昭和20年9月2日、戦艦ミズーリの甲板上で降伏文書に調印「北海道胆振東部地震」で火力発電のもろさが露呈した!

2018年09月04日

西軍に因る東軍への仕打ちと不条理は150年経った今も遺恨として癒えることはない

 地元紙では「戊辰150年」特集が組まれている。第三章~信義を貫いて~では、岐阜県郡上藩の「凌霜隊」に関する特集記事が載っていた。

 会津藩と共に義に殉じた藩というと三重の桑名藩や越後の長岡藩は知ってるが、岐阜の郡上藩のことは知らなかった。

 戊辰戦争が起きる1年前、郡上藩主・青山幸宜は幕府から徳川慶喜の警護を命じられる。藩主は代わり筆頭家老を差し向ける。

 将軍の警護を命じられた翌年、戊辰の役の前触れとなる「鳥羽・伏見の変(戦い)」で幕府軍が敗れると、地元では西軍への恭順を示す。だが、江戸にいた藩士らは東軍支援に向けて藩士有志らで「凌霜隊」を結成する。

「凌霜(りょうそう)」とは「霜を凌ぎ、花を咲かせる野菊の様な不撓不屈の精神」という意味で、藩主の家紋「葉菊紋」に由来する。

 隊長は朝比奈茂吉。江戸家老の長男で弱冠17歳。慶応4(1868)年4月、朝比奈らは江戸を出立し、千葉県行徳、栃木県宇都宮を経て会津藩の領地に入る。

 会津下郷での「大内宿の戦い」、会津美里の「関山の戦い」を経て会津城内西出丸の守備に就き、会津藩が上洛した9月21日翌日まで抗戦したという。

 凌霜隊の武勲を顕彰した碑が会津若松市内の飯盛山に建っている。白虎隊の墓には今も線香の煙は絶えることはないが、ほど近くに在る「郡上藩・凌霜隊之碑」碑に足を止める人はまばらだという。

 岐阜というと西軍の大垣藩しか知らなかったが、こうした義を重んじ殉じた藩がいたことに感服。近々飯盛山に参じ感謝の誠を捧げたい。

 因みに、東京都港区青山という地名があるが、これは郡上藩主の江戸屋敷が在ったことから付けられたという。

 150年前「鳥羽・伏見の変」に始まった戊辰の役(戊辰戦争)と呼ばれる国内戦争はその後、激化を極める。慶応4年8月21日(旧暦)、母成峠が戦場となり、東軍と西軍との間で烈しい攻防戦を繰り広げた。

 白河口の戦いを制し、二本松領を占領した新政府軍内では、次の攻撃目標に関して意見が分かれたという。

 大村益次郎は仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助と伊地知正治は会津への攻撃を主張。板垣・伊地知の意見が通り会津を攻撃することとなった。

 本宮・玉ノ井村(現大玉村)に集結した兵を三分し、谷干城(土佐)率いる約1000名は勝岩(猿岩)口へ。板垣退助・伊地知正治率いる約1300名は石筵本道口へ。川村純義(薩摩)率いる約300名は山葵沢より達沢口へ一斉に進発した。

 これを迎え撃つ東軍の兵は僅か800名。勝岩口の勝岩上には大鳥圭介率いる伝習第二大隊及び二本松藩の約300名が守備に当り、勝岩下には新選組ら凡そ70名が配置し、土方歳三と山口次郎(斎藤一)がこれを指揮した。

 石筵本道口の第一台場(萩岡)、第二台場(中軍山)、第三台場(母成峠)には、会津藩主将の田中源之進と二本松藩家老の丹羽丹波と伝習第一大隊長の秋月登之助らの指揮する約400余りの兵が守備に当った。

 戦いは、萩岡の号砲を合図に、勝岩口と本道口に分かれ、午前9時頃からの始まった戦いは約7時間に及ぶも、圧倒的な兵力と火力の差は如何ともし難く、東軍は北方高森方面や西方猪苗代方面に敗退。

 西軍は十六橋を突破し、戸ノ口原を経て、怒涛の様に会津鶴ヶ城に殺到した。母成峠の戦いでの東軍戦死者88名、西軍戦死者25名。母成峠には、会津藩が構築した防塁、塹壕、砲台跡が今も整然と残っている。

 近くには東軍殉難者の慰霊碑があるが、この地で東軍の夥しい死体が発見されたのは近年であり、如何に薩長の西軍が非情だったかが伺える。

 8月23日、母成峠から会津領内に攻め込んだ西軍は会津藩との熾烈な戦いに及ぶ。 西軍が会津城内に攻め入ると、上席家老・西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃した。

 徳川幕府への恨みの象徴でもあった会津藩が9月21日に降伏。この敗戦により西郷頼母・田中玄清・神保内蔵助が切腹し責任を負うところするところ、当初から恭順を示していた西郷は行方知れず。長男らと共に敵前逃亡した。

 神保と田中は城下での戦闘に於いて既に自刃していた為に、次席の萱野長修が戦争責任を一身に負って切腹している。それでも西軍は満足することなく、戦いは東北地方を北上し函館にまで及ぶこととなった。

 戦いは年を超えるも翌年3月、函館五稜郭で奮闘した榎本武揚軍が降伏し、日本人同士で戦った戊辰の役が事実上終結した。

 因みに西郷は長男と共に生き残り、維新後「同姓の誼で」と西郷隆盛に長男の職などを嘆願してるが、義に殉ずるべき上席家老としての誇りは無かったのか。死を以て武士の本分を示した白虎隊の行動と照らしてみても恥ずべきことだ。

 会津藩士の中で西郷頼母の生き様に倣うものは無い。 維新後、野に下らず立身出世を目指した榎本武揚然り、武士というより政治家というべきか。

「負けは必定なれど三春に倣うべからず」と義に殉じた二本松藩士や、「侍の時代は終わる」と知りながらも家老としての宿命を諒として藩命を重んじた河井継之助ら長岡藩士らこそ侍の鏡であろう。

 西軍に因る東軍への仕打ちと不条理は150年経った今も遺恨として癒えることはなく、我が国の戦後体制の諸矛盾や不条理は、尊皇攘夷とは程遠い明治維新を謀った長州閥中心の専制政治が元凶でもある。

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cordial8317 at 05:52│Comments(0)

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