中田翔への大甘な裁定に見るプロ野球機構のコンプライアンス「国歌斉唱中なので動くのは不敬であると考えた」(重光葵と野村吉三郎)

2021年08月29日

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という様に何事も中庸が肝心

 孔子は、何事も「中庸」が肝心と訓えている。中庸とは「中庸の徳たる、其れ到れるかな。民鮮(すくな)きこと久し」が原文。「不足でもなく、余分のところもなく、丁度適当にバランスよく行動できるということは、人徳としては最高のものです。しかし、その様な人を見ることは少なくなりました」という意味である。

 人を使う場合も、部下にはこの中庸を心がけさせることは必要なこと。若い者というのは兎角血気に逸り、一つのことに熱中する。若い時というのはそれぐらいの元気があって好いが、上に立つ者は、その道に外れた者を絶えず真ん中に戻してやることが必要となる。片方に寄ってしまうと大局を観ることが出来なくなるからだ。

 右翼人も同じで、未だ思想形成に至ってない時代には大いに右翼思想や保守的書物のみに傾倒し、その思想を確固たるものにすべきだと思うが、ある程度の立場になったら、一度立ち止まり、大局的に物事を観る冷静さも必要となってくる。

 昨今の右翼というと営業保守の請売りが多く、ネット右翼より理論は乏しく、目先のことばかりで大局観に乏しいと感じるのはそういうことなのかも知れない。

「仁・義・礼・智・信」という徳目がある。人間の道を守るのに大事な心掛けだが、これを守り過ぎるのもまた悪害にもなる。伊達政宗遺訓にこう記されている。

 仁に過ぎれば弱くなる。
 義に過ぎれば固くなる。
 礼に過ぎれば諂いとなる。
 智に過ぎれば嘘をつく。
 信に過ぎれば損をする。

「仁」とは博愛や慈しみ。これも過ぎれば他力本願になり過ぎて、全てが弱弱しくなってしまうもの。「仁義を重んじる」というヤクザに教えてあげたいものだ。

「義」とは道理や条理。ヤクザでいう筋道のこと。義理だとか大義だとかに縛られて、弾力的な物の考え方や行動が出来ずに固くなって動きが鈍くなることも。

「礼」は道徳的観念としては大事なことだが、ややもすると丁寧にしているつもりが、それが諂いとなり、丁寧過ぎて慇懃無礼とも捉えられてしまうこともある。

「智」とは善悪を弁別する心の作用だが、余り智識に偏り過ぎると、相手を気遣う余りに、或いは余計なことが頭を過ぎり、嘘を吐く様になったりするもの。

「信」とは誠であり、人を欺かないということは重んじなければならないが、余り人を信用し過ぎて思わぬ損やとばっちりを喰らうことにも成り兼ねない。

 伊達政宗遺訓には続きがある。

「気ながく心穏やかにして、この世に客に来たと思えば何の苦もなし。朝夕の食事は、うまからずとも誉めて食うべし。元来、客の身なれば好き嫌いは申されまい。今日行くをおくり、子孫兄弟に良く挨拶して、娑婆の御暇申すがよし」

「過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し」という。これを「過ぎ去ったことはクヨクヨしても仕方ない」と理解している人も少なくないが、それは間違い。この諺の意味は「やり過ぎは足らないことと同じで好くない」という教えである。

 中庸というのは、その程度や加減というのが難しいが、ともあれ、上に立つ者は常に、この中庸ということを常に心掛けることが、組織を維持する上では重要となる。

 まぁ、何事も中庸が肝心といっても孟子は「子莫中を執る」と中庸を戒めているし、「足して二で割る」様な「真ん中(中道)主義」もバカの見本とも言える。

 我が国の政治を見れば、その真ん中主義が好きな様だが、どう見ても真ん中より左に寄っている。その状態を真ん中だと思っているところに、我が国の不幸が在る。

 そうした政治を糺すのが右翼や維新者の役柄なのだが、右翼やら自称・愛国者が出張って来ると事がややこしくなって逆効果。政治の混乱はいつまで続くのやら。我が国の政治を右側に戻し新たな国創りをしてくれる政治家の出現を熱望する。

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