桜花隊や敷島隊等の航空特攻として「菊水二号作戦」を発動した。人間魚雷と言われた「回天」等の決死の戦闘空しく、同年6月23日組織的沖縄戦は終結に至った。
遡ること昭和19年10月20日、フィリピンのレイテ島に、圧倒的勢力で上陸を図ろうとする米軍部隊と連合軍に対して、日本軍は沖縄への上陸と本土決戦を阻止しようと、「神風特別攻撃隊」が編成される。神風精神は祖国愛の極致というべきもので、これこそ大東亜戦争が自存の為の祖国防衛戦争であったことの何よりの証である。
沖縄戦に於いては、特攻部隊が重要な役割を果たしている。鹿児島県の鹿屋基地(海軍航空)からの特攻で1981名、知覧基地(陸軍航空)からの特攻で1021名、合わせて3002名と特攻戦死者の実に76%が沖縄戦で尊い命を散らしている。
特攻作戦は零戦などの航空特攻だけではなく、特殊潜航艇、回天魚雷、空挺特攻、対戦車特攻、震洋特攻艇、陸軍海上特攻など劣勢を覆す為の攻撃が行われた。必死の特攻作戦で3972名が散華した。戦艦大和が沖縄戦に出撃したのは有名だろう。
大和の乗組員は全力を挙げて砲撃戦を行う予定であったが、出撃後の4月7日、惜しくも鹿児島沖の海に沈んだ。大和の船内には歯磨き粉、ブラシ50万人分、月経帯15万人分などの民生品を大量に積み込んでいたという。これはつまり、対米戦だけではなく、沖縄と沖縄の人々を必死に護ろうとした何よりの証明と云えよう。
沖縄では未だに「日本は沖縄を見捨てた」だとか「日本は沖縄を捨石にした」などというプロパガンダが蔓延っているが、いい加減、被害者意識を捨てて歴史の事実に目を向けたらどうだろう。被害者ぶったところでそこからは何も生まれない。
純粋に沖縄を護る為に、国の未来の為に尊い命を捧げてくれた若き英霊に対し、今を生きる我々が被害者意識丸出しでは一体どんな顔向けが出来るというのか。
沖縄戦で散華した大田少将は、自決前に「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電した。この一文からも、沖縄を死守すべく先人達は戦い、力及ばず敗戦の憂き目を見るが、決して沖縄を見捨てた訳ではないのだ。
戦後、米軍の統治下に置かれた沖縄県民の負った犠牲は気の毒なものだとは思うが、旧ソ連の残虐非道、鬼畜の如き蛮行により故郷を追われた北の島々の方々の被害やその想いに比べれば、占領したのが米国で未だマシだったとは思えないか。
「戦争に負ける」とは不条理を甘んじて受け入れることでもあり、先の大戦は「一旦始めた戦争は決して負けてはならない」という重要な教訓を遺したと言えよう。
政治家は「平和を守る」と口にし、先の大戦を「侵略戦争であり、間違った戦争であった」と反省を口にする。先の大戦の大義を学ぶことなく、たった一度の敗戦で軽々しく反省するなどとは余りにも短絡的であり、情けないことではないか。
我が国では、摩訶不思議なことに、国の礎となった英霊が祀られている靖國神社がそうであるが、国家から顧みられることがない。こうした不条理が、どれだけ国民精神の頽廃を招いているのか、我が国の政治指導者らは考えたことがあるのか。
国家の危機の要請に応じ、敢然と戦場に赴いて戦い散って逝った英霊に対し感謝の誠を捧げ、慰霊し顕彰することは世界の何処の国も余りにも当然なことである。
戦後の日本人は、GHQの謀った戦後民主主義を妄信し、自虐史観の洗脳から抜け出せないでいる。国家の大本である国防さえもその米国に依存してるマヌケさ。
「平和」というものは守るものではないし、平和を御念仏の如く口にしていれば未来永劫平和が続く訳ではない。戦争とは政治や外交の延長であり、平和というものは政治と外交を怠ることなく、自らの手で命懸けで創り出さなくてはならないものだ。
我が国の現在の平和や繁栄は、まやかしではあるが、先人の犠牲の上で成り立っていることを我々は決して忘れてはならない。末尾に当たり、沖縄戦で散華された英霊の御霊に感謝の誠を捧げると共に、全ての犠牲者に哀悼の意を表します。合掌。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
マスコミは「沖縄戦では、県民の4人に1人が亡くなった」として悲惨さを煽るが、沖縄や日本を守ろうとした沖縄県民の自己犠牲の精神は立派なものだ。
昭和20年4月1日、米軍はついに沖縄に上陸する。それを牛島満中将指揮下の師団と旅団、及び大田実海軍少将指揮下の海軍部隊、棚町整海軍大佐が指揮する約7千人の航空関係員が迎え撃つ。更には「鉄血勤皇隊」や「ひめゆり学徒隊」に代表される少年少女など、軍は当然乍ら民間人も決死の沖縄防衛戦を展開した。
米軍の沖縄上陸に対して本土からは、第二艦隊の出撃として「菊水一号作戦」や、桜花隊や敷島隊等の航空特攻として「菊水二号作戦」を発動した。人間魚雷と言われた「回天」等の決死の戦闘空しく、同年6月23日組織的沖縄戦は終結に至った。
遡ること昭和19年10月20日、フィリピンのレイテ島に、圧倒的勢力で上陸を図ろうとする米軍部隊と連合軍に対して、日本軍は沖縄への上陸と本土決戦を阻止しようと、「神風特別攻撃隊」が編成される。神風精神は祖国愛の極致というべきもので、これこそ大東亜戦争が自存の為の祖国防衛戦争であったことの何よりの証である。
沖縄戦に於いては、特攻部隊が重要な役割を果たしている。鹿児島県の鹿屋基地(海軍航空)からの特攻で1981名、知覧基地(陸軍航空)からの特攻で1021名、合わせて3002名と特攻戦死者の実に76%が沖縄戦で尊い命を散らしている。
特攻作戦は零戦などの航空特攻だけではなく、特殊潜航艇、回天魚雷、空挺特攻、対戦車特攻、震洋特攻艇、陸軍海上特攻など劣勢を覆す為の攻撃が行われた。必死の特攻作戦で3972名が散華した。戦艦大和が沖縄戦に出撃したのは有名だろう。
大和の乗組員は全力を挙げて砲撃戦を行う予定であったが、出撃後の4月7日、惜しくも鹿児島沖の海に沈んだ。大和の船内には歯磨き粉、ブラシ50万人分、月経帯15万人分などの民生品を大量に積み込んでいたという。これはつまり、対米戦だけではなく、沖縄と沖縄の人々を必死に護ろうとした何よりの証明と云えよう。
沖縄では未だに「日本は沖縄を見捨てた」だとか「日本は沖縄を捨石にした」などというプロパガンダが蔓延っているが、いい加減、被害者意識を捨てて歴史の事実に目を向けたらどうだろう。被害者ぶったところでそこからは何も生まれない。
純粋に沖縄を護る為に、国の未来の為に尊い命を捧げてくれた若き英霊に対し、今を生きる我々が被害者意識丸出しでは一体どんな顔向けが出来るというのか。
沖縄戦で散華した大田少将は、自決前に「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電した。この一文からも、沖縄を死守すべく先人達は戦い、力及ばず敗戦の憂き目を見るが、決して沖縄を見捨てた訳ではないのだ。
戦後、米軍の統治下に置かれた沖縄県民の負った犠牲は気の毒なものだとは思うが、旧ソ連の残虐非道、鬼畜の如き蛮行により故郷を追われた北の島々の方々の被害やその想いに比べれば、占領したのが米国で未だマシだったとは思えないか。
「戦争に負ける」とは不条理を甘んじて受け入れることでもあり、先の大戦は「一旦始めた戦争は決して負けてはならない」という重要な教訓を遺したと言えよう。
政治家は「平和を守る」と口にし、先の大戦を「侵略戦争であり、間違った戦争であった」と反省を口にする。先の大戦の大義を学ぶことなく、たった一度の敗戦で軽々しく反省するなどとは余りにも短絡的であり、情けないことではないか。
我が国では、摩訶不思議なことに、国の礎となった英霊が祀られている靖國神社がそうであるが、国家から顧みられることがない。こうした不条理が、どれだけ国民精神の頽廃を招いているのか、我が国の政治指導者らは考えたことがあるのか。
国家の危機の要請に応じ、敢然と戦場に赴いて戦い散って逝った英霊に対し感謝の誠を捧げ、慰霊し顕彰することは世界の何処の国も余りにも当然なことである。
戦後の日本人は、GHQの謀った戦後民主主義を妄信し、自虐史観の洗脳から抜け出せないでいる。国家の大本である国防さえもその米国に依存してるマヌケさ。
「平和」というものは守るものではないし、平和を御念仏の如く口にしていれば未来永劫平和が続く訳ではない。戦争とは政治や外交の延長であり、平和というものは政治と外交を怠ることなく、自らの手で命懸けで創り出さなくてはならないものだ。
我が国の現在の平和や繁栄は、まやかしではあるが、先人の犠牲の上で成り立っていることを我々は決して忘れてはならない。末尾に当たり、沖縄戦で散華された英霊の御霊に感謝の誠を捧げると共に、全ての犠牲者に哀悼の意を表します。合掌。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
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2024年06月19日
「病気とは何を食べどんな生活をしてきたかに尽きる」というが
ここのところ体調が芳しくなく、ウォーキングや筋トレもやる気が出ないし、ブログの更新も滞っている。当然乍ら金策も儘ならないし、果報は寝過ぎか届かない。
団体を辞して以来、正統右翼浪人を自任しているが、何のことはない単なる無職のおっさんに過ぎない。気楽な生き方だが慢性的不如意というのは経験者しか分かるまい。生活保護を受給してる元ヤクザや右翼を知ってるが、ああはなりたくない。
好きなことをして経済的に困窮したら生活保護とはダサ過ぎるだろう。乞食は乞食らしくすれば好い。それでも「乞食の朝謡(あさうたい)」じゃないが、台風だろうが何だろうが出勤しなけりゃいけない人に比べりゃ気楽な境遇だとも思っている。
「乞食に氏無し」という諺がある様に、何事に於いてもその者の心がけの悪さからなるもので、今の境遇を嘆いても仕方ない。そうした覚悟に乏しい者ばかり。
最近は弱者を標榜したり、「生活が苦しい」だとか、「生活が大変だ」と泣き言さえいえば手厚く保護される。「我こそは弱者なるぞ、控えおろ~」ってな感じで威張りちらし、それを本人らは恥とも思っていない。日本人の劣化は甚だしい。
行政側は働く気もないこうした連中を国家に因る被害者扱いし、生活保護を大盤振る舞い。「彼らは自民党政治の被害者だ」とか、「可哀想な人達」とかといってボランティアなどが支援するのだが、こうした風潮は偽善以外の何物でもない。
本来、生活保護費は「日本国憲法第25条」及び「生活保護法」に則り日本人に限られ支給される。つまり、在日を始めとした外国人への支給は明らかな法律違反。
外国人の受給条件について厚労省は「永住者とそれに準ずる定住者。更に、難民認定されている人や、日本人の配偶者がいる人が対象」と説明しているが、生活保護目当てに偽装離婚したり、書類を偽造したりするケースは後を絶たない。
生活保護の申請をすれば三親等まで連絡が行く。今は個人情報でそこまですることは無くなったらしいが、生活保護が殖える原因はそんなところにもある。
給付審査をするケースワーカーが圧倒的に少ないとの理由があるのは確かだが、不正をチェックする監視態勢が機能していないのなら直ちに増員すれば好いし、不正請求や違法行為は行政ではなく「詐欺罪」などで警察を介入させるべきだろう。
行政側の「人道的」という甘い措置が不良外国人の増殖を招いている。不正受給には毅然とした対応で臨み、不正受給した外国人に対しては厳罰に処すべきだ。
三親等というと甥っ子や姪っ子や従兄弟、かみさんの兄弟まで入る。普通の日本人なら生活保護を申請すること自体が恥ずかしく思う。愚生の場合、実兄は某社会福祉協議会の会長をやってるし、弟が生活保護となれば大迷惑をかけるわな。
無審査の生活保護支給という安易な生活支援が愚民を生む原因となっている。何でも無闇に貰いたがる賤しい根性を「乞食根性」というが、左翼老人の足立は正に乞食根性丸出し。愚生は貧乏浪人とはいえ賤しい人間にはなりたくないものだ。
「乞食の朝謡」とか「乞食も三日すれば忘れられぬ」との諺通り、毎朝出勤するサラリーマンや労働者に比べて、乞食という生き方は収入さえ考えなければ気楽なもの。愚生も乞食と似たりで「悪習は染まり易く、改めるのは困難」なのである。
若い頃は宵越しのカネも持たず、僅かなカネを得てはパーッと使って気にも留めなかった。纏まったカネが入っても居の安きを求めることなく、活動資金や銀座の遊興費で消えた。最近、明日の事を考える様になってしまったのは老化だわな(笑)
カネというのは「持ってれば何かと便利」「無いよりは有った方が好い」という代物でしかないし、使わなきゃ意味は無い。カネがあれば生活するには困らないし、低迷する右翼活動の立て直しも出来るし、頑張ってる右翼後進らへの支援も出来る。
右翼の先生方を見ると、企業献金などもあり資金が潤沢だった頃に蓄財に励み、その貯め込んだ金で自宅を購入し、居の安きに甘んじ、右翼を志した純粋な気持ちなんぞ疾うの昔に忘れ去り、終身保険に入ってるのに「一日一生」とはコレ如何に。
防共挺身隊本部の総隊長代行に就いた30代から約20年間、物心両面で支援して頂いていた帝友会の高花豊先生に言われた、「佐久間さん、右翼活動家が長生きすると惨めな生活しか待ってませんよ!」という言葉が脳裏に焼き付いて離れない。
仏陀曰く「長寿は無間地獄、最大の苦しみなり」。生老病死に尽きるということか。「病気とは何を食べ、どんな生活をしてきたかに尽きる」というが、今の生活の現状も然りで、正に因果応報であり、悪因悪果。まぁ、泣き言は言うまい。呵呵。
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団体を辞して以来、正統右翼浪人を自任しているが、何のことはない単なる無職のおっさんに過ぎない。気楽な生き方だが慢性的不如意というのは経験者しか分かるまい。生活保護を受給してる元ヤクザや右翼を知ってるが、ああはなりたくない。
好きなことをして経済的に困窮したら生活保護とはダサ過ぎるだろう。乞食は乞食らしくすれば好い。それでも「乞食の朝謡(あさうたい)」じゃないが、台風だろうが何だろうが出勤しなけりゃいけない人に比べりゃ気楽な境遇だとも思っている。
「乞食に氏無し」という諺がある様に、何事に於いてもその者の心がけの悪さからなるもので、今の境遇を嘆いても仕方ない。そうした覚悟に乏しい者ばかり。
最近は弱者を標榜したり、「生活が苦しい」だとか、「生活が大変だ」と泣き言さえいえば手厚く保護される。「我こそは弱者なるぞ、控えおろ~」ってな感じで威張りちらし、それを本人らは恥とも思っていない。日本人の劣化は甚だしい。
行政側は働く気もないこうした連中を国家に因る被害者扱いし、生活保護を大盤振る舞い。「彼らは自民党政治の被害者だ」とか、「可哀想な人達」とかといってボランティアなどが支援するのだが、こうした風潮は偽善以外の何物でもない。
本来、生活保護費は「日本国憲法第25条」及び「生活保護法」に則り日本人に限られ支給される。つまり、在日を始めとした外国人への支給は明らかな法律違反。
外国人の受給条件について厚労省は「永住者とそれに準ずる定住者。更に、難民認定されている人や、日本人の配偶者がいる人が対象」と説明しているが、生活保護目当てに偽装離婚したり、書類を偽造したりするケースは後を絶たない。
生活保護の申請をすれば三親等まで連絡が行く。今は個人情報でそこまですることは無くなったらしいが、生活保護が殖える原因はそんなところにもある。
給付審査をするケースワーカーが圧倒的に少ないとの理由があるのは確かだが、不正をチェックする監視態勢が機能していないのなら直ちに増員すれば好いし、不正請求や違法行為は行政ではなく「詐欺罪」などで警察を介入させるべきだろう。
行政側の「人道的」という甘い措置が不良外国人の増殖を招いている。不正受給には毅然とした対応で臨み、不正受給した外国人に対しては厳罰に処すべきだ。
三親等というと甥っ子や姪っ子や従兄弟、かみさんの兄弟まで入る。普通の日本人なら生活保護を申請すること自体が恥ずかしく思う。愚生の場合、実兄は某社会福祉協議会の会長をやってるし、弟が生活保護となれば大迷惑をかけるわな。
無審査の生活保護支給という安易な生活支援が愚民を生む原因となっている。何でも無闇に貰いたがる賤しい根性を「乞食根性」というが、左翼老人の足立は正に乞食根性丸出し。愚生は貧乏浪人とはいえ賤しい人間にはなりたくないものだ。
「乞食の朝謡」とか「乞食も三日すれば忘れられぬ」との諺通り、毎朝出勤するサラリーマンや労働者に比べて、乞食という生き方は収入さえ考えなければ気楽なもの。愚生も乞食と似たりで「悪習は染まり易く、改めるのは困難」なのである。
若い頃は宵越しのカネも持たず、僅かなカネを得てはパーッと使って気にも留めなかった。纏まったカネが入っても居の安きを求めることなく、活動資金や銀座の遊興費で消えた。最近、明日の事を考える様になってしまったのは老化だわな(笑)
カネというのは「持ってれば何かと便利」「無いよりは有った方が好い」という代物でしかないし、使わなきゃ意味は無い。カネがあれば生活するには困らないし、低迷する右翼活動の立て直しも出来るし、頑張ってる右翼後進らへの支援も出来る。
右翼の先生方を見ると、企業献金などもあり資金が潤沢だった頃に蓄財に励み、その貯め込んだ金で自宅を購入し、居の安きに甘んじ、右翼を志した純粋な気持ちなんぞ疾うの昔に忘れ去り、終身保険に入ってるのに「一日一生」とはコレ如何に。
防共挺身隊本部の総隊長代行に就いた30代から約20年間、物心両面で支援して頂いていた帝友会の高花豊先生に言われた、「佐久間さん、右翼活動家が長生きすると惨めな生活しか待ってませんよ!」という言葉が脳裏に焼き付いて離れない。
仏陀曰く「長寿は無間地獄、最大の苦しみなり」。生老病死に尽きるということか。「病気とは何を食べ、どんな生活をしてきたかに尽きる」というが、今の生活の現状も然りで、正に因果応報であり、悪因悪果。まぁ、泣き言は言うまい。呵呵。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
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2024年06月13日
経団連(十倉雅和会長)の営利至上主義及び国體破壊の施策強要は目に余る
選択的夫婦別姓について「何故こんなに長い時間、棚晒しになってるのか分からない」と批判し、「政府は一丁目一番地として、是非やっていただきたい」と訴えてた経団連の十倉雅和(住友化学会長)が再び選択的夫婦別姓推進を主張した。
