筋金入りの反日派・文在寅が次期韓国大統領に就くという意味福島県や自称・被災者を慮っている様に装う反原発派にはうんざり

2017年04月06日

道徳教育とは体育の授業と同じ。行動や実践が伴わなければ意味はない

 読書量を自慢し、本棚に並ぶ本の多さに悦に入ってる人がいる。斯くいう愚生も、若い時分にはそういうこともあったが、読書量を誇ったところで意味はなく、本の中身の感ずる処を書き記し、自ら実践してみることが何より大事なことである。

 実践すれば失敗する。その失敗を反省し、その理由を探り、失敗を次に繋げる糧とすることが貴重なのだ。失敗しない成功に意味はない。国士舘の創立者・柴田徳次郎先生が教える「読書」「体験」「反省」「思索」の四徳目とはそういうことだ。

 保守陣営から「教育勅語」を道徳教育の指導原理と成し、また戦前の「修身」復活の声も聞こえるが、これらを幾ら教え諳んじたところで、その教えを実践しなければ単なる画餅に帰すだけだ。道徳教育とは体育の授業と同じで、理論を教えることは大事ではあるが、喩え頭で考えても行動や実践が伴わなければ意味はない。

 嘗ての我が国は「教育立国」として明冶の試練と昭和の国難を次々と乗り越えた。極貧の中から多くの偉人が輩出したのは、立派な教育の故であろう。

 悲しい哉、現在の我が国を見渡せば、自己中心性の欲望だけは卑しい留まる処を知らず、日本人の美徳である勤勉性や家族愛、愛国心、信義誠実の原則は失われ、心の中の高貴さを失い、日本人としての高邁さは忘れ去られてしまった。

 高邁な魂を喪失した国民に最も大事なものは、将来を担う子供達への教育を如何に充実させるかは大事ではあるが、道徳教育や「修身」復活を願うなら、先ずは政治家自らが実践して模範を示すことだ。修身を復活するというが「おたけがめくらのてをひいて」の「めくら」は差別用語でもあり、放送禁止用語でもあるが、こうした差別用語が羅列されてる「修身」の復活は無理ではあるまいか(笑)

 愚生の敬愛する評論家というか現代の思想家でもある新崎智こと呉智英(くれ ともふさ、ご・ちえい)は、差別を「差別は正しい、差別と闘うのが正しいのと同じぐらい正しい。人類が目指すべきは『差別もある明るい社会』である。差別さえない暗黒社会にしてはならない」。哲学的ではあるが実に示唆に富んでいる。

 愚生は読書よりも映画が好きでジャンルは問わず毎日何かしら観ている。年間に500本は超える。中でも日本映画の、例えば「座頭市」や「眠狂四郎」とかの古い映画ってのは、放送禁止用語がバンバン飛び交ってて実に面白く興味深いものばかり。

 盲(めくら)、唖(おし)、吃(ども)り、跛(びっこ)、聾(つんぼ)という差別用語は台詞の中で飛び交っている。マスコミのくだらない倫理観によって規制されてるのは逆差別にも感じてしまう。古い日本映画や古典落語には差別用語だけではなく、懐かしくも美しい日本語が処処に溢れていて、実に実践した教育である。

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cordial8317 at 05:23│Comments(0)

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