朝河貫一博士が持て囃されているが朝河貫一博士は米国にとって都合の好い日本人だった

2018年07月27日

「敗戦は必定なれど三春に倣うべからず」(二本松藩家老・丹羽一学)

 戊辰戦争から今年で150年を迎える。会津武士道の昇華を白虎隊に例えるのなら、二本松少年隊は正しく二本松武士道の昇華そのものだろう。

 慶応4(1868)年、西軍の会津征伐に於いて二本松藩の家老・丹羽一学は「敗戦は必定なれど三春に倣うべからず。二本松は城が灰燼に帰し、一族屍を野に曝すとも武士道と信義に殉ずべきである」と、藩論を徹底抗戦に纏め上げた。

 同年7月27日、木村銃太郎隊長(22)に率いられた少年隊士23名が蹶起する。会津白虎隊士の構成年齢が16~17歳だったことに対し、二本松少年隊の最年少隊士の年齢は僅か12歳だった。少年隊は、城下西口の要衝である大壇口に布陣。

 7月29日午前9時頃、少年隊は隊伍を組んで進軍してくる西軍に向かい、銃太郎の号令一下、轟然と火を吹いた少年隊の大砲によって、終に戦史に残る激戦が開始される。だが、奮闘空しくその日のうちに落城してしまう。

 これを以て、「二本松藩との戦いは易易だった」と罵詈を浴びせる歴史家もいるが、事実はそんな簡単なものではない。

 幕末の薩摩藩士で、後に陸軍元帥となった野津道貫は、戊辰戦争の回顧談(近世国民史)で「兵数不詳の敵兵は、砲列を布いて我軍を邀撃するのであった。我軍は早速之に応戦したが、敵は地物を利用して、おまけに射撃は頗(すこぶ)る正確で、一時我軍は全く前進を阻害された。我軍は正面攻撃では奏功せざる事を覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し、辛うじて撃退することを得たが、怨恐らく戊辰戦中第一の激戦であったろう」と語っている。

「射撃は頗る正確で」というのは、スペンサー(元締め)銃を手に奮闘した二本松少年隊の小澤幾弥のことだろう。幾弥この時、弱冠17歳。戊辰戦争前まで江戸で育った幾弥は、新式のスペンサー銃を二本松藩に持ち込んだ。

 二本松の戦いでは、阿武隈川を超え霞ヶ城(二本松城)に殺到する西軍を丘の上から次々と撃ち倒した。だが「最早これまで」と師・朝河八太夫と討ち死にする。砲術師範の八太夫は昨今持て囃されている朝河貫一博士の祖父である。

 二本松藩には、代々「必殺を期すには、斬らずに突くべし」という刀法が伝わっている。これは、浅野内匠頭が江戸城内での一件を聞いた二本松藩初代藩主・丹羽光重が、「何故、浅野公は斬り付けたのか。斬り付けずに突けば好かったものを」と、酷く悔しがったという由来から「斬らずに突け」が伝統となった。

 少年隊士・成田才次郎が、出陣の際に父から訓されたのも、この「斬らずに突け」だった。大壇口から敗走中の混乱で隊士はバラバラになってしまい、才次郎は単独で二本松城下の郭内まで戻るも戦意は尚も旺盛だった。

 才次郎は「必ず敵将を斃してやる」と一の丁の物陰に潜んでいたところ、馬上豊かな武士が一隊を率いてやってくるのが見えた。長州藩士・白井小四郎が率いる長州藩の部隊だった。才次郎、隊列が目前に来るまで充分に引き付る。

「此処ぞ」と大刀を真っ直ぐに構えるや、一気に先頭の白井に向って突進した。しかし、歴戦の長州兵はこの遮二無二突進する小さな刺客に即座に反応し隊長を護るべく馬前に出る。白井は「子供じゃ、手を出すでない」と声を掛ける。

 白井は、突っ込んで来るのが子供だと瞬時に見抜き、兵を制した。だが、それが徒となり、才次郎の剣は狙い違わずこの敵将の脇の下から胸部を突き刺した。

 白井、どうっと落馬する。驚愕した長州兵らは慌てて才次郎を捕えようとするが、刀を振り回す才次郎に近寄ることも出来ない。已む無く鉄砲を使い、漸くこの小さな勇士を倒すことが出来た。このとき才次郎、14歳。

 現在、長州藩士・白井小四郎の墓が市内の真行寺に残っている。維新後の明治3年には、長州藩から香華料として金二両が納められた。少年への一瞬の憐憫が自らの死を招いたこの将の墓前には、今でも多くの参詣者からの香華が絶えない。

 西軍が城に迫ると、大城代・内藤四郎兵衛は「我は城の主将たり、虚しく内に在って死すべきにあらず」と城門を開いて討って出る。敵軍との奮戦激闘の中、見事な最期を遂げた。四郎兵衛の最期、潔さは、二本松藩士の鑑と称されている。

 丹羽和左衛門は床机に腰掛けて割腹し、膝上に広げた軍扇の上に自らの内臓を引き出して立亡していたという。正に鬼神となりし。

 徹底抗戦を唱えた家老・丹羽一学は、城の土蔵奉行宅で郡代見習・丹羽新十郎、城代・服部久左衛門と共に壮絶な割腹自刃を遂げた。一学の辞世は「風に散る 露の我が身はいとはねど 心にかかる 君が行末」である。

 少年隊を始め、多くの二本松藩士や先人らは藩と己の名誉を守る為に堂々と戦い、そして潔く散った。こうした純真無垢な殉国精神は、大東亜戦争で散って行った特攻隊の英霊の精神とと通ずるものが在るだろう。

 祖国を守る為に尊い命を捧げた特攻精神は祖国愛の極致であり、「神風精神」こそ大東亜戦争が自存の為の祖国防衛戦争であったことの証である。

 二本松少年隊然り。人というのはどれだけ生きたかではなく、どう生きたかが大事であり、特攻隊員や二本松少年隊の覇気に学ぶものは多い。

 二本松に生まれ育った者として、また二本松剣友会の末席を汚した者として、二本松少年隊や先人らの生き様に感謝せずにはいられない。合掌。

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cordial8317 at 06:58│Comments(0)

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