十倉は、選択的夫婦別姓の導入は「女性の就労をサポートする」としているが、女性の社会進出が婚姻率の低下と少子化に繋がってることは考慮しないのか。
終身雇用制度が無くなり、男性が働き、女性が家庭を守ると言った価値観が崩壊したのは、経団連を始めとした営利至上主義の経済団体が元凶である。彼奴等は、夫婦別姓推進派であると同時に移民推進派でもあるが、正に国體破壊論者ばかり。
その昔、元楯の会の伊藤好雄と西尾俊一、元大東塾生の森田忠明と憂国同志会の野村秋介の4名が経団連襲撃事件を惹起した。現在の経団連の営利至上主義及び国體破壊の施策強要は目に余る。第二の経団連襲撃事件が惹起される可能性は否めない。
「夫婦別姓が男女平等の理想」とか「別姓は仕事上の不都合を生む」との主張を不審に思う国民が多くなり「夫婦別姓」運動は衰退した。別姓導入に執着する別姓推進派は次の手段として「選択的夫婦別姓」という新たな戦略を展開している。
平成10年以来、「民法の一部を改正する法律案」が国会に10数回提出され、選択的夫婦別姓制度について議論が成されているが、「選択的」と誤魔化してはいるが、我が国には馴染まない制度ということもあって国民的合意には至っていない。
自民党議員らが10年以上に亘って騙されていた「夫婦別姓」運動と同じ騙され方をしているのが「選択的夫婦別姓」や「女性宮家」問題である。昭和時代のあからさまな左翼活動ではなく、カタチを替えた巧妙な左翼活動に騙されてはならない。
現在は住民票に旧姓を併記出来るし、免許証やパスポートなどの公的な身分証明証も旧姓併記は可能。つまり、法律を変える必要は全くなく、「旧制を通称ではなく、法律上の根拠を持って使える制度(婚姻前氏俗称制度)」の主張は支離滅裂。
住民票や免許証が旧姓併記になってるし、抑々、婚姻に際して氏を変える者で職業上不都合が生じる人にとって、通称名で旧姓を使用することが一般化しており、婚姻に際して氏を変更するも、関係者知人に告知することにより何の問題も生じない。
同姓が嫌なら、同棲など事実婚でイイだけのことだろう。だが、そうした変態的な意見より、結婚に際し同じ姓となり、これから新たな家庭を築くという喜びを持つ夫婦の方が圧倒的多数であり、それが極めて一般的な普通の感覚ではあるまいか。
夫婦同姓は、普通の日本人にとって極めて自然な制度であり、現代社会で家族とその絆を支えているのが「戸籍」であり、戸籍は、国民の出生・結婚・死亡などの身分の変動を「夫婦と未婚の子」を単位として登録するシステムである。
選択的と雖も夫婦別姓が導入されれば家族制度は瓦解し、祖先と家族・親と子を結ぶ連帯意識や倫理道徳観に悪影響を及ぼすのは必至。だが、推進派の目的が日本的家族制度の破壊と国體破壊に在るとすれば合点が行くというものだろう。
十倉を始めとした選択的夫婦別姓導入派は「選択的夫婦別姓を導入していないのは世界で日本だけ」と主張し世論撹乱に必至だが、別姓導入は世界に誇る戸籍法廃止への一里塚であり、目先の利潤目当ての移民推進にしても正に国賊の所業。
家族の一体感を維持しその絆を支えているのが「戸籍」である。国民の出生・結婚・死亡などの身分の変動を「夫婦と未婚の子」を単位として登録する戸籍制度は、結婚や相続など家族生活を営む上で極めて重要な役割を担っている。
夫婦別姓推進派は我が国が世界に誇る「戸籍制度の廃止」を実行させ、日本的家族制度を瓦解させることに成功させた後は、天皇及び皇室の廃止を目論む。
以前、杉田水脈議員の「別姓するくらいなら結婚などしなきゃイイ」との野次が批判されたが、至って普通の日本人の感覚だ。十倉や橋下徹らの執拗な別姓推進の究極の目的が「戸籍法廃止」に在るのだとすれば合点が行くというものだろう。
夫婦別姓推進派は、現在の戸籍制度が、家族単位である点を「戦前の家父長制度の残滓」と捉えており、戸籍を個人単位の「個籍」や「個人登録制」に改めることを求めている。こうした考えは家族制度の解体を意図していることは明らか。
現在は「民法」と「戸籍法」に拠って婚姻の際の氏(姓)を決める。 民法第750条には「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」と明記されており、夫婦何れかの「氏」を夫婦の氏とすることは理解出来るだろう。
この規定を大半の国民は「夫婦になるどちらかが氏を変える」と理解しているが、「氏は個人の名前の一部」という誤解と勘違いが混乱を招いているのも確かである。 戸籍でいう「氏」というものは個人を表す名称ではないことを知らないのか。
明治維新以前には武士や大店の商人以外の民には氏などない。明治維新以降、戸籍を整える為に全ての国民に「氏」を与え、国民は皇室の在り方を理想とした。
戸籍には筆頭者のみが氏と名で書かれており、その他の家族は続柄と名しか書かれていない。つまり、「氏」は個人の名前ではなく「家族」を表す名称であり、つまり日本人の日本人らしさの根幹を成すものが「戸籍制度」であるのだ。
戸籍制度は個人だけでなく、親兄弟や子供といった歴史の縦軸の中に生きるという制度であり、正に我が国の戸籍制度は世界に誇る制度であると言えるのだ。
十倉もそうだが、こうした問題が出ると、問題を突き詰めることなく「世界ではこうだ」とか「何処何処の国では」という実に怪しげな意見を散見する。だが、他所の国なんぞどうでもイイではないか。日本は日本だ。別に模倣なんぞしなくて好い。
「選択的夫婦別姓制度」を導入したイタリア、オーストリア、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、ハンガリー、フランス、スペインなど欧州の国々では、婚姻率が4割以上も減り、離婚率が2倍となり、婚外子の割合が5割も増加してしまった。
北欧やフランスでも婚外子が5割を超え、従来の家族制度が崩壊している。その原因は「選択的夫婦別姓制度」の導入が最大の理由。婚姻率が下がり、少子化対策を急がねばならないのに、選択的夫婦別姓を導入しようとは狂気の沙汰である。
選択的と雖も、夫婦別姓が導入され、別姓世代が続けば家系は確実に混乱して、我が国の戸籍制度や家族制度は瓦解し、祖先と家族・親と子を結ぶ連帯意識や地域の一体感、延いては日本人の倫理道徳観にまで悪影響を及ぼすのは必至である。
国體や国柄を変えてしまう様な姦策を提言し続ける経団連は単なる守銭奴と化した。正に「財閥富を誇れども社稷を思う心なし」。天網恢恢疎にして漏らさず。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
十倉は、選択的夫婦別姓の導入は「女性の就労をサポートする」としているが、女性の社会進出が婚姻率の低下と少子化に繋がってることは考慮しないのか。
終身雇用制度が無くなり、男性が働き、女性が家庭を守ると言った価値観が崩壊したのは、経団連を始めとした営利至上主義の経済団体が元凶である。彼奴等は、夫婦別姓推進派であると同時に移民推進派でもあるが、正に国體破壊論者ばかり。
その昔、元楯の会の伊藤好雄と西尾俊一、元大東塾生の森田忠明と憂国同志会の野村秋介の4名が経団連襲撃事件を惹起した。現在の経団連の営利至上主義及び国體破壊の施策強要は目に余る。第二の経団連襲撃事件が惹起される可能性は否めない。
「夫婦別姓が男女平等の理想」とか「別姓は仕事上の不都合を生む」との主張を不審に思う国民が多くなり「夫婦別姓」運動は衰退した。別姓導入に執着する別姓推進派は次の手段として「選択的夫婦別姓」という新たな戦略を展開している。
平成10年以来、「民法の一部を改正する法律案」が国会に10数回提出され、選択的夫婦別姓制度について議論が成されているが、「選択的」と誤魔化してはいるが、我が国には馴染まない制度ということもあって国民的合意には至っていない。
自民党議員らが10年以上に亘って騙されていた「夫婦別姓」運動と同じ騙され方をしているのが「選択的夫婦別姓」や「女性宮家」問題である。昭和時代のあからさまな左翼活動ではなく、カタチを替えた巧妙な左翼活動に騙されてはならない。
現在は住民票に旧姓を併記出来るし、免許証やパスポートなどの公的な身分証明証も旧姓併記は可能。つまり、法律を変える必要は全くなく、「旧制を通称ではなく、法律上の根拠を持って使える制度(婚姻前氏俗称制度)」の主張は支離滅裂。
住民票や免許証が旧姓併記になってるし、抑々、婚姻に際して氏を変える者で職業上不都合が生じる人にとって、通称名で旧姓を使用することが一般化しており、婚姻に際して氏を変更するも、関係者知人に告知することにより何の問題も生じない。
同姓が嫌なら、同棲など事実婚でイイだけのことだろう。だが、そうした変態的な意見より、結婚に際し同じ姓となり、これから新たな家庭を築くという喜びを持つ夫婦の方が圧倒的多数であり、それが極めて一般的な普通の感覚ではあるまいか。
夫婦同姓は、普通の日本人にとって極めて自然な制度であり、現代社会で家族とその絆を支えているのが「戸籍」であり、戸籍は、国民の出生・結婚・死亡などの身分の変動を「夫婦と未婚の子」を単位として登録するシステムである。
選択的と雖も夫婦別姓が導入されれば家族制度は瓦解し、祖先と家族・親と子を結ぶ連帯意識や倫理道徳観に悪影響を及ぼすのは必至。だが、推進派の目的が日本的家族制度の破壊と国體破壊に在るとすれば合点が行くというものだろう。
十倉を始めとした選択的夫婦別姓導入派は「選択的夫婦別姓を導入していないのは世界で日本だけ」と主張し世論撹乱に必至だが、別姓導入は世界に誇る戸籍法廃止への一里塚であり、目先の利潤目当ての移民推進にしても正に国賊の所業。
家族の一体感を維持しその絆を支えているのが「戸籍」である。国民の出生・結婚・死亡などの身分の変動を「夫婦と未婚の子」を単位として登録する戸籍制度は、結婚や相続など家族生活を営む上で極めて重要な役割を担っている。
夫婦別姓推進派は我が国が世界に誇る「戸籍制度の廃止」を実行させ、日本的家族制度を瓦解させることに成功させた後は、天皇及び皇室の廃止を目論む。
以前、杉田水脈議員の「別姓するくらいなら結婚などしなきゃイイ」との野次が批判されたが、至って普通の日本人の感覚だ。十倉や橋下徹らの執拗な別姓推進の究極の目的が「戸籍法廃止」に在るのだとすれば合点が行くというものだろう。
夫婦別姓推進派は、現在の戸籍制度が、家族単位である点を「戦前の家父長制度の残滓」と捉えており、戸籍を個人単位の「個籍」や「個人登録制」に改めることを求めている。こうした考えは家族制度の解体を意図していることは明らか。
現在は「民法」と「戸籍法」に拠って婚姻の際の氏(姓)を決める。 民法第750条には「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」と明記されており、夫婦何れかの「氏」を夫婦の氏とすることは理解出来るだろう。
この規定を大半の国民は「夫婦になるどちらかが氏を変える」と理解しているが、「氏は個人の名前の一部」という誤解と勘違いが混乱を招いているのも確かである。 戸籍でいう「氏」というものは個人を表す名称ではないことを知らないのか。
明治維新以前には武士や大店の商人以外の民には氏などない。明治維新以降、戸籍を整える為に全ての国民に「氏」を与え、国民は皇室の在り方を理想とした。
戸籍には筆頭者のみが氏と名で書かれており、その他の家族は続柄と名しか書かれていない。つまり、「氏」は個人の名前ではなく「家族」を表す名称であり、つまり日本人の日本人らしさの根幹を成すものが「戸籍制度」であるのだ。
戸籍制度は個人だけでなく、親兄弟や子供といった歴史の縦軸の中に生きるという制度であり、正に我が国の戸籍制度は世界に誇る制度であると言えるのだ。
十倉もそうだが、こうした問題が出ると、問題を突き詰めることなく「世界ではこうだ」とか「何処何処の国では」という実に怪しげな意見を散見する。だが、他所の国なんぞどうでもイイではないか。日本は日本だ。別に模倣なんぞしなくて好い。
「選択的夫婦別姓制度」を導入したイタリア、オーストリア、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、ハンガリー、フランス、スペインなど欧州の国々では、婚姻率が4割以上も減り、離婚率が2倍となり、婚外子の割合が5割も増加してしまった。
北欧やフランスでも婚外子が5割を超え、従来の家族制度が崩壊している。その原因は「選択的夫婦別姓制度」の導入が最大の理由。婚姻率が下がり、少子化対策を急がねばならないのに、選択的夫婦別姓を導入しようとは狂気の沙汰である。
選択的と雖も、夫婦別姓が導入され、別姓世代が続けば家系は確実に混乱して、我が国の戸籍制度や家族制度は瓦解し、祖先と家族・親と子を結ぶ連帯意識や地域の一体感、延いては日本人の倫理道徳観にまで悪影響を及ぼすのは必至である。
国體や国柄を変えてしまう様な姦策を提言し続ける経団連は単なる守銭奴と化した。正に「財閥富を誇れども社稷を思う心なし」。天網恢恢疎にして漏らさず。
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2024年06月10日
国柄や国體を損ねる主義・思想に断固として対峙して行かねばならない
愚生が所属していたのは防共挺身隊(防挺)。たけし軍団のつまみ枝豆やガダルカナルタカも所属してた知る人ぞ知る団体でもある。最近は「街宣右翼は朝鮮右翼」だと揶揄されているが、その行動右翼・街宣右翼のパイオニアが防挺でもある。
抑々「街宣右翼」自体にそれほどの歴史はない。右翼に「日本を貶めてる」と言われるほど影響力も無いし、そんな右翼の街宣くらいで滅びる様な日本でもない。
戦後の昭和30年代から50年代の左翼全盛時代、日本を貶めようとしていたのは左翼勢力である。それらを殲滅せんと対峙していた右翼陣営を、現在の風潮で「朝鮮右翼」と揶揄するのは簡単だが、街宣右翼の行動全てを断じられる謂れもない。
戦前の右翼と戦後の右翼は全く違う存在だ。戦前の右翼というのは「国粋主義」的要素が強く、外国思想は全て悪と捉えるという考えであり、それは共産主義であろうが、資本主義であろうが、民主主義であろうが批判されるべき対象だった。
戦後右翼が、国粋主義から「反共」に奔ったのは共産主義の拡大に危機感を持ったGHQの意向もあるが、「右翼の巨頭」と称された児玉誉志夫の影響が大きい。
「政財界の黒幕」と言われた児玉は、戦前は海軍航空部門の物資調達を任された「児玉機関」の親玉でもあり、戦後は「A級戦犯」として逮捕された経歴もある。
GHQは占領下に於いて、「戦争を引き起こしたのは日本国内の右翼勢力だ」として、右翼団体や危険人物を潰そうとする。だが、第二次世界大戦が終結すると日独の防共の砦が崩壊するとアジアを始め世界各地で共産党に因る革命や暴動が起こった。
日本国内でも共産主義が席巻し、これを危惧したGHQは右翼解体の方向を転換し、右翼を「反共」に利用する。児玉と同じくA級戦犯だった笹川良一も参画した。
児玉も笹川も、GHQの意の儘に「民主主義」「資本主義」に与し、我が国の国體を損ねる思想には沈黙。「共産主義」のみを悪とし、それらを忠実に実行した。
児玉や笹川らが「米国のスパイ」と言われるのはそんな所以である。児玉は「児玉機関」で貯め込んだ潤沢な資金を基に、全国の博徒(ヤクザ)や香具師(テキヤ)を纏め上げ、愚連隊的右翼団体を次々と立ち上げ、「反共運動」に乗り出した。
当時の情勢を鑑みれば「反共」運動は別に間違ってはいないが、右翼団体が「憲法改正」や「靖國神社国家護持」「北方領土奪還」などの自民党のスローガンを忠実に遂行し、自民党の「院外団」的行動をしていたことも児玉や笹川の影響が大きい。
所属した防共挺身隊も児玉門下でもあり、初代福田進総隊長はそれらを利用し、経済的な恩恵を享けたのも確か。例えば、福田総隊長は神奈川県葉山の二束三文の土地を取得したが、間もなく有料道路が建設されることとなり莫大な資金を得た。
福田総隊長は、日本に帰属される前の沖縄で、那覇空港内に「福田商店」という免税店を開業している。これもまた児玉のそうした裏の人脈と政治力の賜物だろう。
福田総隊長時代の政治資金も潤沢で、自民党や共産党、日本医師会などが連ねる中で常にトップ10入りしていた。そんな資金を若手右翼やテロリストの育成に使うことはなく、幽冥境を異にしてしまったことは返す返すも残念なことだった。
ヤクザが「仁侠道」を忘却し暴力団化したのと同じく、右翼団体も維新者としての「大義」を忘れ、資本主義に溺れ、金儲けなどに興じていれば、必要価値の無い存在に成り下がって行くのは必然であろう。ならばどうすれば善いのか。
右翼の使命は、日本の純粋性を曇らすもの、つまりは「共産主義」だけではなく、「資本主義」であろうが、「民主主義」であろうが、我が国の国柄や国體を損ねる主義思想や行動に断固として対峙して行かねばならないという覚悟であろう。
三島由紀夫は嘗て、戦後に右翼が左翼に取られたものとして、「ナショナリズム」「反体制」「反資本主義」の三つを指摘した。今やそれらは左翼の手中に在る。
国家主義や民族主義という「ナショナリズム」にしても、「反体制」や「反権力」という反骨主義や「反資本主義」という国粋主義というのは戦前の右翼はそれらを自覚し保持していた。何故なら、この三つこそが右翼の矜持に他ならないからだ。
果して、現在の右翼団体や自称・愛国者に、三島のこの指摘はどの様に響くのだろうか。共産主義や共産党を始めとする左翼陣営を批判するのは容易いが、批判する側もまた自らが自由主義や資本主義という病魔に侵されている自覚はない。
天皇国日本を盤石の安きに置く歴史的使命を有するものは民族派陣営以外にいないと自覚する。そう考えた時、右翼民族派陣営は果たして何を為すべきなのか。
維新者としての「大義」を取戻し、テロを担保しつつ、更なる愛国的活動の奮励に邁進する以外に道は無い。それが畢竟、日本再生に繋がることと信じて止まない。
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抑々「街宣右翼」自体にそれほどの歴史はない。右翼に「日本を貶めてる」と言われるほど影響力も無いし、そんな右翼の街宣くらいで滅びる様な日本でもない。
戦後の昭和30年代から50年代の左翼全盛時代、日本を貶めようとしていたのは左翼勢力である。それらを殲滅せんと対峙していた右翼陣営を、現在の風潮で「朝鮮右翼」と揶揄するのは簡単だが、街宣右翼の行動全てを断じられる謂れもない。
戦前の右翼と戦後の右翼は全く違う存在だ。戦前の右翼というのは「国粋主義」的要素が強く、外国思想は全て悪と捉えるという考えであり、それは共産主義であろうが、資本主義であろうが、民主主義であろうが批判されるべき対象だった。
