「御陵を世界遺産にしよう」などという戯言「神国思想」を政治的に利用した長州閥中心の専制政治の矛盾と不条理

2018年02月26日

大義を明にし 人心を正さば 皇道奚んぞ興起せざるを憂えん

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 陋習を打ち破らんと「大化の改新」「建武の中興(新政)」「明治維新」という大業が成し遂げられた。

「維新」とは、幕末の思想家・藤田東湖が示した「大義を明にし、人心を正さば、皇道奚(いずく)んぞ興起せざるを憂えん」こそが維新の精神である。

 昭和11年2月26日、安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次ら青年将校は総勢1483名を率いて「昭和維新」「尊皇討奸」を掲げ決起した。

「皇道派」といわれた彼らのその行動の柱となったのが国家社会主義者・北一輝の「日本改造法案大綱」であるが、この226事件の伏線になったものが「相沢事件」とも言われている。

「相沢事件」とは、昭和10年8月12日、陸軍中佐の相沢三郎が陸軍省内で軍務局長・永田鉄山を刺殺した事件である。

 相沢三郎は明治22年、福島県白河町(現白河市)生まれ。大正7年、歩兵第4連隊から台湾歩兵第1連隊付に移り大尉に進級、同年9月陸軍戸山学校教官に就任する。剣の達人として知られる人物でもある。

 その後、陸軍士官学校付、歩兵第13連隊中隊長を経て、昭和2年少佐進級と共に歩兵第1連隊付として日本体育会体操学校(後の日本体育大学)に配属され学校教練を担当した。

 昭和8年陸軍中佐となるも昭和10年永田軍務局長を刺殺し、翌軍法会議に於いて死刑判決が下され、代々木衛戍刑務所内で銃殺刑に処される。

 陸軍内は当時、高度国防国家を目指す「統制派」と天皇親政を理想とする「皇道派」の対立が激化。皇道派の相沢は、同派の教育総監・真崎甚三郎が更迭されたことを理由に統制派の中心人物だった永田の刺殺に至る。

「相沢事件」が226事件」の伏線になったということは紛れもない事実だろう。相沢事件の半年後、226事件が蹶起される。

 226事件に唯一の民間人として加わり「群衆指揮等」として死刑に処せられた渋川善助という思想家がいる。渋川もまた相沢と同じ福島県人である。

 福島県会津若松市七日町出身。会津中学校、仙台陸軍地方幼年学校を経て陸軍士官学校予科に進み、御前講演を行うほど成績優秀で、杉田省吾、西田税らと「維新同志会」を結成し、国家主義運動に参画した人物である。

 渋川が少年時代に過ごした部屋は、三島由紀夫が「憂国の間」と名付け、会津若松市の「渋川問屋」内に現在でも保存されている。

 この「渋川問屋」は料理も美味いと評判で、愚生も県内に住んでいながら未だ訪れたことは無い。いつの日か友人らと宿泊し、談論風発、杯盤狼籍、大破轟沈するのが愚生の囁か細やかな夢でもある。

 彼らは「反乱軍」と断じられ処刑されはしたが、彼らの尊皇精神と憂国の至情は決して消えることはない。すめらぎいやさか。

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cordial8317 at 05:41│Comments(0)

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