彼岸会法要は日本独自のもので、天皇の詔して始められた行事だった本日は「反中共デー」。対中外交を改め、台湾との国交を恢復せよ!

2018年09月26日

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困る者なり」と言うが

 一昨日は会津に墓参りに行ったので白虎隊士が眠る飯盛山に詣で様かとして向かうも、白虎隊の慰霊祭と重なり激混みで断念。

 会津藩が降伏したのは明治元年9月22日、その10年後の9月24日、西郷隆盛が西南戦争で敗れ城山で自刃する。歴史とは実に異なものだ。

 会津戦争は西軍が若松城内に侵入してから降伏するまで約1ヶ月を要した。これを思えば無血開城せず江戸城で徹底抗戦していれば、その後の日本の歴史も大きく変わっていたのではないだろうかと思ったりもする。

 勝海舟と西郷隆盛の江戸城での談判と無血開城は侍としての士風を損なったばかりか、会津の悲運を生みこととなった。そういう意味でも勝海舟にしろ西郷隆盛にしろ言われてる様な傑物では無かった様に思えてならない。

 ロマン派を気取り、西郷隆盛を愛し「敬天愛人」を掲げ自己陶酔型の右翼や自称・愛国者らが好きな言葉にこんなセリフがある。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困る者なり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」

「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」

「西郷南洲翁遺訓」第三十条や山岡鉄舟語録からの引用。自分が然も幕末の志士になったかの如くこの言葉に陶酔する。だが「国家の大業」や「天下の偉業」は政治家がやることで右翼がやることでもない(笑)

「命もいらず」というが終身保険に入って積み立てていたり、高目ばかりを夢見て「有名になりたい」「カネを儲けたい」という右翼人ばかりなのに(笑)

 また右翼でもないのに右翼の有名な人と知り合いになっただけで然も自分も右翼になったと勘違いしてる輩が多く、とても「艱難を共にする」奇特な人物などいやしないし、艱難などに遭遇してもきっと避けるに違いない(笑)

 第三十条は、この台詞の後に「然れども斯くの如き人は、凡俗の眼には見るべからず」と続く。凡俗の右翼人の眼にホンモノが映るとは思えない(笑)

「西郷南洲翁遺訓」では、第二十七ケ条が好い。

「過ちを改めるに自ら過ったとさへ思ひ付かば夫れにて善し。其事をば棄てて顧みず直に一歩踏出す可し。過を悔しく思い取繕はんと心配するは譬へば茶碗を割り其の欠けらを集め合せ見るも同じにて詮もなきこと也」

 まぁ、斯くいう愚生と言えばその昔は西郷隆盛に疑いもなく傾倒していたのも事実。でも、根が捻くれ者なので最近はチョッと穿った見方をしている。

 西郷隆盛の正式な名前は「西郷隆永」で「隆盛」というのは実は父親の諱(名前)。何故に「隆永」ではなく「隆盛」になってしまったのか。

 明治2年、戊辰戦争の奥羽戦線から帰京する西郷に宮内庁から御召状が出されることになった。この時、知人の吉井友実に西郷の諱を尋ねたところ「確か、隆盛じゃった」と答えことで、以後「隆盛」と称されることとなったという。

 帰京し、吉井に会った西郷は「あれは父の名でごわんか。わしの名は隆永じゃと、おはんも知っちょるじゃろう」というと、吉井も頭を掻きながら「ほんにそうじゃった」と詫び、二人は顔を合わせて大笑いしたという。

 その後、西郷は「隆盛」という名を否定も訂正もしなかったのは、吉井への気遣いと、西郷自身の大らかさだろう。こうしたことこそ「西郷(せご)どん」と誰からも愛される人柄だったことを偲ばせる逸話だろう。

 金言や格言の多くは経験から学んだものであり、自戒を込めた言葉故に相手に響く。西郷の言葉というのは余りにも綺麗過ぎて、桜田門外の変に参画した水戸藩士らを落胆させ女性遍歴多き西郷を美談にし過ぎている気がしてならない。

 まぁ、西郷隆盛の命日の一昨日夜、ほろ酔い気分の中で中秋の名月が輝く夜空を見上げながらそんなことを徒然と考えてみた。呵呵。

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cordial8317 at 07:10│Comments(0)

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