戦後右翼が、国粋主義から「反共」に奔ったのは共産主義の拡大に危機感を持ったGHQの意向もあるが、「右翼の巨頭」と称された児玉誉志夫の影響が大きい。
「政財界の黒幕」と言われた児玉は、戦前は海軍航空部門の物資調達を任された「児玉機関」の親玉でもあり、戦後は「A級戦犯」として逮捕された経歴もある。
GHQは占領下に於いて、「戦争を引き起こしたのは日本国内の右翼勢力だ」として、右翼団体や危険人物を潰そうとする。だが、第二次世界大戦が終結すると日独の防共の砦が崩壊するとアジアを始め世界各地で共産党に因る革命や暴動が起こった。
日本国内でも共産主義が席巻し、これを危惧したGHQは右翼解体の方向を転換し、右翼を「反共」に利用する。児玉と同じくA級戦犯だった笹川良一も参画した。
児玉も笹川も、GHQの意の儘に「民主主義」「資本主義」に与し、我が国の国體を損ねる思想には沈黙。「共産主義」のみを悪とし、それらを忠実に実行した。
児玉や笹川らが「米国のスパイ」と言われるのはそんな所以である。児玉は「児玉機関」で貯め込んだ潤沢な資金を基に、全国の博徒(ヤクザ)や香具師(テキヤ)を纏め上げ、愚連隊的右翼団体を次々と立ち上げ、「反共運動」に乗り出した。
当時の情勢を鑑みれば「反共」運動は別に間違ってはいないが、右翼団体が「憲法改正」や「靖國神社国家護持」「北方領土奪還」などの自民党のスローガンを忠実に遂行し、自民党の「院外団」的行動をしていたことも児玉や笹川の影響が大きい。
所属した防共挺身隊も児玉門下でもあり、初代福田進総隊長はそれらを利用し、経済的な恩恵を享けたのも確か。例えば、福田総隊長は神奈川県葉山の二束三文の土地を取得したが、間もなく有料道路が建設されることとなり莫大な資金を得た。
福田総隊長は、日本に帰属される前の沖縄で、那覇空港内に「福田商店」という免税店を開業している。これもまた児玉のそうした裏の人脈と政治力の賜物だろう。
福田総隊長時代の政治資金も潤沢で、自民党や共産党、日本医師会などが連ねる中で常にトップ10入りしていた。そんな資金を若手右翼やテロリストの育成に使うことはなく、幽冥境を異にしてしまったことは返す返すも残念なことだった。
ヤクザが「仁侠道」を忘却し暴力団化したのと同じく、右翼団体も維新者としての「大義」を忘れ、資本主義に溺れ、金儲けなどに興じていれば、必要価値の無い存在に成り下がって行くのは必然であろう。ならばどうすれば善いのか。
右翼の使命は、日本の純粋性を曇らすもの、つまりは「共産主義」だけではなく、「資本主義」であろうが、「民主主義」であろうが、我が国の国柄や国體を損ねる主義思想や行動に断固として対峙して行かねばならないという覚悟であろう。
三島由紀夫は嘗て、戦後に右翼が左翼に取られたものとして、「ナショナリズム」「反体制」「反資本主義」の三つを指摘した。今やそれらは左翼の手中に在る。
国家主義や民族主義という「ナショナリズム」にしても、「反体制」や「反権力」という反骨主義や「反資本主義」という国粋主義というのは戦前の右翼はそれらを自覚し保持していた。何故なら、この三つこそが右翼の矜持に他ならないからだ。
果して、現在の右翼団体や自称・愛国者に、三島のこの指摘はどの様に響くのだろうか。共産主義や共産党を始めとする左翼陣営を批判するのは容易いが、批判する側もまた自らが自由主義や資本主義という病魔に侵されている自覚はない。
天皇国日本を盤石の安きに置く歴史的使命を有するものは民族派陣営以外にいないと自覚する。そう考えた時、右翼民族派陣営は果たして何を為すべきなのか。
維新者としての「大義」を取戻し、テロを担保しつつ、更なる愛国的活動の奮励に邁進する以外に道は無い。それが畢竟、日本再生に繋がることと信じて止まない。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30,000円。法人120,000円。協賛会員300,000円~。
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2024年06月07日
何となくミリタリズム、何となく反共という感じでやっている
右翼のカリスマ・故野村秋介はその昔、自著で「娑婆は右傾化とやらで、猫も杓子もというかバカもチョンも、右翼に紛れこむ情況であるらしい。しかし大部分の連中は、右翼とは何かという根本命題を真摯に学ぶことをせず、何となくミリタリズム、何となく反共という感じでやっている。理論と実践の容を整えなくては、運動はやがて破産する運命でしょう」と、右翼団体や右翼活動の現状を危惧している。
この野村の予見は見事に当たり、右翼運動は風前の灯火。昨今の右翼人というのは実に聞き分けがよく、違う意見でも議論を交わすことなく易易と受け入れる。まぁそれを「度量が大きい」と言えばそれまでだが、単なる勉強不足の感は否めない。
組織内で様々な意見を出し合い、それを纏めなければ行動するにも纏まりが付かない。やはりトップ、上に立つ者がそれを纏め揚げて結論を出すことが大事である。
愚生の場合、意見を異にする輩とは徹底して反抗を試みる。その上で相手はどういう反論や行動を採るのかに興味があり、反論された時に相手の本性が見えたりする。そうした対応をすることで相手の度量や知識などが確認出来たりもする。
自分よりも格の上の偉い人になればなるほど、その人の器の小ささに嗤えることもある。右翼が諍いを気にして何になるというのだ。後先考えずに行動する蛮勇が無くて何が右翼か。何が維新者か。右翼とはやはり削げ者で在らねばならないのだ。
右翼とは、喩え小粒でも山椒の様にピリリと辛い、「此奴は何をするか分からない」といった、相手構わず見境の無い闘争心を忘れてはならないと思っている。
何故なら一般人から見て、右翼に求めらるものは、圧倒的迫力というか、逞しい蛮勇ある行動力であるからだ。そんな右翼への期待を裏切ってはならない(笑)
その昔、横浜在住の大物右翼に「右翼が右翼の仲間を批判するとは怪しからん」などと言われたこともあるが、批判ではなく苦言であって、批判ならネットじゃなく直接言うべきだろうが、これもまた大物右翼の仲間内で愚生への批判で盛り上がる。
「常に直諫なくば」と教えたのは吉田松陰である。日頃、上司や友人に対し何も言えない者は、一旦勧誘というかいざという時には使い物にはならないのが多いし、友人や門下生としても資格も無く、右翼としての資質に欠けていると思っている。
そんな魅力のない右翼団体に変わり出現したのが「主権回復を目指す会」や「行動する保守運動」「在日特権を許さない市民の会」などの行動体であり、市井の自称・愛国者や保守派らは右翼に見切りを付けて新しい保守活動に期待し参画した。
昨今の右翼は「国防」の意味を理解することなく、唯単に領土の防衛こそが国防であり大事であると尖閣諸島を護れとばかりに憲法九条改正を声高に叫んでいる。だが、九条が大事だと思ってること自体があの「九条の会」と大して変わらない。
仲間内で勇ましいことを言い合って盛り上がってる姿は見ていて痛々しい。野村秋介ではないが、何となく愛国(ミリタリズム)、何となく反中・反韓(反共)という感じでやっている右翼活動は、やがて国民から見限られるのではなかろうか。
「このままでは尖閣は奪われる」「日本は滅びる!」「日本が危ない!」と徒に危機を煽り、我が国が然も滅亡するかの様に叫んでいる自称保守や営業右翼がいる。
愚生はそうは思わない。自衛軍備の確立からすれば未だ未だ足らないものはあるし、自民党粛正もまた大事なことだが、「天壌無窮の神勅」を疑い、国民の不安を煽って何になるのか。そうした言論が保守運動だと思っているのなら間違いである。
神国日本の不滅を確信せずに何が保守か、何が愛国者か。正統の保守ならば神州不滅を信じ、神武肇国の精神の高揚と国家国民の繁栄を目指し啓蒙することこそ大事。
我が国は、天照大神の「天壌無窮の神勅」に従って存在し、現在に至り、そして未来へ続いて行くのだ。右翼に限らず、我が国の政治家や保守派、中でも売文を生業にしてる営業保守や自称愛国者に乏しいのはそういう古の教えであり、覚悟である。
「この神勅ある限り日本は永遠なり。日本の将来を悲観することは神勅を疑うという罪を犯すものである」とは吉田松陰の至言であり、肝に銘ぜよ。愛国者や維新者を自任するならば、いつかあるだろう一旦緩急に備え、己自身を鍛え磨き上げよ!
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この野村の予見は見事に当たり、右翼運動は風前の灯火。昨今の右翼人というのは実に聞き分けがよく、違う意見でも議論を交わすことなく易易と受け入れる。まぁそれを「度量が大きい」と言えばそれまでだが、単なる勉強不足の感は否めない。
組織内で様々な意見を出し合い、それを纏めなければ行動するにも纏まりが付かない。やはりトップ、上に立つ者がそれを纏め揚げて結論を出すことが大事である。
愚生の場合、意見を異にする輩とは徹底して反抗を試みる。その上で相手はどういう反論や行動を採るのかに興味があり、反論された時に相手の本性が見えたりする。そうした対応をすることで相手の度量や知識などが確認出来たりもする。
自分よりも格の上の偉い人になればなるほど、その人の器の小ささに嗤えることもある。右翼が諍いを気にして何になるというのだ。後先考えずに行動する蛮勇が無くて何が右翼か。何が維新者か。右翼とはやはり削げ者で在らねばならないのだ。
右翼とは、喩え小粒でも山椒の様にピリリと辛い、「此奴は何をするか分からない」といった、相手構わず見境の無い闘争心を忘れてはならないと思っている。
何故なら一般人から見て、右翼に求めらるものは、圧倒的迫力というか、逞しい蛮勇ある行動力であるからだ。そんな右翼への期待を裏切ってはならない(笑)
その昔、横浜在住の大物右翼に「右翼が右翼の仲間を批判するとは怪しからん」などと言われたこともあるが、批判ではなく苦言であって、批判ならネットじゃなく直接言うべきだろうが、これもまた大物右翼の仲間内で愚生への批判で盛り上がる。
「常に直諫なくば」と教えたのは吉田松陰である。日頃、上司や友人に対し何も言えない者は、一旦勧誘というかいざという時には使い物にはならないのが多いし、友人や門下生としても資格も無く、右翼としての資質に欠けていると思っている。
そんな魅力のない右翼団体に変わり出現したのが「主権回復を目指す会」や「行動する保守運動」「在日特権を許さない市民の会」などの行動体であり、市井の自称・愛国者や保守派らは右翼に見切りを付けて新しい保守活動に期待し参画した。
昨今の右翼は「国防」の意味を理解することなく、唯単に領土の防衛こそが国防であり大事であると尖閣諸島を護れとばかりに憲法九条改正を声高に叫んでいる。だが、九条が大事だと思ってること自体があの「九条の会」と大して変わらない。
仲間内で勇ましいことを言い合って盛り上がってる姿は見ていて痛々しい。野村秋介ではないが、何となく愛国(ミリタリズム)、何となく反中・反韓(反共)という感じでやっている右翼活動は、やがて国民から見限られるのではなかろうか。
「このままでは尖閣は奪われる」「日本は滅びる!」「日本が危ない!」と徒に危機を煽り、我が国が然も滅亡するかの様に叫んでいる自称保守や営業右翼がいる。
愚生はそうは思わない。自衛軍備の確立からすれば未だ未だ足らないものはあるし、自民党粛正もまた大事なことだが、「天壌無窮の神勅」を疑い、国民の不安を煽って何になるのか。そうした言論が保守運動だと思っているのなら間違いである。
神国日本の不滅を確信せずに何が保守か、何が愛国者か。正統の保守ならば神州不滅を信じ、神武肇国の精神の高揚と国家国民の繁栄を目指し啓蒙することこそ大事。
我が国は、天照大神の「天壌無窮の神勅」に従って存在し、現在に至り、そして未来へ続いて行くのだ。右翼に限らず、我が国の政治家や保守派、中でも売文を生業にしてる営業保守や自称愛国者に乏しいのはそういう古の教えであり、覚悟である。
「この神勅ある限り日本は永遠なり。日本の将来を悲観することは神勅を疑うという罪を犯すものである」とは吉田松陰の至言であり、肝に銘ぜよ。愛国者や維新者を自任するならば、いつかあるだろう一旦緩急に備え、己自身を鍛え磨き上げよ!
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2024年06月05日
「街宣右翼は朝鮮右翼」って誰が言い出したんだろう(苦笑)
昭和54年、国士舘大学入学後、行動右翼のパイオニアと称された防共挺身隊に入隊した。平成21年、四代目総隊長に就任。総隊長就任間もなく、右翼の考え方の相違から前任者との間に軋轢が生じた。そして実態の無い執行部から除籍処分を受けた。右翼団体への熱意は冷めたが、右翼活動家として恥じるものは一つもない。
愚生はもう右翼団体員ではないし、右翼に対する風評など気にする必要もないのだが、「街宣右翼は朝鮮右翼」などという妄言や罵詈雑言を目にする毎に苦言を呈している。だが、ネットの偽情報に洗脳された連中は全く耳を貸そうともしない。
YouTubeなどで悪意的に編集された画像を鵜呑みにし、既成右翼を「朝鮮右翼」などと批判しているのは、左翼陣営ではなくネット右翼や自称・愛国者らだ。「我々は右翼とは違う。真の愛国者なるぞ」と日の丸や旭日旗を掲げて悦に入る。
いつぞや、とある女性が「愛国」を口にすると周りから「怖い」と思われるのを嘆き、こうした要因を招いたのは「街宣右翼だ」と、いつもの雑言というか責任転嫁。こうしたツイートを保守を自任する政治評論家が賛同するかの如くリツイート。
右翼のイメージを「危険」だとか「街宣右翼=悪」などと植え付けたのはマスコミである。少なくても新橋SL広場などで街頭演説をしてる右翼人は良識派が多い。
現在の右翼団体を全面的に擁護する気もないが、右翼団体の殆どが暴力団を縁があり、反共は当然乍ら、反資本主義や反体制という本来持つべき矜持を忘れ去り、暴力団の隠れ蓑として、単なる動員要因としての組織に堕ちたのも事実である。
ネット右翼や自称・愛国者らが、軽々しく日の丸や旭日旗を掲げ「反中国」や「反韓国」を叫ぶ行為や営業保守も、その「愛国」という崇高な理想が「贔屓の引き倒し」になってしまっているということを自問自答したことはあるのだろうか。
唯、言えることは、国内で蠢く国賊共に天誅を与えるのは既成の右翼団体員ではなく、国を憂うる市井の民なのではなかろうかとの思いが強い。第二、第三の「建国義勇軍」や「刀剣友の会」の様に志を一にする仲間が惹起するのではあるまいか。
贔屓目に見ても活動自体が停滞している感は否めない。活動資金不足と右翼指導者の力量不足の伴う指導力の無さが最大要因である。誰が言ったか知らないが「働きながら運動をしている右翼こそがホンモノ」らしい。活動を本気でやればパクられるし、逮捕され新聞にでも載ったものならクビになるのは間違いないだろう。
勤労右翼を批判はしないが、右翼活動に理解のある経営者がそんなにいるとは思えないし、働けば生活に流され生業が優先されてしまう。結局は、こじんまりした、無難な、自慰的な活動くらいしか出来なくなってしまっているのではなかろうか。
「昔の右翼は企業から金をもらったりして資金力も持ち、生活も裕福だったかも知れないが、そういうのが今では負の遺産となって真面目な若手右翼の首を絞めているという事をわかっているのだろうか」との、若手活動家のツイートを思い出す。
昔の右翼というのはいつの時代を言ってるのだろうか。また「負の遺産となって若手右翼の首を絞めている」とはどういうことなのか。現在の価値観の違いといえばそれまでだろうが、物事の見方が薄っぺらで、残念な気持ちになったのも事実。
高校時代、右翼団体への憧れから、いつかは愛国活動をと思っていた頃、同時に「総会屋」にも憧れた。「総会屋錦城」とか、総会屋関連の本を読み耽った。
そんな中で右翼総会屋で有名だったのが防共挺身隊で、国士舘大学へ入学すると身近に防挺の先輩がいて入隊。正に人生の縁とは異なもの味なものだと思った。
企業献金が断トツだったのは防挺で、愚生が入隊した時期には政治資金は共産党、自民党、日本医師会などに続いて堂々の5位、常にトップテン入りしていた。この潤沢な資金の下で充実且つ過激な活動が出来たのは紛れもない事実だった。
企業からカネを貰ったというより、企業が右翼団体という組織力を必要としていたのだ。高度成長期、企業は極左によるビル爆破や、「べ平連」やら「中ピ連」など左翼勢力や胡散臭げな連中が一株株主として騒いでいた時期でもあった。
当時は警備会社なんてのは未だ弱弱しく、民間企業を警察が警備や警護する訳には行かず、防挺の様な行動右翼を必要としたというのが事実。その功罪はあろうが、高度成長期に企業を防衛し、国益に大きく貢献したのは紛れもない事実である。
その後、防挺はマスコミからは「右翼総会屋」「金権右翼」などと揶揄される様になって行った。右翼活動家よりも総会屋右翼を夢見て、総会屋での資金を右翼活動に使おうといたが、大学4年の秋の商法改正でその夢は脆くも崩れ去った。
「金権右翼」に所属してはいたがその恩恵も受けることもなく、24歳で青雲の志を以て福島県郡山市に帰還し、「これからの右翼は理論が大事」と新たな右翼団体を設立した。現在は正統右翼浪人を自任してはいるが無職のおっさんでしかない(笑)
「負の遺産」とは、拠出して貰った活動資金を私的に流用し、右翼としての生き方を忘れ、分不相応な家に住んで安穏とした生活をしている先生方への諫言なのだろうが、そんなもので「若手右翼の首を絞めてる」などとは責任転嫁も甚だしい。
中核派などの左翼陣営は勢力拡大と資金力が増大している。男女共同参画社会を始め、SDGsやLGBT法成立を謀り、膨大な予算からは相当な資金が左翼陣営に流されている。こうした現状の中で、右翼は働き乍ら何を惹起するというのだろうか。
民主党政権下で菅直人が極左団体へ数億円の資金を寄付したのも氷山の一角。左翼陣営は政府中枢への蚕食が成功しつつあり、それらに加えて保守政党であるべき自民党が移民政策などの売国政策を謀っており、国家解体は想像以上に進んでいる。
方や右翼人を見てみれば暢気なもので、総会屋右翼などと揶揄されながらも小銭を貯めた諸先輩、諸先生方は居の安きに甘んじ、固定資産税の支払いに汲汲し「一日一生」とは名ばかりの状態。「人生意気に感ず」と言い乍らタダ酒を呷るばかり。
今や行動者としての使命感は疾うの昔に忘れ去ってしまっているのだろう。こうした安穏とした生活が蔓延してる状況下でカリスマ的右翼指導者など現れることはないだろうし、サラリーマン右翼が世論を扇動することなど不可能なことだ。
日本人に必要なのは「愛国」ではなく「報国」である。我々が想像している以上に祖国日本は蝕んでいいる。全愛国者は危機感を共有し、奸賊どもに対峙せよ!
