森友学園騒動と「過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し」という古諺神武肇国から続く万世一系の皇統が平成の世を境に・・・

2017年03月04日

園児に偏った考えや狭い視野を押し付けてしまうことになる(嗤)

 愚生の故郷でもある二本松市小浜に在る浄土宗の寺の僧侶のブログが目に留まり、何気に読んでみた。尤もらしく書いてはいるが、教育勅語を先の戦争に繋げたり、平気で「子ども」表記を使ったりと典型的な無自覚左翼。仏の道を説く者としては実に薄っぺらく、所詮は己の宗教の杓子定規でしか物事を見ていない偏狭な考え。

 内容を端折って言うと、「とある幼稚園のニュースが話題になっています。そもそもの発端は、この学園が小学校を開校するために、広大な土地を格安で国から買い取ったことでした。その他、様々な疑念が取り沙汰されています。また、園児に、運動会の選手宣誓などで総理大臣を誉め讃えさせたり、園の活動で教育勅語を暗唱させたりという教育方針が取り上げられています」。とある幼稚園とは「森友学園」。

「様々な疑念はともかくとして、私立の幼稚園ですから、保護者から反対されなければ、基本的にどんなことに取り組んでも良いのかもしれません。しかし、いくら私立とは言え、政治的な事柄をはじめ、何でも偏らない事が大切なことだと思います」

「実際、テレビで選手宣誓をしている様子を目にしましたが、戦前の軍国主義時代の映像をみているようで、私は良い気持ちがしませんでした。私が園長をしている幼稚園では、先祖を大切するとか、他者を傷つけない、と言った仏教の理念を保育の基本にしていますが、自分の宗派をはじめ、特定の宗派に偏らないように心がけています。そうでなければ、園児に偏った考えや、狭い視野を押し付けてしまうことになるからです」。「戦前の軍国主義時代の映像」との喩えは嗤うしかない。

 正しく、幼児教育に於いては偏った考えや思想を押し付けてはならないのは言うまでもないし、伸び伸びと大らかな和の心を育むことが肝要である。まぁここまでは同じ様な主張もあるし、別段どうってことはないが、この続きはこうだ。

「ネットでは、教育勅語のどこが悪いのか、という意見も散見されます。教育勅語は第二次世界大戦前の、天皇が君主で国民が臣民という枠組みの中で生まれたものです。ですから、万が一の時には、皇室やお国を守るために忠義を尽くす事が求められています。こうした教育の結果、日本は第二次大戦を戦い、莫大な死者を出し、敗戦国となりました」。おいおい、「園児に偏った考えや、狭い視野を押し付けてしまうことになるからです」と言いながら、それこそ自分が狭い視野でしょ(笑)

 教育勅語は、明治23(1890)年10月30日に渙発されたもので、別に第二次世界大戦前に作られたものではない。この坊主の主張に倣えば、教育勅語渙発の4年後に起きた日清戦争は教育勅語の賜物か、明治37年に勃発したロシアとの祖国日本の存亡をかけた戦いで、起死回生で我が国が勝利したのも教育勅語の影響なのか(笑)

 教育勅語には次の12の徳目が記されている。

 1.親に孝養を尽くしましょう(孝行)
 2.兄弟・姉妹は仲良くしましょう(友愛)
 3.夫婦はいつも仲睦まじくしましょう(夫婦の和)
 4.友だちはお互いに信じ合って付き合いましょう(朋友の信)
 5.自分の言動を慎みましょう(謙遜)
 6.広く全ての人に愛の手を差し伸べましょう(博愛)
 7.勉学に励み職業を身に付けましょう(修業習学)
 8.知識を養い才能を伸ばしましょう(知能啓発)
 9.人格の向上に努めましょう(徳器成就)
 10.広く世の人々や社会の為になる仕事に励みましょう(公益世務)
 11.法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう(遵法)
 12.正しい勇気をもって国の為、真心を尽くしましょう(義勇)

 道徳教育で大事なものは幼年期の「躾」であり、道徳というものを概念的、論理的に捉えようとするのではなく、学んだことを如何に実践するか、如何に行動で表せるかが大事である。信仰や宗教でもそうだが、「道」というものは日常の実践であり、特別に意識するのではなく、日常を過ごしながら身に付き現れてくるもの。

 道徳教育の根本は、明治天皇の恩徳により渙発された「教育勅語」に示されている通り、「忠孝の道」を確立することに在るのだが、この世間知らずの坊主は「義勇公に奉じ」ばかりを論い否定するのはチョッと強引過ぎるのでは(笑)

 我が国の国柄である皇統や御皇室、国を守る為に忠義を尽くすことはその国に生を享けた者として当然の務めであると思うし、仏教でも天長節や天皇行啓の折などには玉体安穏を祈念する寺も在り、正に神仏習合は日本の文化でもある。

 勅語に示された「義勇公に奉じ」を曲解して、「万が一の時には、皇室やお国を守るために忠義を尽くす事が求められています。こうした教育の結果、日本は第二次大戦を戦い、莫大な死者を出し、敗戦国となりました」などとは、共産党を始めとした左翼がこの一部分を口実に教育勅語を否定してる手法と同じ。

 一旦緩急あれば、国の為というより、家族や愛する者の為に戦うというのは当然のことだ、浄土宗から分派した浄土真宗には「大谷派」を始めとした共産党系の組織があるが、この寺も浄土宗から真宗大谷派なのだろうか。だったら合点が行く(笑)

 我が国は、天皇を族長と仰ぐ君民一体の家族国家であり天皇即日本、日本即天皇の天皇国家である。この国體の精華は万邦類を見ないところである。従って、陛下の御代が栄えることは、即日本が栄えることでもある。つまり、国柄を守るということは皇統を護ることであり、それの何処が不都合なのか。そんな認識で大丈夫か?

