国の為 たふれし人ぞ あるこそを 今の若人 育ち来らん(山口二矢)「十五夜」は知ってても「十六夜」というのは余り知られてはい

2017年11月05日

武道や芸事の世界では「守・破・離(しゅ・は・り)」の意味を重視する

 茶人・山内宗二が記した「茶湯年来稽古」というのがある。

「十五ヨリ三十マデ万事ヲ師ニマカスル也。三十ヨリ四十マデハ我ガ分別ヲ出ス。四十ヨリ五十マデ十年間ハ師ト西ヲ東ト違ッテスル也。其ノ内、我流ヲ出シテ上手ノ名ヲトル也。又、五十ヨリ六十マデ十年ノ間ハ師ノ如クスル也。名人ノ所作ヲ万手本ニスル也。七十ニシテ宗易ノ今ノ茶湯ノ風体、名人ノ他ハ無用也」

 凡その意味は、15歳から30歳迄は師の教えを忠実に守り、30歳からは自分なりに思索し、40歳からは師の教えとは逆にやってみる必要があるということ。50歳からは師の如く振る舞うことで己も名人の域になれるということだ。

 この教えの基となっているのが、宗二の師である千利休の「守・破・離」の心である。武道や芸事の世界ではこの「守・破・離」の意味を重視する。

「守(しゅ)」とは「修める」ことであり、師の教えや古からの教えを学び、修行によって技芸を身に付けること。

「破(は)」は、そうした今迄の既存の概念や枠組み、秩序というものを破壊してみること。要は、固定観念を棄てること。

「離(り)」とは、師匠や既存の教えから離れて、自分で思索して自身の型を創造してみること。この新しい発想が未来へ繋がる。

 つまり、伝統を重んじる武道や芸事とあろうと、単に伝統を守り伝えようとするだけでは、結局のところ伝統を守れなくなってしまうということでもある。

 今に伝えられてることは、古より先人が失敗に失敗を積み重ねた中で、思索して厳選して遺したことでもある。こうした先人の当時の悩みや困難を少しも考えずに学ぶということは、大きな失敗もせずに近道で辿り着こうとしているということ。

 そんな楽な修行で好い筈があるまい。況してや師の教えだけ学んだところで、師や先人が辿り着いた処からは先へ進むことは出来ないだろう。ここで初めて「破」と「離」が必要となってくる。

「温故知新」という。古きを訪ねて新しきを知るには、やはりそこから突き抜ける努力が必要なのだ。伝統に学び、根本的な精神を後世に存続させて行くには、新しい息吹を注入する必要がある。そうすることで伝統が再生し、更なる伝統となって受け継がれて行くのである。伊勢の遷宮である「床若(とこわか)」がそう。

 唯唯、闇雲に新しいことをやれば好いというものでもない。古に学び、習得し、それを確り護るというのが先ず大事なこと。武道や芸事に限らず、何事も確りした土台がなければ、伝統を後世に存続させて行くことは出来ない。

 現在の我が国の政治に欠けているものも古(先人)の教えであり、安倍を筆頭に、未来志向の新自由主義者ばかり。国家というのは未来が全てではない。政治は結果責任というが、過去を振り返り、そこから学び、未来に生かすことが必要となる。

 正統の保守主義者に於いて時間を体験する仕方は、過去の意味を直視し、その中に価値を見出す発見によって未来を創造して行くものである。我が国の保守派が軽軽しいのは先人に学ぶことが無いからだ。政治でも正に守破離の教えが大事である。

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cordial8317 at 06:58│Comments(0)

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