2014年03月18日
「蛍の光」が歌われなくなったのはいつの頃からだろう・・・
「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」、正に桜花咲き匂うこの時期、各地で卒業式、入学式が行われるが、それに合わせ、国旗「日の丸」、国歌「君が代」に反対する蛆虫も蠢き出す。日本という国に生まれ住み、日本人として恩恵を享けながら、日本に誇りも持てず卑下するのは実に醜く見苦しい。
ソチで繰り広げられた冬季オリンピック、パラリンピックが閉幕したが、今大会での日本選手の直向な姿勢や、浅田真央選手や地元福島県猪苗代町の鈴木猛史選手らの活躍もあって感動すること頻りだった。まともな日本人ならそんな気持ちになるのは当然だろう。こうしたオリンピックなどの国際大会で、愛国心の高揚や、国旗・国歌に対する敬愛の念が増すことは、日本国民として極めて健全な発露であろう。
多くの日本人は国旗・国歌に親しみを感じている。ところが未だ、「国旗及び国歌に関する法律」が制定されて以降も、これに公然と異議を唱え、反対している勢力が存在する。言わずと知れた「日教組」や「全教」、共産党といった反日勢力だ。
左翼の蛆虫連中は、「日の丸は軍国主義の象徴だ」「侵略の旗だ」「君が代は天皇賛美だ」との妄言を垂れ流し純真無垢な子供達を洗脳する。ならば米国の旗はどうだ。英国やオランダ、フランスはどうだ。或いは中華人民共和国の旗は侵略の旗ではないのか。天皇国日本が天皇を賛美したとして何が怪しからんのだ。
天皇や我が国の歴史・伝統に反対する連中というのは物事の見方が実に薄っぺらで、健全な世論に逆行するばかりか、教育現場での混乱は国益を損ねるものである。教師という公務員で有りながら法律を遵守もしない不良教師の一掃を図るべきだが、その日教組にしろ民主党の支持母体というのだから世も末だ。
国旗「日の丸」、国歌「君が代」とは如何なるものか。 聖徳太子は隋へ、「日出づる所の天子 書を日没する所の天子にいたす 恙無きや」との文書を小野妹子に託した。この極東の小国である倭国の書を読んだ隋は激怒するのだが、日出づる国である小国日本の存在を堂々と主張して見事に気概を示した逸話であろう。
我が国は、ユーラシア大陸で最初に朝日を迎える国であり、稲作民族が日の神、天照大御神を崇め太陽信仰を持つのは自然で、国のシンボルに「日の丸」を執ったのも極めて自然なこと。国の成り立ちや理想が「日の丸」の旗ほど一致する国は無い。
日の丸の赤丸は、太陽を意味し熟誠、活気、博愛、誠心誠意を現し、白地は清浄無垢を示し神聖、正義、純潔、平和、鎮静を現している。これほどシンプルで美しい旗が何処に在ろうか。 「君が代」も、「古今和歌集」巻七「賀の部」の「わが君は千代に八千代にさざれ石の巖となりて苔のむすまで」の一首からの出典である。
この詠の本意は、大君の御代が栄えることを願ったものだ。我が国は、天皇を族長と仰ぐ君民一体の家族国家であり天皇即日本、日本即天皇の天皇国家である。
この国體の精華は万邦類を見ないところであり、従って陛下の御代が栄えることは即日本が栄えることでもある。君が代は実に我が国體の精華を格調高く歌い上げたもので、曲と相俟って厳粛にして荘重、世界に冠たる誇るべき国歌である。
万世一系の天皇を仰ぎ奉り、陛下の御稜威を国民生活の隅々にまで行き亘らせることにあり、それは日本国民として当然の願望である。我が国はいつの世も、時の陛下の御代であり、いつの世にもそこには「君が代」の世界が存在し存在し続けなければならないのだ。そうした国柄を「日の丸」と「君が代」は見事に現している。
卒業式での別れの定番曲といえば「蛍の光」だったが、いつの頃から歌われなくなった。この歌が拒否された理由は国歌斉唱を拒否する運動と同じ。我が国の歴史を否定する所から始まったものであろうことは推測出来る。
一、蛍の光 窓の雪
書(ふみ)読む月日 重ねつゝ
何時しか年も すぎの戸を
開けてぞ今は 別れ行く
(蛍を集めた光や雪の明かりを頼りにして、貧しくとも共に苦労して勉学に励んで来た友よ、愈々お別れの時が来ましたね。)
二、止まるも行くも 限りとて
