「忙しい」と言う勿れ、「忙しいとは怠け者の遁辞である(徳富蘇峰)」山本太郎の行為は「開かれた皇室論」の弊害でしかない

2013年10月31日

稽古とは一より習い十を知り十よりかへるもとのその一(千利休)

「稽古」の「稽」とは「考える」という意味があり、「稽古」とは「古の道を考える」こと。古書を紐解いて古人の教えを学ぶということが「稽古」の本来の意味。

 茶人である千利休も「稽古」の何たるかを、「稽古とは一より習い十を知り十よりかへるもとのその一」と喝破している。

 稽古というのは、初めて一を習う時と、十まで習い元の一に戻って再び一を習う時とでは、人の心は全く変わっているもの。

「十まで習ったからこれでよい」と思った人の進歩はそれで止まってしまい、その真意をつかむことは出来ないとの教えだ。

 稽古に稽古を重ね、一応全てを知り尽くしたつもりでいてもそれで満足すればそれまでで「もとのその一」や「初心忘れるべからず」とは稽古の神髄でもある。

 千利休は豊臣秀吉の逆鱗に触れ死罪となったが、弟子の山上宗二も、やはり秀吉の怒りに触れて追放された後に悲惨な死を遂げている。

 手柄を自慢げに語る秀吉に宗二は、「我仏(わがほとけ)、隣の宝、婿舅、天下の軍(いくさ)、人の善悪(よしあし)」と二度繰り返したのが原因だった。

 これは何かというと、人の集まるところでは口にしてはならぬ話題で、茶道に於ける厳しい約束事のひとつでもある。諫言するに当って、死罪も厭しがることもなく、その罰をも諒とする宗二の覚悟と潔さは凡人には分かるまい。

 諫言とは斯く在るべきであり、相手を批判し、苦言を呈するのも慈悲の心とも言えなくもないが、己の発した言葉にもまた責任と覚悟が必要だということだ。

 千利休や山上宗二ら茶人というのは反骨精神に溢れた人物が多いということだろうが、茶道の「一期一会」の覚悟こそがそうさせるのかも知れない。

 茶道でいう「一期一会」とは、「この年、この月、この日の茶事は生涯この一度限り」であり、この覚悟こそが茶湯の根本でもある。

「一期一会」という言葉は知っていても、本当の意味も、その言葉に込められた覚悟も理解している人は少ないのではなかろうか。

 井伊直弼が記したとされる「茶湯一会集」に「抑茶湯の交会は一期一会といひてたとへば幾度おなじ主客交会するとも今日の会にふたたびかへらざる事を思へば実に我一世一度の会なり 去るにより主人は万事に心を配り聊かも麁末(そまつ)なきやう深切実意を尽し客にも比会に又逢へがたき事を弁え亭主の趣向何一つおろかならるを感心し実意を以て交るべきなり 是を一期一会という」と在る。

 要は、今の一瞬は一生涯で一度限りだと覚悟して事に臨めということだ。野村秋介は「美は一度限り」と言った。これは正に「一期一会」と通ずる覚悟であり、野村秋介の生き様の淵源は此処に在るのではなかろうか。

 こうした偉人の覚悟を持つことは凡人の愚生には無理だが、せめて人生意気に感じ、人との出会い、邂逅を大切に生きて行こうと思う。

cordial8317 at 03:55│Comments(0)

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