明治維新を導く上に欠くるべからざる礎になった人物「藤田東湖」「稚心ヲ去ル 気ヲ振ルウ 志ヲ立ツ 学ニ勉ム 交友ヲ選ブ」(橋本左内)

2013年11月27日

「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」から命名された双葉山の逸話

 大相撲九州場所は日馬富士の逆転優勝で幕を閉じた。両横綱を破った大関稀勢の里も13勝を上げ、来場所に横綱昇進を目指す。白鳳を投げた力士は最近では見たことがないが、その後起こった場内からの「万歳」コールには思わず苦笑した。

 不世出の名横綱といえばやはり「双葉山」だろう。明治45年生まれ、大分県宇佐郡天津村布津部出身。四股名は「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」から命名。「大成する人物は、幼い頃から人並み外れて 優れたところがあること」の喩えだ。

 6歳の時に友達と吹き矢で遊んでいる際に、その矢が右目に刺さり失明する。また少年時代、父親の海運業の手伝いをしていた際に、錨の巻き上げ作業で右手小指を潰してしまう。父の海運業が失敗し、知人の警察の勧めで立浪部屋に入門。

 右目は失明していて、右手小指も動かないというハンデを克服し、69連勝の偉業は凄いとしか言い様がない。隻眼といえば伊達政宗が有名だが、北一輝や乃木希典も幼少の頃に左目の視力を失っている。先日の塙保己一もそうだが、障害を克服した努力の人は多い。特に双葉山の場合は瞬発力と寸時の判断を要する力士だから驚く。

 斯くいう愚生と言えば五体満足に生まれながら一体何をしているのやら。愚生に足らないものは努力、それも「強烈な努力」以外にないと痛感する。

 双葉山の相撲を知る人は、強さに加えて美しさがあったという。土俵に上がったら無駄な動きはせず、必ず受けて立った。今の張り手や逃げなど無様な相撲を繰り返してる白鵬とは違い、所作そのものが美しく横綱の威厳があった。

 双葉山は、受けて立つ相撲を、「目が悪かったので、自分から突っかけるのは不利だと思った」と飄々と述べているが、こうしたことでもやはり大したものだ。

 大関になって間もない頃に双葉山は、陽明学者である安岡正篤から「木鶏」の話を聞く。古典の「荘子」や「列子」に出て来る寓話だが、本当に強い闘鶏というのは、空威張りもしないし、無闇に戦闘的でもなく、木で作った鶏の如くだという。

 双葉山に安岡は、「木鶏の様になれば徳が充実し、勝敗も超越して天下無敵となる」と教え、双葉山もそれに応えようと必死に修行と稽古に打ち込んだ。

 前頭二枚目から破竹の69連勝で一気に横綱に上り詰めた双葉山だったが、昭和14年1月14日、安芸の海に敗れる。双葉山は欧州航路でインド洋上にあった安岡に打電する。「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」がそれである。

 連勝が止まった双葉山はその後、福岡県の山中で滝に打たれ修業し、再び連勝を重ねるが、昭和20年8月15日の日本の敗戦に大きな衝撃を受け引退を決意する。

 年寄り「時津風親方」となってからは、相撲界の改革と多くの関取を育て上げる。双葉山一代で、1横綱、3大関、幕内26名、関取の合計は48名という名親方でもあった。「名選手必ずしも名監督に成れず」と言うが、双葉山は違った。

 一度負けた相手には負けることがなかったことからもその努力が窺える。ハンデキャップを乗り越え、稽古と研究、精神の修養の続けた人物であり、力士としてだけではなく、日本人の模範ともいえる人格者だろう。

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cordial8317 at 06:27│Comments(0)

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