神道とは日本人の心に清む惟神(かんながら)の道である歴史の中に未来の秘密がある。変化こそ唯一の永遠である!

2015年02月14日

曽野綾子のコラムへの言いがかりこそ差別そのものだ

 曽野綾子が2月11日付の産経新聞に寄せたコラム「透明な歳月の光」の内容が、差別ではないのかと物議を醸している。

 コラムは、労働移民の受け入れに関して「資格や語学力の障壁を取り除くべきだ」とする一方で、南アフリカの事例をもとに「居住地だけは別にした方がいい」と主張する内容。

 至って普通の内容なのだが、これに対し、批判的な勢力からは「アパルトヘイトを肯定してる」「はっきりと差別を肯定する文章」などと反発を広げている。

 以前にも曽野女史は、「サンデー毎日」での連載コラムで、部落問題に関する記述が問題視され連載中止になったことがある。

 サンデー毎日なんて滅多に読むことはないが、このコラムの内容は自著「運命は均される」という本に収録されていて、その内容はこうだ。

 「自分は東京生まれ東京育ちだが、日常生活で部落問題が話題になった記憶はない。そんな自分に部落差別について教え込もうとする人たちがいる。差別を知らない人間に同和教育を吹き込むな」と、至極真っ当なことが綴られている。

 こうした過去を問題視し、恰も差別発言と捉え騒ぎ立て、「想像力の欠如した言論人」であるとバッシングされているが、想像力が欠落しているのは批判している己らの捻じ曲がった価値感ではないのか。

 以前にも、沖縄での集団自決に関し「軍命令」の証拠となった大江健三郎の「沖縄ノート」に関連し、その沖縄ノートの論拠となった「鉄の暴風」の著者の一人に「分裂症になったのか」と語り、「分裂症」表記が同じ様に話題になったことがあった。

 批判勢力は今回と同様に左翼文士らだが、沖縄タイムスの「沖縄戦記・鉄の暴風」そのものがフィクションであり、内容は割愛するが、意味を成さないものだ。

 沖縄タイムスの「創刊の辞」には、「我々はアメリカの暖かい援助の下に生活している。この現実を正しく認識することは取りも直さずアメリカ軍政に対する誠実な協力であり・・・」と明記されている。

 今では「反米」「反基地」を煽っている沖縄タイムズだが、米軍の御用新聞として出発した新聞社だということが理解出来る。

 「琉球新聞」も同じ様なもので、過去のことなど忘れ去り、偏狭なイデオロギーを撒き散らすクソ記者どもには、ジャーナリズムの矜持など持ち合わせてはいない。

 戦後、沖縄の人々は決して日本軍を「加害者」だとか、米軍を「解放軍」などと思ってはいなかった。だが、米軍の徹底した検閲が功を奏し、米軍こそが「解放軍」であるとの認識に至ったのだ。

 その有力な協力者こそが沖縄タイムスであり琉球新聞らだが、その彼らが今さら「反米」とは、もう嗤うしかない。

 要は沖縄では「反米」の方が部数が伸びるからであり、所詮は朝日新聞と同様に、読者に媚びる内容で売り上げアップを企む営利至上主義そのもの。

 「鉄の暴風」は、日本軍加害者論を宣伝する為の物語として、米軍支援の下に発行されたフィクションである。

 「鉄の暴風」の中に次の様な件(くだり)がある。

 「なお、この動乱(沖縄戦)を通じて、おそらく終生忘れることのできないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。・・・戦いの暗たんたる記録の中に珠玉のごとき光を放つ米軍のヒューマニズム・・・」

 この一節こそが、「鉄の暴風」の正体を雄弁に語っているのではないだろうか。

 何が「米軍の高いヒューマニズム」だ。

 今、米軍基地反対の御先棒を担いで、民衆を扇動してるのは沖縄タイムズを始めとした左翼文士だが、高いヒューマニズムを矜持している米軍に失礼ではないか(笑)

 体験者の証言もなしに「日本軍自決命令」を書いた「鉄の暴風」は、米軍宣伝書に過ぎないものなのだが、その後、遺族年金の為の根拠とされ、然も事実であるかの様に見做されて来たというのが真相だ。

 沖縄に巣食う反米左派集団が、米軍宣伝のデマを金科玉条の如く死守し、戦後民主主義教育から目覚めることもないのは滑稽極まりないが、こんな流言蜚語や嘘八百をいつまでも許して置く訳には参らない。

 大江は、こうした沖縄タイムスのフィクションをパクリ、関係者への取材は全くすることなく「沖縄ノート」を書き上げた。

 言ってみれば大江の妄想まで炸裂したフィクションものなのだが、摩訶不思議なことにこれを証拠として「軍命令があった」との判決が下った。

 「鉄の暴風」の著者や大江というのは正に精神分裂病、今風に言えば統合失調症か。否、はっきりいって脳内が破壊されたキチガイというのが正しい。

 この「沖縄ノート」だが、その一節には「25年ぶりの屠殺者と生き残りの再会・・・」と、集団自決者や戦災者を公然と「屠殺者」と準えている。

 「屠殺者」という表記は差別表現ではないのか。

 これこそ「分裂病」や「差別を知らない人間に同和教育を吹き込むな」どころの騒ぎではなかろうに、何故に沈黙するのか。

 評論家の呉智英は、この沖縄ノートの差別表記に驚き疑問を呈した。

 「これ、いつから解禁になったのか。虐殺を屠殺になぞらえようものなら許すべからざる差別表現として、部落解放同盟と屠場労組の苛烈な糾弾が展開されたことは言論人なら誰知らぬものはいない」と語っている。

 更に呉は、1982年、俳優座のブレヒト原作「屠殺場の聖ヨハンナ」を例に挙げ、「屠殺」という表現を改題しても、部落解放同盟から激しい糾弾に合い上演は困難を極めたことを指摘している。

 「屠殺場の聖ヨハンナ」について、部落解放同盟は、「誰々の作品だから差別はないと、神格化したものの考え方を一掃したい」とまで言明していたことまでも呉は振り返って疑問を呈している。

 1987年には「沖縄ノート」と同じ岩波書店が発行した「報道写真家」というのがあるが、これにも呉は、「戦場という異常な状況下では牛や豚などの家畜の虐殺と同じになる」という記述が問題にされて回収処分となっていることも紹介している。

 だが、大江の「沖縄ノート」だけは一度も糾弾も回収もされることはなく、それどころかアホな裁判官がこれを証拠として採用し、摩訶不思議な判決を出した。

 大江健三郎のみ「神格化」される理由は何か。

 大江の差別表記に何故に沈黙するのか。

 何のことはない、「反日」「自虐史観」では、バカ左翼どもは共闘し、嘘であっても、或いは差別表記であっても利用しようという悪辣さの現れだ。

 「集団自決軍命令」の証拠となった「沖縄ノート」は証拠としては余りにも御粗末過ぎる。

 曽野綾子の区別表記を差別を断じるならば、大江らの明らかな差別表現こそ物申せ。

 同和や部落解放同盟が「沖縄ノート」を廃刊に追い込めば、少しは世の為になるぞ(笑)

cordial8317 at 05:01│Comments(0)

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