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円(月2500円)。法人120000円。協賛会員300000円~。
愚生はもう右翼団体員ではないし、右翼に対する風評など気にする必要もないのだが、「街宣右翼は朝鮮右翼」などという妄言や罵詈雑言を目にする毎に苦言を呈している。だが、ネットの偽情報に洗脳された連中は全く耳を貸そうともしない。
YouTubeなどで悪意的に編集された画像を鵜呑みにし、既成右翼を「朝鮮右翼」などと批判しているのは、左翼陣営ではなくネット右翼や自称・愛国者らだ。「我々は右翼とは違う。真の愛国者なるぞ」と日の丸や旭日旗を掲げて悦に入る。
いつぞや、とある女性が「愛国」を口にすると周りから「怖い」と思われるのを嘆き、こうした要因を招いたのは「街宣右翼だ」と、いつもの雑言というか責任転嫁。こうしたツイートを保守を自任する政治評論家が賛同するかの如くリツイート。
右翼のイメージを「危険」だとか「街宣右翼=悪」などと植え付けたのはマスコミである。少なくても新橋SL広場などで街頭演説をしてる右翼人は良識派が多い。
現在の右翼団体を全面的に擁護する気もないが、右翼団体の殆どが暴力団を縁があり、反共は当然乍ら、反資本主義や反体制という本来持つべき矜持を忘れ去り、暴力団の隠れ蓑として、単なる動員要因としての組織に堕ちたのも事実である。
ネット右翼や自称・愛国者らが、軽々しく日の丸や旭日旗を掲げ「反中国」や「反韓国」を叫ぶ行為や営業保守も、その「愛国」という崇高な理想が「贔屓の引き倒し」になってしまっているということを自問自答したことはあるのだろうか。
唯、言えることは、国内で蠢く国賊共に天誅を与えるのは既成の右翼団体員ではなく、国を憂うる市井の民なのではなかろうかとの思いが強い。第二、第三の「建国義勇軍」や「刀剣友の会」の様に志を一にする仲間が惹起するのではあるまいか。
贔屓目に見ても活動自体が停滞している感は否めない。活動資金不足と右翼指導者の力量不足の伴う指導力の無さが最大要因である。誰が言ったか知らないが「働きながら運動をしている右翼こそがホンモノ」らしい。活動を本気でやればパクられるし、逮捕され新聞にでも載ったものならクビになるのは間違いないだろう。
勤労右翼を批判はしないが、右翼活動に理解のある経営者がそんなにいるとは思えないし、働けば生活に流され生業が優先されてしまう。結局は、こじんまりした、無難な、自慰的な活動くらいしか出来なくなってしまっているのではなかろうか。
「昔の右翼は企業から金をもらったりして資金力も持ち、生活も裕福だったかも知れないが、そういうのが今では負の遺産となって真面目な若手右翼の首を絞めているという事をわかっているのだろうか」との、若手活動家のツイートを思い出す。
昔の右翼というのはいつの時代を言ってるのだろうか。また「負の遺産となって若手右翼の首を絞めている」とはどういうことなのか。現在の価値観の違いといえばそれまでだろうが、物事の見方が薄っぺらで、残念な気持ちになったのも事実。
高校時代、右翼団体への憧れから、いつかは愛国活動をと思っていた頃、同時に「総会屋」にも憧れた。「総会屋錦城」とか、総会屋関連の本を読み耽った。
そんな中で右翼総会屋で有名だったのが防共挺身隊で、国士舘大学へ入学すると身近に防挺の先輩がいて入隊。正に人生の縁とは異なもの味なものだと思った。
企業献金が断トツだったのは防挺で、愚生が入隊した時期には政治資金は共産党、自民党、日本医師会などに続いて堂々の5位、常にトップテン入りしていた。この潤沢な資金の下で充実且つ過激な活動が出来たのは紛れもない事実だった。
企業からカネを貰ったというより、企業が右翼団体という組織力を必要としていたのだ。高度成長期、企業は極左によるビル爆破や、「べ平連」やら「中ピ連」など左翼勢力や胡散臭げな連中が一株株主として騒いでいた時期でもあった。
当時は警備会社なんてのは未だ弱弱しく、民間企業を警察が警備や警護する訳には行かず、防挺の様な行動右翼を必要としたというのが事実。その功罪はあろうが、高度成長期に企業を防衛し、国益に大きく貢献したのは紛れもない事実である。
その後、防挺はマスコミからは「右翼総会屋」「金権右翼」などと揶揄される様になって行った。右翼活動家よりも総会屋右翼を夢見て、総会屋での資金を右翼活動に使おうといたが、大学4年の秋の商法改正でその夢は脆くも崩れ去った。
「金権右翼」に所属してはいたがその恩恵も受けることもなく、24歳で青雲の志を以て福島県郡山市に帰還し、「これからの右翼は理論が大事」と新たな右翼団体を設立した。現在は正統右翼浪人を自任してはいるが無職のおっさんでしかない(笑)
「負の遺産」とは、拠出して貰った活動資金を私的に流用し、右翼としての生き方を忘れ、分不相応な家に住んで安穏とした生活をしている先生方への諫言なのだろうが、そんなもので「若手右翼の首を絞めてる」などとは責任転嫁も甚だしい。
中核派などの左翼陣営は勢力拡大と資金力が増大している。男女共同参画社会を始め、SDGsやLGBT法成立を謀り、膨大な予算からは相当な資金が左翼陣営に流されている。こうした現状の中で、右翼は働き乍ら何を惹起するというのだろうか。
民主党政権下で菅直人が極左団体へ数億円の資金を寄付したのも氷山の一角。左翼陣営は政府中枢への蚕食が成功しつつあり、それらに加えて保守政党であるべき自民党が移民政策などの売国政策を謀っており、国家解体は想像以上に進んでいる。
方や右翼人を見てみれば暢気なもので、総会屋右翼などと揶揄されながらも小銭を貯めた諸先輩、諸先生方は居の安きに甘んじ、固定資産税の支払いに汲汲し「一日一生」とは名ばかりの状態。「人生意気に感ず」と言い乍らタダ酒を呷るばかり。
今や行動者としての使命感は疾うの昔に忘れ去ってしまっているのだろう。こうした安穏とした生活が蔓延してる状況下でカリスマ的右翼指導者など現れることはないだろうし、サラリーマン右翼が世論を扇動することなど不可能なことだ。
日本人に必要なのは「愛国」ではなく「報国」である。我々が想像している以上に祖国日本は蝕んでいいる。全愛国者は危機感を共有し、奸賊どもに対峙せよ!
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円(月2500円)。法人120000円。協賛会員300000円~。
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2024年06月03日
我が国もイスラエル軍の強さと非情さに学ばねばならない
イスラエルとパレスチナ国内で活動するテロ組織・ハマスとの戦いをニュースで報道されるが、日本人の多くはよく理解していないのではなかろうか。愚生もイスラエルとパレスチナの問題を深くは理解していないが、ハマスの行状は赦し難い。
国内で同胞が虐殺され、女性が強姦され、拉致された報復として掃討作戦を実行してることは、自国民としては頼もしい。国内から同胞を拉致され、犯人を知り乍ら何ら手を講じることなく傍観してるよりもマシで、我が国もこの姿勢を学ぶべきだ。
イスラエルの歴史的背景を理由に、パレスチナでの掃討作戦を批判してるのを見かけるが、拉致問題に関し「日本も強制連行をしたのだから批判するのは筋違い」というトンチンカンな意見と似たり。宗教戦争を安っぽい価値観で語る勿れ。
イスラエル軍のハマス壊滅を成功しない限りパレスチナ侵攻は治まることはないだろう。ガザ地区のハマスのメンバーの殺害は当然だが、カタールの五つ星ホテルや国外に滞在しているハマスの最高幹部を殲滅しない限り悪の連鎖は止まらない。
007などのスパイ映画やジェイソンステイサム主演の「メカニック」などでは、悪党というのは常に処刑される結末だからスカッとするが、現実には困難を極める。況してやユダヤとイスラムとの融和は不可能であり、宗教戦争の難しさを痛感する。
ユダヤ人は、イエス・キリストを十字架に磔たと言う理由で、中世から土地などの不動産を持つことを禁じられ、殺されるという不安を抱え乍ら生き永らえて来た。
住んでいる国の貨幣を使えるかの分からないので、必然的に金や宝石を隠し持ち、いつでも逃げ出せる準備をしているくらい用心深く、その苦労さを思い知る。
イスラエル国防軍は、1948年の独立戦争を経て、強引にイスラエルを建国して以来、幾多の戦争を戦い抜き負けたことはない。小さな国土のイスラエルは一度でも負ければ国が消滅してしまう。そうした危機感が国民の国防意識を高めている。
世界のユダヤ人や、「アシュケナージ」と呼ばれるトーラー(モーセ五書の教え)ではユダヤ人とは認められない東欧系のユダヤ人がイスラエルに多数入植した。
入植するとパレスチナ人を追い出し、現在に至っている。彼らは「何が何でも生き残ること」を最優先にしているから軍隊の士気が違う。「国民皆兵」であり、イスラエルの若者は18歳で徴兵され、男性は3年間、女性は2年間兵役が課せられる。
若者からなる召集兵と職業軍人約17万人が正規兵。そして45歳まで年間4~6週間出勤を義務付けられている予備兵が40万人いる。兵士を合わせると約60万人。日本と比べると人口では約18分の1のイスラエルの兵力は、自衛隊の2.5倍に当たる。
イスラエル国防軍の切り札は核兵器である。「敵を威嚇し、必要と有らば躊躇なくそれを用いる。この自国の核戦略をイスラエルでは「サムソンの選択」と言う。
サムソンとは、絶体絶命の窮地に陥った時に3千人の仇敵を道連れに自死した古代ユダヤの英雄である。現在進行中のイスラエルとテロ組織・ハマスとの戦いを見てると、パレスチナ人を道連れにハマス壊滅作戦の実行を強行している。
イスラエルは、核保有は否定も肯定もしていないが世界第6番目の核保有国であり、100発以上保有しているというから米国の面目丸潰れにも思えなくもない。
北朝鮮が核兵器を保持している中で、我が国も核武装を研究すべきなのだが、国民世論が統一されることはあるまい。カルト宗教と化す「9条の会」を始め、珍左翼が「世界で唯一の被爆国が核武装とはケシカラン」と騒ぐ姿が目に浮かぶ。
然し、日本が世界唯一の被爆国というのは間違いで、世界では核実験による被爆国は多く存在している。認識不足だが、例えるなら「世界唯一の戦争被爆国」である。
ロシアのウクライナへの侵略を招いた要因は、ウクライナが核放棄したことだ。ウクライナは1994年、米国・英国・ロシアなどと「ブダペスト覚書」を締結。
当時、ウクライナは世界3位規模の核保有国だった。この核兵器を放棄する代償として、領土の安全性と独立的主権が保障されることになった。1800余基の核弾頭とICBM(大陸間弾道ミサイル)を全てロシアに返還・廃棄し、非核化を完了した。
核保有を放棄させ乍ら、そのウクライナを侵略してるロシアに正義は無い。ウクライナの核放棄という間違いを我が国は他山の石と捉え、万が一に備えよ。
核武装が無理なら、NATO諸国の様に米国の核を共有可能とする防衛構想を急ぐべきだろう。核兵器は、政治を行う上での最高・最大の外交交渉の武器であり、周辺諸国に睨みを利かせ、更にはアジア諸国の平和・安定に貢献出来るものである。
その昔、大日本愛国党総裁の赤尾敏が「アメリカは日本の番犬だ。番犬にはエサは必要で、イイ番犬ほど金はかかるものだ」と言っていたが、今、その番犬は歳終えてしまった。飼い犬に噛まれる前に、日本独自の防衛体制を構築を急ぐべし。
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国内で同胞が虐殺され、女性が強姦され、拉致された報復として掃討作戦を実行してることは、自国民としては頼もしい。国内から同胞を拉致され、犯人を知り乍ら何ら手を講じることなく傍観してるよりもマシで、我が国もこの姿勢を学ぶべきだ。
イスラエルの歴史的背景を理由に、パレスチナでの掃討作戦を批判してるのを見かけるが、拉致問題に関し「日本も強制連行をしたのだから批判するのは筋違い」というトンチンカンな意見と似たり。宗教戦争を安っぽい価値観で語る勿れ。
イスラエル軍のハマス壊滅を成功しない限りパレスチナ侵攻は治まることはないだろう。ガザ地区のハマスのメンバーの殺害は当然だが、カタールの五つ星ホテルや国外に滞在しているハマスの最高幹部を殲滅しない限り悪の連鎖は止まらない。
007などのスパイ映画やジェイソンステイサム主演の「メカニック」などでは、悪党というのは常に処刑される結末だからスカッとするが、現実には困難を極める。況してやユダヤとイスラムとの融和は不可能であり、宗教戦争の難しさを痛感する。
ユダヤ人は、イエス・キリストを十字架に磔たと言う理由で、中世から土地などの不動産を持つことを禁じられ、殺されるという不安を抱え乍ら生き永らえて来た。
住んでいる国の貨幣を使えるかの分からないので、必然的に金や宝石を隠し持ち、いつでも逃げ出せる準備をしているくらい用心深く、その苦労さを思い知る。
イスラエル国防軍は、1948年の独立戦争を経て、強引にイスラエルを建国して以来、幾多の戦争を戦い抜き負けたことはない。小さな国土のイスラエルは一度でも負ければ国が消滅してしまう。そうした危機感が国民の国防意識を高めている。
世界のユダヤ人や、「アシュケナージ」と呼ばれるトーラー(モーセ五書の教え)ではユダヤ人とは認められない東欧系のユダヤ人がイスラエルに多数入植した。
入植するとパレスチナ人を追い出し、現在に至っている。彼らは「何が何でも生き残ること」を最優先にしているから軍隊の士気が違う。「国民皆兵」であり、イスラエルの若者は18歳で徴兵され、男性は3年間、女性は2年間兵役が課せられる。
若者からなる召集兵と職業軍人約17万人が正規兵。そして45歳まで年間4~6週間出勤を義務付けられている予備兵が40万人いる。兵士を合わせると約60万人。日本と比べると人口では約18分の1のイスラエルの兵力は、自衛隊の2.5倍に当たる。
イスラエル国防軍の切り札は核兵器である。「敵を威嚇し、必要と有らば躊躇なくそれを用いる。この自国の核戦略をイスラエルでは「サムソンの選択」と言う。
サムソンとは、絶体絶命の窮地に陥った時に3千人の仇敵を道連れに自死した古代ユダヤの英雄である。現在進行中のイスラエルとテロ組織・ハマスとの戦いを見てると、パレスチナ人を道連れにハマス壊滅作戦の実行を強行している。
イスラエルは、核保有は否定も肯定もしていないが世界第6番目の核保有国であり、100発以上保有しているというから米国の面目丸潰れにも思えなくもない。
北朝鮮が核兵器を保持している中で、我が国も核武装を研究すべきなのだが、国民世論が統一されることはあるまい。カルト宗教と化す「9条の会」を始め、珍左翼が「世界で唯一の被爆国が核武装とはケシカラン」と騒ぐ姿が目に浮かぶ。
然し、日本が世界唯一の被爆国というのは間違いで、世界では核実験による被爆国は多く存在している。認識不足だが、例えるなら「世界唯一の戦争被爆国」である。
ロシアのウクライナへの侵略を招いた要因は、ウクライナが核放棄したことだ。ウクライナは1994年、米国・英国・ロシアなどと「ブダペスト覚書」を締結。
当時、ウクライナは世界3位規模の核保有国だった。この核兵器を放棄する代償として、領土の安全性と独立的主権が保障されることになった。1800余基の核弾頭とICBM(大陸間弾道ミサイル)を全てロシアに返還・廃棄し、非核化を完了した。
核保有を放棄させ乍ら、そのウクライナを侵略してるロシアに正義は無い。ウクライナの核放棄という間違いを我が国は他山の石と捉え、万が一に備えよ。
核武装が無理なら、NATO諸国の様に米国の核を共有可能とする防衛構想を急ぐべきだろう。核兵器は、政治を行う上での最高・最大の外交交渉の武器であり、周辺諸国に睨みを利かせ、更にはアジア諸国の平和・安定に貢献出来るものである。
その昔、大日本愛国党総裁の赤尾敏が「アメリカは日本の番犬だ。番犬にはエサは必要で、イイ番犬ほど金はかかるものだ」と言っていたが、今、その番犬は歳終えてしまった。飼い犬に噛まれる前に、日本独自の防衛体制を構築を急ぐべし。
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2024年05月30日
田母神さんよ、都知事選なんかより郡山市長選に出馬したら如何!
