色と慾と酒とを敵と知るべし!(水戸光圀)幕末の激動期、安積艮斎を師と仰いだ門人実に2282人に上る

2013年11月22日

さてさて、目明きとは不自由なものだなぁ(塙保己一)

 盲聾唖という三重苦を克服したヘレン・ケラーは知っていても、塙保己一(はなわほきいち)を知っている人は少ないだろう。訪日したヘレンは、渋谷の温故学会の講堂で、「私は塙先生のことを知った御蔭で障害を乗り越えることが出来ました。人生の目標であり、心から尊敬する人です」と語ったことは有名な逸話である。

 延享3(1746)年5月5日、武蔵国児玉郡保木野村(現・埼玉県本庄市児玉町)出身。江戸時代の国学者。幼名は寅之助。3歳の時に眼病に罹り、7歳で失明。失明後に辰之助と改め、多聞房(たもんぼう)とも名乗ったことも。15歳で雨富検校に入門してからは千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一と改名した。

 文久2(1862)年、長州の伊藤博文と山尾庸三に暗殺されたとされている国学者・塙忠宝は保己一の息子でもある。盲目ということで、針や按摩を身に付け様とするもさっぱり上達しなかった。身体の弱い保己一を心配した雨富検校は、「旅をすれば丈夫になるだろう」と、21歳の春、父と共に関西への旅を勧めた。

 北野天満宮を詣でた時に、保己一は「菅原道真」を守護神と決めたという。約2ヵ月の旅行を終え、保己一の身体は丈夫になり、学問への集中力が高まった。それから3年後、最晩年の国学者・賀茂真淵に入門し「六国史」などを学ぶ。

 賀茂真淵に入門した期間は僅か半年ではあったが、真淵から得た学問や同じ志しを持つ仲間は保己一にとって生涯貴重な財産となった。才能を認めた水戸藩や幕府が支援し、国学研究の「和学講談所」を立ち上げ、多くの弟子を育てた。

 天明5(1785)年、水戸藩の彰考館に招かれて「参考源平盛衰記」の校訂に預かり、続いて、昨日アップした水戸光圀の「大日本史」の校正にも参画し、幕府からもその学問的力量を認められた。保己一が編纂した「群書類従」は、実に41年もの歳月をかけて木版、実に1万7244枚で作り上げたもので、その666冊にも及ぶ。

「群書類従」が完成したのは、文政2年、保己一が74歳の時である。群書類従は、我が国の貴重な古文書などを「全集」として形にしたもので、現在は国の重要無形文化財に指定されている。群書類従に続いて編纂中だった「続群書類従」などの行く末を案じながらも、惜しむらく同4年9月12日に逝去した。享年76歳。

 保己一と弟子の逸話がある。源氏物語の講義をしていた夜、風で灯りが消えた。弟子達は、「先生、ちょっとお待ち下さい」と申し出ると、事情を知った保己一は、「さてさて、目明きとは不自由なものだなぁ」と朗笑したという。

 ヘレンが何故、「塙保己一」という名前を知っていたかというと、サリバン先生を紹介したベル博士が、ヘレンの両親に語って聞かせてたからで、このベル博士に保己一のことを教えたのが伊沢修二という留学生。後に、文部省高官・教育者となった著名な人物で、「雲に聳 ゆる 高千穂の~♪」で始まる「紀元節」の作曲家でもある。

「されさて、目明きとは不自由なものだなぁ」とは実に意味深な言葉だ。「盲(めくら)千人、目明き千人」という言葉があるが、世の中には物の分かる人もいれば分からない人もいる。人を外見で判断したり、或いは安っぽい世論のムードに流されてはいないだろうか・・・。皆さんには物事がきちんと見えてますか(笑)

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cordial8317 at 06:20│Comments(0)

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