「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」から命名された双葉山の逸話憲法21条では「報道の自由」が確かに保証されていが・・・

2013年11月28日

「稚心ヲ去ル 気ヲ振ルウ 志ヲ立ツ 学ニ勉ム 交友ヲ選ブ」(橋本左内)

 藤田東湖と親交のあった越前藩の家老・鈴木主税が、「吾が藩は人材が乏しい」と嘆き、その際に東湖は「それは燈台下暗しだ。貴藩には立派な人材がいるではないか」という逸話を先日のブログで披歴したのを覚えているだろうか。

 東湖が推薦した人物が「橋本左内」である。左内はこの時22歳、父の後を継いで藩医となったばかりで全くの無名だったが、東湖の具眼畏るべし。

 安政6(1859)年、大老に就いた井伊直弼の手により「安政の大獄」が始まるが、それ以前に左内は、14代将軍を巡る将軍継嗣問題で、松平春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えたのは承知してるだろう。

 また、左内は幕藩体制は維持した上で西欧の先進技術の導入や、同盟の必要から「日本とロシアは提携の必要性がある」といった開国論を展開して行った。

 春嶽が隠居謹慎を命じられると、左内は将軍継嗣問題に介入したことを問われて伝馬町牢屋敷に送られ、終には小塚原刑場で斬首となった。享年26歳。東湖が家老に具申してからたった4年。その4年間は短いが実に濃い生き様だった。

「安政の大獄」とは、勤皇の志士や幕府の方針に反対する者らを大量に逮捕・投獄し、更には処刑した変事である。犠牲者の中で、我が国の大きな損失となったといわれる人物が吉田松陰と橋本左内の二人であると言われている。

 左内は大阪での遊学で緒方洪庵の適塾に学び、江戸では藤田東湖や西郷隆盛、横井小楠らと交遊した。藩主・松平慶永公は、佐内の学識と人間性を信頼し、藩校・明道館の学監(今でいう教頭)を命じ、教育の改革と推進に当らせた。

 左内は小柄で色白だった為に、女子の様に見られる為に、西郷隆盛も初対面の際には軽くあしらったという逸話もある。だが、左内の識見ぶりに後悔した西郷は翌日正装して詫びに行き、以後、年下の左内を師の様に尊敬したという。

 左内が執筆した「啓発録」というのがある。「稚心ヲ去ル 気ヲ振ルウ 志ヲ立ツ 学ニ勉ム 交友ヲ選ブ」との5つの教えである。

「稚心ヲ去ル」というのは、子供っぽい、甘えた心を去ろう、いつまでも幼い心の儘では成長しない。「振気(気ヲ振ルフ)」とは、人に負けまいと思う心、恥を知り悔しいと思う心を常に持ち、絶えず緊張を緩めることなく努力する。

「立志(志ヲ立ツ」とは、自分の心の赴くところを定め、一度こうと決めたらその決心を失わないように努力する。「勉学(学ニ勉ム)」とは、優れた人物の素行を見倣い、自らも実行する。

 学問では何事も強い意志を保ち努力を続けることが必要だが、自らの才能を鼻にかけたり、富や権力に心を奪われることのないよう自らも用心し慎むと共に、それを指摘してくれる良い友人を選ぶことに心掛ける。

「択交友(交友ヲ択ブ)」とは、同郷、学友、同年代の友人は大切にしなければいけないが、友人には「損友」と「益友」があるので、その見極めが大切で、もし益友といえる人がいたら、自分の方から交際を求めて兄弟のように付き合うのが好い。

 これを書いたのが佐内14歳の時だというから驚く。昨日のブログの双葉山の「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」ではないが、やはり歴史に残る人物というのは、幼い頃から人並み外れて 優れたところがあるというのを実感する。

 明治維新後、この「啓発録」は左内の実弟・綱常(陸軍軍医総監)から明治天皇に献上され、皇室の宝物として今でも大切にされているという。

 我が国の政治が斯くも幼稚になってしまったのは、政治家が自分自身の「稚心」を取り払うことが出来ないからで、「特例秘密保護法案」の国民不在の政争を見ながら、左内や西郷の様な政治家がいないことが我が国の不幸なのだと痛感する。

※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。

《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円(月2500円)。法人120000円。協賛会員は300000円~。

cordial8317 at 05:22│Comments(0)

コメントする

このブログにコメントするにはログインが必要です。

「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」から命名された双葉山の逸話憲法21条では「報道の自由」が確かに保証されていが・・・