郡山市出身の田母神俊雄元航空自衛隊幕僚長が都知事選への立候補を表明した。平成26年の都知事選では約61万票を獲得したと記憶するが、前回より得票数は減るのではあるまいか。有権者に保守派の選択肢を与えたいらしいが、大義は無い。
田母神さんの出馬で、日本第一党(櫻井誠代表)は保守派の受け皿にならず今回も泡沫候補に。何より、田母神さんの人気はピークは過ぎた。単に、愛国者とか保守というなら櫻井も負けてないし、政策にしても櫻井の方が東京都を救える。
日本保守党代表の百田尚樹がXで、「私は10年前、田母神さんの応援に立った。で、10年後、東京15区の補選では、田母神さんは日本保守党の対立候補の一つである参政党の応援に入った。義理を欠く行為だなと思ったが、ま、それはいい。私がどうかなと思うのは、公職選挙法で金の問題で有罪判決を受けたこと。『金の問題』で有罪って、私の中では恥ずべきこと」とツイートしてたが、同意する。
百田代表のツイートを受け、田母神さんは「先回の江東区補選で私が参政党を応援したことを義理を欠くとか言って批判する人たちがいる。私は参政党立ち上げの時から参政党顧問で会合などにも出席していた。保守党が出来たから保守党に乗り換えたではそれこそ義理を欠く」と主張していたが、言い訳がましく実に見苦しい。
更に「保守党と参政党の目指す国は違うという人もいるが、私は大筋では同じ方向を目指していると思っている」という認識を示していたが、参政党の神谷宗幣は女性天皇推進派であり、尊皇精神が欠落してる。要は、参政党の売名が目的だろう。
平成26年の都知事選後、公職選挙法(運動員買収)容疑で田母神元幕僚長が東京地検特捜部に逮捕されたのは記憶に新しい。選挙前の買収なら分からなくもないが、選挙後の貢献度に応じた慰労金での買収容疑というのは何か胡散臭げだった。
逮捕前、本人は「国家権力にはかないません」とtwitter(現X)で、負け惜しみともいえるツイートを垂れ流していたが、ああいうイヤミは己の値打ちを下げる。
何より言い訳はみっともない。警察ではなく東京地検特捜部が出張っていたことは何か裏が在ったのだろうとは推測するが、確信が無ければ逮捕はしないわな。
田母神元空幕長は郡山市田村町田母神地区出身で、同じ郡山市に住む愚生としては誇りでもあった。「酒と妾は二合まで」と言って笑わせてた田母神さんだが、離婚裁判では愛人を庇い、妻へ不満と罵詈雑言を浴びせたことで彼の本性を垣間見た。
田母神閣下の自衛隊員としての経歴や思想信条を否定するものではないが、女性(不倫)問題での醜聞は聞くに堪えないものだった。そりゃ、前妻に言いたいことはあったのだろうが、それらをじっと我慢して肚に納めておくべきではなかったか。
田母神閣下のアパ論文に見る歴史認識の正しさや航空幕僚長としての立居振舞に、日本の士(さむらい)を見ていただけに離婚裁判は残念至極なことだった。
夫婦というのは所詮は他人である。何らかの事情で糟糠の妻と別れるのは構わないが別れ方というのがあるだろう。そういや、別れた途端に新しい妻との写真を嬉しそうにSNSでアップして悦に入ってた日本保守党所属の某区議会議員がいる。
区議が離婚前から不倫関係にあったことは明らかで、離婚後にああした写真を元妻や娘が見てどう感じるとは思わないのだろうか。男の優しさを微塵も感じない。
元妻や子供の気持ちも思い遣ることも出来ずに、他人を思い遣り、国や地方自治を正そうなどとは実に痴がましい。保守派を自任し、愛国者を気取るのならば、国民の模範的人物であらねばならず、私生活を含めて峻烈に生きるべきだと思う。
政治というのは最高の倫理であり、最高の道徳であらねばならず、政治家に求められるのは唯々「滅私奉公」の一つである。西郷隆盛もこう訓えている。
「万民の上に位置するものは、己を慎み、品行を正しくし、贅沢を戒め、倹約に努め、職務に努力して人民の見本とならねばならない。そして民衆がその働きぶりを見て『気の毒だなぁ』と思うようでなければならない」(南洲翁遺訓第四条)。尤も、今どき「気の毒だなぁ」と思える政治家なんぞ見たことも無いし、滅私奉公なんてのは政治や国民の奉仕者であるべき公務員の世界じゃ最早死語となってしまった。
偉そうに倫理道徳を説いてた西郷本人だったが、島送りされる毎に愛人を囲って子供までこさえている。西郷は、巷間言われてる様な傑物ではないのがバレた(笑)
田母神閣下が「日本は良い国だ!」と語り航空幕僚長を解任されたのは記憶に新しい。 米国を始め、世界各国も自分達の都合が悪いので表立って認めはしないが、日本が一方的に世界を侵略したなどということが事実でないことは余程のバカで無い限り認識している。ところが、我が国では真実を語った途端に批判の的になる。
マスコミは作為的に報じて国民世論を煽り、空幕長を守るべき自民党政府は大慌てで空幕長を解任し、野党は国会で吊るし上げ退職金の返納までも強要した。
要するに「日本は侵略国家、犯罪国家」とする東京裁判史観と異にする意見に対しては、条件反射的に拒絶反応を示すのだろうが、これこそ滑稽という他はない。
田母神さんが航空幕僚長時代にが寄稿したアパ論文の冒頭はこう綴られている。
「米英蘭などとの戦争は、どう見ても日本の自衛戦争であり、またアジア開放の戦争であったと思っている人は多い。しかし、中国との戦争については中国の本土に軍を進めたのだから侵略だ、と思い込んでいる人が意外に多いようだ。しかしこれは完全な間違いである。条約に基づいて他国に軍隊を駐留させることは国際法的に全く合法であり、侵略ではない。日米安保に基づき日本に米軍が駐留しているのは(好き嫌いは別として)侵略ではないのである。逆に合法的に駐留している米軍を自衛隊が攻撃して戦争になった場合、それが日本国内で戦われたとしても、侵略者は日本ということになるのである。日本は『北京議定書』に基づき在留邦人保護のために軍隊を駐屯させていた。盧溝橋でその日本軍を攻撃してきたのが中国軍である。また上海で日本人保護のために合法的に駐留していた海軍陸戦隊に、正規軍10万人で一方的に攻撃を仕掛けてきて、日中戦争は本格化した。何れも中国軍が仕掛けたことであり、侵略者は日本ではなく『中国』なのである」 。実に分かり易い文章である。
論文に苦言を呈せば、「中国」ではなく「支那」と呼ぶべきであり、「日中戦争」ではなく「支那事変」だが、田母神論文はこうした重要な歴史を教えてくれた。
買収事件の記憶が薄れて行く中で都知事選への出馬を表明したが、都政なんぞより、郷土の為に来夏の郡山市長選に出馬したら如何だろう。郡山市の警備会社「ケイビ」の顧問だし、供託金や運動費はケイビが出すから心配ないだろうし。呵呵。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
田母神さんの出馬で、日本第一党(櫻井誠代表)は保守派の受け皿にならず今回も泡沫候補に。何より、田母神さんの人気はピークは過ぎた。単に、愛国者とか保守というなら櫻井も負けてないし、政策にしても櫻井の方が東京都を救える。
日本保守党代表の百田尚樹がXで、「私は10年前、田母神さんの応援に立った。で、10年後、東京15区の補選では、田母神さんは日本保守党の対立候補の一つである参政党の応援に入った。義理を欠く行為だなと思ったが、ま、それはいい。私がどうかなと思うのは、公職選挙法で金の問題で有罪判決を受けたこと。『金の問題』で有罪って、私の中では恥ずべきこと」とツイートしてたが、同意する。
百田代表のツイートを受け、田母神さんは「先回の江東区補選で私が参政党を応援したことを義理を欠くとか言って批判する人たちがいる。私は参政党立ち上げの時から参政党顧問で会合などにも出席していた。保守党が出来たから保守党に乗り換えたではそれこそ義理を欠く」と主張していたが、言い訳がましく実に見苦しい。
更に「保守党と参政党の目指す国は違うという人もいるが、私は大筋では同じ方向を目指していると思っている」という認識を示していたが、参政党の神谷宗幣は女性天皇推進派であり、尊皇精神が欠落してる。要は、参政党の売名が目的だろう。
平成26年の都知事選後、公職選挙法(運動員買収)容疑で田母神元幕僚長が東京地検特捜部に逮捕されたのは記憶に新しい。選挙前の買収なら分からなくもないが、選挙後の貢献度に応じた慰労金での買収容疑というのは何か胡散臭げだった。
逮捕前、本人は「国家権力にはかないません」とtwitter(現X)で、負け惜しみともいえるツイートを垂れ流していたが、ああいうイヤミは己の値打ちを下げる。
何より言い訳はみっともない。警察ではなく東京地検特捜部が出張っていたことは何か裏が在ったのだろうとは推測するが、確信が無ければ逮捕はしないわな。
田母神元空幕長は郡山市田村町田母神地区出身で、同じ郡山市に住む愚生としては誇りでもあった。「酒と妾は二合まで」と言って笑わせてた田母神さんだが、離婚裁判では愛人を庇い、妻へ不満と罵詈雑言を浴びせたことで彼の本性を垣間見た。
田母神閣下の自衛隊員としての経歴や思想信条を否定するものではないが、女性(不倫)問題での醜聞は聞くに堪えないものだった。そりゃ、前妻に言いたいことはあったのだろうが、それらをじっと我慢して肚に納めておくべきではなかったか。
田母神閣下のアパ論文に見る歴史認識の正しさや航空幕僚長としての立居振舞に、日本の士(さむらい)を見ていただけに離婚裁判は残念至極なことだった。
夫婦というのは所詮は他人である。何らかの事情で糟糠の妻と別れるのは構わないが別れ方というのがあるだろう。そういや、別れた途端に新しい妻との写真を嬉しそうにSNSでアップして悦に入ってた日本保守党所属の某区議会議員がいる。
区議が離婚前から不倫関係にあったことは明らかで、離婚後にああした写真を元妻や娘が見てどう感じるとは思わないのだろうか。男の優しさを微塵も感じない。
元妻や子供の気持ちも思い遣ることも出来ずに、他人を思い遣り、国や地方自治を正そうなどとは実に痴がましい。保守派を自任し、愛国者を気取るのならば、国民の模範的人物であらねばならず、私生活を含めて峻烈に生きるべきだと思う。
政治というのは最高の倫理であり、最高の道徳であらねばならず、政治家に求められるのは唯々「滅私奉公」の一つである。西郷隆盛もこう訓えている。
「万民の上に位置するものは、己を慎み、品行を正しくし、贅沢を戒め、倹約に努め、職務に努力して人民の見本とならねばならない。そして民衆がその働きぶりを見て『気の毒だなぁ』と思うようでなければならない」(南洲翁遺訓第四条)。尤も、今どき「気の毒だなぁ」と思える政治家なんぞ見たことも無いし、滅私奉公なんてのは政治や国民の奉仕者であるべき公務員の世界じゃ最早死語となってしまった。
偉そうに倫理道徳を説いてた西郷本人だったが、島送りされる毎に愛人を囲って子供までこさえている。西郷は、巷間言われてる様な傑物ではないのがバレた(笑)
田母神閣下が「日本は良い国だ!」と語り航空幕僚長を解任されたのは記憶に新しい。 米国を始め、世界各国も自分達の都合が悪いので表立って認めはしないが、日本が一方的に世界を侵略したなどということが事実でないことは余程のバカで無い限り認識している。ところが、我が国では真実を語った途端に批判の的になる。
マスコミは作為的に報じて国民世論を煽り、空幕長を守るべき自民党政府は大慌てで空幕長を解任し、野党は国会で吊るし上げ退職金の返納までも強要した。
要するに「日本は侵略国家、犯罪国家」とする東京裁判史観と異にする意見に対しては、条件反射的に拒絶反応を示すのだろうが、これこそ滑稽という他はない。
田母神さんが航空幕僚長時代にが寄稿したアパ論文の冒頭はこう綴られている。
「米英蘭などとの戦争は、どう見ても日本の自衛戦争であり、またアジア開放の戦争であったと思っている人は多い。しかし、中国との戦争については中国の本土に軍を進めたのだから侵略だ、と思い込んでいる人が意外に多いようだ。しかしこれは完全な間違いである。条約に基づいて他国に軍隊を駐留させることは国際法的に全く合法であり、侵略ではない。日米安保に基づき日本に米軍が駐留しているのは(好き嫌いは別として)侵略ではないのである。逆に合法的に駐留している米軍を自衛隊が攻撃して戦争になった場合、それが日本国内で戦われたとしても、侵略者は日本ということになるのである。日本は『北京議定書』に基づき在留邦人保護のために軍隊を駐屯させていた。盧溝橋でその日本軍を攻撃してきたのが中国軍である。また上海で日本人保護のために合法的に駐留していた海軍陸戦隊に、正規軍10万人で一方的に攻撃を仕掛けてきて、日中戦争は本格化した。何れも中国軍が仕掛けたことであり、侵略者は日本ではなく『中国』なのである」 。実に分かり易い文章である。
論文に苦言を呈せば、「中国」ではなく「支那」と呼ぶべきであり、「日中戦争」ではなく「支那事変」だが、田母神論文はこうした重要な歴史を教えてくれた。
買収事件の記憶が薄れて行く中で都知事選への出馬を表明したが、都政なんぞより、郷土の為に来夏の郡山市長選に出馬したら如何だろう。郡山市の警備会社「ケイビ」の顧問だし、供託金や運動費はケイビが出すから心配ないだろうし。呵呵。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
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2024年05月24日
日本人が持つべきは報国であり愛国心より大和の心(大和魂)である
拙ブログ「爆ちゃん吼える」の冒頭には、昭和天皇に論語の「漢籍」の進講をされた、戦前の日本を代表する倫理哲学者・哲学者・西晋一郎の言葉を記している。
「我が民族の将来と国家の前途を思うは人間の最も真剣なる感情であり、君国に忠、親に孝なるは最も現実なる道徳である。之を離れては人類愛も世界的正義も空想に過ぎない」。「国に忠」と「親に孝」の二つを離れては、人類愛も、平和主義も、憲法論議も空理空論どころか、ただの「空想」「妄想」に過ぎないということである。
左翼勢力が頻りに「平和」を訴え、「正義」を標榜しようが、「国に忠」という感情が決定的に欠落している故に、まともな国民には受け容れられることはない。
我が国は、2700年もの歴史が続く君主国家であり、そして神武建国の理念とは、「八紘をおおいて一宇となす」という家族国家の形成に在る。 「日本を再生する」ということは、欧米の様な国になることではない。そういう意味では、明治維新は、「維新」とは名ばかりで、その実は西洋文明を模倣した改革に過ぎなかった。
戦後体制を見直すことは喫緊の課題であることに間違いないが、明治維新後に長州閥が行った施策の多くを検証する必要もあろう。「日本を再生する」「日本を取り戻す」とは、その原点である「日本の背骨」を取り戻すということである。
「日本の背骨とは何か」といえば、祖国日本に生まれた日本人として生きて行く上で大切な精神である。それはつまり、「国家への忠誠心」と「親への孝養」であり、西晋一郎の教えの通り、正に「君国に忠」「親に孝」ということに尽きる。
我が国は天皇(君)を頂く家族国家であり、その国體の精華は万邦無比である。全ての日本人が陛下の下に一つとなって(忠)、先祖代々続く日本人としての血統を重んじ(親)、父祖に恥じない生き方を実現する(孝)、ということである。
「愛国とは人性(じんせい)の至誠なり」とは内村鑑三だったか。「愛国心」なんていうものは人が生まれつき持ってるもので殊更ひけらかすものではない。何故なら、民族の将来と祖国の将来を憂うる行為は最も真剣なる感情であるのだから。
日本では何故か「愛国」だとか「愛国心」などと口に出すものなら「右翼」や「反動」と非難される。「右翼」という言葉には悪意が感じられ、愛国者を「右翼」と蔑むことに由って国家と国民の離反を目論んだマスコミの成果でもある。
日本人が失った徳目を呼び返そうという標語として「愛国心」は最も相応しい言葉だと思うが、アドルフ・ヒトラーは「国家という概念は今日、明白な内容を持っていない。だから軽薄な愛国教育しかできないのだ」と訓えていることに括目する。
愛国心を育むことは大事なことではあるが強制することでもない。奇跡の国である日本に生まれた喜びと、先人の歴史と営為に学び現代にそれを活かすことこそ大事である。それには愛国よりも「報国」こそ方が大事であると思っている。
日本人が持つべきは報国であり、愛国心より大和の心(大和魂)である。つまり、花鳥風月、山川草木、春夏秋冬の恵まれた自然に逆らわず、調和して暮す従順な心を育むことである。愛国心より、先ずは国の成り立ちを教え、大和心を涵養すべし。
西晋一郎は、「人は教えによって人であり、教は国があって行われ、国は歴史があって存立する。人と教と国と歴史は一環状をなし、其の実一である。若し四者が連貫を失ったならば、人は真に人でなく、教は真に教でなく、国は真に国をなさず、歴史というものから断絶される」と、教育の重要さを分かり易く訓えている。
教育と国の歴史は繋がっており、国の歴史を軽んじることは、国家としての未来を放棄したも同然である。人もまた、教え学ぶことを忘れてはならない。それは単に自分の為だけではなく、連綿と続くであろう子供達の為でもあるからだ。
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「我が民族の将来と国家の前途を思うは人間の最も真剣なる感情であり、君国に忠、親に孝なるは最も現実なる道徳である。之を離れては人類愛も世界的正義も空想に過ぎない」。「国に忠」と「親に孝」の二つを離れては、人類愛も、平和主義も、憲法論議も空理空論どころか、ただの「空想」「妄想」に過ぎないということである。
左翼勢力が頻りに「平和」を訴え、「正義」を標榜しようが、「国に忠」という感情が決定的に欠落している故に、まともな国民には受け容れられることはない。
我が国は、2700年もの歴史が続く君主国家であり、そして神武建国の理念とは、「八紘をおおいて一宇となす」という家族国家の形成に在る。 「日本を再生する」ということは、欧米の様な国になることではない。そういう意味では、明治維新は、「維新」とは名ばかりで、その実は西洋文明を模倣した改革に過ぎなかった。
戦後体制を見直すことは喫緊の課題であることに間違いないが、明治維新後に長州閥が行った施策の多くを検証する必要もあろう。「日本を再生する」「日本を取り戻す」とは、その原点である「日本の背骨」を取り戻すということである。
「日本の背骨とは何か」といえば、祖国日本に生まれた日本人として生きて行く上で大切な精神である。それはつまり、「国家への忠誠心」と「親への孝養」であり、西晋一郎の教えの通り、正に「君国に忠」「親に孝」ということに尽きる。
我が国は天皇(君)を頂く家族国家であり、その国體の精華は万邦無比である。全ての日本人が陛下の下に一つとなって(忠)、先祖代々続く日本人としての血統を重んじ(親)、父祖に恥じない生き方を実現する(孝)、ということである。
「愛国とは人性(じんせい)の至誠なり」とは内村鑑三だったか。「愛国心」なんていうものは人が生まれつき持ってるもので殊更ひけらかすものではない。何故なら、民族の将来と祖国の将来を憂うる行為は最も真剣なる感情であるのだから。
日本では何故か「愛国」だとか「愛国心」などと口に出すものなら「右翼」や「反動」と非難される。「右翼」という言葉には悪意が感じられ、愛国者を「右翼」と蔑むことに由って国家と国民の離反を目論んだマスコミの成果でもある。
日本人が失った徳目を呼び返そうという標語として「愛国心」は最も相応しい言葉だと思うが、アドルフ・ヒトラーは「国家という概念は今日、明白な内容を持っていない。だから軽薄な愛国教育しかできないのだ」と訓えていることに括目する。
愛国心を育むことは大事なことではあるが強制することでもない。奇跡の国である日本に生まれた喜びと、先人の歴史と営為に学び現代にそれを活かすことこそ大事である。それには愛国よりも「報国」こそ方が大事であると思っている。
日本人が持つべきは報国であり、愛国心より大和の心(大和魂)である。つまり、花鳥風月、山川草木、春夏秋冬の恵まれた自然に逆らわず、調和して暮す従順な心を育むことである。愛国心より、先ずは国の成り立ちを教え、大和心を涵養すべし。
西晋一郎は、「人は教えによって人であり、教は国があって行われ、国は歴史があって存立する。人と教と国と歴史は一環状をなし、其の実一である。若し四者が連貫を失ったならば、人は真に人でなく、教は真に教でなく、国は真に国をなさず、歴史というものから断絶される」と、教育の重要さを分かり易く訓えている。
