高市早苗に期待する故に憲法改正論と靖國神社参拝に物申す!夫婦別姓推進派の野田聖子の夫が何故か「野田」姓を名乗る不思議(笑)

2021年09月24日

西郷隆盛は政府軍との戦争を起こそうとは考えていなかったというが

 旧暦の1868年(明治元年)年9月22日は会津戦争が終結した日である。その10年後の明治10年9月24日は西郷隆盛が西南戦争で敗れて亡くなっている。会津が滅びた同じ時節に亡くなったのというのは会津の怨念と言えるものかも知れない。

 西郷隆盛の名前は本来は「隆永」という。隆盛というのは父親の諱(いみな)。西郷は幼少の頃には「小吉」と称し、元服すると「吉之介」となる。その後は「善兵衛」「吉兵衛」「三助(菊池源吾)」と変遷し、大島三右衛門、大島吉之助、西郷吉之助と名乗る。「菊池」や「大島」と名乗ったのは島流し時代である。

 何故に「隆永」ではなく「隆盛」になってしまったのか。明治2年、戊辰戦争の奥羽戦線から帰京させる際に、宮内庁から御召状が出されることになった。御召状は通称ではなく、諱で記さねばならず、そこで西郷の知人である吉井友実に尋ねたところ、「確か、隆盛じゃった」と答えた、それ以後「隆盛」と称されることとなった。

 帰京した西郷は、吉井に会うなり「あれ(隆盛)は父の名でごわんか。わしの名は隆永じゃと、おはんも知っちょるじゃろう」と詰ったという。吉井は頭を掻きながら、「ほんにそうじゃった」と詫び、二人は顔を合わせて大笑いしたという。

 その後、西郷は本名の「隆永」と訂正もせず「隆盛」という名を否定もしなかった。こうしたことは吉井への気遣いと、西郷自身の大らかさを示す逸話であろう。

 西郷には写真が一枚も残されていない。東京上野の西郷隆盛像というのは、実弟の西郷従道と従弟の大山巌を合わせて創った想像の人物であるというのは有名だ。

 糸子夫人は、西郷を「俳優のような好い男だった」とのろけていたと言っている。実際の西郷は、眉太く、黒目がちの美しい目をした色白の美男子だったというのが真相だろう。完成した上野の銅像を見た糸子夫人の落胆は想像するに余りある。

 明治維新後、明治政府から参議兼陸軍大将を任じられた様に維新の立役者であった隆盛が、その後一転して逆賊の汚名を背負うこととなったのは何故だったか。

 西南戦争が起こる4年前、西郷らが主張した「征韓論」を大久保利通や新政府の長州閥に因って却下される。加えてその後に士族の帯刀や俸禄を廃止する「金禄公債証書条例」が制定されると、士族らから明治政府への不満が噴出して行った。

「征韓論」を却下された西郷は鹿児島に帰郷。明治政府に不満を持つ士族らは、西郷を神輿として祭り上げる。「佐賀の乱」「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」など士族の反乱が続く中で、終に西南戦争が勃発し、敗れた西郷は城山で自刃する。

 西郷は「決して政府軍との戦争を起こそうとは考えていなかった」というが、西郷が主宰する私学校生徒を統制出来なかったのは、西郷自身の優柔不断さが大きい。結果的に若者らの不満を抑えきれなかったのは西郷の不徳の至りだと思う。

 二度の遠島処分、自殺未遂、三人の女性との結婚、波瀾と華やかさが相交じる生涯の裏では常に死の影が付き纏っていた。西郷は「いつ死んだって好い」という処生観を持ち、人生を開き直って生きている様なところがあったという。

 私利私欲や保身とは無縁で、清濁併せ呑む器用さもなく、その大人格故に多くの信望を集めた。また自分の死に際でさえ実に潔い人物だったのは確かだろう。

 一方で意外な面も覗かせる。桜田門外の変での水戸藩士との起請の反故という狡猾さを備え、慶喜公や会津藩への徹底糾弾に見られる怨念の執拗さも垣間見れる。

「南洲翁遺訓」などを読めば、西郷の指導者としての度量の深さと無上の高潔さを感じ取れるが、果たして真実なのだろうか。歴史的偉人の言葉というのはその多くが自戒であり、西郷が好んだ「敬天愛人」の思想もまた自戒の生き様の裏返しだろう。

 斯くいう愚生も、その昔は西郷隆盛という男に疑いもなく傾倒していたのは事実だ。然し乍ら、根が捻くれ者なので西郷の論評は最近は穿った見方をしている。

 慶喜公の恭順と江戸城の無血開城に満足せず、代わりに会津を攻め落とすことに執心した西郷を見ると、巷間言われてる様な傑物では無かった様に思えてならない。

 西郷隆盛を評する書籍は多くあるが、その全てが西郷を持ち上げてるものばかり。そんな傑物が何故に会津を目の敵にしたのだろう。キリスト教思想家である内村鑑三は著書「代表的日本人」の中で西郷についてこう述べている箇所がある。

「西郷ほど生活上の欲望が無かった人は他にいなかったように思えます。月収が数百万円であった頃、必要とする分は十五円で足り、残りは困っている友人に分け与えられました。普段着は薩摩絣で木綿帯、履き物は下駄で過ごした」

 西郷の質素な生活ぶりを窺い知ることが出来るが、新政権樹立後、参議とはいえ何の役にも就かない者が月々数百万円の収入があったというのは驚く他はない。

 その生活費の出所は何処なのか。江戸城の無血開城を以て新たな日本国を建国すべきなのに何故に北上したのか。西郷の資金は東軍征伐の過程で各藩に恭順させる証しとして上納させ、また大店から強奪し蓄えてた金だったのではあるまいか。

 明治新政府の歴歴は西郷と同じく高給だったのか。そう考えれば明治維新とは「尊皇」を騙った一部の特権階級が謀った利権独占が目的だった気がしてならない。

 歴史に「もし」は無いが、「もし」勝海舟が西郷隆盛との会談で江戸城の無血開城と大政奉還を以て諒としてたらその後の我が国の歴史も変わっていただろう。故に、その後に北上し会津征伐や函館戦争に大義があったとはとても思えないのだ。

 長岡藩家老河井継之助との新潟小千谷の慈眼寺での会談も然り。継之助は、長岡藩の中立を保ち和平交渉を進める為に、山縣狂介(有朋)か黒田清隆ら重鎮との会談を希望するも、立ち会ったのは若輩の軍監の肩書を持つ岩村精一郎だった。

 この小地谷会談の決裂は西軍の大きな失態だったと思う。東軍を見下したのは西郷や山縣や黒田らの武士道精神の欠落であり、維新の大義を喪失してしまった感は拭えない。小地谷会談が成功裏に終わってればその後の歴史は変わっていただろう。

「もし」小地谷で、河井と山縣や黒田、或いは西郷との直接会談が実現していれば「北越戦争」を避けられただろうし「会津戦争」も避けられたのではあるまいか。戊辰戦争で薩長連合の私欲を優先したが、その後は西南戦争で見事に裏切られた。

 歴史というのは正義が常に正義ではなく、正義が敗れることもある。「勝てば官軍」と勝利に酔った西郷だったが、故郷鹿児島での無念の自裁は会津藩や東軍と同じく「逆賊」に堕ちた瞬間でもあった。歴史とは実に異なものである。

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