爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺(戒石銘)赤穂浪士の仇討ちも、泉岳寺で腹を切らなかったのが落度と言うべきだ

2017年12月12日

「この世は、あるがままで悟りの世界」と教えた「本覚思想」

 愚生の場合、極楽浄土とは現世に在ると思っている。自分より劣る者に惜しみなく教え与え、難渋している者の相談に乗り、自分なりに如何にして助けてあげるか、少しでも安堵させるか、極楽浄土とは単にそういうものだと考えている。

「死後に極楽浄土(天国)がある」というのは、釈迦牟尼やキリストが、人の抱く死への恐怖を取り除く為に吐いた優しい嘘だと思っているし、死んだら「無」、地獄も天国も救いの為の教えでしかない。

「この世は、あるがままで悟りの世界」と教えたのが「本覚思想」。平安時代から鎌倉~室町時代にかけて仏教信者に人気のあった思想でもある。

「本覚」とは、悟りに至る為の清らかな知恵といった意味で、仏教では「その清らかな知恵は全ての者に備わっており、誰でも悟れる可能性がある」と教える。だが、可能性は可能性に過ぎず、現実に悟れるかどうかは分からない。

 これを「本覚思想」では、可能性ではなく、抑々人間の心に100%備わっていて、目の前の現実が「悟り」であり、仏の道だと教えている。

 元々、仏教は「全てのものは互いに関係があって、何かが別の何かの原因であり、結果である」という教えであり、所謂「縁起」という思想であり、「悪因悪果」や「因果応報」などというのがその一つ。

「悟り」とは本来、こうした縁起を理解することで、つまり「現実の意味を知る」とは「現実を受け入れる」ということでもある訳で、現実を見た儘で納得することそのものが「悟り」でもあるのだ。

 我が国は古来より随神(かんながら)の道、即ち神道という教えが根付いており、自然崇拝は当然のことで、我が身を包む自然の営みを「悟り」と認めた本覚思想は実に魅力的な仏教思想だったのだと思う。

 本覚思想には「死後に極楽浄土がある」という浄土思想とは相容れない。現実が浄土であり、愚生の極楽浄土への感覚に近い。

 この本覚思想の現実の肯定は「修行の軽視と否定」という問題もあり、どうしても堕落的になる。江戸時代になるとこの点が批判されて本覚思想は廃れて行ったのは、修行に重きを置く仏教が広まったからだろう。

 正に宗教とは流行(ブーム)に流されて来た歴史でもあるが、当世の新興宗教も仏や神の道というより単なる流行でしかない。本来「流行」という意味は「病気」の意味で使われた言葉で、信者はその熱に冒されているだけ。

 斯くいう愚生も、別に本覚思想の代表的な文献である「三十四箇事書」を読んだ訳でもないのだが、極楽浄土感や堕落的生活ぶりを肯定してしまってる生き方は、正に本覚思想からのものでは?と最近何となく気付いた(笑)

 ということで、皆さんも、葬式坊主から戒名さえ貰えば都合好く極楽浄土の世界に行けるなんてことは無いと思いますよ。呵呵大笑。

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cordial8317 at 04:44│Comments(0)

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