教育と国の歴史は繋がっており、国の歴史を軽んじることは、国家としての未来を放棄したも同然である。人もまた、教え学ぶことを忘れてはならない。それは単に自分の為だけではなく、連綿と続くであろう子供達の為でもあるからだ。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
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2024年05月22日
勿体振ってないで持てる力全てを惜しむこと無く与えなさい
いつぞや、ネットサーフィンをしていたら右翼活動家のブログが目に付いた。そこには何やら、「所謂団塊の世代の人と歴史認識で意見の相違を感じたが、敢えて反論もせず聞き入った」とし、最後には団塊の世代への嫌悪感と雑言が綴られてた。
右翼の仲間からは同意の声が書き込まれ絶賛されていたが、その場で説得も試みず、後で色々書き連ねるというのは卑怯だし余り感心はしない。仲間も仲間で、諫めたり、苦言を呈す人はいない。仲間内で称えあって何が愉しいのだろう。
何故、激論を交わさないのか。「こういう輩と話すことに意味はない」と大人ぶってるつもりかも知れないが、偶には相手と目線を合わせ、本性剥き出しで一つ一つ反論し、歴史的事実を滔滔と語ることも自分を高める上でも大事だと思っている。
愚生も放浪の旅先の居酒屋や行きつけの飲み屋など呑んでるとよくそういう人とは遭遇する。だが、そういう輩を面白可笑しく例え話を出しながら議論を交わし諭すことは嫌いじゃない。袖すり合った隣の客との議論こそ横議横行の醍醐味でもある。
後輩や門下生ならいざ知らず、意見を同じくする仲間内だけで話し合ったところで何になるというのだろう。右翼人が右翼に論じても意味はない。やや左に偏った考えの人や、無自覚左翼を如何に転向させられるかが啓蒙活動の極意じゃなかろうか。
今迄、何十人ものオールド左翼に出会い、話すと「アンタの様な右翼は初めてだよ」と言われもした。「オマエとは話しにならん!」と怒って席を立ったのは、日教組出身で日本共産党の市会議員になった今は亡き中学時代の恩師くらい(笑)
ゴールデン街なんかで呑んでると、場所柄だろうか、左翼や団塊の世代、無自覚左翼がうじゃうじゃいて自説を垂れ流してるオールド左翼によく遭遇したものだ。
こういった輩の多くは、幼い正義感からそういった思想や考えに辿り着いた人が殆どで、その辺りを擽ってから、身近にある喩えを出して反対意見を述べると意外にあっさり己の矛盾点と学生運動華やかしき時代の幼稚な正義感を認めるだろう。
まぁ、政治的意見での隔絶はどうしようもないが、共通の話題を探すことも大事。大体スケベな話題は左右共通で、そういった話や趣味の話題で打ち解け、シャレやオチを付けながら分かり易く、周りを巻き込んで話しするのが好きだ(笑)
そういう意味では浅学菲才というか、時局は勿論のこと、スケベなことから哲学的なことまで知識は雑駁に広く、何事にも興味を持って貪欲に学ぶことが大事。
「右翼人とは『よく読み』『よく書き』『よく喋る』、そして『よく呑む』ことだ」と教わったのは今は亡き右翼浪人の横山武彦。本を読んだら感じ入った部分や感動した台詞などを書き留め、話してみる。話術としては落語は実に参考になる。
右翼陣営の悪い処は、一回書いたものや前に話したことは二度とやらない。聞く人が違うのだから観念的に同じことを訴えて行くことは大事なことだ。大日本愛国党総裁の赤尾敏の数寄屋橋での街頭演説なんていつも同じ。アレを見習うべきだ。
演説を10分出来るなら、同じ話を最初からやり直せば好いことで、「さっき話したから」と恥ずかしがったところで、そんな演説なんぞ誰も聞いてないから大丈夫。同じ話でも3回繰り返せば30分。そうしているうちに要領を得るだろう。
「前に同じ話を聞きましたよ」って言われたら「主義主張なんてのは変わりませんから」と言えば好いし、「余程のオレのファンなのだ」と思えば好いだけのこと。
演説で大事なのは上手く喋ろうというのではなく、自分の言葉で懸命に訴えるのが好い。それが、見栄なのか、恥ずかしいのか、同じ話はやりたがらない。下手くそな演説を勿体ぶってどうすんの。同じ話だってイイじゃないか右翼だもの(笑)
その点、噺家というのは凄いと思う。サゲ(オチ)を知ってる話なんだが何度聞いても笑える。右翼も空気をカネにするなら業(会話)を磨かなきゃダメ。
噺家が聴衆を引き込むにはマクラ(本題に入る前の面白話)が大事。マクラで聴衆を引き込んで笑いを取ってから本題に入るのだが、マクラが上手いとつい引き込まれてしまう。右翼の演説もいきなり本題から入るから聴衆も立ち止まらない。
内容は乏しくても話術でカバー出来る。そういう意味でもツカミは大事であり、演説家は読書も好いが、それより寄席に行って話の技を盗んで来なさいな(笑)
右翼の先生方を見ていると出し惜しみ感は否めない。思想にしろ理論にしろ大したことはないのに、高が知れてる経験や知識を出し惜しみしてどうするのだ。「教えるとは実に教えられることである」。教えることで己の更なる向上に繋がる。
別に右翼だけに限らず上に立つ者は、勿体を付けることなく持てる力全てを惜しげなく与えて行くことで、心在る者は意気に感じそれに応えてくれるものだ。
まぁ、それでも裏切られたらそれは人を見る目が無かったということ。人を見る眼というのは人生経験の集大成、修行をやり直すしかないな。呵々大笑。
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右翼の仲間からは同意の声が書き込まれ絶賛されていたが、その場で説得も試みず、後で色々書き連ねるというのは卑怯だし余り感心はしない。仲間も仲間で、諫めたり、苦言を呈す人はいない。仲間内で称えあって何が愉しいのだろう。
何故、激論を交わさないのか。「こういう輩と話すことに意味はない」と大人ぶってるつもりかも知れないが、偶には相手と目線を合わせ、本性剥き出しで一つ一つ反論し、歴史的事実を滔滔と語ることも自分を高める上でも大事だと思っている。
愚生も放浪の旅先の居酒屋や行きつけの飲み屋など呑んでるとよくそういう人とは遭遇する。だが、そういう輩を面白可笑しく例え話を出しながら議論を交わし諭すことは嫌いじゃない。袖すり合った隣の客との議論こそ横議横行の醍醐味でもある。
後輩や門下生ならいざ知らず、意見を同じくする仲間内だけで話し合ったところで何になるというのだろう。右翼人が右翼に論じても意味はない。やや左に偏った考えの人や、無自覚左翼を如何に転向させられるかが啓蒙活動の極意じゃなかろうか。
今迄、何十人ものオールド左翼に出会い、話すと「アンタの様な右翼は初めてだよ」と言われもした。「オマエとは話しにならん!」と怒って席を立ったのは、日教組出身で日本共産党の市会議員になった今は亡き中学時代の恩師くらい(笑)
ゴールデン街なんかで呑んでると、場所柄だろうか、左翼や団塊の世代、無自覚左翼がうじゃうじゃいて自説を垂れ流してるオールド左翼によく遭遇したものだ。
こういった輩の多くは、幼い正義感からそういった思想や考えに辿り着いた人が殆どで、その辺りを擽ってから、身近にある喩えを出して反対意見を述べると意外にあっさり己の矛盾点と学生運動華やかしき時代の幼稚な正義感を認めるだろう。
まぁ、政治的意見での隔絶はどうしようもないが、共通の話題を探すことも大事。大体スケベな話題は左右共通で、そういった話や趣味の話題で打ち解け、シャレやオチを付けながら分かり易く、周りを巻き込んで話しするのが好きだ(笑)
そういう意味では浅学菲才というか、時局は勿論のこと、スケベなことから哲学的なことまで知識は雑駁に広く、何事にも興味を持って貪欲に学ぶことが大事。
「右翼人とは『よく読み』『よく書き』『よく喋る』、そして『よく呑む』ことだ」と教わったのは今は亡き右翼浪人の横山武彦。本を読んだら感じ入った部分や感動した台詞などを書き留め、話してみる。話術としては落語は実に参考になる。
右翼陣営の悪い処は、一回書いたものや前に話したことは二度とやらない。聞く人が違うのだから観念的に同じことを訴えて行くことは大事なことだ。大日本愛国党総裁の赤尾敏の数寄屋橋での街頭演説なんていつも同じ。アレを見習うべきだ。
演説を10分出来るなら、同じ話を最初からやり直せば好いことで、「さっき話したから」と恥ずかしがったところで、そんな演説なんぞ誰も聞いてないから大丈夫。同じ話でも3回繰り返せば30分。そうしているうちに要領を得るだろう。
「前に同じ話を聞きましたよ」って言われたら「主義主張なんてのは変わりませんから」と言えば好いし、「余程のオレのファンなのだ」と思えば好いだけのこと。
演説で大事なのは上手く喋ろうというのではなく、自分の言葉で懸命に訴えるのが好い。それが、見栄なのか、恥ずかしいのか、同じ話はやりたがらない。下手くそな演説を勿体ぶってどうすんの。同じ話だってイイじゃないか右翼だもの(笑)
その点、噺家というのは凄いと思う。サゲ(オチ)を知ってる話なんだが何度聞いても笑える。右翼も空気をカネにするなら業(会話)を磨かなきゃダメ。
噺家が聴衆を引き込むにはマクラ(本題に入る前の面白話)が大事。マクラで聴衆を引き込んで笑いを取ってから本題に入るのだが、マクラが上手いとつい引き込まれてしまう。右翼の演説もいきなり本題から入るから聴衆も立ち止まらない。
内容は乏しくても話術でカバー出来る。そういう意味でもツカミは大事であり、演説家は読書も好いが、それより寄席に行って話の技を盗んで来なさいな(笑)
右翼の先生方を見ていると出し惜しみ感は否めない。思想にしろ理論にしろ大したことはないのに、高が知れてる経験や知識を出し惜しみしてどうするのだ。「教えるとは実に教えられることである」。教えることで己の更なる向上に繋がる。
別に右翼だけに限らず上に立つ者は、勿体を付けることなく持てる力全てを惜しげなく与えて行くことで、心在る者は意気に感じそれに応えてくれるものだ。
まぁ、それでも裏切られたらそれは人を見る目が無かったということ。人を見る眼というのは人生経験の集大成、修行をやり直すしかないな。呵々大笑。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
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2024年05月20日
言葉や文章を書き留めて少しでも近付ける様に努力することが大事
誰しも「好きな言葉」というのはあるだろうし、感銘を受けた本や座右の書というものもあるだろう。金言や格言の多くは実践と経験から学んだものであり、自戒を込めた言葉故に相手に響く。逆を言えば、実体験を伴わない言葉は軽々しい。
「人真似上手は個性を創造する」という様に、そうした言葉や文章を書き留めて、少しでもその尊敬する人や憧れの人物に近付ける様に努力することは大事なこと。
「日本とロシアは提携の必要性がある」などといった開国論を展開し、安政の大獄で斬首された越前福井藩士の橋本左内は、学問を学ぶ極意をこう訓えている。
「志を立て、その目的を達成する手段の中で最も近道だと思うのは、聖人の書物や種々の歴史本の中で自分が特に刺激を受けた部分を別紙に書き抜いて壁に貼っておくか、扇などに書いておき、日夜朝夕それを眺め、常に反省しつつ、及ばない点について勉め、進歩を楽しむのがよい」。日頃からの実践が後々の自分の身に成る。
右翼人にもいるが、よく読書の量を自慢している自称読書家を見かける。斯くいう愚生も、大学時代から政治思想の本を中心に、雑駁ではあったが色々なジャンルの書物を読み漁り、本棚に並べてはその読書量に悦に入ったりしたのも事実(笑)
自称読書家曰く「読書は楽しい」と宣う。だが、読んで楽しいというだけなら別に読書じゃなくても映画でも好いし、落語や講談、歌舞伎などでも好いだろう。
本というものは、読まないよりは読んだ方が好いというくらいなのもので、橋本左内ではないが、感じ入った部分を何度も読んだり書き留めたり、その書いた文章を眺めたりして、自分の糧になる様に心に確りと刻み込むことこそ大事なこと。
勉強とか学ぶという基本的な在り方は、活眼を以て生きた本を読むことだ。ベストセラーなんぞ単なる暇潰しの様なもの。読んで学んで実践しなければ意味は無い。
常々、心眼を開いていれば「生きた学問」や参考書となるべきものは多く在る。「生きた学問」とか「耳学問」で一番好いのが、失敗に失敗を重ねた上で成功した人物の話であり、くだらん営業保守らの売文なんぞより学ぶことは実に多い。
保守ブームに乗っかって稼いでいる営業保守の本なんぞ、領土主権や国防論を尤もらしく語って、反中共やら反韓・反北朝鮮の脅威を煽って稼いでるだけ。保守を気取ってはいるが、尊皇精神に乏しく、保守したいのは現在の立場や生業だけ。
経営の実践も無い経営学教授然り、小難しい言葉を羅列しては悦に入ってるが、よくよく読めば「常識」を尤もらしく書き綴っているだけのこと。憲法学の教授なんてのは憲法擁護の左翼学者ばかりで、現憲法を生業にしている学匪ばかり。
「小人の学は、耳より入りて口より入ず」というが、小人は学問を売り物にし耳から聞き齧った事をその儘に口にするので少しも身に付かない。未だ自分の口で話すだけ好いが、無言のリツイートは身に付かないどころか周りにとっては迷惑千万。
「小人の学は、耳より入りて口より入ず」との喩えは、愚生的には実に耳が痛いものを感じるが、繰り返して語ることで自分の思想になっていく場合も多い。「人真似上手は個性を創造する」というのも、繰り返すことの大切さを教えている。
自分の中に真の学問を積んでいる人は決してひけらかすことはなく、衒学臭くはないという。確かに新渡戸稲造の「武士道」でも衒学は一番嫌われると教えている。
武士道の一説に在る、「学問は他人を説得したり、論破したりするものではなく、自分自身がどう生きて行くかのか、或いはどう在るべきか、といったことに答えを見出すものでなくてはならないのである」とは、実に示唆に富んでいる。
学問とは本来自分自身の向上の為のものである。仲間にしか通用しない夥しいコピペをSNSに貼り付けたり無言リツイートしたり、付け焼き刃の知識をひけらかし、自分自身に酔っているネット右翼や営業右翼はある意味で反面教師とも言える。
実践の伴わない薄っぺらな請売りの主張では、世の中への警鐘どころか他人さえも、否、身内や友人さえも感化させたり、賛同させることも出来ないだろう。だが、同じ主張を繰り返し、教え続けることでその思想が自分のものとなって行く。
愚生の場合、倫理哲学者である西晋一郎が好きで彼是と参考にしブログのタイトルにも載せている。自分自身に酔っている訳でもないが、西先生の「教えるとは実に教えられることである」を肝に銘じ、今日もまたこうして書き綴っている。呵呵。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円(月2500円)。法人120000円。協賛会員300000円~。
「人真似上手は個性を創造する」という様に、そうした言葉や文章を書き留めて、少しでもその尊敬する人や憧れの人物に近付ける様に努力することは大事なこと。
「日本とロシアは提携の必要性がある」などといった開国論を展開し、安政の大獄で斬首された越前福井藩士の橋本左内は、学問を学ぶ極意をこう訓えている。
「志を立て、その目的を達成する手段の中で最も近道だと思うのは、聖人の書物や種々の歴史本の中で自分が特に刺激を受けた部分を別紙に書き抜いて壁に貼っておくか、扇などに書いておき、日夜朝夕それを眺め、常に反省しつつ、及ばない点について勉め、進歩を楽しむのがよい」。日頃からの実践が後々の自分の身に成る。
右翼人にもいるが、よく読書の量を自慢している自称読書家を見かける。斯くいう愚生も、大学時代から政治思想の本を中心に、雑駁ではあったが色々なジャンルの書物を読み漁り、本棚に並べてはその読書量に悦に入ったりしたのも事実(笑)
自称読書家曰く「読書は楽しい」と宣う。だが、読んで楽しいというだけなら別に読書じゃなくても映画でも好いし、落語や講談、歌舞伎などでも好いだろう。
本というものは、読まないよりは読んだ方が好いというくらいなのもので、橋本左内ではないが、感じ入った部分を何度も読んだり書き留めたり、その書いた文章を眺めたりして、自分の糧になる様に心に確りと刻み込むことこそ大事なこと。
勉強とか学ぶという基本的な在り方は、活眼を以て生きた本を読むことだ。ベストセラーなんぞ単なる暇潰しの様なもの。読んで学んで実践しなければ意味は無い。
常々、心眼を開いていれば「生きた学問」や参考書となるべきものは多く在る。「生きた学問」とか「耳学問」で一番好いのが、失敗に失敗を重ねた上で成功した人物の話であり、くだらん営業保守らの売文なんぞより学ぶことは実に多い。
保守ブームに乗っかって稼いでいる営業保守の本なんぞ、領土主権や国防論を尤もらしく語って、反中共やら反韓・反北朝鮮の脅威を煽って稼いでるだけ。保守を気取ってはいるが、尊皇精神に乏しく、保守したいのは現在の立場や生業だけ。
経営の実践も無い経営学教授然り、小難しい言葉を羅列しては悦に入ってるが、よくよく読めば「常識」を尤もらしく書き綴っているだけのこと。憲法学の教授なんてのは憲法擁護の左翼学者ばかりで、現憲法を生業にしている学匪ばかり。
「小人の学は、耳より入りて口より入ず」というが、小人は学問を売り物にし耳から聞き齧った事をその儘に口にするので少しも身に付かない。未だ自分の口で話すだけ好いが、無言のリツイートは身に付かないどころか周りにとっては迷惑千万。
「小人の学は、耳より入りて口より入ず」との喩えは、愚生的には実に耳が痛いものを感じるが、繰り返して語ることで自分の思想になっていく場合も多い。「人真似上手は個性を創造する」というのも、繰り返すことの大切さを教えている。
自分の中に真の学問を積んでいる人は決してひけらかすことはなく、衒学臭くはないという。確かに新渡戸稲造の「武士道」でも衒学は一番嫌われると教えている。
武士道の一説に在る、「学問は他人を説得したり、論破したりするものではなく、自分自身がどう生きて行くかのか、或いはどう在るべきか、といったことに答えを見出すものでなくてはならないのである」とは、実に示唆に富んでいる。
学問とは本来自分自身の向上の為のものである。仲間にしか通用しない夥しいコピペをSNSに貼り付けたり無言リツイートしたり、付け焼き刃の知識をひけらかし、自分自身に酔っているネット右翼や営業右翼はある意味で反面教師とも言える。
実践の伴わない薄っぺらな請売りの主張では、世の中への警鐘どころか他人さえも、否、身内や友人さえも感化させたり、賛同させることも出来ないだろう。だが、同じ主張を繰り返し、教え続けることでその思想が自分のものとなって行く。
愚生の場合、倫理哲学者である西晋一郎が好きで彼是と参考にしブログのタイトルにも載せている。自分自身に酔っている訳でもないが、西先生の「教えるとは実に教えられることである」を肝に銘じ、今日もまたこうして書き綴っている。呵呵。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円(月2500円)。法人120000円。協賛会員300000円~。
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2024年05月18日
「四十歳迄は勝つ様に四十歳以降は負けぬ様に」
戦国武将の武田信玄は「四十歳迄は勝つ様に。四十歳以降は負けぬ様に」と教えている。若い頃と違い、無理が利かない年齢になって頑張り過ぎて勝つことだけを追いかけてると、体力も消耗するし思わぬ大敗を招きかねない。それなりの歳になったなら「勝つことよりも負けぬことを心掛けよ」というのは大事な教えである。
この言葉は、未だ「人生五十年」の頃の言葉だから、今の時代ならば「五十歳迄は勝つ様に。五十歳以降は負けぬ様に」ということだろうか。還暦過ぎた愚生は「戦わずして勝つ」か、否、「余計な戦いはしない」というのが分相応か(笑)
信玄は「勝負の事、十分を六分七分の勝ちは十分の勝ちなり」とも訓えている。勝負事は、六分か七分の勝ちが好いと言うのだ。つまり、負けなしの圧勝は次への局面への対処も遅れるし、何より、身内の驕りや慢心、そして油断を齎すと諭す。
「もっと気合いを入れろ」とか「全力を尽くせ」とばかり言ってないで、「少しは休め」「明日に響くから程々に」と「六分勝ちの哲学」に学ぶ方が効果は大きい。
