2020年12月13日
大和国は丈夫の国にて、古は、おみなもますらおに、習えり。故、万葉集の歌は、凡丈夫のてぶり也
「万葉集の歌は、外国の思想的な影響を受ける前の純粋な日本の心で詠まれた歌である。だから万葉集こそが純粋な国意を伝える日本の聖典である」と説いたのは、万葉集の研究家でもあり、江戸中期、国学の基礎を確立した賀茂真淵。
真淵は、国学・歌論について記した書である「にひまなび(新学とも表記される)」で、「大和国は丈夫(ますらお)の国にて、古は、おみなもますらおに、習えり。故、万葉集の歌は、凡丈夫のてぶり也」と教えている。
多くの日本人は「万葉集」も「古今和歌集」も同じ文学的価値のものだと思っているが、真淵は「両者(万葉集と古今和歌集)は大きく違う」という。
前出の「にひまなび」の続きは、「山背国はたをやめの国にして、丈夫もたをやめを習いぬ。かれ、古今和歌集の歌は、専ら手弱女(たおやめ)のすがた也」
真淵は「古今和歌集」の歌は、儒教や仏教に毒され、技巧を弄した作品であり、「万葉集」の単純な写実から、素直ではない形式的な技巧と断じている。
「万葉集」の素直でな風景描写や率直な感情表現を「高く直き心」と説き、これこそが素朴で雄渾な日本人の魂であると評し、これを「ますらおぶり」と現した。
対して、平安時代(山背国)に成立した「古今和歌集」は、外国(とつくに)の影響を受けた歌風であると評し、これを「たをやめぶり」と呼んだ。
「手弱女(たおやめ)」とは、優しいとか、淑やかな、という意味もあるが、浮かれ女、遊び女、という意味もあり、要は、大和国の「丈夫(ますらお)」ぶりを詠った万葉集に比べて、古今和歌集は女々しいと感じたのだろう。
分かり易く喩えれば、万葉集は男性的であり、古今和歌集は女性的。つまり、真淵の思想は男性優位であり、男女共同参画社会の現代に於ては、ジェンダーフリーを叫ぶ性的変質者らからは非難の対象となるに違いない(笑)
況してや、古今和歌集に集録されている約1100首の歌は天皇の勅撰和歌集でもあり、今なら国士を気取る自称愛国者らからも糾弾されるかもなぁ(笑)
真淵は、「和歌は政治の根本であり、経世・経国に役立つもの」と教える。何故なら歌には人心を和らげ、世の中を和やかにする力があるからだという。
真淵が「万葉集」研究に打ち込んだのは、趣味や文化研究でもなく、日本を佳い方向へ導く為の教えを模索していたのだろう。では、万葉集から何を学ぶか。
万葉集を学ぶには万葉集で使われている古語を習得することだという。これが凡人の愚生には容易なことではない。ならばどうするか、要は万葉集を見様見真似で何度も何度も繰り返して詠んでみることに尽きる。
「今、右翼にとっての真なる敵は右翼自身である。フィクサーを気取ったただの金権右翼、思想も信念も持たないゴロツキ右翼、詩心を持たない乞食右翼等等、我が内なる敵は多岐にわたる」と喝破したのは新右翼のカリスマ・野村秋介。
愚生は金権右翼団体に所属はしていたがカネに縁が無いゴロツキ右翼か、詩を詠もうにもどうも語彙に乏しく上手く詠めないから乞食右翼の両方か(笑)
「人真似上手は個性を想像する」という言葉が在る。敬愛する人の言行を何事も真似てみるというのはその道を極める上では重要なことでもある。その人の考えや所作などを真似することは悪いことではないし、後々己の個性が醸成されて行く。
武道などの「稽古」とは、技芸などを師から習い身に付けることをいうが学問も同じこと。稽古とは「古(いにしえ)の道を考える」ということであり、師や先達に学ぶこともなく、また古の教えも知らないのでは修業とは言えない。
稽古の「稽」とは「考える」という意味があり、「古書を紐解いて古人の教えを学ぶ」というのが「稽古」の本来の意味でもある。
真淵は、古代の純粋な日本人の心を会得し復元する為に、万葉集で使われていた言葉を紐解いて蘇らせる。これは「心と言葉は直結した存在である」との考えで、古の人の心や思想、人倫が言葉に現れていると確信したからだろう。
そのことによって「国意」を形成しようとしたのだ。この発想こそが国学の基本であり日本こそが「世界で唯一正しい国である」との確信に行き着くのだ。
※コメントは煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント入力希望の方や御意見、メッセージは mr.cordial@live.jp へ御気軽にどうぞ。
