「右翼の敵は右翼に在り」とは田舎にいるとホントよく分かる(笑)貴方様より貴い神が現れたので皆喜んで騒いでいるのです

2015年04月04日

自己放棄に達しない思想は卑しい思想であり、思想を維持する精神は狂気でなくてはならない

 「自己放棄に達しない思想は卑しい思想である」とは三島由紀夫。

 つまり、思想を抱くということは、そのまま「死」を覚悟するということでもある。

 これは右翼も左翼も、社会主義者も国粋主義者も関係なく、常に思想信条の為に命を賭す覚悟が大事であるということだ。

 だがしかし、現在の思想家(思想にもなっていないが)を気取る輩にその気概は視られず、ただただ口舌の徒や売文屋に成り下がっている。

 「居の安きを求るは真の志士に非ず」とは吉田松陰。

 種々の生業を作(な)して自活することを恥ともせず、日々の生活を優先しながら活動家を気取るとはなんたることか。

 松陰は「思想を維持する精神は、狂気でなければならない」と訓える。

 「狂気」とは、気が狂うと書くが、常軌を逸した精神状態に非ず。

 愚生もしがない放蕩右翼だが、こうしただらしのない生き様も、見ようによっては「狂気」であろうが、常軌を逸してるというより、単に常識というものが欠乏しているのかも知れない。否、欠落しているに違いない(笑)

 「狂」とは陽明学の「狂」であり、「理想を高く持ち、何の虚飾も隠し立てもなく、心のままに率直に行動すること」である。

 陽明学を簡単にいえば「知行合一」の教えであり、言葉にしたことは必ず実行するという「知行合一」という思想である。

 陽明学は、先ず「志を立てる」ところから始まり、その志を行動に昇華させることで己の思想が終結する。

 右翼にしろ、左翼にしろ、政治家を志すにしても、自分の言葉に責任を持ち、自らが率先垂範して国民の模範となることが大事だということだ。

 陽明学では、人間の格位を「聖賢」「狂」「狷(けん)」「卿愿(きょうげん)」の四つとし、孟子はこれを注釈している。端折って書けばこういうことだ。

 「聖賢」とは、知識・人格に優れた人物。

 「狂」とは、理想主義。

 「狷」とは、不潔を潔しとしない者。

 「郷愿」とは、世俗と歩調を合わせた風俗とし、徳の賊(道徳家を装って郷里の評判を得ようとする俗物)。

 「狂」とは、己の信念(理想)に向かって脇目もふらずに突進(行動)することである。

 また「狂」とは、「もし過失があれば改めさえすればよい」とする臨機応変的なものでもあり、世俗社会の常識に対し果敢に挑戦する実践的理想主義とも言えよう。

 自分の行動を「狂挙(きょうきょ)」と敢えて言える為には、歴史を見つめる「冷静な目」が必要であり、この「狂の精神」こそが、明治維新への道を切り開く転換点となったと言っても過言ではない。

 旧来の思想や社会構造を打破しようとする時に起こる常軌を逸した行動こそが「正気」の「狂気」であり、「狂挙」なのである。

 「狂挙」とは、義に従って突き進むことであり、己が正しいと思ったら、損得なんぞ考えず、それに向かって猛進することである。

 「仁侠(任侠)」も同じ様に、弱い者を助け、強き者を挫き、義の為には命を惜しまない気風を言うが、損得ばかりで暴力団に成り下がった現代ヤクザにその精神は無い。

 ヤクザが仁侠になるには、仁に狂うことであり、つまりは「狂挙」を重んじる仁侠精神に回帰し、真の仁侠道に猛進することだろうと思う。

 どの世界も「狂気」の「狂挙」こそが現状打破の大きな力となり得るのである。

 だが、悲しいかな昨今の右翼にしろ、自称・愛国者にしろ、保守派にしろ、居の安きを重んじるばかりで、そこに「狂気」はない。

 つまり、それは本気さが乏しいということで、要は世俗と歩調を合わせた「郷愿」であり、賊であるともいえるのだ。

 吉田松陰もこう訓える。

 「君、狂い給え!」

 そこの貴方には、抱いてる理想はありますか?

 志しは潰えていませんか?

cordial8317 at 07:27│Comments(0)

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