2020年09月02日
降伏文書調印という屈辱の日でもある9月2日を忘れるな!
昭和20(1945)年8月14日、我が国はポツダム宣言を受諾。そして9月2日、降伏文書に調印した。米国を始めとした連合国ではこの翌日の9月3日を「対日戦争終結記念日」や「第二次世界大戦(太平洋戦争)終戦の日」として祝っている。
9月2日、東京湾上に停泊してた戦艦ミズーリの甲板上での調印の為に、梅津美次郎参謀総長らと共に、右足が不自由な重光葵外相は義足を引き摺りながらステッキを頼りに細い階段を喘ぎ喘ぎ上る。
重光外相の右足は「上海天長節爆弾事件」により失った。漸く甲板に辿り着いた重光外相は、調印を前に一杯の水を所望するも「卑怯者のジャップに飲ませてやる水などない」と冷たく拒否される。
「上海天長節爆弾事件」とは昭和7年4月29日に起きた爆弾テロ。重光は上海に於いて駐中華民国公使として天長節奉祝式典に参列。
国歌を斉唱する正にその時、朝鮮独立運動家である尹奉吉が爆弾を投擲した。重光らはその場から逃げることなく、国歌「君が代」を歌い続け、結果として片足を失うこととなった。
重光はこの時を振り返り「爆弾が投げられたのは分かっていたけれど、国歌斉唱中なので動かなかった。動くのは不敬であると考えた」と述べている。
重光の隣で遭難し片目を失った海軍大将・野村吉三郎(後に駐米大使に就任)も「国歌斉唱中だったから逃げなかった」との理由を語っている。
野村や重光はその後に外相や駐米大使となるが、現在の政治家でこの二人の様なこうした決死の覚悟と肝の据わった官僚や政治家がいるかといえば皆無。こうしたことが我が国政治の不幸とも言えよう。
「君が代」「日の丸」に反対する勢力は国旗国歌を重んじることなく、自称・保守派や右翼人にしても国旗国歌を軽々しく利用するが、重光や野村の様な決死の覚悟が伴っているかといえば疑問でもある。
昭和20年9月2日、降伏文書の署名に因って我が国は「負け」を認めたが、先の戦争の大義は決して間違いではない。
抑抑、何故に我が国が開戦を決意し真珠湾攻撃に至ったかが問題であり、少なくてもペリー来航時代のアジア近代史にまで遡らなければ到底理解は出来まい。
我が国は西欧列強に倣い、強力な中央集権国家を形成する為に明治維新の大業を短期間で成し遂げた。15世紀の大航海時代以来、白人による世界制覇の波がアジアにも押し寄せ、アジアは次々と列強に蚕食され植民地となった。
その間に勃発した「日清戦争」と「日露戦争」、そしてその後の「日韓併合」も避けては通れない宿命的な歴史だったのだ。
「日清・日露戦争」での日本大勝利の報は、固唾を呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させ、特に有色人種に与えた影響は強烈だった。一方で、欧米では日本人に対する脅威が横溢し「黄禍論」が巻き起こってくる。
日露戦争勝利から15年後、パリ講和会議で日本は「人種平等の原則」を国際連盟規約に載せることを提案するも、議長を務める米国大統領ウイルソンは「有色人種に人権など必要無い」との差別や蔑視から否決される。
その後、世界は第二次世界大戦に突入し、我が国はABCD包囲網に因って四面楚歌に陥り、最後通牒である「ハルノート」を突き付けられると「最早生き残る道は連合国との戦争しかない」との決断に至るのだ。
今も糾弾して止まない「リメンバーパールハーバー」は、日本人への偏見と差別と歴史への冒涜であり、対日戦勝利を祝ってる場合ではなかろう。先の大戦の過ちを猛省すべきは米国自身である。
※コメントは会員のみにさせて頂いておりますが、コメント入力希望の方はパスワードを教えますのでmr.cordial@live.jpへ御気軽にメールを寄せられたい。
《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ
9月2日、東京湾上に停泊してた戦艦ミズーリの甲板上での調印の為に、梅津美次郎参謀総長らと共に、右足が不自由な重光葵外相は義足を引き摺りながらステッキを頼りに細い階段を喘ぎ喘ぎ上る。
重光外相の右足は「上海天長節爆弾事件」により失った。漸く甲板に辿り着いた重光外相は、調印を前に一杯の水を所望するも「卑怯者のジャップに飲ませてやる水などない」と冷たく拒否される。
「上海天長節爆弾事件」とは昭和7年4月29日に起きた爆弾テロ。重光は上海に於いて駐中華民国公使として天長節奉祝式典に参列。
国歌を斉唱する正にその時、朝鮮独立運動家である尹奉吉が爆弾を投擲した。重光らはその場から逃げることなく、国歌「君が代」を歌い続け、結果として片足を失うこととなった。
重光はこの時を振り返り「爆弾が投げられたのは分かっていたけれど、国歌斉唱中なので動かなかった。動くのは不敬であると考えた」と述べている。
重光の隣で遭難し片目を失った海軍大将・野村吉三郎(後に駐米大使に就任)も「国歌斉唱中だったから逃げなかった」との理由を語っている。
野村や重光はその後に外相や駐米大使となるが、現在の政治家でこの二人の様なこうした決死の覚悟と肝の据わった官僚や政治家がいるかといえば皆無。こうしたことが我が国政治の不幸とも言えよう。
「君が代」「日の丸」に反対する勢力は国旗国歌を重んじることなく、自称・保守派や右翼人にしても国旗国歌を軽々しく利用するが、重光や野村の様な決死の覚悟が伴っているかといえば疑問でもある。
昭和20年9月2日、降伏文書の署名に因って我が国は「負け」を認めたが、先の戦争の大義は決して間違いではない。
抑抑、何故に我が国が開戦を決意し真珠湾攻撃に至ったかが問題であり、少なくてもペリー来航時代のアジア近代史にまで遡らなければ到底理解は出来まい。
我が国は西欧列強に倣い、強力な中央集権国家を形成する為に明治維新の大業を短期間で成し遂げた。15世紀の大航海時代以来、白人による世界制覇の波がアジアにも押し寄せ、アジアは次々と列強に蚕食され植民地となった。
その間に勃発した「日清戦争」と「日露戦争」、そしてその後の「日韓併合」も避けては通れない宿命的な歴史だったのだ。
「日清・日露戦争」での日本大勝利の報は、固唾を呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させ、特に有色人種に与えた影響は強烈だった。一方で、欧米では日本人に対する脅威が横溢し「黄禍論」が巻き起こってくる。
日露戦争勝利から15年後、パリ講和会議で日本は「人種平等の原則」を国際連盟規約に載せることを提案するも、議長を務める米国大統領ウイルソンは「有色人種に人権など必要無い」との差別や蔑視から否決される。
その後、世界は第二次世界大戦に突入し、我が国はABCD包囲網に因って四面楚歌に陥り、最後通牒である「ハルノート」を突き付けられると「最早生き残る道は連合国との戦争しかない」との決断に至るのだ。
今も糾弾して止まない「リメンバーパールハーバー」は、日本人への偏見と差別と歴史への冒涜であり、対日戦勝利を祝ってる場合ではなかろう。先の大戦の過ちを猛省すべきは米国自身である。
※コメントは会員のみにさせて頂いておりますが、コメント入力希望の方はパスワードを教えますのでmr.cordial@live.jpへ御気軽にメールを寄せられたい。
《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ
cordial8317 at 05:45│Comments(0)
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。