「むやみに日の丸を出すのは止めよう」という高野連の判断の根底にあるもの右翼は「北方領土返還」は言うが「竹島返還」には沈黙だってよ(苦笑)

2019年09月02日

昭和20年9月2日、戦艦ミズーリの甲板上で降伏文書に調印

 昭和20(1945)年8月14日、我が国はポツダム宣言を受諾。そして9月2日、降伏文書に調印した。今日が我が国にとっての「終戦の日」でもある。

 米国を始めとした連合国では、翌3日を「対日戦争終結記念日」や「第二次世界大戦(太平洋戦争)終戦の日」としている。

 9月2日、東京湾上に停泊してた戦艦ミズーリの甲板上での調印の為に、梅津美次郎参謀総長らと共に、右足を「上海天長節爆弾事件」で失った重光葵外相は義足を引き摺りながら、ステッキを頼りに細い階段を喘ぎ喘ぎ上った。

 漸く甲板に辿り着いた重光外相は、調印を前に米兵に一杯の水を所望する。だが、米兵は「卑怯者のジャップにやる水などない」と言わんばかりに冷たく拒否される。日本人への憎悪と蔑視がこうした行為にも顕れている。

「上海天長節爆弾事件」とは昭和7年4月29日に起きた爆弾テロをいう。重光は上海に於いて、駐中華民国公使として天長節奉祝式典に参列していた。国歌斉唱する正にその時、朝鮮独立運動家であった尹奉吉が爆弾を投擲した。

 だが、重光はその場から逃げることなく「君が代」を歌い続けた。結果、片足を失うこととなった。重光はこの時を振り返りこう述べた。

「爆弾が投げられたのは分かっていたけれど、国歌斉唱中なので動かなかった。動くのは不敬であると考えた」 。この覚悟、天晴れ。

 重光の隣で遭難し、片目を失った海軍大将・野村吉三郎も「国歌斉唱中だったから逃げなかった」との理由を語っている。

 その後に外相や駐米大使となる野村や重光の様な、こうした決死の覚悟と肝の据わった官僚や政治家がいないのは我が国の不幸とも言えよう。

「君が代」「日の丸」に反対する勢力も自称・保守派や右翼人にしても、重光や野村の様な決死の覚悟が伴っているかといえば疑問でもある。

 昭和20年9月2日、降伏文書の署名に因って我が国は「負け」を認めたが、先の大東亜戦争の大義は決して間違いではない。

 抑抑、何故に我が国が開戦を決意し、真珠湾攻撃に至ったかが問題であり、それにはペリー来航時代にまで遡らなければ到底理解は出来まい。

 我が国は時代の流暢を知り、西欧列強に倣い強力な中央集権国家を形成しようと幕藩体制を糾す為に明治維新という大業を短期間で成し遂げた。

 15世紀の大航海時代以来、白人による世界制覇の波がアジアにも押し寄せ、アジアは次々と列強に蚕食され植民地となった。その間に勃発した「日清・日露戦争」や「日韓併合」なども避けては通れない宿命的な歴史だったのだ。

「日清・日露戦争」での日本大勝利の報は、固唾を呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させ、特に有色人種に与えた影響は強烈だった。

 日露戦争勝利から15年後、パリ講和会議で日本は「人種平等の原則」を国際連盟規約に載せることを提案するも、議長を務める米国大統領ウイルソンは「有色人種に人権など必要無い」との差別や蔑視から否決される。

 その後、世界は第二次世界大戦に突入する。我が国を敵視するABCD包囲網に因って四面楚歌に陥り、最後通牒である「ハルノート」を突き付けられると「最早生き残る道は連合国との戦争しかない」との開戦の決断に至るのだ。

 今も糾弾して止まない「リメンバーパールハーバー」は、日本人への偏見と差別と歴史への冒涜であり、先の大戦の過ちを猛省すべきは米国である。

 歴史は国家の大本であることは言うを俟たない。歴史を語る上で大切なのは、古今東西、世界に蔓延る覇権主義の克服を主張すべきであって、他国の覇権主義に目を瞑り、一方的に自虐の淵に止め処なく漬かり込むことではない。

 祖国・日本に生まれ育った者として、大東亜戦争の真の歴史と意義を知ることは国民としての義務でもある。9月2日は日本人として決して忘れてはならない屈辱の日でもある。末尾に当り、先人の偉業に感謝の誠と敬意を表したい。

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cordial8317 at 13:02│Comments(0)

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