赤穂浪士の仇討ちも、泉岳寺で腹を切らなかったのが落度と言うべきだ「南京大虐殺犠牲者30万人」と「大韓民国臨時政府の対日宣戦布告」という大ウソで反日の連携(苦笑)

2017年12月16日

尊敬はあくまでも醇乎たるべきものであり

 幕末の英雄というと坂本龍馬や吉田松陰などを挙げる人は多いが、愚生的には長岡藩家老の河井継之助を置いて他にない。

 継之助を一躍有名にした司馬遼太郎の小説「峠」で、司馬は継之助を武士道倫理に生きた「最後の侍」だとして、その生き様を活き活きと描いている。茶屋遊びの場面を想像しても、人間味に溢れた武士だったと思っている。

 多くの歴史家も、継之助を東西の優れた軍事指揮者の一人に挙げているが、一方で長岡藩を要らぬ戦争へ巻き込んだとの批判があるのも確か。

 河井継之助、名は秋義、号は蒼竜窟。越後長岡藩士。「越(ほくえつ)の蒼竜」と称された継之助は長岡藩の近代化に努力した英雄である。

 継之助は、長岡藩士120石取りの代右衛門秋紀の子として生まれる。幼少の頃から腕白で、人の忠告を素直に聞かない強情張りで、それは大人になってからもその偏屈ぶりは変わらなかった。

 少年時代は、藩校で古義学(こぎがく)を学び、成長するとともに実践重視の「陽明学」へと傾倒。17歳の時に継之助は、鶏を裁いて、王陽明を祭る祭壇に鶏肉を供え、人民と藩是の為に立志し、誓明したという。

 青年期には読書に没頭し、良書を見つけると、その書だけを何度も読み返し、一字一句を書き留め暗記し、我が身の行動の規範と成したという。

 嘉永5(1852)年、継之助は江戸に遊学し、佐久間象山、古賀謹一郎に師事する。だが、象山の尊大さと勿体付けて理屈を捏ねる腹の曲がり具合が気に食わず象山から遠ざかったというが、何となく分かりそうだ(笑)

 継之助が生涯を通じて敬服した人物は、備中松山藩の儒者・山田方谷(ほうこく)。安政6(1859)年には、自ら松山藩まで足を運び、直接、方谷から陽明学を学び、藩政改革の方法を習得している。

 彼は、方谷を唯一「先生」と呼び、「希代の英雄」と讃え、方谷が唱える思想を熱心に学んだ。方谷に入門を乞うも中々承諾されなかった。漸く入門を許可されると「学問の講義は要りませぬ」と断ったという。

 師に学問を教わるより、起居を共にすることだけでも学ぶものが多いのことを継之助は知っていた。師と雑談し、その一挙手一投足を目に焼き付けた。

 書物を読み、暗記したところで意味はない。理論なんぞより、尊敬する人との雑談や所作、何気ないことから学ぶことこそ貴重であり得るものが多い。

 継之助に内弟子らは「何故に貴公は方谷先生と一緒に鍬を持たないのか」と詰られるも、継之助は「嫌いだからだ。今更、百姓の真似が出来るか」と応じた。

 内弟子らが「方谷先生を尊敬していないのか」と詰るも、継之助は「尊敬はあくまでも醇乎(じゅんこ)たるべきものであり、百姓を手伝うというのはおべっかに過ぎない」と開き直ったというから、かなりの削げ者だったのだろう。

「尊敬はあくまでも醇乎たるべきものであり」とは実に好い。愚生の周りを見渡しても、チョッと有名な人と見るや「おべっか」ばかりで、その心情や行動に「醇乎」さは乏しく、単に「ヨイショ」ばかり(苦笑)

 方谷は後に「河井は豪すぎる。豪すぎることが幸福な結果になるか、不幸を呼ぶか」と語ったという。だが、結果は残念ながら後者の方であった。

 1ヶ月半ほどの遊学であったが、別れの朝、継之助は対岸の街道の路上に土下座し、師匠の小さな姿を伏し拝んだ。人を容易に尊敬することのない不器用な男が土下座したのは生涯これが最初で最後だったという。 

 長崎などへも西国遊学を果たし見聞を広めると共に、会津藩の秋月悌次郎などとも交友を深め人脈を広げている。

 愚生も最近は慢性的不如意で放浪の旅に出ていないが、どんな「旅」でも人を大きくしてくれるものだと思っている。人との出会いに感動し、酒を酌み交わせば言葉は要らない。正に功名なんぞに意味はない。

「刮目して相対す」とか「人生意気に感じる」とはそういうことだ。

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cordial8317 at 06:39│Comments(0)

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