李明博元大統領が収賄と横領の疑いで逮捕民主主義の本質は国民目線に立つことではないし、大衆に媚びることでもない

2018年03月26日

「聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥」というが

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 哲学者・西晋一郎は「教えるとは実に教えられることである」と教える。読んだり、聞いたり、書いたりしたものを実際に他人に教えることで、自分に足らないものを発見したり学んだりするものだ。

 子育ての中で子供に学び共に成長していく。教諭が生徒に教えられることもあるだろう。「教えるとは実に教えられることである」とは正にそれ。

 SNSなどでもアップした記事へ反論や批判に応じることで、新たな発見や理論の形成と自分自身の向上にも繋がるということも少なくなく、意見の対立しがちなSNSと雖も、持ちつ持たれつの関係が成り立っている。

「聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥」という。だが、分からないからと直ぐに「分かりません」「分からない」を連発するヤツというのは、説明してやってもその場では頷くが理解出来ていない場合が多く時間の無駄だ。

 説明を聞く側も自分で調べた上で「分からない」ことを聞けば好いが、その基本的なことさえも備わっていないのに安易に聞いてくる。

 後輩や門下生にもいるが、こっちが話しているのに「分からない」と話の鼻を折るから先に進めない。その場で説明してやっても愛想よく返事するばかりで碌々理解していない。分からないならメモを取り、後で自分で調べれば好いこと。

「分からない」とは稚児だけに許された言葉で、本来は大人が使う言葉ではないのだが、今では恥ずかしくもなく「ワカンナイ」を連発している。

「三つ心、六つしつけ、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる」という金言がある。先達はこうした養育法を実践した。

 昔の寺子屋は三歳入学。それまでに親は愛情を注ぎつつ、心を自覚させることに重点を置いて育てることを意識した。

 六歳くらいになると善悪の判断を知る年齢になる。そこで「躾」が必要となって来る。躾とは「仕付け」とも書くが、着物を縫う時に仮縫いが大事な様に、幼少期の仮縫いは親としての大事な務めでもある。

 九歳までには言葉や挨拶の重要さを教え、十二歳になる頃には文章も書ける様にならなくてはならない。

 十五歳になれば昔の元服であり、立派な大人の仲間入り。そこで「理(ことわり)」を理解しなくてはならない。「理」とは道理であり、条理であり、つまりは当たり前な事であり、生きて行く上での常識である。

 我が国は性善説で成り立っているが、それは三歳頃までの親からの愛情や幼少期の躾、学校での学習と社会全体での「理」を教える環境が整っていなければならない。だが、現代の日本人に性善説など通用するとは思えない。

「親」と「学校」と「社会」の三つのどれが欠けても教育上は好ましくはない。この三つのバランスが大事なのである。

 親や教諭が厳しくすれば体罰だと大騒ぎ。会社の上司や同僚に恵まれず、社長は社稷を重んじることなく金儲けに狂奔するばかり。

 そういう意味では親からも学校からも社会からも厳しく育てられていない現代の若者というのは現代教育の犠牲者と言えなくもない。

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cordial8317 at 07:09│Comments(0)

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