一片の瘠せ我慢こそ百千年後に至るまで国の独立を維持する上で大切である民主主義こそ我が国を崩壊に導いた元凶でもある

2016年10月13日

亀井静香、石原慎太郎らが「賊軍」合祀を申し入れ

 石原慎太郎元東京都知事と亀井静香、平沢勝栄ら超党派の有志衆院議員が、「賊軍と称された方々も、近代日本の為に志を持って行動した」として靖國神社の徳川康久宮司へ、合祀するよう申し入れた。

 愚生は常々、死者の選別も見直すべきだと思っている一人でもある。我が故郷の二本松藩や会津藩は未だ「朝敵」と断じられ続けているが、抑々「朝敵」という言葉はなく、「賊軍」とは、明治新政府の長州閥らによって作られた造語である。

 戊辰の役(戦争)では「西軍」と「東軍」は干戈を交えた。我が二本松藩は「東軍」であり、「皇軍」という名の「官軍」と「朝敵」とされた「賊軍」が戦った訳ではない。

 靖國神社は明治2年、明治天皇の思し召しにより、「東京招魂社」として建立された神社であることは誰もが知るところ。その合祀対象は、三条実美の祭文に明示されている様に「皇軍に役立ちして、賊徒等を討たん其の義に・・・命果てぬる輩」に限られている。

 この三条公の祭文の原則がある限り、そしてそれを見直さない限り、会津藩や我が二本松藩、或いは「西南の役」で敗れた西郷軍関係者が祀られることはなく、未来永劫 「賊軍」の汚名が灌がれることはない。

「朝敵」と差別され続けている方々は本殿脇に鎮座する「鎮霊社」に祀られているが、「朝敵」とされた方々を本殿に祀ることと、別なカタチで祀ることのどちらが現代という時代に即して天皇(すめろぎ、すめらぎ)が顕現される道なのか。何より死者の選別を続けることは日本人の死生観にもそぐわない。

「朝敵」や「賊軍」と蔑視され続ける方々もまた近代日本の為に志を持って行動したことは明らかであり、本殿に合祀し、名誉の恢復を図ることこそ大事なのではあるまいか。

 そういう意味では今回の超党派議員の申し入れというのは理解出来るが、これもまた所謂「A級戦犯分祀論」と同じく一宗教法人たる靖國神社への圧迫行為であり、現憲法違反に問われかねない行動でもあるのだ。

 戊辰の役(戊辰戦争)で敗れた会津藩は「朝敵」「逆賊」に仕立てられ、不毛の領地「斗南藩」に移されることで終結するが、酷寒の地であり、荒れた土地の開拓は艱難辛苦を極めた。だが、その開拓がその後の津軽(後の青森)の発展に寄与したことは言うまでもない。  

 会津藩に限らず戊辰戦争で幕府に恩義を感じ、抗戦し、敗れた多くの東日本の雄藩は、新政府に参政することなく辛苦の日々を送っていた。

「賊軍」の汚名を着せられた多くの人々は、新政府に対して言いたいことは山ほどあっただろう。だが彼らは臥薪嘗胆、耐えることで國全体が保たれるのならばと己の悲運を甘受し、その抗し難い天命を潔しとした。

 明治9年、畏くも明治天皇は、東北・北海道へ約50日間に及ぶ巡幸に臨まれた。この巡幸の目的が戊辰戦争に敗れて以降、不慣れな土地で艱難辛苦の日々を送っていた人々を慰撫し、激励する為のものに他ならない。

 この東北・北海道の巡幸を以て、戊辰の役での瞋恚(しんい)は慰撫され逆賊も朝敵もなく、一切の蟠りも無くなったのだ。本来であればこの巡行を機に、靖國神社在り方、英霊の祀り方を見直すべきだったが、新政府の長州閥がそれを赦さなかったのは想像するに余りある。

 因みに、巡行は「明治丸」で横浜に帰港され終わるが、その帰還された日が7月20日であり、「海の日」の謂れであるのだ。 これをしても天皇と国民は正に君民一体であることを改めて痛感する。

cordial8317 at 05:20│Comments(0)

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