ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり米政府の公式文書でなく無効である明治37年2月9日「仁川沖海戦」を以て日露戦争の火蓋が切られた

2019年02月07日

2月7日の「北方領土の日」が領土返還が遠退いてる元凶でもある

 本日2月7日は「北方領土の日」。新聞を見ても米朝会談や厚労省問題ばかりで北方領土問題に関する記事は見当たらない。おざなりな「あなたの関心が解決の後押しに」などという内閣府の政府広報が出てるだけ。

 北方領土は「樺太・千島交換条約(サンクトペテルブルク条約)」及び「日露講和(ポーツマス)条約」の締結により、南樺太と歯舞、色丹、国後、択捉の四島を含む、北は占守(シュムシュ)島から得撫(ウルップ)島の全千島列島が我が国固有の領土となった。

 領土問題では、日本共産党でさえ「全千島の主権」を訴えているが、国会では「四島返還決議」が可決され、更には二島返還で妥協しようとしている。

 これ正に事勿れ主義であり、弱腰軟弱土下座外交そのもの。先人達の外交努力を無視し、全千島と南樺太の主権が我が国に在るにも拘らず四島のみの領有権主張を明記し、見す見す権利を放棄するとは言語道断と言わざるを得ない。

 安政元年(1855年)2月7日、下田で「日露和親条約」が締結され、四島と千島列島の間に境界線が引かれ、樺太を混住の地と決めた。だが、これは日本政府としてではなく、明治維新前の江戸徳川幕府時代である。

 明治維新を成し遂げ新政府を発足させた我が国は、ロシア人と日本人の混住の地であった樺太を明治8年(1875年)5月7日に「樺太・千島交換条約」を交わし、樺太の北側を千島列島と交換したことで、南樺太が日本に帰属した。

 その後、日露戦争に勝利した我が国は日露和親条約を締結し千島列島を我が国領土とした。つまり「北方領土の日」を2月7日というのは単なるこじつけ。江戸幕府を否定して明治維新が成立したのに何故にここで江戸幕府なのか。

 北方領土問題解決には、領土に関する歴史的経緯と事実と領土主権の重要性を国民に分かり易く説明すべきだが、そうした啓蒙運動はしない。

 況してや2月7日を北方領土の日にしたこと自体、政府や国会の領土主権に対する認識不足とやる気の無さの現れである。

 政府は「日露和親条約」を論拠にしているが、日本政府として締結した「樺太・千島交換条約」並びに「ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する」とした「ポーツマス条約」を論拠に領土の主権を主張をすべきだ。

 ロシアは第二次大戦の勝利と「ヤルタ秘密協定」を楯に北方領土の主権を主張しているが、ヤルタ秘密協定こそが国際法的にも意味を成さない協定であり、サンフランシスコ平和条約の千島関連の条項もまた然り。

 ロシアの主張は「カイロ宣言」に明記されている「領土不拡大」という戦後処理の大原則を蹂躙するもので、これを糾し、我が国の領土主権の正当性を内外に主張せずして四島や二島先行返還などと言ってるから足元を見られるのだ。

「北方領土の日」が制定されたのは、昭和56(1981)年のこと。北方領土問題に対する国民の関心と理解を更に深め、全国的な北方領土返還運動の一層の推進を図るという理由で2月7日を「北方領土の日」と制定した。

 昭和56(1981)年といえば国士館大学在学中であり、防共挺身隊の一員として2月7日の「北方領土の日」を粉砕すべく霞ヶ関の式典会場に向かった。

 会場手前から隊列を組み押し入ろうとするも機動隊と揉み合いになった。当時は幟は竹竿で作ってあり、振り回すと機動隊員に当る。数人が機動隊員に連れ去られるも乱闘の末に奪還したことも今では懐かしい想い出だ(笑)

 世界各地で民族争いの中で国境紛争が頻繁に起きている。寸土たりとも主権確立には戦いをしてまで死守しているのが世界の常識でもある。

 我が国も北方領土然り、竹島然り、拉致被害者然り、奪われたものは奪い返すことでしか解決を見ないことを自覚し、領土奪還の気概を持つべし。

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cordial8317 at 08:10│Comments(0)

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ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり米政府の公式文書でなく無効である明治37年2月9日「仁川沖海戦」を以て日露戦争の火蓋が切られた