汝、ゆめ晴天の友となる勿れ、雨天の友となれ!正しく自然とは人智の及ばない大いなる存在であるが

2021年07月11日

民主主義とは正に大衆迎合主義と衆愚政治であると痛感する

 地元紙には、左翼人士が私感を垂れ流す「日曜論壇」というコラムがある。今回は東日本国際大学学長代行の福迫昌之という人物が「メディア・イベントと政治」と題して語っている。冒頭には大谷翔平選手を取り上げ、徐々に東京五輪を腐す。

 この御仁曰く「東京五輪が、民意を無視して強行される様を『民主主義の終焉』と捉える向きもある」らしい。多くの国民は五輪開催を願っている。反対してるのは日本のやること成すこと何でも腐すいつものメンバーで、何が民主主義の終焉か。

 柔道での金メダルを期待し。池江選手の頑張りに夢を託し、陸上400メートリレーで世界を驚愕させるシーンが観たいと思う。その他にも感動を貰えるだろう。だが、この御仁、アスリートには「勇気や元気や感動を与えなくていい」と宣う。

「県民の一人としては、この期に及んで『復興五輪』のスローガンを復活させ、分断の渦に巻き込むことだけは勘弁して欲しい」と締めくくっている。言葉は学者らしく纏めているが、内容は左翼人士に共通する偏狭な自民党政権批判である。

 五輪反対派は新型コロナに託けて、パンデミックが起これば多くの人が感染すると危惧してのことらしいが、そこには24時間テレビと同じ偽善を感じてしまう。彼らには、日本人の底力を信じオリパラを必ず成功させようという気は毛頭ない。

 言行全てが破壊活動なのだ。こういう連中というのは五輪を中止したらしたで批判をするのは目に見えている。また外国人選手やその関係者を受け容れることでパンデミックが起こると思っているのなら、外国人差別そのものではないのか。

 菅総理の右往左往ぶりは大衆の意見に惑わされてる結果であり、民主主義の弊害でもある。新型コロナ対策の不手際にしても、福島第一原発の処理水問題にしても、政治が科学的論拠を無視し、反対派の顔色を窺い迎合するから混乱が生じる。

 政治家の多くは民主主義を曲解して「国民の目線に立った政治を行う」と然も国民を慮った様な台詞を吐く。だが、民主主義の本質は国民目線に立つことではないし、平均的な国民を創ることではない。平均値で国の政を行うことは余りにも危険だ。

 政治が国民目線に立った時には必ず国は滅ぶというのは世の常である。何故なら、国民の判断力は古今東西常に低く、その意見もマスコミに誑かされた怪しい時代の雰囲気に流され、大衆に流され、実に幼稚で気紛れなものだからだ。

 過去の政権交代にしろ、その圧倒的支持を得た民主党が失脚したのも、自民党の政権奪回にしても、インチキ保守の安倍人気にしても、その全てが多くの国民の安っぽい風潮からホンのチョッとの間に支持されただけの気紛れの結果でしかない。

 政治とは、国家観を重んじながら、国民目線とかけ離れた歴史観、人間観、世界観、時には高度な権謀術数を必要とするものなのだ。経済もまた然り。

「国民の目線」とは、ワイドショー番組に煽られた平均的意見であり、マスコミは国民の安直な正義感に迎合し、自分達の主張こそが「正義であり、民主主義である」との主張を居丈高に振り翳し、国民を煽動し続けているのが現状である。

 正に「民主主義とは衆愚政治である」ということを痛感する。「大衆の多くは無知で愚かである」と言ったのはアドルフ・ヒトラー。また「熱狂する大衆のみが操縦可能である」と訓えている。分かり易く言えば大衆というのはバカということだ。

 ネットでは自称保守派が自分の仕事そっちのけで日本の将来を熱く語り、意にそぐわない意見には反論し批判するが、そういう人もまた扱い易いというもの。

 本来、政治というものがきちんと機能していれば、国民大衆が政治なんぞに係わることなどないものである。三島由紀夫は、嘗て政治の現状をこう喩えた。

「胃痛の時に初めて胃の存在が意識されると同様に、政治なんてものは、立派に動いていれば、存在を意識される筈のものではなく、況して食卓の話題なんかになるべきものではない。政治家がちゃんと政治をしていれば、鍛冶屋はちゃんと鍛冶屋の仕事に専念していられるのである」。正しく、三島の揶揄した通りだろう。

 それが然も自分が政治家になったつもりで、あ~だこ~だと嘆いている。 ヒトラーはこうも言う、「私は間違っているが世間はもっと間違っている」と。

 愚生も熟熟そう思う。こういう熱狂する大衆が現在の有権者であり、その一票一票を集めて当選してるのだからバカしか当選しないのは当たり前でもある。現在の政治家にバカが多いのはそういうことで、こんなのに期待する方がバカだ(笑)

 仮に動物の世界で喩えれば、数の多いのが当選するのは当たり前のこと。ブタとかネズミとか、要するに力や能力なんぞ二の次で、数さえあれば当選する仕組みになっている。当選したブタやネズミは自分を弁えず勘違いしてるだけ。

 本当に当選して貰いたい、百獣の王ライオンは、幾ら力があっても数が少ないから当選出来ない。トラやゾウやゴリラでも同じこと、当選は無理なのだ。

 力や能力のある者が当選出来ないのでは、立派な政治も出来なければ立派な政治家も生まれることはない。政治を立派にしたいなら先ずは有権者がライオンやトラにならなきゃダメだ。でも、この世の中ではそれもまた無理というものだろう。

 今の政治家はブタが偉そうにしているだけで、民主主義というのはこういうものでもあるのだ。「主権在民」などというと聞こえはいいが、1億3000万分の1の主権では、無いのと同じ。在る様に錯覚しているだけ。主権在民なんぞクソ喰らえだ。

 今のネットでの声は、それが犇めき合って、夫夫ブタやネズミやニワトリがギャーギャーと鳴き声を張り上げているに過ぎず、結局は数の多いブタやネズミやゴキブリどもの騒いでいる通りの世界になるより他は無い時代なのだ。

 国内を見渡せば、一番多いのが労働者だ。取分け、労働組合なんぞブタの集団と言って好いだろう。そうしたブタ労働者の支持を得ないことには野党なんぞ当選出来ないのだから、まともなヤツが政治家を志すとは到底思えない。

 創価学会なんぞ養鶏場のニワトリというのが正しく、飼い主の池田養鶏場の安い科学飼料で飼育された単なる激安鶏肉に過ぎない。こんなブロイラーを食べたがってるのだから自民党も公明党の所為で信用を無くすのも時間の問題だろう(笑)

 我が民族の将来と国家の前途を思うは人間の最も真剣なる感情であり、政治を糺すのは大いに結構な心掛けだとは思うが、政治の仕組みや現在の選挙の仕組みがブタしか当選しないシステムになっているのだから根本的に変わり様がない。

 そんな杞憂よりも、与えられた自分の仕事に専念してた方が余っぽど国の為になる。衆愚政治はこれからも続くだろう。そして行き着く処まで行かなけりゃ国民が気が付くことも無い。そしてその時に維新という革命が起こるのだ。

 歴史は常に繰り返されるものである。次の衆院選も、マスコミに煽られた有権者の気まぐれで選ばれるのは間違いない。所詮、自民党にせよ立憲民主党にせよ、「でもしか政党」というのは変わりはない。有権者の不幸はここに極まれり。

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cordial8317 at 07:13│Comments(0)

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