美空ひばりの「柔」の歌詞に「勝つと思うな、思えば負けよ」という一節がある。勝負事は「相打ち」で好いと思っていて、気負いの無い方が気が楽になり実力を発揮するもの。斯くいう愚生の場合、勝負事といえば専ら競輪競馬くらいなもの。
愚生からすると、ギャンブルを否定する人や競輪や競馬なんぞやったことが無い人というのは人間的な魅力を感じない。それは無難な人生を歩んで来たという如何にも安泰した生活臭が、そういう雰囲気を醸し出しているからだろうが、何事も失敗を経験し、バカな事に打ち込んだ人というのはどことなく人間味に溢れている。
六分の勝ちという教えはギャンブルにも当て嵌まる。色川武大こと阿佐田哲也はギャンブルから学んだ人生観を相撲の勝敗に喩え、「9勝6敗を狙え。8勝7敗では寂しい。10勝を狙うと無理が出る」と教えた。戦国武将の言葉よりも実に分かり易い。
「幸運が続き過ぎると危ない」という考えから、ギャンブルに大負けすると「ここで不運を消化しておけば安心だ」とよく語っていたというが、見倣うべき人生訓。
「満(み)つれば(か)欠くる」ともいうが、愚生の人生も40歳の頃がピークで、後はずっと欠けっぱなし。まぁ、月も三日月になってしまえば後は満ちて来るし、ツキは戻って来るものだから、今を凌げばどうにかなるだろうと楽観視している。
「勝つと思うな思えば負けよ」という。「勝とう」「勝たねば」と思うと実力を発揮出来ずに終わるということが多いが、これを「引き分けで好い」と思うと意外と気負わずに出来るもの。そんな精神的余裕が勝ちに結びついたりするものだ。
ギャンブル依存症などは論外だが、ギャンブルを目の敵にしてる連中にもうんざり。競輪や競馬をやり乍ら全国を旅する「旅打ち」というのは精神修行でもある。阿佐田の他にも浅田次郎や伊集院静、山口瞳なんかも旅打ちを愛した作家である。
「旅先でギャンブルを行う」というスタイルは、江戸時代の博徒・国定忠治などの無宿人がそう。阿佐田や浅田、伊集院といった作家の作品がウケるのは、そうした経験から滲み出る人間性から発した生きた言葉や人生観が綴られているからだろう。
「旅打ち」にも出たいと思うが、旅打ちに持参する程の資金も無い。という訳で、軽挙妄動を戒めて暫くはブログと筋トレに専念しているしかない様だ。呵呵。
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この言葉は、未だ「人生五十年」の頃の言葉だから、今の時代ならば「五十歳迄は勝つ様に。五十歳以降は負けぬ様に」ということだろうか。還暦過ぎた愚生は「戦わずして勝つ」か、否、「余計な戦いはしない」というのが分相応か(笑)
信玄は「勝負の事、十分を六分七分の勝ちは十分の勝ちなり」とも訓えている。勝負事は、六分か七分の勝ちが好いと言うのだ。つまり、負けなしの圧勝は次への局面への対処も遅れるし、何より、身内の驕りや慢心、そして油断を齎すと諭す。
「もっと気合いを入れろ」とか「全力を尽くせ」とばかり言ってないで、「少しは休め」「明日に響くから程々に」と「六分勝ちの哲学」に学ぶ方が効果は大きい。
美空ひばりの「柔」の歌詞に「勝つと思うな、思えば負けよ」という一節がある。勝負事は「相打ち」で好いと思っていて、気負いの無い方が気が楽になり実力を発揮するもの。斯くいう愚生の場合、勝負事といえば専ら競輪競馬くらいなもの。
愚生からすると、ギャンブルを否定する人や競輪や競馬なんぞやったことが無い人というのは人間的な魅力を感じない。それは無難な人生を歩んで来たという如何にも安泰した生活臭が、そういう雰囲気を醸し出しているからだろうが、何事も失敗を経験し、バカな事に打ち込んだ人というのはどことなく人間味に溢れている。
六分の勝ちという教えはギャンブルにも当て嵌まる。色川武大こと阿佐田哲也はギャンブルから学んだ人生観を相撲の勝敗に喩え、「9勝6敗を狙え。8勝7敗では寂しい。10勝を狙うと無理が出る」と教えた。戦国武将の言葉よりも実に分かり易い。
「幸運が続き過ぎると危ない」という考えから、ギャンブルに大負けすると「ここで不運を消化しておけば安心だ」とよく語っていたというが、見倣うべき人生訓。
「満(み)つれば(か)欠くる」ともいうが、愚生の人生も40歳の頃がピークで、後はずっと欠けっぱなし。まぁ、月も三日月になってしまえば後は満ちて来るし、ツキは戻って来るものだから、今を凌げばどうにかなるだろうと楽観視している。
「勝つと思うな思えば負けよ」という。「勝とう」「勝たねば」と思うと実力を発揮出来ずに終わるということが多いが、これを「引き分けで好い」と思うと意外と気負わずに出来るもの。そんな精神的余裕が勝ちに結びついたりするものだ。
ギャンブル依存症などは論外だが、ギャンブルを目の敵にしてる連中にもうんざり。競輪や競馬をやり乍ら全国を旅する「旅打ち」というのは精神修行でもある。阿佐田の他にも浅田次郎や伊集院静、山口瞳なんかも旅打ちを愛した作家である。
「旅先でギャンブルを行う」というスタイルは、江戸時代の博徒・国定忠治などの無宿人がそう。阿佐田や浅田、伊集院といった作家の作品がウケるのは、そうした経験から滲み出る人間性から発した生きた言葉や人生観が綴られているからだろう。
「旅打ち」にも出たいと思うが、旅打ちに持参する程の資金も無い。という訳で、軽挙妄動を戒めて暫くはブログと筋トレに専念しているしかない様だ。呵呵。
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2024年05月15日
我が国の自主防衛を語らない沖縄左翼は中共の単なる駒でしかない
5月15日は「沖縄本土復帰記念日」である。沖縄県が本土復帰する前に、当時の佐藤栄作首相が発した「沖縄が帰らずして日本の戦後はない」との言葉は、当時は未だ小学生だった愚生にも大きく響き、その記憶は決して消えることはない。
戦後、米国に統治されたのは沖縄だけではない。伊豆諸島は終戦翌年の昭和21年3月22日に、トカラ諸島は昭和27年2月10日に、主権回復した翌年の昭和28年12月25日には奄美諸島が、昭和38年6月26日には小笠原諸島が本土復帰した。
言い方は悪いかも知れないが、これが米国の統治だったから好い様なもので、旧ソ連(ロシア)に侵略され不法に強奪された南樺太や全千島列島は未だに返ることはなく、旧島民の方々が故郷へ帰ることすら儘ならないことを思えば恵まれている。
沖縄では「米軍基地反対」さえ叫んでいれば平和が訪れると思っている県民も少なくないが、「反基地運動」にしても米国だから許されているとは思わないか。
沖縄県から米軍の撤退はイコール中共からの併呑を意味する。米軍撤退を叫び自衛隊に拠る自主防衛を訴えるなら未だしも、沖縄左翼は自主防衛は全く語らない。これつまり、沖縄左翼は沖縄併合を謀る中共の単なる駒でしかないということだ。
沖縄県全体がきちんと突き詰めた議論が為されない儘に、安っぽい平和主義と過剰な被害者意識から、日本政府と米軍にその批判の矛先が向けられている。
沖縄県内では安全保障という正論を語れる雰囲気は無く、唯単に「反日」や「侮日」で結託し、罵詈雑言を浴びせかける隣国と同じ構図と実に似ている。
地理的に日本と支那の中間に位置する沖縄は、日本から見れば同じ日本人だが、支那や沖縄から見れば寧ろ支那と同族の関係にあった。住民は日本本土から南下し住みついた日本人と、ポリネシア系や台湾系、支那華南系だとされている。
明朝時代には日本ではなく、明朝に入貢して琉球国・中山王として冊封を受け、奄美大島から先の宮古・八重山迄の領域を支配する中央集権国家を築いた。
日本への使者の派遣は室町時代になってからだった。徳川幕府の命令で島津藩が琉球に出兵し、奄美大島を直轄化した歴史はあるが、琉球はその後に支那大陸に誕生した清朝の冊封も受けており、日本と清の両属の二股外交の立場を採った。
琉球は日本文化が拒絶した宦官制度を導入していたことでも支那との関係が深く、また日清戦争の際には日本派と清国派が乱闘を演じたことは歴史的事実。
日本に帰属し乍ら、「日清両属」を主張する琉球を沖縄県として統合した「琉球処分」は、日本の国土統一を進める明治政府にとって不可避の課題だった。
明治5年、明治政府は琉球藩を設置し、琉球王の尚泰を藩王に任命する。明治12年には「廃藩置県」の通達に由り、首里王府を解体し沖縄県を置いた。
然し、清国はこの琉球処分に対して猛反発する。清国は、東京や北京で沖縄の分断工作を謀ろうと琉球処分を国際問題化させる。清朝の摂政・恭親王と直隷総督・李鴻章は、北京訪問中のグランド元米国大統領と会見し、琉球問題の仲介を依頼する。
その後、日本を訪問したグランド元大統領は、伊藤博文と西郷従道と栃木県日光で会談することとなるが、逆に清朝の旧態を批判し、日本を支持したのだった。因みに、グランド元大統領は英国でも「琉球処分」での日本の論拠を擁護している。
日光での会談後には、東京でも日本政府とグランド元大統領との会談が持たれることとなり、その会談には畏くも明治天皇も御臨席遊ばされている。当時の日本外交は、現在の場当たり的な外交ではなく用意周到に展開されたことを窺わせる。
「琉球処分」後も、沖縄本土では親清派の「頑固党」と親日派の「開化党」との抗争が絶えなかったが、その後に勃発した「日清戦争」で我が国が勝利すると、親清派(頑固党)は沈黙し、初めて沖縄が静穏に発展し軌道に乗ったのである。
国内では相変わらず親中派や沖縄左翼が沖縄を攪乱しているが、これは過去の琉球処分への報復が着々と謀られているということでもある。過去に民主党政権下で奨められた「沖縄ビジョン」はその最たるもので、その首謀者は中共である。
その革命運動の序章が米軍基地反対運動であり、平和の邦・沖縄という無防備の邦の演出である。自主防衛を語らない反基地運動は正に無防備の害そのもの。
自主防衛を否定する現憲法を「平和憲法」と騙り、安っぽい平和主義を翳すことこそが戦争を誘発する最大の危険要因となることを思い知るべきだろう。
三島由紀夫は、「戦争を誘発する大きな原因の一つは、アンディフェンデッド・ウェルス(無防備の害)だ」と訓えたが、蓋し正論である。日頃、軽々しく「平和」を訴えている政治家こそが政治や外交を危ぶみ、戦争を誘発する最大要因となる。
今の時代「平和」とは唱えるものではなく、またいつまでも米国に依存すべきものでもない。「平和」とは自らが命懸けで創り出さねばならないものである。
沖縄では未だに「日本は沖縄を見捨てた」だとか「日本は沖縄を捨石にした」「日本軍は沖縄の敵であった」などとの声を耳にする。だが、沖縄と祖国日本を救う為に、尊い命を捧げてくれた英霊が存在していることを忘れてはいけない。
先の大戦での「沖縄戦」に於いて、日本軍は劣勢を覆す為の特攻攻撃が行われた。特攻戦死者の実に76%が沖縄戦で亡くなっている。鹿屋基地(海軍航空)からの特攻で1981名、知覧基地(陸軍航空)からの特攻で1036名が散華している。
沖縄全体がきちんと突き詰めた防衛議論が為されない儘に、安っぽい平和主義と過剰な被害者意識から、日本政府と米軍にその矛先が向けられているが、いつまでも被害者意識では自らの命を犠牲にした英霊にどんな顔向けが出来るというのか。
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戦後、米国に統治されたのは沖縄だけではない。伊豆諸島は終戦翌年の昭和21年3月22日に、トカラ諸島は昭和27年2月10日に、主権回復した翌年の昭和28年12月25日には奄美諸島が、昭和38年6月26日には小笠原諸島が本土復帰した。
言い方は悪いかも知れないが、これが米国の統治だったから好い様なもので、旧ソ連(ロシア)に侵略され不法に強奪された南樺太や全千島列島は未だに返ることはなく、旧島民の方々が故郷へ帰ることすら儘ならないことを思えば恵まれている。
沖縄では「米軍基地反対」さえ叫んでいれば平和が訪れると思っている県民も少なくないが、「反基地運動」にしても米国だから許されているとは思わないか。
沖縄県から米軍の撤退はイコール中共からの併呑を意味する。米軍撤退を叫び自衛隊に拠る自主防衛を訴えるなら未だしも、沖縄左翼は自主防衛は全く語らない。これつまり、沖縄左翼は沖縄併合を謀る中共の単なる駒でしかないということだ。
沖縄県全体がきちんと突き詰めた議論が為されない儘に、安っぽい平和主義と過剰な被害者意識から、日本政府と米軍にその批判の矛先が向けられている。
沖縄県内では安全保障という正論を語れる雰囲気は無く、唯単に「反日」や「侮日」で結託し、罵詈雑言を浴びせかける隣国と同じ構図と実に似ている。
地理的に日本と支那の中間に位置する沖縄は、日本から見れば同じ日本人だが、支那や沖縄から見れば寧ろ支那と同族の関係にあった。住民は日本本土から南下し住みついた日本人と、ポリネシア系や台湾系、支那華南系だとされている。
明朝時代には日本ではなく、明朝に入貢して琉球国・中山王として冊封を受け、奄美大島から先の宮古・八重山迄の領域を支配する中央集権国家を築いた。
日本への使者の派遣は室町時代になってからだった。徳川幕府の命令で島津藩が琉球に出兵し、奄美大島を直轄化した歴史はあるが、琉球はその後に支那大陸に誕生した清朝の冊封も受けており、日本と清の両属の二股外交の立場を採った。
琉球は日本文化が拒絶した宦官制度を導入していたことでも支那との関係が深く、また日清戦争の際には日本派と清国派が乱闘を演じたことは歴史的事実。
日本に帰属し乍ら、「日清両属」を主張する琉球を沖縄県として統合した「琉球処分」は、日本の国土統一を進める明治政府にとって不可避の課題だった。
明治5年、明治政府は琉球藩を設置し、琉球王の尚泰を藩王に任命する。明治12年には「廃藩置県」の通達に由り、首里王府を解体し沖縄県を置いた。
然し、清国はこの琉球処分に対して猛反発する。清国は、東京や北京で沖縄の分断工作を謀ろうと琉球処分を国際問題化させる。清朝の摂政・恭親王と直隷総督・李鴻章は、北京訪問中のグランド元米国大統領と会見し、琉球問題の仲介を依頼する。
その後、日本を訪問したグランド元大統領は、伊藤博文と西郷従道と栃木県日光で会談することとなるが、逆に清朝の旧態を批判し、日本を支持したのだった。因みに、グランド元大統領は英国でも「琉球処分」での日本の論拠を擁護している。
日光での会談後には、東京でも日本政府とグランド元大統領との会談が持たれることとなり、その会談には畏くも明治天皇も御臨席遊ばされている。当時の日本外交は、現在の場当たり的な外交ではなく用意周到に展開されたことを窺わせる。
「琉球処分」後も、沖縄本土では親清派の「頑固党」と親日派の「開化党」との抗争が絶えなかったが、その後に勃発した「日清戦争」で我が国が勝利すると、親清派(頑固党)は沈黙し、初めて沖縄が静穏に発展し軌道に乗ったのである。
国内では相変わらず親中派や沖縄左翼が沖縄を攪乱しているが、これは過去の琉球処分への報復が着々と謀られているということでもある。過去に民主党政権下で奨められた「沖縄ビジョン」はその最たるもので、その首謀者は中共である。
その革命運動の序章が米軍基地反対運動であり、平和の邦・沖縄という無防備の邦の演出である。自主防衛を語らない反基地運動は正に無防備の害そのもの。
自主防衛を否定する現憲法を「平和憲法」と騙り、安っぽい平和主義を翳すことこそが戦争を誘発する最大の危険要因となることを思い知るべきだろう。
三島由紀夫は、「戦争を誘発する大きな原因の一つは、アンディフェンデッド・ウェルス(無防備の害)だ」と訓えたが、蓋し正論である。日頃、軽々しく「平和」を訴えている政治家こそが政治や外交を危ぶみ、戦争を誘発する最大要因となる。
今の時代「平和」とは唱えるものではなく、またいつまでも米国に依存すべきものでもない。「平和」とは自らが命懸けで創り出さねばならないものである。
沖縄では未だに「日本は沖縄を見捨てた」だとか「日本は沖縄を捨石にした」「日本軍は沖縄の敵であった」などとの声を耳にする。だが、沖縄と祖国日本を救う為に、尊い命を捧げてくれた英霊が存在していることを忘れてはいけない。
先の大戦での「沖縄戦」に於いて、日本軍は劣勢を覆す為の特攻攻撃が行われた。特攻戦死者の実に76%が沖縄戦で亡くなっている。鹿屋基地(海軍航空)からの特攻で1981名、知覧基地(陸軍航空)からの特攻で1036名が散華している。
沖縄全体がきちんと突き詰めた防衛議論が為されない儘に、安っぽい平和主義と過剰な被害者意識から、日本政府と米軍にその矛先が向けられているが、いつまでも被害者意識では自らの命を犠牲にした英霊にどんな顔向けが出来るというのか。
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2024年05月14日
日本人必読の名著である「言志四禄(佐藤一斎)」に学ぶ
少(わか)くして学べば、即ち壮にして為すことあり
壮にして学べば、即ち老いて衰えず
老にして学べば、即ち死して朽ちず。(言志晩録六十条)
誰もが知るこの有名な詩は佐藤一斎の「言志四録」の一節「三学戒」の訓えである。生涯に於いて、学ぶことの重要性を説いたものだ。 「言志四録」とは、「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志耋(てつ)録」の四書の総称のこと。
佐藤一斎の名を知らなくても、その門下生の多さに驚く。朱子学と陽明学を教えた一斎の門下生は数千人に及び、朱子学としては、愚生の地元郡山が生んだ偉人、安積艮斎(あさかごんさい)始め、大橋訥庵、中村敬宇(正直)などがいる。
陽明学者としては、佐久間象山を始め、山田方谷、横井小楠、渡辺崋山。 その佐久間象山門下から勝海舟、吉田松陰、小林虎三郎、坂本竜馬などの傑物が輩出し、吉田松陰門下生には高杉晋作、伊藤博文以下錚々たる面々が連なっている。
維新の立役者であった西郷隆盛は、一斎の直接の弟子ではなかったが「言志四録」を座右の銘としていた。「言志四録」の魅力は箴言が多いところだろう。
例えば、「人が学問をするに当たって師とすべきものは、『天』『人』『経』の三つがあると教える。その中で最上は天を師とすることであり、次いで立派な人を師として習い、その次は賢人の書を師として学ぶことである。(言志録・二条)」
愚生に師と呼べる人はいなかったし、天を師とすることなど無理。せめて好い書に触れて、またその人物に近付こうと努力する。「人真似上手は個性を創造する」という様に、憧れの人の立居振る舞いや思想などを真似てみることも大事である。
イチローにしろ、大谷翔平にしろ、最初から一流ではない。懸命に学ぶ上で、理想とするプレーを真似たに違いない。そして自分のものとして創造し今がある。
「全て事業を為すには、天の意に従う敬虔な心を持つ事が必要である。功績を人に誇示し、自分の存在をひけらかす気持ちが有ってはならない。(同三条)」 。武士道で一番嫌われるのは「衒学」という。つまり、ひけらかすことは武士道に悖る。
「人は生まれつき『仁』『義』『礼』『智』『信』を備えているのだから、この五常を極め尽くすべきである。また『孝』『悌』『忠』といった職分が有るのだから、これらを当然の義務として実践すべきである。(同八条)」という。
現在はその性善説が怪しい。日本国憲法でも「平和を愛する諸国民の公正と信義」を重んじているが、生まれつき五常が備わっていない日本人が幅を利かせる。
同三十条では、「自分の過失を責めることに厳しい人は他人の過失を責める場合も厳格であり、他人を思いやることの寛容な人は自分にも寛容である。教養の有る出来た人は、自分を責める時は厳しく、他人を責める場合は寛容である」と説く。
我が国の政治の世界は全くこの逆で、他人を責めるのは厳しく、自分には大甘な判断ばかり。「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志耋録」は千三百三十条もあり、限がないので、政治家の心得として知っておくべき五つの事項を記そう。
第一は軽量で、財政上の軽量を計ること。
第二は時勢で、時代の動向を見抜いて事を行うこと。
第三は寛容で、人に接するに心が広く温厚なこと。
第四は鎮定で、争乱を鎮めて平和を保つこと。
第五は寧耐で、心を平静にして、よく忍耐すること。
そして、「賢明な人を採用し、心の曲がった人を遠ざけ、農業を奨励し、税金を軽くし、贅沢を戒め、倹約を重んじ、老人を大切にし、幼児を慈しむなど、何れも必要なことで誰もが知っていることである。(言志後録・七九条) 」と説く。
言志耊録に「寒暑、栄枯は天地の呼吸なり、苦楽、栄辱は人生の呼吸なり」と在る。人生は良い時もあれば悪い時もある訳で、だからこそ人生は愉しいのだ。
