降伏文書調印という屈辱の日でもある9月2日を忘れるな!「敬称・敬語不使用運動」は反天皇勢力に拠る反天皇運動の一環

2020年09月04日

西軍に因る東軍への仕打ちと明治新政府に因る不条理を糺せ

 岐阜県郡上藩の「凌霜隊」を知っている人は少ない。錦の御旗を掲げる西軍から「賊軍」とされた会津藩と共に義に殉じた藩と言えば三重の桑名藩と越後の長岡藩が有名だが、岐阜の郡上藩の有志で結成された「凌霜隊」もその一つ。

 戊辰戦争が起きる1年程前、郡上藩主・青山幸宜は幕府から徳川慶喜の警護を命じられる。藩主は代わりに筆頭家老を江戸に差し向ける。その翌年、戊辰の役の前触れとなる「鳥羽・伏見の変(戦い)」が勃発する。

 この戦いで幕府軍が敗れると地元では西軍への恭順を示す。だが、江戸にいた不満を抱える藩士らは東軍支援に向けて藩士有志らで「凌霜隊」を結成する。

「凌霜(りょうそう)」とは「霜を凌ぎ、花を咲かせる野菊の様な不撓不屈の精神」という意味で、藩主の家紋である「葉菊紋」に由来する。

 隊長は朝比奈茂吉。江戸家老の長男で弱冠17歳。慶応4(1868)年4月、朝比奈らは江戸を出立し、千葉県行徳、栃木県宇都宮を経て会津藩の領地に入る。

 会津下郷での「大内宿の戦い」、会津美里の「関山の戦い」を経て会津城内西出丸の守備に就き、会津藩が上洛した9月21日翌日まで抗戦したという。

 会津武士道の昇華を白虎隊に例えるのなら、二本松少年隊も二本松武士道の昇華そのものだ。 凌霜隊も同じ。藩と己の名誉を守る為に堂々と戦い、そして潔く散った。純真無垢な殉国精神溢れる彼らの生き様に学ぶものは多い。

 この凌霜隊の武勲を顕彰した碑が会津若松市内の飯盛山に建つ。白虎隊の墓には線香の煙は絶えることはないが「郡上藩・凌霜隊之碑」碑に足を止める人は疎ら。そんなこともあり、飯盛山への参詣の際には碑の前で感謝の誠を捧げている。

 岐阜というと西軍の大垣藩しか知らなかったが、こうした東軍に加担し義を重んじ殉じた藩がいたことに感服。因みに、東京都港区青山という地名があるが、これは郡上藩主の江戸屋敷が在ったことから藩主の姓「青山」が付けられた。

 今から遡ること約150年前「鳥羽・伏見の変」に始まった戊辰の役(戊辰戦争)と呼ばれる国内戦争は、その後、徐々に激化を極めて行く。

 慶応4年8月21日(旧暦)、母成峠が戦場となり、東軍と西軍との間で烈しい攻防戦を繰り広げた。白河口の戦いを制し、二本松領を占領した新政府軍内では、次の攻撃目標に関して意見が分かれたという。

 大村益次郎は仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助と伊地知正治は会津への攻撃を主張。板垣・伊地知の意見が通り会津を攻撃することとなった。

 本宮・玉ノ井村(現大玉村)に集結した兵を三分し、谷干城(土佐)率いる約1000名は勝岩(猿岩)口へ。板垣退助・伊地知正治率いる約1300名は石筵本道口へ。川村純義(薩摩)率いる約300名は山葵沢より達沢口へ一斉に進発した。

 これを迎え撃つ東軍の兵は僅か800名。勝岩口の勝岩上には大鳥圭介率いる伝習第二大隊及び二本松藩の約300名が守備に当り、勝岩下には新選組ら凡そ70名が配置し、土方歳三と山口次郎(斎藤一)がこれを指揮した。

 石筵本道口の第一台場(萩岡)、第二台場(中軍山)、第三台場(母成峠)には、会津藩主将の田中源之進と二本松藩家老の丹羽丹波と伝習第一大隊長の秋月登之助らの指揮する約400余りの兵が守備に当った。

 戦いは、萩岡の号砲を合図に、勝岩口と本道口に分かれ、午前9時頃からの始まった戦いは約7時間に及ぶ。だが、圧倒的な兵力と火力の差は如何ともし難く、東軍は北方高森方面や西方猪苗代方面に敗退する。

 西軍は十六橋を突破し、戸ノ口原を経て、怒涛の様に会津鶴ヶ城に殺到した。母成峠の戦いでの東軍戦死者88名、西軍戦死者25名。母成峠には、会津藩が構築した防塁、塹壕、砲台跡が今も整然と残っている。

 近くには東軍殉難者の慰霊碑が建っている。この地で東軍の夥しい死体が発見されたのは近年であり、如何に薩長中心の西軍共らが非情だったかが窺える。

 8月23日、母成峠から会津領内に攻め込んだ西軍は会津藩との熾烈な戦いに及ぶ。 西軍が会津城内に攻め入ると、上席家老・西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃した。

 徳川幕府への恨みの象徴でもあった会津藩が9月21日に終に降伏。この敗戦により西郷頼母・田中玄清・神保内蔵助が切腹し責任を負うところ、当初から西軍への恭順を示していた西郷は行方知れず。長男らと共に敵前逃亡していた。

 神保と田中は城下での戦闘に於いて既に自刃していた為に、次席の萱野長修が戦争責任を一身に負って切腹している。それでも西軍は満足することなく、戦いは東北地方を北上し函館にまで及ぶこととなった。

 戦いは年を超えるも翌年3月、函館五稜郭で奮闘していた榎本武揚軍が終に降伏し、日本人同士で戦った戊辰の役が事実上終結し、明治維新の幕を閉じた。

 因みに、遁走した西郷頼母は長男と共に生き残り、維新後、西郷隆盛に「同姓の誼で」と長男の職などを嘆願してるが、上席家老としての誇りは無かったのか。死を以て武士の本分を示した白虎隊の行動と照らしてみても恥ずべきことだ。

 会津藩士の中で西郷頼母の生き様に倣うものは無い。只管「講和」を主張し官軍と一戦も交えず開城した勝海舟然り、 維新後、立身出世を目指した榎本武揚然り、両名共に侍として野に下ることこそ取るべき道だったのではなかろうか。

「負けは必定なれど三春に倣うべからず」と義に殉じた我が二本松藩士や、「侍の時代は終わる」と知りながらも家老としての宿命を諒とした河井継之助ら長岡藩士や桑名藩、そして凌霜隊の隊士らこそ日本武士道の鏡であろう。

 靖國神社と鎮霊社に見られる死者の選別に象徴されている様に、「賊軍」の汚名は150年経った今も雪がれることは無い。こうした不条理は、錦の御旗を掲げ「官軍」を騙り、尊皇攘夷とは名ばかりの長州閥中心の新政府の専制政治が元凶である。

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cordial8317 at 06:08│Comments(0)

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