彼岸会法要は天皇の詔(みことのり)として始められた行事だった戊辰戦争での「領民が東西両軍を問わず戦死者を手厚く葬った」という美談

2023年09月21日

西軍に因る東軍への仕打ちと不条理は150年以上経った今も癒えることはない

 戊辰の役(戊辰戦争)が起きる前年、郡上藩主・青山幸宜は幕府から徳川慶喜の警護を命じられる。藩主は代わり筆頭家老を差し向ける。将軍の警護を命じられた翌年「鳥羽・伏見の変(戦い)」で幕府軍が敗れると、地元では西軍への恭順を示す。

 江戸にいた郡上藩士らは、東軍支援に向けて藩士有志らで「凌霜隊」を結成する。「凌霜(りょうそう)」とは、「霜を凌ぎ、花を咲かせる野菊の様な不撓不屈の精神」という意味で、藩主の家紋である「葉菊紋」に由来する。

 隊長は朝比奈茂吉。江戸家老の長男で弱冠17歳。慶応4(1868)年4月、朝比奈らは江戸を出立し、千葉県行徳、栃木県宇都宮を経て会津藩の領地に入る。

 会津下郷での「大内宿の戦い」や、会津美里での「関山の戦い」を経て、会津城内西出丸の守備に就き、会津藩が上洛した9月21日翌日まで抗戦したという。

 凌霜隊武勲の顕彰碑が会津若松市内の飯盛山に建っている。白虎隊の墓には線香の煙は絶えることはないが、「郡上藩・凌霜隊之碑」碑に足を止める人はまばら。

 岐阜というと、西軍の大垣藩しか知らなかったが、こうした義を重んじ殉じた藩がいたことに感服した。以来、飯盛山に参じて感謝の誠を捧げている。東京都港区青山という地名があるが、これは郡上藩主の江戸屋敷が在ったことから付けられた。

「鳥羽・伏見の変(鳥羽・伏見の戦い)」に始まった、「戊辰の役(戊辰戦争)」と呼ばれる国内戦争は、その後激化を極めることとなった。慶応4年8月21日(旧暦)は、母成峠が戦場となり、東軍と西軍との間で烈しい攻防戦を繰り広げた。

 白河口の戦いを制し、二本松領を占領した新政府軍内は、次の攻撃目標に関し大村益次郎は、仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助と伊地知正治は会津への攻撃を主張。結果、板垣・伊地知の意見が通り、会津を攻撃することとなった。

 本宮・玉ノ井村(現大玉村)に集結した兵を三分し、谷干城(土佐)率いる約1000名は勝岩(猿岩)口へ。板垣退助・伊地知正治率いる約1300名は石筵本道口へ向かった。川村純義(薩摩)率いる約300名は山葵沢より達沢口へ一斉に進発した。

 西軍を迎え撃つ東軍の兵は僅か800名しかいなかった。勝岩口の勝岩上には、大鳥圭介率いる伝習第二大隊及び二本松藩の約300名が守備に当り、勝岩下には新選組ら凡そ70名が配置し、土方歳三と山口次郎(斎藤一)がこれを指揮している。

 石筵本道口の第一台場(萩岡)、第二台場(中軍山)、第三台場(母成峠)には、会津藩主将の田中源之進と二本松藩家老の丹羽丹波、伝習第一大隊長の秋月登之助らの指揮する約400余りの兵が守備に当った。戦いは、萩岡の号砲を合図に、勝岩口と本道口に分かれ、午前9時頃からの始まった戦いは約7時間に及んだ。

 圧倒的な兵力と火力の差は如何ともし難く、東軍は北方高森方面や西方猪苗代方面に敗退する。西軍は十六橋を突破し、戸ノ口原を経て、怒涛の様に会津鶴ヶ城に殺到した。母成峠の戦いでの東軍戦死者は88名、西軍戦死者は25名。母成峠には現在も、会津藩が構築した防塁、塹壕、砲台跡が今も整然と残っている。

 母成峠の山奥には「東軍殉難者」の慰霊碑が建っている。この地で東軍の夥しい死体が発見されたのは昭和50年頃であり、如何に薩長の西軍の非情さを垣間見る。

 8月23日、母成峠から会津領内に攻め込んだ新政府軍は、会津藩との熾烈な戦いに及ぶ。 新政府軍が会津城内に攻め入ると、上席家老・西郷頼母邸では篭城戦の足手纏いとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃。だが、頼母は遁走を謀る。

 徳川幕府への恨みの象徴でもあった会津藩が9月21日に降伏する。この敗戦により、西郷頼母・田中玄清・神保内蔵助が切腹し、責任を負わねばならないところ、戦いを回避しようと恭順を示していた頼母は長男らと共に敵前逃亡したのだった。

 神保と田中は城下での戦闘に於いて既に自刃していた為に、次席の萱野長修が戦争責任を一身に負って切腹している。そこまでしたにも拘らず、盗賊の如き西軍は満足することなく、戦いは東北地方を北上し、函館にまで及ぶこととなった。

 戦いは年を超えるも翌年3月、函館五稜郭で奮闘した榎本武揚軍が降伏し、日本人同士で戦った戊辰の役が事実上終結した。頼母は長男と共に生き残り、維新後「同姓の誼で」と西郷隆盛に長男の職などを嘆願してることは武士の風上にも置けない。

 義に殉ずるべき上席家老としての誇りは無かったのか。死を以て武士の本分を示した白虎隊の行動と照らしてみても恥ずべきことだ。会津藩士の中で西郷頼母の生き様に倣うものは無い。 維新後、野に下らず立身出世を目指した榎本武揚然り。

 こういう卑しい武士の名残りが官僚や政治家。「負けは必定なれど三春に倣うべからず」と義に殉じた二本松藩士や、「侍の時代は終わる」と知り乍ら、家老としての宿命を諒として藩命を重んじた河井継之助ら長岡藩士らこそ侍の鏡であろう。

 官軍を気取った西軍に因る東軍への仕打ちと不条理は150年以上経った今も遺恨として癒えることはない。我が国の戦後体制の諸矛盾や不条理は、尊皇攘夷とは程遠い、明治維新を謀った長州閥中心の専制政治が元凶でもある。検証するべし。

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cordial8317 at 05:54│Comments(0)

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彼岸会法要は天皇の詔(みことのり)として始められた行事だった戊辰戦争での「領民が東西両軍を問わず戦死者を手厚く葬った」という美談