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2019年10月16日

「体育の日」が来年の東京オリンピックに合わせて「スポーツの日」に名前が変わる

「体育の日」が来年の東京オリンピック2020開会式の7月2日に合わせて「スポーツの日」に名前を変える。その前日の23日は「海の日」を移動させ、木金土日の4連休となる。オリンピック観戦や景気向上に繋げたい考えらしい。

「体育」と「スポーツ」ではその意味と趣旨はビミョーに違う。スポーツは競技であり、楽しんで行う「娯楽」を意味し、体育とは健康の保持や増進と体力の向上を図る為のもの。「体育」は「知育」「徳育」と並ぶ重要な教育でもある。

 体育の日の名称変更の理由を「教育的意味合いの強い『体育』という言葉がそぐわない」とか「スポーツに自己実現や国際社会との窓口を開く役割がある」という。祝日法を都合よく改正しているが本質はそこじゃないだろう(苦笑)

 所謂「ハッピーマンデー」は左翼陣営の策謀であり、その目的は我が国の歴史・伝統・文化の否定であり国體破壊にある。そうした愚策を否定せずに、景気対策や言葉遊びの如くに「スポーツ」などと改称するとは何事か。

 諸外国に比べ、我が国の祝祭日ほど「国柄」の分かる素晴らしい伝統、文化はない。だが、多くの日本人が祝祭日をただの休みとしか考えなくなったのは、政治家の無能や不作為も然ることながら日本人の精神的貧困の顕れでもある。

 外国人が日本人と交流して感じるものは気品であり、洗練された礼儀正しさであり、寛大さである。世界の何処を探しても、日本人の様な洗練された美を追求する高い創造性や質素な上品さに比肩するものは他にはいない。

 この様な我が国の生活文化を支えているものが日本語である。安易な横文字の使用は先人達が長い歳月に亘り言葉に宿らせて来た重い意味を失わせる。

 明治の先覚者は、外来語をそのまま使用することなく咀嚼して全て新漢字に翻訳した。日本語で西洋文化を学ぶことが出来たことは実に偉大なことだ。

「スポーツの日」という現代の軽佻浮華な舶来趣向と比べれば、明治人の気骨と気概や高い見識を伺い知ることが出来る。祖国の言葉である日本語に自信を持ち、何処までも日本語で主張し、日本文化を貫いたからこそ発展が得られたのだ。

 戦後の利己心剥き出しの価値観は欧米を模倣したからだ。我が国を経済大国にしたのは戦前に教育を受けた人々であり、それを潰してしまったのは戦後教育を受けた世代である。それをしても戦前の教育や価値観が全て悪ではない。

 欧米流の理性や教育に抜け落ちているのは「本能論」。人間と動物の優劣性を強調する余り、動物にある「本能」を下等なものとして否定しまった。

 仏教でも儒教でも「本能」が「理性」を創るのに重要な役目を果たしていると説いている。これらを考えるに、教育で一番大事なのは「徳育」である。徳育は忠君愛国ばかりではなく「人間性」を確立することに在る。

 そこで我が国の教育を再生するには「正しい精神論」を創ることが必要となる。正しい精神論は正しい肉体を創るのが大事で、そこに「体育」が必要となる。

「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という。スポーツという娯楽から健全なる肉体と精神は生まれない。「知育」「徳育」「体育」こそ教育の要である。

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cordial8317 at 06:35│Comments(0)

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