「教育勅語は、天皇が国の象徴となり、主権が国民に移った現代にはそぐわない内容ですし、教育勅語を奉じるということは、また同じ過ちを繰り返す事になるのではないか、と私は危惧します」というが、先の大戦を「過ち」としている処がこの坊主の戦後民主主義の自虐史観と不見識を現している。この思想は親の教えだろう。

 天皇とは法律以前の御存在であり、主権が国民に移った現代であろうが万世一系の天皇を頂く国體は変わることはない。万世一系の天皇を我が国元首として仰ぎ奉り、陛下の御稜威を国民生活の隅々にまで行き亘らせることこそが理想であり、それは日本国民として当然の願望である。我が国はいつの世も陛下の御代であり、いつの世にもそこには「君が代」の世界が存在し、それは存在し続けなければならない。

 別に教育勅語に、そうした天皇の護持などということが書かれている訳ではない。日本人としての道徳の根本を教え、そして忠孝の道を記されているのだ。それこそこうした我が国の国柄を見事に現しているのは「日の丸」と「君が代」だが、この住職は恐らく国旗や国歌に対しても違和感を覚えているに相違ない(笑)

 何故なら、この住職は無自覚左翼というよりも明らかな左翼、反天皇主義者の主張であるからだが、坊主という立場は小さな村社会ではその発言の影響が少なくないので幼稚な平和主義などの軽々しい発言は控えるべきだと思う。

 森友学園の籠池泰典理事長の教育論を全て容認するものではないが、この浄土宗の僧侶が運営する幼稚園も、「先祖を大切するとか、他者を傷つけない、と言った仏教の理念を保育の基本にしていますが、自分の宗派をはじめ、特定の宗派に偏らないように心がけています」とは言いながら、無意識の内にそういう反国家的な考えを浸透させている訳で、ある意味、森友学園より始末が悪いとの自覚は無いのか。

 仏の道を説く者としてはそこに俯瞰した言葉は無く、己の宗教と御粗末な情報から導き出した偏狭な考えという他はない。教育勅語を己の価値観や考えで否定するとかではなく、そういう訓えもあるのだというだけで好いのではないか。

 別に愚生は仏教徒ではないが、浄土や天国、地獄というのは釈迦牟尼やキリストらの民衆を救う為の好い嘘であるが、釈迦にしろ親鸞や最澄、空海、日蓮、法然、道元、達磨など開祖の坊主というのは困難や苦難、試練の上で悟りの境地に達したと理会するし、我が国の古来の教えである随神の道、つまり神道と共存を選んだ。

 この故郷の坊主は、随神の道である神道を否定しているから、教育勅語を拒否しているものと思われるが、教育勅語も般若心経などの民衆を救う教えの一つであると思えないこと自体が、坊主としての修業が足らないのではあるまいか(笑)

 故郷の友人知人と雖も共産党員や社会党もいれば、反安倍やら無自覚左翼の戦後民主主義者もいるのは承知しているが、当時、既成の仏教の教えに疑問を抱き、「唯、只管念仏を唱えよ」という「称名念仏」の方法である「南無阿弥陀仏」を唱えさえすれば浄土に行けるとした法然の教えを否定されたらどんな気持ちか。

 何でもかんでも、先の大戦を悪とする考えは僧侶として実に幼稚で軽々しく、禅宗の寺で座禅を組むなり、他宗派ではあるが、真言宗の修験僧に見倣って大峰山などの修験の山に籠って修行したら如何だろう。何でもかんでも、「南無阿弥陀仏」で済ませ様などとは浄土宗の悪い処で、チョッと虫が好過ぎはしませんか(笑)

 最澄は空海に密教の教えを乞うた様に他の宗教に学ぶことも大事。浄土宗は貧困の民衆ばかりではなく、教養の乏しかった鎌倉武士や貴族にも受け容れられ、国民仏教として栄えるも従来の仏教勢力から反発を買い法然は流罪となった。

 法然とは当時は革命家というべき存在だったのだ。それを今風に喩えれば単なる前科者、キチガイ。そうした開祖の苦労と血の出る様な努力に胡坐をかいて、ワイドショーのコメンテーターの様に一部分を見て偉そうに語るなっての(笑)

 この故郷・小浜の浄土宗の坊主に限らず、今や仏の道なんぞなく単なる葬式仏教に成り下がった。安穏とした中で己自身が悟りを拓く訳でもなく、単なる齧った程度の学問やテレビの情報で、気骨ある明治人の尊い教えを否定するのは如何なものか。

 今や坊主なんてのは仏教を利用した商売であり生業に過ぎない。釈迦牟尼や地獄・極楽を売り物にした営業仏教というのが正しく、そんな坊主が綴ったブログに一々反応してる様じゃ、この坊主と同じで愚生も修業が足らないなぁ。呵呵大笑。

※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。

《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員は300000円~。

cordial8317 at 05:55│Comments(0)

コメントする

このブログにコメントするにはログインが必要です。

森友学園騒動と「過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し」という古諺神武肇国から続く万世一系の皇統が平成の世を境に・・・