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2014年08月24日

河井継之助の終焉の地・会津只見から越後長岡への旅を企画してみた!

 
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 河井継之助。越後長岡藩の家老で、その評価は賛否両論あるが愚生的には幕末の武士の中でも最も尊敬する英雄である。

 慶応4(1968)年1月3日(1月27日)、鳥羽伏見の戦いが勃発。西軍は次第に勢力を強めて、3月には江戸城開城、上野寛永寺の戦いなどにも勝利し、最大の目標である会津を目指し北上する。

 7月、北越の地にも西軍が迫る。

 長岡藩は、継之助の下、藩内を統一し「非武装中立」を貫こうとするも、西軍の岩村精一郎との会談が決裂し、継之助は東軍勢力として戦うことを決意する。

 歴史に「もし」はないが、河井継之助と岩村の対談が成功していれば、また西軍が岩村の様な小僧ではなく、山縣有朋や板垣退助らが対応していれば「会津戦争」の戦いは避けられ、日本の歴史も大きく変わってたことだろう。

 長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、「北越戦争」へと突入する。

 北越戊辰戦争において長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により開戦当初では新政府軍の大軍と互角に戦った。

 しかし、圧倒的物量を有する西軍に比べ絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、5月19日(7月8日)長岡城を奪われる。

 だが、その後の6月2日(7月21日)、今町の戦いを制して逆襲に転じ、7月24日(9月10日)夕刻、敵の意表をつく「八丁沖渡沼作戦」を実施し、翌日に長岡城を再び奪還した。

 これは軍事史に残る快挙であり、関東軍参謀で陸軍中将・石原莞爾の陸軍大学校における卒業論文は河井継之助のこの戦術を研究したものだ。

 だがこの奪還の代償は大きく、奪還を果たした当日、継之助は左膝下に被弾、重傷を負った。これにより長岡藩の士気が下がり、戦線は次第に後退して行った。

 継之助は、家臣や同士から「会津藩を頼り、会津で再起を図ろう」という進言を受けるも、故郷で死にたいとの思いから拒否する。

 だが、戦局は益々不利となり、継之助の傷も化膿が酷く、破傷風に罹ってしまい、已む無く会津での捲土重来を期すこととなった。

 会津へは国境の「八十里峠(はちじゅうりとうげ)」を超えなければならなかった。

 実際には8里(約30キロ)程度の道のりだが、その山道は険しく、この「八十里峠」という名前がそれを現している。

 峠越えの途中、継之助は次の様な詩を詠んだ。

 「八十里こしぬけ武士の越す峠」

 8月5日(9月20日)、会津領の只見に入り、叶番所で休憩した後、只見村の目明し清吉宅に身を寄せ7日間を過ごす。

 8月12日(9月27日)に只見を出発、塩沢村に到着し、塩沢の医師・矢沢宗益宅に留まる。

 15日(30日)夜、継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、「松蔵や、永永厄介して呉りやって有難かったでや」と労いの言葉と共に死期を悟った継之助は火葬の仕度を命じた。

 「松蔵、火を熾(さかん)にせよ!」

 翌16日(10月1日)の昼に継之助は談笑した後、ひと眠り就くとそのまま危篤状態に陥った。再び目を覚ますことのないまま、同日午後8時頃死去した。享年42。

 河井継之助終焉の家(矢澤家)は昭和36年(1961年)、只見川電源開発による水没の為、現在は福島県只見町の河井継之助記念館内に移築されている。

 という訳で、河井継之助の生き様を偲びながら、終焉の地・只見町に在る記念館から長岡へ戻る逆のコースを辿る旅を企画しています。

 予定では9月20日から2泊3日、郡山~会津~会津川口(金山町)までは電車を予定、金山町~只見まではバスか徒歩。只見から長岡まで徒歩。野宿は決定的です(笑)

 詳しいことは未定。行き当りばったりの旅です。途中、熊との遭遇するかも(笑)

 誰か同道してみようという奇特な方はいませんか!

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cordial8317 at 07:39│Comments(0)

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