亡国の危機と不安を煽り「信」じる「者」がいるから「儲」かる(笑)ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり公式文書でなく無効である

2023年02月03日

「この世はあるがままで悟りの世界」と教えた「本覚思想」

 愚生の場合、極楽浄土とは現世に在ると思っている。自分より劣る者に惜しみなく教え与え、難渋している者の相談に乗り、自分なりに如何にして助けてあげるか、少しでも安堵させるか、極楽浄土とは単にそういうものだと考えている。

「死後に極楽浄土(天国)がある」というのは、釈迦牟尼やキリストが、人の抱く死への恐怖を取り除く為に吐いた優しい嘘だと思っている。死んだら「無」だ。

 地獄や天国というのは救いの為の教えでしかない。「この世は、あるが儘で悟りの世界」と教えたのが「本覚思想」。平安時代から鎌倉~室町時代に仏教信者に流行った思想でもある。「本覚」とは、悟りに至る為の清らかな知恵といった意味。

 仏教では「その清らかな知恵は全ての者に備わっており、誰でも悟れる可能性がある」と教えるが、可能性は可能性に過ぎず現実に悟れるかどうかは分からない。

「本覚思想」では可能性ではなく、抑々人間の心に100%備わっていて目の前の現実が「悟り」であり、仏の道だと教えている。元々、仏教は「全てのものは互いに関係があって、何かが別の何かの原因であり、結果である」という教えであり、所謂「縁起」という思想であり、「悪因悪果」や「因果応報」などというのがその一つ。

「悟り」とは本来、こうした縁起を理解することで、つまり「現実の意味を知る」とは「現実を受け入れる」ということでもある訳で、現実を見た儘で納得することそのものが「悟り」でもあるのだ。我が国は古来より「随神の道」である。

 即ち、神道の教えが根付いており、自然崇拝は当然のことで、我が身を包む自然の営みを「悟り」と認めた本覚思想は実に魅力的な仏教思想だったのだと思う。

 本覚思想には「死後に極楽浄土がある」との浄土思想とは相容れない。現実が浄土であり、愚生の極楽浄土への感覚に近い。本覚思想の現実の肯定は「修行の軽視と否定」という問題もあり、どうしても堕落的になる。江戸時代になると、この点が批判されて本覚思想は廃れて行った。修行に重きを置く仏教が広まったからだろう。

 正に宗教とは流行(ブーム)に流されて来た歴史でもあるが、当世の新興宗教も仏や神の道というより単なる流行でしかない。本来「流行」という意味は「病気」の意味で使われた言葉で、信者はその熱に冒されているだけ。今も昔も変わらじ。

 斯くいう愚生も、別に本覚思想の代表的な文献である「三十四箇事書」を読んだ訳でもないのだが、極楽浄土感や堕落的生活ぶりを肯定してしまってる生き方は、正に本覚思想からのものではないのかと、最近何となく気付いた次第(笑)

 葬式坊主から戒名さえ貰えば、都合好く極楽浄土の世界に行けるなんてことは無いと思いますよ。つ~か、先祖や自分の宗派は分かりますか?呵呵。

※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。

《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。

cordial8317 at 05:22│Comments(0)

コメントする

このブログにコメントするにはログインが必要です。

亡国の危機と不安を煽り「信」じる「者」がいるから「儲」かる(笑)ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり公式文書でなく無効である