人間関係というのは、往往にして良い時だけは付き合うが、悪い時や悪い部分を指摘されたりすると、徐々に離れて行く場合が多い。良い時も、悪い時も同じ態度で接してくれた人だけ信じられる。古典は人生での大事な価値を教えてくれる。
夫夫の年代に合わせ、悩んだ時や、人生に疲れた時などに一斎の書を読むと元気を与えて貰えるに違いない。「言志四録」もまた日本人必読の名著である。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
壮にして学べば、即ち老いて衰えず
老にして学べば、即ち死して朽ちず。(言志晩録六十条)
誰もが知るこの有名な詩は佐藤一斎の「言志四録」の一節「三学戒」の訓えである。生涯に於いて、学ぶことの重要性を説いたものだ。 「言志四録」とは、「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志耋(てつ)録」の四書の総称のこと。
佐藤一斎の名を知らなくても、その門下生の多さに驚く。朱子学と陽明学を教えた一斎の門下生は数千人に及び、朱子学としては、愚生の地元郡山が生んだ偉人、安積艮斎(あさかごんさい)始め、大橋訥庵、中村敬宇(正直)などがいる。
陽明学者としては、佐久間象山を始め、山田方谷、横井小楠、渡辺崋山。 その佐久間象山門下から勝海舟、吉田松陰、小林虎三郎、坂本竜馬などの傑物が輩出し、吉田松陰門下生には高杉晋作、伊藤博文以下錚々たる面々が連なっている。
維新の立役者であった西郷隆盛は、一斎の直接の弟子ではなかったが「言志四録」を座右の銘としていた。「言志四録」の魅力は箴言が多いところだろう。
例えば、「人が学問をするに当たって師とすべきものは、『天』『人』『経』の三つがあると教える。その中で最上は天を師とすることであり、次いで立派な人を師として習い、その次は賢人の書を師として学ぶことである。(言志録・二条)」
愚生に師と呼べる人はいなかったし、天を師とすることなど無理。せめて好い書に触れて、またその人物に近付こうと努力する。「人真似上手は個性を創造する」という様に、憧れの人の立居振る舞いや思想などを真似てみることも大事である。
イチローにしろ、大谷翔平にしろ、最初から一流ではない。懸命に学ぶ上で、理想とするプレーを真似たに違いない。そして自分のものとして創造し今がある。
「全て事業を為すには、天の意に従う敬虔な心を持つ事が必要である。功績を人に誇示し、自分の存在をひけらかす気持ちが有ってはならない。(同三条)」 。武士道で一番嫌われるのは「衒学」という。つまり、ひけらかすことは武士道に悖る。
「人は生まれつき『仁』『義』『礼』『智』『信』を備えているのだから、この五常を極め尽くすべきである。また『孝』『悌』『忠』といった職分が有るのだから、これらを当然の義務として実践すべきである。(同八条)」という。
現在はその性善説が怪しい。日本国憲法でも「平和を愛する諸国民の公正と信義」を重んじているが、生まれつき五常が備わっていない日本人が幅を利かせる。
同三十条では、「自分の過失を責めることに厳しい人は他人の過失を責める場合も厳格であり、他人を思いやることの寛容な人は自分にも寛容である。教養の有る出来た人は、自分を責める時は厳しく、他人を責める場合は寛容である」と説く。
我が国の政治の世界は全くこの逆で、他人を責めるのは厳しく、自分には大甘な判断ばかり。「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志耋録」は千三百三十条もあり、限がないので、政治家の心得として知っておくべき五つの事項を記そう。
第一は軽量で、財政上の軽量を計ること。
第二は時勢で、時代の動向を見抜いて事を行うこと。
第三は寛容で、人に接するに心が広く温厚なこと。
第四は鎮定で、争乱を鎮めて平和を保つこと。
第五は寧耐で、心を平静にして、よく忍耐すること。
そして、「賢明な人を採用し、心の曲がった人を遠ざけ、農業を奨励し、税金を軽くし、贅沢を戒め、倹約を重んじ、老人を大切にし、幼児を慈しむなど、何れも必要なことで誰もが知っていることである。(言志後録・七九条) 」と説く。
言志耊録に「寒暑、栄枯は天地の呼吸なり、苦楽、栄辱は人生の呼吸なり」と在る。人生は良い時もあれば悪い時もある訳で、だからこそ人生は愉しいのだ。
人間関係というのは、往往にして良い時だけは付き合うが、悪い時や悪い部分を指摘されたりすると、徐々に離れて行く場合が多い。良い時も、悪い時も同じ態度で接してくれた人だけ信じられる。古典は人生での大事な価値を教えてくれる。
夫夫の年代に合わせ、悩んだ時や、人生に疲れた時などに一斎の書を読むと元気を与えて貰えるに違いない。「言志四録」もまた日本人必読の名著である。
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2024年05月13日
文章の極意は難解なものは易しく、易しいものは格調高く(伊藤仁斎)
儒学である「論語」「孟子」は、浅学な愚生には哲学的過ぎて理解し難いものがある。儒学を「日本の儒学」に確立した人物が伊藤仁斎である。仁斎の儒学は、同じ儒学の朱子学とは一線を画し、庶民でも理解出来る様にと易しく説いている。
「読書百編義自(おのずか)ら見(あらわ)る」として「論語」「孟子」を読むのも好いが、儒学の入門書として仁斎の「童子門(どうじもん)」に優るものはない。
真理の道は「仁・義・礼・智」であり、聖人(孔孟)は善を成し、悪を遠ざけ、徳を磨く様に勧め「忠・信、敬・恕」も人間の本性の善を維持する拠り所となる。
「童子門」では、「仁」とは、徳のうちでもっとも最大最高のものであると説く。「仁」について、「これを一言でいうなれば、愛そのものである。それは君臣の関係に於いては義といわれ、父子では親といわれ、夫婦では別といわれ、兄弟では序といわれ、朋友では信といわれるが、みんな愛から発したものである(三十九条)」
仁斎は、寛永四(1627)年、京都の材木商の子として生まれた。石田梅岩と同じく町人出身ということが影響しているのだろう、その教えは実に分かり易い。
仁斎が登場するまで、日本の儒学は朱子学の独壇場であったが、仁斎はこれを孔孟説を歪曲するものとして「論語」「孟子」に戻ることを提唱したのである。朱子学が全盛の時代に「論語・孟子以外は無用」というのも勇気ある提唱であろう。
「論語」も「孟子」は、各章薀蓄のある名句が並ぶが、理解し難いものが少なくない。だが、仁斎の「童子問」を読むと孔孟の言葉が理解した気になるのは不思議だ。仁斎こそ、大陸の儒学を「日本の儒学」として確立したというのを理会する。
今日でも大学教授や売文屋らが書いた儒学の書物に目を通すと、やたら難しい言葉を羅列し自分に酔っているが、結局は何を言いたいのか分からないものばかり。右翼人の中にも、四書五経を然も自分の思想であるかの様にひけらかす輩がいる。
請売りばかりで自分の言葉になっていないから相手に響かない。武士道で一番嫌われるのが「衒学」だが、真に学問を積んでいれば衒学臭くはないものだ。
仁斎はこういうものを「邪説」を振りまく輩と喝破し、「難解なものは易しく、易しいものは格調高くというのが文章の極意である」と説いている。弟子に「先生の説は余りにも卑近過ぎて平俗過ぎるのではないですか」と問われ、こう答えている。
「卑近で平俗ということは常識ということである。常識こそ真理なのだ。難しくて高邁なものは空理空論である。学問とは世の為人の為に役立つものでなければならないのだから、卑近であるのが当然である。日常生活を軽視する者は道を究めることは出来ない。(二十四章)」。「卑近であるのが当然である」とは蓋し正論である。
「童子問」を読むと、解り難かった論語や孟子(儒学)が親しみ易くなるのは、これこそ仁斎の趣意であり、童子門が日本独自の儒教と謂われる所以なのである。
本来、学問とは他人を説得したり、論破したりするものではなく、自分自身がどう生きて行くかといったことに答えを見出すものでなくてはならないという。
「石門心学」の祖といわれている石田梅岩は、学問とは「人倫を明らかにし、身を敬み、義を以て君を尊び、仁愛を以て父母に事え、信を以て友に交わり、広く人を愛し、貧窮の人を憐み、功あれども伐(ほこ)らず、万事約を守り、家業に疎からず、入るを量って出すことを知り、法を守って家を治めること」だと訓えている。
吉田松陰は、「学問をする眼目は 自己を磨き自己を確立することにある」と訓え、頭山満も「沈勇を心掛けよ」と訓えている。学ぶことで自分自身を鍛え上げることが、自然に相手や周りまでも好い影響を与えるものとなるという。
右翼のカリスマと言われた野村秋介は、「人を動かすものは決して理論などではなく、自分の謙虚な反省に基づく人間性以外にあり得ない」と教えていたが、学問や理論や何をするにも、やはりその人となり、人柄が大事なのは言うまでもない。
愚生も含め、右翼が日本人としての正論を語っているのに世間から忌み嫌われるのは、人となりに問題があるのだろう。先ずは人格形成の向上を図り、志を内に秘め、一維新者として斯く生きるべきかということを学ばねばならないと痛感する。
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真理の道は「仁・義・礼・智」であり、聖人(孔孟)は善を成し、悪を遠ざけ、徳を磨く様に勧め「忠・信、敬・恕」も人間の本性の善を維持する拠り所となる。
「童子門」では、「仁」とは、徳のうちでもっとも最大最高のものであると説く。「仁」について、「これを一言でいうなれば、愛そのものである。それは君臣の関係に於いては義といわれ、父子では親といわれ、夫婦では別といわれ、兄弟では序といわれ、朋友では信といわれるが、みんな愛から発したものである(三十九条)」
仁斎は、寛永四(1627)年、京都の材木商の子として生まれた。石田梅岩と同じく町人出身ということが影響しているのだろう、その教えは実に分かり易い。
仁斎が登場するまで、日本の儒学は朱子学の独壇場であったが、仁斎はこれを孔孟説を歪曲するものとして「論語」「孟子」に戻ることを提唱したのである。朱子学が全盛の時代に「論語・孟子以外は無用」というのも勇気ある提唱であろう。
「論語」も「孟子」は、各章薀蓄のある名句が並ぶが、理解し難いものが少なくない。だが、仁斎の「童子問」を読むと孔孟の言葉が理解した気になるのは不思議だ。仁斎こそ、大陸の儒学を「日本の儒学」として確立したというのを理会する。
今日でも大学教授や売文屋らが書いた儒学の書物に目を通すと、やたら難しい言葉を羅列し自分に酔っているが、結局は何を言いたいのか分からないものばかり。右翼人の中にも、四書五経を然も自分の思想であるかの様にひけらかす輩がいる。
請売りばかりで自分の言葉になっていないから相手に響かない。武士道で一番嫌われるのが「衒学」だが、真に学問を積んでいれば衒学臭くはないものだ。
仁斎はこういうものを「邪説」を振りまく輩と喝破し、「難解なものは易しく、易しいものは格調高くというのが文章の極意である」と説いている。弟子に「先生の説は余りにも卑近過ぎて平俗過ぎるのではないですか」と問われ、こう答えている。
「卑近で平俗ということは常識ということである。常識こそ真理なのだ。難しくて高邁なものは空理空論である。学問とは世の為人の為に役立つものでなければならないのだから、卑近であるのが当然である。日常生活を軽視する者は道を究めることは出来ない。(二十四章)」。「卑近であるのが当然である」とは蓋し正論である。
「童子問」を読むと、解り難かった論語や孟子(儒学)が親しみ易くなるのは、これこそ仁斎の趣意であり、童子門が日本独自の儒教と謂われる所以なのである。
本来、学問とは他人を説得したり、論破したりするものではなく、自分自身がどう生きて行くかといったことに答えを見出すものでなくてはならないという。
「石門心学」の祖といわれている石田梅岩は、学問とは「人倫を明らかにし、身を敬み、義を以て君を尊び、仁愛を以て父母に事え、信を以て友に交わり、広く人を愛し、貧窮の人を憐み、功あれども伐(ほこ)らず、万事約を守り、家業に疎からず、入るを量って出すことを知り、法を守って家を治めること」だと訓えている。
吉田松陰は、「学問をする眼目は 自己を磨き自己を確立することにある」と訓え、頭山満も「沈勇を心掛けよ」と訓えている。学ぶことで自分自身を鍛え上げることが、自然に相手や周りまでも好い影響を与えるものとなるという。
右翼のカリスマと言われた野村秋介は、「人を動かすものは決して理論などではなく、自分の謙虚な反省に基づく人間性以外にあり得ない」と教えていたが、学問や理論や何をするにも、やはりその人となり、人柄が大事なのは言うまでもない。
愚生も含め、右翼が日本人としての正論を語っているのに世間から忌み嫌われるのは、人となりに問題があるのだろう。先ずは人格形成の向上を図り、志を内に秘め、一維新者として斯く生きるべきかということを学ばねばならないと痛感する。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
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2024年05月11日
「ノモンハン事件」を始め捏造された歴史を鵜呑みにしている日本人
昭和14年(1939年)5月11日、蒙古との国境ハルハ河を越えて蒙古兵が満州国側のノモンハン地区に侵入する。所謂「ノモンハン事件」である。日本軍はこれを撃退したが、蒙古軍は駐留ソ連軍と共に再三に亘り侵入を繰り返した。
「ソ連軍は大量の戦車を含む大兵力を動員してハルハ河を越えて侵入し、ここで大激戦が展開されることとなった。8月20日には、ソ連軍は10万近い軍を動員し、2万人弱の日本軍に対し総攻撃を仕掛け、日本軍は大打撃を被った」
これが日本人の信じるノモンハン事件概要である。歴史探偵を自任する半藤一利や司馬遼太郎もそうだし、五味川純平なんぞはその最たるもの。何しろソ連の公式発表した日本軍の損害は52000人、ソ連軍9284人との数字を真に受けている。
昭和12年に始まった「日支事変(支那事変)」から2年後、何故に満州と蒙古の国境ノモンハンで、突如として日本軍とソ連軍との激戦が発生したのだろうか。
実は、この事件が起きる1年程前にソ連は、ソ満国境の張鼓峰で侵入事件を起こしており、この事件で日本軍はソ連側に5500人の大打撃を与えて撃退している。だが、日本軍がソ連領に侵入して来ないことをスターリンは見逃さなかった。
ソ連がナチスドイツに勝利出来たのは、この張鼓峰侵入事件でのスターリンの判断に拠るところが大きい。歴史に「もし」は無いが、あの時、日本軍がソ連に更なる猛攻を仕掛けていれば、ドイツと共にソ連共産党を打ちのめしていただろう。
希代の悪党で戦略家のスターリンは、ヒトラーのソ連攻撃を予測して、東側からの脅威を除く為に日本と中華民国とを戦争に引き込むことに残力を挙げうことでそれに成功した。第二次世界大戦が共産主義に因る策謀だった証左の一つであろう。
盧溝橋事件や上海事件では策謀に成功したが、予想外に日本軍が強い。そこで日本側がどう出るかを偵察したのが「鼓張峰事件」と「ノモンハン事件」だった。
ノモンハン事件でソ連は、日本との「停戦合意」が成立した翌日の9月17日に、スターリンはポーランド侵攻を命じ、ソ連軍はポーランドに侵入を謀っている。また「ノモンハン事件」は共産主義者に因って悪宣伝に使われたのは周知の通り。
「貧弱な装備で旧式戦法の日本軍が、ソ連の進んだ機会化部隊に完膚無きまで叩きのめされた」と日本軍を貶して自国の軍隊の勇ましさを喧伝するプロパガンダ。悲しい哉、日本人の多くは未だにそうした捏造された歴史を鵜呑みにしている。
ソ連が崩壊し、戦中の情報公開されて判ったことは、ソ連の損害は26000人、日本軍18000人。実はソ連の損害は日本側を大きく上回っており、然も日本軍は、ソ連の戦車・装甲車800両と航空機1673機を撃退しているという歴史的事実である。
「10万近い大兵力を動員した側は損害は少なかった」と教わったが、結果はその逆だったのだ。ということは、如何に日本軍が強かったかということの証しでもある。 抑々、歴史というものは為政者に都合の好い様に創られるものでもある。
同じく「日中戦争は日本の侵略戦争だ」との認識が蔓延しているが、これは明らかな誤謬であり、無知に加えて戦後民主主義教育に因る自虐史観に因るものだ。盧溝橋事件は、中国共産党が起こしたことは今や100%明らかな歴史的事実である。
「日中戦争は日本の侵略だった」などという中国共産党や第五列の共産主義者どものプロパガンダをいつまで信じ続けるつもりなのか。歴史は国の大事である。大東亜戦争然り、明治開国以来の様々な歴史を再検証し、日本再建の一歩とすせよ!
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
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「ソ連軍は大量の戦車を含む大兵力を動員してハルハ河を越えて侵入し、ここで大激戦が展開されることとなった。8月20日には、ソ連軍は10万近い軍を動員し、2万人弱の日本軍に対し総攻撃を仕掛け、日本軍は大打撃を被った」
これが日本人の信じるノモンハン事件概要である。歴史探偵を自任する半藤一利や司馬遼太郎もそうだし、五味川純平なんぞはその最たるもの。何しろソ連の公式発表した日本軍の損害は52000人、ソ連軍9284人との数字を真に受けている。
昭和12年に始まった「日支事変(支那事変)」から2年後、何故に満州と蒙古の国境ノモンハンで、突如として日本軍とソ連軍との激戦が発生したのだろうか。
実は、この事件が起きる1年程前にソ連は、ソ満国境の張鼓峰で侵入事件を起こしており、この事件で日本軍はソ連側に5500人の大打撃を与えて撃退している。だが、日本軍がソ連領に侵入して来ないことをスターリンは見逃さなかった。
ソ連がナチスドイツに勝利出来たのは、この張鼓峰侵入事件でのスターリンの判断に拠るところが大きい。歴史に「もし」は無いが、あの時、日本軍がソ連に更なる猛攻を仕掛けていれば、ドイツと共にソ連共産党を打ちのめしていただろう。
希代の悪党で戦略家のスターリンは、ヒトラーのソ連攻撃を予測して、東側からの脅威を除く為に日本と中華民国とを戦争に引き込むことに残力を挙げうことでそれに成功した。第二次世界大戦が共産主義に因る策謀だった証左の一つであろう。
盧溝橋事件や上海事件では策謀に成功したが、予想外に日本軍が強い。そこで日本側がどう出るかを偵察したのが「鼓張峰事件」と「ノモンハン事件」だった。
ノモンハン事件でソ連は、日本との「停戦合意」が成立した翌日の9月17日に、スターリンはポーランド侵攻を命じ、ソ連軍はポーランドに侵入を謀っている。また「ノモンハン事件」は共産主義者に因って悪宣伝に使われたのは周知の通り。
「貧弱な装備で旧式戦法の日本軍が、ソ連の進んだ機会化部隊に完膚無きまで叩きのめされた」と日本軍を貶して自国の軍隊の勇ましさを喧伝するプロパガンダ。悲しい哉、日本人の多くは未だにそうした捏造された歴史を鵜呑みにしている。
ソ連が崩壊し、戦中の情報公開されて判ったことは、ソ連の損害は26000人、日本軍18000人。実はソ連の損害は日本側を大きく上回っており、然も日本軍は、ソ連の戦車・装甲車800両と航空機1673機を撃退しているという歴史的事実である。
「10万近い大兵力を動員した側は損害は少なかった」と教わったが、結果はその逆だったのだ。ということは、如何に日本軍が強かったかということの証しでもある。 抑々、歴史というものは為政者に都合の好い様に創られるものでもある。
同じく「日中戦争は日本の侵略戦争だ」との認識が蔓延しているが、これは明らかな誤謬であり、無知に加えて戦後民主主義教育に因る自虐史観に因るものだ。盧溝橋事件は、中国共産党が起こしたことは今や100%明らかな歴史的事実である。
「日中戦争は日本の侵略だった」などという中国共産党や第五列の共産主義者どものプロパガンダをいつまで信じ続けるつもりなのか。歴史は国の大事である。大東亜戦争然り、明治開国以来の様々な歴史を再検証し、日本再建の一歩とすせよ!
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
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