西軍に因る東軍への仕打ちと不条理は150年以上経った今も癒えることはない「命もいらず名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困る者なり」と言うが

2023年09月22日

戊辰戦争での「領民が東西両軍を問わず戦死者を手厚く葬った」という美談

 平成から令和に御代が替わった年、白河市で戊辰戦争開戦150年を記念して「甦る仁のこころ合同慰霊祭」が催され、「領民が東西両軍を問わず戦死者を手厚く葬った」と称えた。だが、別に、西軍が東軍死者の埋葬を許した訳ではない。

 盗賊の如き西軍の非情さは周知に知れ渡っており、領民は「味方の戦死者をその儘で放置しておくのは忍びない」と、西軍戦死者の埋葬の陰に隠れてひっそりと葬ったというのが歴史的な真実である。西軍兵士の墓が立派なことでもよく分かる。

 長州藩の山口県や大垣藩の岐阜では、盆踊りには白河発祥の「白河踊り」が舞われているという。これは盆に戻って来る精霊を迎え、送るという風習に、白河の戦いでの犠牲者を重ね合わせたことに由来する。この「白河踊り」を持ち上げて、また敵味方関係なく戦死者を葬ったという美談には些か違和感を覚えた。

 慰霊碑は、維新後や近年に整備されたもの。その昔は西軍の慰霊碑と比べると東軍の墓は粗末なものという記憶しかない。賊軍(西軍)の戦死者は勝手に葬ることが許されなかった時代に、敵味方関係なく葬ることが出来たのだろうか。尤も、死者を放置すれば疫病が蔓延するし、それを知り乍ら放置させたとも思えない。

 戊辰戦争では、江戸上野に於いて彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩及び長州藩を中心とする新政府軍の間で「上野戦争」が起きた。この戦いでの戦死者を懇ろに葬ったのは、江戸領民でもあった新門辰五郎などの侠客や火消しの衆だったと聞く。

 戊辰戦争の激戦地となった郡山市と猪苗代町の間に在る母成峠の奥地では、昭和50年の頃に初めて、東軍戦没者の山積みにされた遺体が見つかっている。

 今でこそ整地され、知事揮毫の慰霊碑が建立されているが、発見されるまでは困難を極めた。戦死者の墓標も立てられずにひっそりと埋葬せざるを得なかったのは、領民に西軍からの「賊軍の死者の埋葬禁止」との厳しい通達があったを窺わせる。

 最近は、歴史家の中でも「西軍に因る埋葬禁止の通達は嘘だ」ということを論じている人がいる。激戦と言われた母成峠の戦いでは、何故に人目に付かない山奥に埋葬せざるを得なかったのか、その立派な歴史家の先生に詳しく聞いてみたいものだ。

 長州藩士の宇佐川熊乃助が白河市内の寺に埋葬されてるのは、西軍の死者は過分な香華料が支払われたからだろう。二本松の戦いでも同じく長州藩士・白井小四郎が真行寺に埋葬され、金2両が納められていることと同じ理由であると考えられる。

 戊辰戦争以来、新政府軍を率いる薩長土肥連合は東北地方を卑下し「白河以北一山百文(しらかわいほくひとやまひゃくもん)」と揶揄したのは有名。「白河の関所より北の土地は、一山で百文にしかならない荒れ地ばかり」という意味である。

 この一言でも、如何に西軍が傲岸不遜にも東北と東北人を見下していたかが分かる。そうした東北を蔑む空気が横溢している中で、東北人が死のうが別に気にすることはなく、季節柄、盆ということもあって、踊りに興じただけのことだろう。

「白河以北一山百文」という蔑視は、東北人にとって屈辱的な言葉ではあるが、東北人はそれにめげずに、西軍や明治新政府の侮蔑を奮起する糧とした。「白河踊り」も、そうした東北人の素朴な優しさが西軍の兵士の心に響いたのだと思う。

 参加した萩市の藤道健二市長や鹿児島市の森博幸市長、二本松市の三保市長らが「戊辰戦争の悲劇を伝え、白河領民の仁の心を学び次世代に伝える」と悦に入ってたが、戊辰戦争の悲劇を言うなら江戸城開城後にも何故に東軍征伐を謀ったのか。

 江戸城無血開城後の会津戦争や函館戦争に意味があるとは思えない。「蛤御門の変」に見られる様に単なる恨み辛み、個人的な遺恨からの開国であり、官軍を気取った西軍の傲岸不遜と明治新政府の歪な正義と不条理こそ検証しなくてはならない。

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cordial8317 at 05:39│Comments(0)

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西軍に因る東軍への仕打ちと不条理は150年以上経った今も癒えることはない「命もいらず名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困る者なり」と言うが