互(かた)みに思う 千萬(ちよろず)の
心の端を 一言に
幸(さき)くと許(ばか)り 歌うなり
(学舎に留まる人も、また学を修めて卒業し、旅立って行く人も、今日を限りにと思ってお互いに交わした心の架け橋、永遠の絆を、無事に有れとばかりを念じ、この歌の一言に想いを託して歌います。)
三、筑紫の極み 陸(みち)の奥
海山遠く 隔つとも
その真心は 隔て無く
一つに尽くせ 国の為
(九州の端や東北の奥まで、海や山々によって遠く離れていても、真心は唯一つにして互いに国の発展の為に尽くそう。)
四、千島の奥も 沖縄も
八州(やしま)の内の 守りなり
至らん国に 勲しく
努めよ我が背 恙無く
(千島列島の奥も沖縄も、日本の国土の守りだ。学を修め職を得て、どの地に赴こうとも、日本各地夫々の地域で、我が友よ、我が夫よ、我が兄弟よ、どうか無事にお元気で、勇気を持って任に当たり、努めを果たして頂きたい。)
「蛍の光」の詩を知れば、我が国の歴史や先人の営為が見えて来るが、「蛍の光」の拒否は正に戦後民主主義教育の一環である。「蛍の光」の拒否を見るまでも無く、その悪しき戦後教育は今や日本の隅々にまで浸透してしまっている。
占領下、米国製の憲法を与えられ、同時に日本人はそれまでの尊い価値観を見失った。「礼節」「長幼の序」「忍耐」「我慢」「滅私奉公」「信義」「忠義」など数え挙げたら限がないが、「蛍の光」もまた憲法の精神にそぐわない勤勉さや滅私奉公といった尊い教えを謳っており、不必要とされてしまったのだろう。
日本人はいつの間にか利己的なことを恥じない人間ばかりが殖え、自己犠牲の精神など皆無に等しい。自分を犠牲にして他人に尽くすことこそ日本人たる所以であり美徳美風なのだが、今や高邁な知性の磨きを様を忘れてしまった。
「蛍の光」は我々が失った価値を教えてくれる。葬式でお経が無いのと同じで、別れに「蛍の光」を歌はないと何か物足りない。是非とも復活して頂きたいものだ。
教育は国家の大本であり、どんな子も日本の大事な宝である。今こそ「教育勅語」を指導原理と成し、将来を担う子供達への教育の再生を図らねばならない。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員は300000円~。
ソチで繰り広げられた冬季オリンピック、パラリンピックが閉幕したが、今大会での日本選手の直向な姿勢や、浅田真央選手や地元福島県猪苗代町の鈴木猛史選手らの活躍もあって感動すること頻りだった。まともな日本人ならそんな気持ちになるのは当然だろう。こうしたオリンピックなどの国際大会で、愛国心の高揚や、国旗・国歌に対する敬愛の念が増すことは、日本国民として極めて健全な発露であろう。
多くの日本人は国旗・国歌に親しみを感じている。ところが未だ、「国旗及び国歌に関する法律」が制定されて以降も、これに公然と異議を唱え、反対している勢力が存在する。言わずと知れた「日教組」や「全教」、共産党といった反日勢力だ。
左翼の蛆虫連中は、「日の丸は軍国主義の象徴だ」「侵略の旗だ」「君が代は天皇賛美だ」との妄言を垂れ流し純真無垢な子供達を洗脳する。ならば米国の旗はどうだ。英国やオランダ、フランスはどうだ。或いは中華人民共和国の旗は侵略の旗ではないのか。天皇国日本が天皇を賛美したとして何が怪しからんのだ。
天皇や我が国の歴史・伝統に反対する連中というのは物事の見方が実に薄っぺらで、健全な世論に逆行するばかりか、教育現場での混乱は国益を損ねるものである。教師という公務員で有りながら法律を遵守もしない不良教師の一掃を図るべきだが、その日教組にしろ民主党の支持母体というのだから世も末だ。
国旗「日の丸」、国歌「君が代」とは如何なるものか。 聖徳太子は隋へ、「日出づる所の天子 書を日没する所の天子にいたす 恙無きや」との文書を小野妹子に託した。この極東の小国である倭国の書を読んだ隋は激怒するのだが、日出づる国である小国日本の存在を堂々と主張して見事に気概を示した逸話であろう。
我が国は、ユーラシア大陸で最初に朝日を迎える国であり、稲作民族が日の神、天照大御神を崇め太陽信仰を持つのは自然で、国のシンボルに「日の丸」を執ったのも極めて自然なこと。国の成り立ちや理想が「日の丸」の旗ほど一致する国は無い。