〈会費&御支援〉みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ
真淵は、国学・歌論について記した書である「にひまなび(新学とも表記される)」で、「大和国は丈夫(ますらお)の国にて、古は、おみなもますらおに、習えり。故、万葉集の歌は、凡丈夫のてぶり也」と教えている。
多くの日本人は「万葉集」も「古今和歌集」も同じ文学的価値のものだと思っているが、真淵は「両者(万葉集と古今和歌集)は大きく違う」という。
前出の「にひまなび」の続きは、「山背国はたをやめの国にして、丈夫もたをやめを習いぬ。かれ、古今和歌集の歌は、専ら手弱女(たおやめ)のすがた也」
真淵は「古今和歌集」の歌は、儒教や仏教に毒され、技巧を弄した作品であり、「万葉集」の単純な写実から、素直ではない形式的な技巧と断じている。
「万葉集」の素直でな風景描写や率直な感情表現を「高く直き心」と説き、これこそが素朴で雄渾な日本人の魂であると評し、これを「ますらおぶり」と現した。
対して、平安時代(山背国)に成立した「古今和歌集」は、外国(とつくに)の影響を受けた歌風であると評し、これを「たをやめぶり」と呼んだ。
「手弱女(たおやめ)」とは、優しいとか、淑やかな、という意味もあるが、浮かれ女、遊び女、という意味もあり、要は、大和国の「丈夫(ますらお)」ぶりを詠った万葉集に比べて、古今和歌集は女々しいと感じたのだろう。
分かり易く喩えれば、万葉集は男性的であり、古今和歌集は女性的。つまり、真淵の思想は男性優位であり、男女共同参画社会の現代に於ては、ジェンダーフリーを叫ぶ性的変質者らからは非難の対象となるに違いない(笑)
況してや、古今和歌集に集録されている約1100首の歌は天皇の勅撰和歌集でもあり、今なら国士を気取る自称愛国者らからも糾弾されるかもなぁ(笑)
真淵は、「和歌は政治の根本であり、経世・経国に役立つもの」と教える。何故なら歌には人心を和らげ、世の中を和やかにする力があるからだという。
真淵が「万葉集」研究に打ち込んだのは、趣味や文化研究でもなく、日本を佳い方向へ導く為の教えを模索していたのだろう。では、万葉集から何を学ぶか。
万葉集を学ぶには万葉集で使われている古語を習得することだという。これが凡人の愚生には容易なことではない。ならばどうするか、要は万葉集を見様見真似で何度も何度も繰り返して詠んでみることに尽きる。
「今、右翼にとっての真なる敵は右翼自身である。フィクサーを気取ったただの金権右翼、思想も信念も持たないゴロツキ右翼、詩心を持たない乞食右翼等等、我が内なる敵は多岐にわたる」と喝破したのは新右翼のカリスマ・野村秋介。
愚生は金権右翼団体に所属はしていたがカネに縁が無いゴロツキ右翼か、詩を詠もうにもどうも語彙に乏しく上手く詠めないから乞食右翼の両方か(笑)
「人真似上手は個性を想像する」という言葉が在る。敬愛する人の言行を何事も真似てみるというのはその道を極める上では重要なことでもある。その人の考えや所作などを真似することは悪いことではないし、後々己の個性が醸成されて行く。
武道などの「稽古」とは、技芸などを師から習い身に付けることをいうが学問も同じこと。稽古とは「古(いにしえ)の道を考える」ということであり、師や先達に学ぶこともなく、また古の教えも知らないのでは修業とは言えない。
稽古の「稽」とは「考える」という意味があり、「古書を紐解いて古人の教えを学ぶ」というのが「稽古」の本来の意味でもある。
真淵は、古代の純粋な日本人の心を会得し復元する為に、万葉集で使われていた言葉を紐解いて蘇らせる。これは「心と言葉は直結した存在である」との考えで、古の人の心や思想、人倫が言葉に現れていると確信したからだろう。
そのことによって「国意」を形成しようとしたのだ。この発想こそが国学の基本であり日本こそが「世界で唯一正しい国である」との確信に行き着くのだ。
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cordial8317 at 07:51│Comments(0)
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