「穢多(えた)」「非人(ひにん)」とは江戸時代の幕藩体制で「士農工商」の最下位層に位置付けられた人々明治人の気概に倣い祖国日本の独立と再建を果たさなければならない

2019年05月25日

「差別は正しい」賤民史観の歴史にこそ現代日本の潮流が存在している

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 歴史の授業で「士農工商」という身分制度は習うが、その下の人間以下の存在とされた「穢多(えた)非人(ひにん)」のことは教わることはない。

 その理由は「差別はいけない」という単純なものだが、そうした存在を黙(もだ)し、歴史から消してしまうことが果たして好いことだろうか。

 歴史にそういう負の時代が存在していたのであれば、その成否はどうあれその事実を教えなければ「差別」の意味さえも理解することは出来ない。

「穢多非人」とは、江戸時代の幕藩体制で「士農工商」の下の最下位層に位置付けられた人々で「賤民(せんみん)」とも呼ばれる。

 大辞林には「皮革の製造、死んだ牛馬の処理、罪人の処刑・見張りなど末端の警察業務に従事させられ、城下外れの特定の地域に共住させられた」とある。

 明治以降は、穢多非人の称が廃止されたが「新平民」と呼ばれ「同和」や「部落解放同盟」などが現代に存在する不当な差別を訴えている。

 江戸時代、同心を手伝った岡っ引きや十手持ち、罪人の世話や処刑、牛馬処理などを担ったという。明治以降にも屠殺に関わり、精肉店や革製品製造などに従事してる人に多いと言われ、歌舞伎や芸能なども非人の起源と言われている。

 清掃業や建築業、獣医や葬儀などの職にも従事したという。現代ではそうした過去に忌み嫌われた職業も勝ち組となり、その利益もかなりなものだ。やっぱり、商売というのは人がやらないことをやるのが儲かる近道であり秘訣だな(笑)

 愚生の敬愛する、現代の思想家で評論家の新崎智こと呉智英(くれ ともふさ、ご・ちえい)は、差別を逆説的にこう述べている。

「差別は正しい、差別と闘うのが正しいのと同じぐらい正しい。人類が目指すべきは『差別もある明るい社会』である。差別さえない暗黒社会にしてはならない」。哲学的ではあるが「差別もある明るい社会」とは実に示唆に富んでいる。

 幼稚な倫理観やキレイゴトによって、何でもかんでも「差別はいけない」と規制されてるのは逆差別の様にも感じてしまう。そうした風潮が、同和や部落解放同盟の差別ビジネスやアイヌ利権に繋がっていると言っても過言ではない。

 保守派の中では日本人の倫理観の低下を憂い道徳教育を推進し、また戦前の「修身」を復活するべしという声も聞く。だがどうだろう。

 修身には、例えば「おたけがめくらのてをひいて」という頁があり、幼少のおたけが障碍者の手を引いて助ける絵が描かれてある。障碍者への労りや優しさを教えている。だが「めくら」は現代では差別用語だからダメ。

 昔の日本映画や古典落語などには、盲(めくら)、唖(おし)、吃(ども)り、跛(びっこ)、聾(つんぼ)などの放送禁止用語がバンバン飛び交ってて実に面白く、使われている日本語そのものが実に興味深いものばかり。

 そこには懐かしくも美しい日本語が処処に溢れていて、こうしたことを気にしながら観たり聴いたりすることこそ生きた耳学問であり実践した教育でもある。また、そうした語彙を知らないと意味不明で愉しさも半減してしまう。

 悲しい哉、現代に於いては差別用語は厳禁。更には、男女共同参画社会が主流の中で差別用語どころか変な日本語や左翼造語が彼方此方に氾濫している。

 日本語教育や歴史教育は国家の大本でもある。歴史を学ぶ上で、戦国時代や武将や偉人の生き様を学ぶのも好いが、江戸時代から明治にかけて旺んだった穢多非人の賤民史観の負の歴史にこそ現代日本の潮流が存在している様に思う。

 米国が謀った戦後民主主義教育や長州閥の明治新政府の不条理を検証することも大事だが、賤民史観の歴史を公平公正に教えることで差別が解消される。

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