「この世は、あるがままで悟りの世界」と教えた「本覚思想」尊敬はあくまでも醇乎たるべきものであり

2017年12月15日

赤穂浪士の仇討ちも、泉岳寺で腹を切らなかったのが落度と言うべきだ

 赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたのは元禄15年12月14日とされているが、実際は旧暦の元禄16年1月30日だった。

 討ち入りの日は満月とされ、雪もあり明るい夜だったとさているが、元禄15年12月14日だと新月に近かったので暗かったのではと推測する。翌年1月30日だと粗満月で、映画などで語られてる情景に近い。

 赤穂浪士の精神的支柱となったのが、陸奥国会津若松城下生まれの山鹿素行(やまがそこう)と言われている。

「山鹿流軍学の祖」として知られているが、実は江戸時代に於ける武士道の理論を確立した人であり、山鹿の門人達が素行の談話を筆記した「山鹿語類」は日本人必読の著でもある。

 また、尊皇愛国の書として有名な「中朝事実」で山鹿は、世の学者の外国(主として漢土)崇拝を批判し、皇統の一貫を根拠に、「日本こそ万国に卓越した中華・中国と呼ぶに相応しい国である」と主張した儒学者でもある。

 これは「日本主義」と言われるもので、易姓革命で度々王朝が変わった漢土に対し「我が国は、天子の地位を侵す様な不義不道の者がいなかった為に皇統が一貫している」と、我が国の卓越性を強調した思想である。

 江戸時代267年の歴史の中で赤穂藩の様な理不尽な御家断絶や御家騒動は他にもあったが、唯一、赤穂藩の四十七士だけが「義士」と呼ばれ「武士道の華」と評価されたのは、山鹿素行の「正義の遂行」の本義に基づく教えが在ったからだろう。

 だが一方で、忠臣蔵の討ち入りに「大義」などではなく、単なる「打算」だと断じる批評家もいるのも事実。

 大石内蔵助は討ち入りで忠義心を示さなければ山科で帰農しそのまま埋もれただろうが、吉良を討ち取った結果、子孫は本家の浅野家に千五百石の高録で召し抱えられている。

 この事実をして「忠義ばかりでなく、子孫の将来まで考えて討ち入った」と断じているが、これもまた一理あり。「葉隠」でも、赤穂浪士の討ち入りに触れた部分があり、やはり批判的に書かれてある。

「赤穂浪士の仇討ちも、泉岳寺で腹を切らなかったのが落度と言うべきだ。それに主君が死んで、敵を討つまでの間が長過ぎる。もしもその間に、吉良殿が病死でもなされた時にはどうにもならないではないか」

 仇討ちというのは緻密な計画でやるものではなく、武士とは「即刻やられたらやり返す」というのが本道で、事の「成否」は問題ではない。成否よりも行為自体に意味が在るという。

 その上で赤穂の武士を「上方の人間は小利口だから世間から褒められる様にするのは上手である」と嘲笑している。

 赤穂浪士の討ち入りを打算的と見るか否かは夫々だろうが、「仮名手本忠臣蔵」が日本人の美学を現し、多くの国民から愛されているのは確かだろう。

 幕末から維新期の派閥、政論の対立による暗殺とその報復という面があったところから、この種の紛争を断ち切るのを目的に、明治6年(1873)2月、司法卿・江藤新平が「復讐禁止令(仇討ち禁止令。太政官布告第37号)」を発令。明治22年には「決闘罪ニ関スル法令」も発布され、敵討ちや復讐は禁じられた。

 仇討ちや報復を否定する風潮が浸透した結果、相手と刺し違えるくらいの仕返しをすれば好いものを、泣き寝入りした挙句に被害者側が自殺なんてことも日常茶飯事。学校でのいじめがその最たるものだ。

 自殺するくらいなら相手と刺し違えて遺恨を晴らすべし。呵々大笑。

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cordial8317 at 05:27│Comments(0)

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