戊辰の役後の明治新政府を称える歴史が徐々に暴かれつつある「はだしのゲン」には放送禁止用語や差別表現が満載

2023年09月25日

人類が目指すべきは「差別もある明るい社会」である(笑)

 杉田水脈が2016年、自身のブログで「チマ・チョゴリやアイヌの民族衣装のコスプレおばさんまで登場。同じ空気を吸っているだけでも気分が悪くなる」と投稿。

 この投稿を札幌法務局が「人権侵犯」だと認定し、人権を尊重する様に啓発を行ったことが明らかになったことで左翼勢力や左翼マスコミが杉田を総バッシング。

 2016年は杉田は落選中で国会議員ではない。私的な意見をブログに綴ることが何故に批判されるのか。アイヌのことを持ち出したことでアイヌ利権を謀る連中の逆鱗に触れたのだろう。だが、杉田の「コスプレおばさん」発言は間違ってはいない。

 杉田の過去の投稿に関し札幌法務局が人権侵犯を認定したことについて、小泉龍司法相は「アイヌの方々に対する差別は絶対あってはならない」と述べてたが、アイヌは絶対に批判してはならない存在なのか。アイヌの歴史は実に胡散臭い。

 小泉というと、平沼赳夫や城内実と共に郵政民営化法案に反対し自民党を離党した経験のある気骨ある政治家だと思っていたが、旧態依然の政治家に成り下がる。

 平沼が生きていたら杉田発言を擁護していただろう。何故なら杉田の発言はアイヌを利用してる連中への苦言であって、杉田への批判こそ逆差別であるからだ。 

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 我が国の歴史の中、アイヌは論外だが「差別」があったことは事実である。社会科の授業では「士農工商」という身分制度は習うが、「人間以下の存在」とされ差別された「穢多(えた)」「非人(ひにん)」の階級のことは教わることはない。

 その理由はアイヌと同じ「差別はいけない」という単純なものだが、そうした存在を黙(もだ)し、歴史から消してしまうことが果たして好いことなのだろうか。

 歴史にそういう負の時代が存在していたのであれば、その是非はどうあれ、その歴史的事実を教えなければ「差別」の意味さえも理解することは出来ないだろう。

「穢多」「非人」とは、江戸時代の幕藩体制下で所謂「士農工商」の更に下の下位層に位置付けられた人々のことで「賤民(せんみん)」とも呼ばれる階級である。

 大辞林には「皮革の製造、死んだ牛馬の処理、罪人の処刑・見張りなど末端の警察業務に従事させられ、城下外れの特定の地域に共住させられた」との説明がある。

 明治以降は、穢多非人の称が廃止されたが、この下位層は「新平民」と呼ばれ、現代では「同和」や「部落解放同盟」などが存在し、不当な差別を訴えている。

 江戸時代、同心を手伝った岡っ引きや十手持ち、罪人の世話や処刑、牛馬処理などを担ったという。明治以降にも屠殺に関わり、精肉店や革製品製造などに従事してる人に多いと言われ、歌舞伎や芸能なども非人の起源と言われている。

 清掃業や建築業、獣医や葬儀などの職にも従事したという。現代ではそうした過去に忌み嫌われた職業も勝ち組となり、その利益もかなりなものだ。やっぱり、商売というのは人がやらないことをやるのが儲かる近道であり秘訣だと痛感する(笑)

 愚生の敬愛する、現代の思想家であり、評論家である新崎智こと呉智英(くれ ともふさ、ご・ちえい)は、差別問題について逆説的にこう述べている。

「差別は正しい、差別と闘うのが正しいのと同じぐらい正しい。人類が目指すべきは『差別もある明るい社会』である。差別さえない暗黒社会にしてはならない」。哲学的ではあるが、「差別もある明るい社会」とは実に示唆に富んでいる。

「差別表現」で思い出されるのは、現地取材も無しに怪しげな関係者の風聞を基に書き上げた、沖縄戦での集団自決を扱ったフィクション本「沖縄ノート(岩波書店)」だ。文中には「25年ぶりの屠殺者と生き残りの再会」との表現がある。

 岩波書店が昭和62(1987)年に発刊した「報道写真家」というのがある。この中で「戦場という異常な状況下では牛や豚などの家畜の虐殺と同じになる」という記述が問題にされ、部落解放同盟の抗議もあって直ぐに回収処分となっている。

 岩波書店は同じ差別表記の「沖縄ノート」も絶版にすべきだが、何故かマスコミからも部落解放同盟からも糾弾もされず、それどころかアホな裁判官がこのインチキ本を「沖縄集団自決軍命令」の証拠として採用し、摩訶不思議な判決を出した。

 大江の差別表記に、愚生は岩波書店に連絡し「部落解放同盟からの抗議や絶版の申請は無かったか」と聞いたが、担当者は「ありません」と憮然と答えた。大江健三郎のみが赦され、神格化される理由は果たして何なのか。

 過去に部落解放同盟が出した「神格化したものの考え方を一掃したい」という声明はウソ。要は、差別という権力が忌み嫌う言葉を都合好く利用しての反日工作というのが正しく、部落解放こそ相手に拠ってコロコロ変わる差別主義者である。

 幼稚な倫理観やキレイゴトで、何でもかんでも「差別はいけない」と規制されてしまうのは逆差別の様にも感じてしまう。そうした風潮が、同和や部落解放同盟の差別ビジネスやアイヌ利権に繋がっていると言っても過言ではない。

 保守派や自称愛国者の中では日本人の倫理観の低下を憂い教育勅語を指導原理とする道徳教育を推進し、戦前の「修身」を復活するべしという声も聞く。

 だがどうだろう。修身には、例えば「おたけがめくらのてをひいて」という頁があり、幼少のおたけが障碍者の手を引いて助ける絵が描かれてある。障碍者への労りや優しさを教えているのだが、「めくら」は現代では差別用語だからダメだわな。

 昔の日本映画や古典落語などには、盲(めくら)、唖(おし)、吃(ども)り、跛(びっこ)、聾(つんぼ)などの放送禁止用語がバンバン飛び交っているから聞いててもリアルで、使われている日本語そのものが実に興味深いものばかり。

 そこには懐かしくも美しい日本語が処処に溢れていて、こうしたことを気にし乍ら、観たり聴いたりすることこそ「生きた耳学問」であり、実践した教育でもある。また、そうした語彙を知らないと意味不明で愉しさも半減してしまう。

 悲しい哉、現代に於いては差別用語は厳禁。更には、男女共同参画社会が主流の現代では差別用語どころか変な日本語や左翼造語が彼方此方に氾濫している。

 日本語教育や自国の歴史教育は国家の大本でもある。歴史を学ぶ上で、戦国時代や武将や偉人の生き様を学ぶのも好いが、江戸時代から明治にかけて旺んだった穢多非人の賤民史観の負の歴史にこそ現代日本の潮流が存在している様に思う。

 米国が謀った戦後民主主義教育や長州閥の明治新政府の不条理を検証することも大事だが、賤民史観の歴史を隠蔽せず、公平公正に教えることで差別を理解する。

 日本が見倣うべきは「差別もある明るい社会」であり、「アイヌ差別はイケない」とか、批判されれば「ヘイト」として片付けてしまう風潮こそ危険なことだ。

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cordial8317 at 04:48│Comments(0)

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