日の丸の赤丸は、太陽を意味し熟誠、活気、博愛、誠心誠意を現し、白地は清浄無垢を示し神聖、正義、純潔、平和、鎮静を現している。これほどシンプルで美しい旗が何処に在ろうか。 「君が代」も、「古今和歌集」巻七「賀の部」の「わが君は千代に八千代にさざれ石の巖となりて苔のむすまで」の一首からの出典である。
この詠の本意は、大君の御代が栄えることを願ったものだ。我が国は、天皇を族長と仰ぐ君民一体の家族国家であり天皇即日本、日本即天皇の天皇国家である。
この国體の精華は万邦類を見ないところであり、従って陛下の御代が栄えることは即日本が栄えることでもある。君が代は実に我が国體の精華を格調高く歌い上げたもので、曲と相俟って厳粛にして荘重、世界に冠たる誇るべき国歌である。
万世一系の天皇を仰ぎ奉り、陛下の御稜威を国民生活の隅々にまで行き亘らせることにあり、それは日本国民として当然の願望である。我が国はいつの世も、時の陛下の御代であり、いつの世にもそこには「君が代」の世界が存在し存在し続けなければならないのだ。そうした国柄を「日の丸」と「君が代」は見事に現している。
卒業式での別れの定番曲といえば「蛍の光」だったが、いつの頃から歌われなくなった。この歌が拒否された理由は国歌斉唱を拒否する運動と同じ。我が国の歴史を否定する所から始まったものであろうことは推測出来る。
一、蛍の光 窓の雪
書(ふみ)読む月日 重ねつゝ
何時しか年も すぎの戸を
開けてぞ今は 別れ行く
(蛍を集めた光や雪の明かりを頼りにして、貧しくとも共に苦労して勉学に励んで来た友よ、愈々お別れの時が来ましたね。)
二、止まるも行くも 限りとて
互(かた)みに思う 千萬(ちよろず)の
心の端を 一言に
幸(さき)くと許(ばか)り 歌うなり
(学舎に留まる人も、また学を修めて卒業し、旅立って行く人も、今日を限りにと思ってお互いに交わした心の架け橋、永遠の絆を、無事に有れとばかりを念じ、この歌の一言に想いを託して歌います。)
三、筑紫の極み 陸(みち)の奥
海山遠く 隔つとも
その真心は 隔て無く
一つに尽くせ 国の為
(九州の端や東北の奥まで、海や山々によって遠く離れていても、真心は唯一つにして互いに国の発展の為に尽くそう。)
四、千島の奥も 沖縄も
八州(やしま)の内の 守りなり
至らん国に 勲しく
努めよ我が背 恙無く
(千島列島の奥も沖縄も、日本の国土の守りだ。学を修め職を得て、どの地に赴こうとも、日本各地夫々の地域で、我が友よ、我が夫よ、我が兄弟よ、どうか無事にお元気で、勇気を持って任に当たり、努めを果たして頂きたい。)
「蛍の光」の詩を知れば、我が国の歴史や先人の営為が見えて来るが、「蛍の光」の拒否は正に戦後民主主義教育の一環である。「蛍の光」の拒否を見るまでも無く、その悪しき戦後教育は今や日本の隅々にまで浸透してしまっている。
占領下、米国製の憲法を与えられ、同時に日本人はそれまでの尊い価値観を見失った。「礼節」「長幼の序」「忍耐」「我慢」「滅私奉公」「信義」「忠義」など数え挙げたら限がないが、「蛍の光」もまた憲法の精神にそぐわない勤勉さや滅私奉公といった尊い教えを謳っており、不必要とされてしまったのだろう。
日本人はいつの間にか利己的なことを恥じない人間ばかりが殖え、自己犠牲の精神など皆無に等しい。自分を犠牲にして他人に尽くすことこそ日本人たる所以であり美徳美風なのだが、今や高邁な知性の磨きを様を忘れてしまった。
「蛍の光」は我々が失った価値を教えてくれる。葬式でお経が無いのと同じで、別れに「蛍の光」を歌はないと何か物足りない。是非とも復活して頂きたいものだ。
教育は国家の大本であり、どんな子も日本の大事な宝である。今こそ「教育勅語」を指導原理と成し、将来を担う子供達への教育の再生を図らねばならない。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員は300000円~。
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