日清・日露戦争と大東亜戦争の大義であった人種平等の原則を忘れること勿れ第三次世界大戦においては極東がその戦場となる(東条英機の遺書より)

2021年12月22日

死刑の是非を多数決で無理やり決議するのは個人の思想弾圧だ(南出喜久治)

 平成16年に兵庫県加古川市で親族など7人を殺害した藤城康孝死刑囚と、群馬県内のパチンコ店従業員2人を殺害し現金を奪った強盗殺人と窃盗などの罪で死刑が確定していた高根沢智明死刑囚、小野川光紀死刑囚ら3人の死刑が執行された。

 3人の死刑が執行されたことを受けて、死刑制度に反対するいつもの人権団体「アムネスティ・インターナショナル日本」や日弁連などが抗議の声を上げた。アムネスティ・インターナショナルは単なる左翼組織というのが正しく、日弁連も同列。

「死刑制度の廃止を目指す」とした日本弁護士連合会(日弁連)の宣言が会の目的を逸脱しているとして、以前、京都弁護士会の南出喜久治弁護士が、日弁連などを相手に宣言の無効確認を求め、京都地裁に提訴したことが記憶に新しい。

 南出弁護士は「日弁連は政治や思想に関して中立であるべきで、目的外の行為だ」と訴えているのに対して、日弁連は「死刑制度は政治的な問題ではなく、国家による最大の人権侵害。決議や宣言は、基本的人権の擁護などを掲げる会の目的から逸脱していない」という認識を示しているが、詭弁以外の何ものでもない。

「人権侵害」を掲げる団体の胡散臭さは日弁連を筆頭に左翼団体の専売特許。日本学術会議が奇しくも日本共産党機関紙「赤旗」でその正体がバレることとなったが、共産党の第五列でもある日弁連の実態と売国性を国民に曝すべきだろう。

 刑事訴訟法では「死刑確定から6ヵ月以内の執行」を定めており、何れも場合も6ヶ月以内に検察庁が法務大臣に「死刑執行上申書」を提出し規定通り押印し、「法相の命令から5日以内に執行されなければならない」と定められている。だが、規定通りに執行されず、死刑囚もまた再審請求などで姑息に生き永らえている。

 我が国の死刑制度は「仇討ち禁止令」や「決闘禁止」に代わるものとして成立したものでもある。国民の間で死刑に対する理解が多いのは「国が被害者に替わって恨みを晴らしてくれる」という期待感からで、殺された側の気持ちを汲めば死刑は当然の結露だろう。殺された者より、殺した側の人権とは本末転倒である。

 明治6年2月、司法卿であった江藤新平が「復讐禁止令(仇討ち禁止令。太政官布告第37号)」を発令した。幕末から維新期の派閥、政論の対立による暗殺とその報復という面があったところから、この種の紛争を断ち切る為のが目的だった。明治22年には「決闘罪ニ関スル法令」も発布され、敵討ちや復讐は禁じられた。

 主君や親兄弟などを殺した者を討ち取って恨みを晴らすことは、日本人の美意識の顕れともいえる。江戸時代には武士階級の慣習として公認され「敵討ち」と認められれば罪に問われなかったばかりか、それは美化され大衆の支持を得た。

 死刑廃止論者は、「国際人権基準」がどうのだとか「非人道的」だとか「生きる権利の侵害」「死刑囚の資料を精査する十分な時間があったとは思えない」とか愚にも付かない意見ばかりで、被害者側に立った意見は殆ど聞くことはない。

 死刑廃止の理由として挙げられる理由は「冤罪の疑い」や「法により国が人を殺す事は罪悪で人道に反する」「死刑には期待する程犯罪防止効果は無い」「人間は善を行うべき道徳的本性を先天的に具有しているのだ」など様々だ。

「冤罪」というのは、袴田事件などを見るまでもなく確かに有り得なくはないが、それは警察捜査の傲慢さと科学捜査の正確さが乏しい時代のものが殆どで、そういう疑いのある事件は再審対象にすれば好いだけの話しだろう。

「人道に反する」とは、「人を裁けるのは神のみだ」というキリスト教的欧州思考に冒されているもので、そんなものに与する方が大きな間違い。「死刑廃止は今や世界の大勢で日本もそうすべき」という意見は単なる外人コンプレックスに過ぎない。

 左翼人士や日弁連を仕切る人権派弁護士などにこうした主張をする人を見かけるが、日頃、反米を唱えながら、また共産主義者であり無神論者でありながら、都合の好い部分は米国でもキリスト教でも利用しようというのはホント逞しい(苦笑)

 残虐な犯行をした者が、死刑廃止で国法により生命を保証されるというのも如何なものか。況してや今どきの再審請求を利用して執行停止を謀るなど姑息過ぎる。「生」に拘るより、「死」を以て償うべきだと思うのは愚生だけではあるまい。

 抑抑、前述した通り、我が国の死刑制度は被害者遺族に代わり国が仇討ちする意味合いがある。仇討ちを合法化するなら愚生も納得もするが、死刑を廃止し終身刑を導入したところで被害者の感情は薄れることは無いし犯罪が減るとも思えない。

「社会は肉体の安全を保障するが魂の安全は保証しない」と言ったのは三島由紀夫。正しく人として大事にしなければならないものは肉体より魂や精神性である。

 死生観の違いといえばそれまでだが、残虐な犯行をした者が、死刑廃止で生命を保証され、のうのうと生きてるという事実こそ不正義と不条理の最たるものだ。

「死刑」は、日弁連幹部が言う様な「国家による最大の人権侵害」ではない。他人を犠牲にした犯罪への相当の審判であり、無駄に生き長らえて来た人生にピリオドを打つ為の優しさでもあり、正しく死刑制度とは鬼畜の死刑囚への大慈悲なのである。

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