2013年11月24日
幕末の激動期、安積艮斎を師と仰いだ門人実に2282人に上る
愚生の住む郡山市の鎮守・安積国造(くにつこ)神社境内に、安積艮斎(あさかごんさい)の銅像が在る。名前の通り、郡山市(安積国)に縁の深い人物である。
この艮斎の「艮」は大根の「根」の木偏の無いもので、丑寅の方向、つまり「東北の人」という意味がある。「斎」は師と仰いだ二人の「斎」を貰ったものだ。
艮斎は、寛政3年(1791年)、陸奥(後の岩代)国安積郡郡山の総鎮守、安積国造神社・第55代宮司・安藤親重の三男として陸奥二本松の地に生を享ける。
この艮斎、何故に17歳で学問を志し江戸へ出奔したというと聞こえは好いが、何のことはない、真相は女房にフラれたかららしい。16歳で隣村の「横塚」に婿入りするも、その女房が評判の美人。方や艮斎といえば画像の通りで醜男。
その上、良斎というのは学問が好きで、仕事もせずに本ばかりを読んでいる様な男だったという。そして終には三下り半を突き付けられて、養子先から追い出される羽目となった訳だが、これを機に江戸に遊学し、そして成功を収める。
二本松藩の儒者であった今泉徳輔に学んだ後、文化3(1808)年、その向学心止み難く、17歳で出奔する。江戸に上り、儒学者・佐藤一斎の門に入る。その後、大学頭・林述斎の門人となり研鑽を積んだ。「斎」の字はこの二人からのもの。
23歳で江戸神田駿河台に私塾を開き、天保2年の41歳で「艮斎文略」を出版し、その後も「艮斎間話」を著し、艮斎の名は天下に知れ渡る様になる。当時、文壇では「東の安積艮斎、西の斉藤拙堂」と並び称された学聖である。
江戸時代~幕末の激動期に、艮斎を師と仰いだ門人は驚くほどに多い。小栗上野介を始めとして、秋月悌次郎、岩崎弥太郎、清河八郎、栗本鋤雲、権田直助、高杉晋作、谷干城、中村正直、そして吉田松陰など実に2282人にも上る。
艮斎は朱子学のみならず、陽明学など他の思想や宗教の善い所を摂取しようと自由な学風を貫いた。洋学にも造詣が深く、渡辺華山が主宰し高野長英ら学者や幕臣が会した尚歯会にも参加した。その向学心は止むことがなかった。
天保7年(1836年)二本松藩儒となり、嘉永元年(1848年)58歳の時に海外事情研究の集大成「洋外紀略」を著し、世界史を啓蒙し、海防論を説いた。
同3年には幕府の昌平坂学問所教授に就任し、同5年十二代将軍徳川家慶に御進講。同6年、米国、露国の国書を翻訳し、ペリー来航時にも翻訳を行っている。
近代日本の源流とも言える江戸時代の偉大な思想家の一人でもあった艮斎は、万延元年(1860年)11月21日、昌平坂学問所にて多くの門人に看取られて、70年のその波乱に満ちた生涯を閉じた。床の間には一幅の美人画が飾られていたという。
それは別れた女房を偲ぶ為に書いて貰った画で、「この女房に追い出されたことで今の自分がある。この絵を見て自分自身を戒めているのだ」と弟子に語っている。
人間誰でも悪い時というのはある。そんな時こそ「災い転じて福と成す」ではないが、艮斎の様に「今があるのはそのお蔭である」という考え方こそ大事。
艮斎が没した数年後、大政奉還、王政復古の大号令、戊辰戦争と政治的社会変革が次々と興り、見事な明治維新の大業を成し遂げ、日本が建国されたのだ。
幕末の激動期に多くの功労者を育んだ安積艮斎の生涯、そこには近代日本の源流が在り、今も尚、滔滔と流れ続けている。余談だが、郡山の土産の定番「薄皮饅頭」で有名な「柏屋」が、「ごんさい豆」という菓子を売っている。
江戸への旅の途中、腹が減ると懐中の煎り豆を齧りながら歩いたという。だが、余程不味かったのだろう。後年に「せめてあれに塩でも砂糖でも塗してあればマシだったのに・・・」と弟子に語ったという。この逸話に因んだ菓子が「ごんさい豆」である。郡山へお越しの際には是非、薄皮饅頭と共に土産にどうぞ。呵呵。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員は300000円~。
