「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という様に何事も中庸が肝心三国人たちは欣喜雀躍とし略奪と報復の火蓋を切った(山口組三代目・田岡一雄)

2021年09月01日

「国歌斉唱中なので動くのは不敬であると考えた」(重光葵と野村吉三郎)

「終戦の日」というと戦後の米国の洗脳から8月15日が一般的だが、ポツダム宣言を受諾したのは前日の14日。そしてその降伏文書に調印した屈辱の日が9月2日であり、諸外国では翌3日を「対日戦争終結の日」や「終戦の日」としている。

 ポツダム宣言受諾から約半月後の9月2日、重光葵外相と梅津美次郎参謀総長が降伏文書に調印の為に東京湾上に停泊してた戦艦ミズーリ号に向かった。

 昭和7年4月29日の「上海天長節爆弾事件」で右足を失った重光全権は、ステッキを頼りに義足を引き摺りながら戦艦ミズーリ号の細長い階段を喘ぎ喘ぎ上る。

 調印を前に重光は一杯の水を所望するも米国側に冷たく拒否された。敗戦者で卑怯者の「ジャップ」にやる水などないという米国人の憎悪と蔑視が目に見える。

 昭和7年4月29日、重光は上海に於いて、駐中華民国公使として天長節奉祝式典に参列し国歌を斉唱する。この時、朝鮮独立運動家・尹奉吉が爆弾を投擲した。

 だが、重光は爆弾が投擲されたその場から逃げることなく「君が代」を歌い続け、結果、片足を失うこととなった。重光はこの時の様子を振り返りこう述べた。

「爆弾が投げられたのは分かっていたけれど、国歌斉唱中なので動かなかった。動くのは不敬であると考えた」 。同じく重光の隣で遭難し片目を失った海軍大将・野村吉三郎も「国歌斉唱中だったから逃げなかった」と、同様の理由を語っている。

 後に外務大臣や駐米大使となる野村や重光の様な、こうした決死の覚悟と肝の据わった官僚や政治家がいないのは現代日本の不幸とも言えよう。

「君が代」「日の丸」に反対する勢力にしろ軽々しく国旗や国歌を利用する自称・愛国者らにしろ、重光や野村の様な決死の覚悟が伴っているかといえば疑問だ。

 降伏文書によって我が国は「負け」を認めたが、先の戦争の大義は決して間違いではない。抑抑、何故に我が国が開戦を決意し真珠湾攻撃に至ったかが問題であり、それにはペリー来航時代にまで遡らなければ到底理解は出来まい。

 我が国は西欧列強に倣い、強力な中央集権国家を形成しようと明治維新という大業を短期間で成し遂げた。15世紀の大航海時代以来、白人による世界制覇の波がアジアにも押し寄せ、アジアは次々と列強に蚕食され植民地となった。

 その間に勃発した「日清・日露戦争」や「日韓併合」なども避けては通れない宿命的な歴史だったのだ。「日清・日露戦争」での日本大勝利の報は、固唾を呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させ、特に有色人種に与えた影響は強烈だった。

 日露戦争勝利から15年後、パリ講和会議で日本は「人種平等の原則」を国際連盟規約に載せることを提案するも米国大統領ウイルソンが拒絶し否決された。

 こうした有色人種である日本からの正当な要請に対しても、白人至上主義から「有色人種に人権など必要無い」との差別や蔑視が横溢していたのは明らかだった。

 その後、世界は第二次世界大戦に突入し、我が国はABCD包囲網や最後通牒を突き付けられ、最早生き残る道は連合国との戦争しかないとの決断に至るのだ。

 今も糾弾して止まない「リメンバーパールハーバー」は、日本人への偏見と差別と歴史への冒涜であり、先の大戦の過ちを猛省すべきは米国自身である。

 歴史を語る上で大切なのは、古今東西、世界に蔓延る覇権主義の克服を主張すべきであって、他国の覇権主義に目を瞑り、米国の謀った戦後民主主義教育という洗脳から目覚めることなく一方的に自虐の淵に止め処なく漬かり込むことではない。

 歴史というのは国家の大本である。日本という神の国に生まれ育った者として、大東亜戦争の真の歴史と意義を知ることは国民としての義務でもある。

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