この艮斎の「艮」は大根の「根」の木偏の無いもので、丑寅の方向、つまり「東北の人」という意味がある。「斎」は師と仰いだ二人の「斎」を貰ったものだ。
艮斎は、寛政3年(1791年)、陸奥(後の岩代)国安積郡郡山の総鎮守、安積国造神社・第55代宮司・安藤親重の三男として陸奥二本松の地に生を享ける。
この艮斎、何故に17歳で学問を志し江戸へ出奔したというと聞こえは好いが、何のことはない、真相は女房にフラれたかららしい。16歳で隣村の「横塚」に婿入りするも、その女房が評判の美人。方や艮斎といえば画像の通りで醜男。
その上、良斎というのは学問が好きで、仕事もせずに本ばかりを読んでいる様な男だったという。そして終には三下り半を突き付けられて、養子先から追い出される羽目となった訳だが、これを機に江戸に遊学し、そして成功を収める。
二本松藩の儒者であった今泉徳輔に学んだ後、文化3(1808)年、その向学心止み難く、17歳で出奔する。江戸に上り、儒学者・佐藤一斎の門に入る。その後、大学頭・林述斎の門人となり研鑽を積んだ。「斎」の字はこの二人からのもの。
23歳で江戸神田駿河台に私塾を開き、天保2年の41歳で「艮斎文略」を出版し、その後も「艮斎間話」を著し、艮斎の名は天下に知れ渡る様になる。当時、文壇では「東の安積艮斎、西の斉藤拙堂」と並び称された学聖である。
江戸時代~幕末の激動期に、艮斎を師と仰いだ門人は驚くほどに多い。小栗上野介を始めとして、秋月悌次郎、岩崎弥太郎、清河八郎、栗本鋤雲、権田直助、高杉晋作、谷干城、中村正直、そして吉田松陰など実に2282人にも上る。
艮斎は朱子学のみならず、陽明学など他の思想や宗教の善い所を摂取しようと自由な学風を貫いた。洋学にも造詣が深く、渡辺華山が主宰し高野長英ら学者や幕臣が会した尚歯会にも参加した。その向学心は止むことがなかった。
天保7年(1836年)二本松藩儒となり、嘉永元年(1848年)58歳の時に海外事情研究の集大成「洋外紀略」を著し、世界史を啓蒙し、海防論を説いた。
同3年には幕府の昌平坂学問所教授に就任し、同5年十二代将軍徳川家慶に御進講。同6年、米国、露国の国書を翻訳し、ペリー来航時にも翻訳を行っている。
近代日本の源流とも言える江戸時代の偉大な思想家の一人でもあった艮斎は、万延元年(1860年)11月21日、昌平坂学問所にて多くの門人に看取られて、70年のその波乱に満ちた生涯を閉じた。床の間には一幅の美人画が飾られていたという。
それは別れた女房を偲ぶ為に書いて貰った画で、「この女房に追い出されたことで今の自分がある。この絵を見て自分自身を戒めているのだ」と弟子に語っている。
人間誰でも悪い時というのはある。そんな時こそ「災い転じて福と成す」ではないが、艮斎の様に「今があるのはそのお蔭である」という考え方こそ大事。
艮斎が没した数年後、大政奉還、王政復古の大号令、戊辰戦争と政治的社会変革が次々と興り、見事な明治維新の大業を成し遂げ、日本が建国されたのだ。
幕末の激動期に多くの功労者を育んだ安積艮斎の生涯、そこには近代日本の源流が在り、今も尚、滔滔と流れ続けている。余談だが、郡山の土産の定番「薄皮饅頭」で有名な「柏屋」が、「ごんさい豆」という菓子を売っている。
江戸への旅の途中、腹が減ると懐中の煎り豆を齧りながら歩いたという。だが、余程不味かったのだろう。後年に「せめてあれに塩でも砂糖でも塗してあればマシだったのに・・・」と弟子に語ったという。この逸話に因んだ菓子が「ごんさい豆」である。郡山へお越しの際には是非、薄皮饅頭と共に土産にどうぞ。呵呵。
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cordial8317 at 06:44│Comments(0)
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