北朝鮮の強談威迫な対応と日米中の深謀遠慮大江健三郎著「沖縄ノート」を証拠とした「集団自決軍命令」

2013年04月03日

「楽都(がくと)郡山市」より「安積の国」といえば安積艮斎だろう

 愚生の住む郡山市出身の偉人といえば鈴木邦男じゃない、安積艮斎(あさかごんさい)。郡山を「安積の国」というのも、この安積艮斎の名から付けられている。

 安積艮斎は寛政3年(1791年)、陸奥国安積郡郡山の総鎮守、安積国造神社(あさかくにつこじんじゃ)第55代宮司・安藤親重の三男に生まれる。

 名は重信、別号・見山楼。幕末の激動期に艮斎を師と仰いだ門人は吉田松陰を始め、小栗上野介、高杉晋作、岩崎弥太郎など実に2282人に上るというから凄い。

 文化3年、16歳で学問を志し出奔。儒学者・佐藤一斎の門に入る。その後、大学頭(だいがくのかみ)林述斎(じゅっさい)の門人となり研鑽を積んだ。

 23歳で江戸神田駿河台に私塾を開き、天保2年の41歳で「艮斎文略」を出版し、その後も「艮斎間話」を著し、艮斎の名は天下に知れ渡る様になり、当時、文壇では東の安積艮斎、西の斉藤拙堂(せつどう)と並び称された。

 艮斎は朱子学のみならず、陽明学など他の思想や宗教の善い所を摂取しようと自由な学風を貫いた。洋学にも造詣が深く、渡辺華山が主宰し高野長英ら学者や幕臣が会した尚歯会にも参加した。

 天保7年(1836年)二本松藩儒となり、嘉永元年(1848年)58歳の時に海外事情研究の集大成「洋外紀略」を著し、世界史を啓蒙、海防論を説いた。

 同3年には幕府の昌平坂学問所教授に就任し、同5年十二代将軍徳川家慶に御進講。同6年、米国、露国の国書を翻訳し、ペリー来航時にも翻訳を行った。

 万延元年11月21日、昌平坂学問所にて多くの門人に看取られて71年の波乱に満ちた生涯を閉じる。

 その安積艮斎縁の郡山市の市長選挙が日曜日に公示される。ノンフィクションブログ「汚れた顔の紳士達」にも書いたが、前回と同じ顔ぶれで新鮮味はなし。誰か供託金でも出してくれりゃ出馬するんだがなぁ(笑)

 ※閲覧注意!「汚れた顔の紳士達」〈郡山市長選シリーズ〈第一弾〉品川まさと陣営に蠢く怪し過ぎる人々〉http://blog.livedoor.jp/cordial8317-kyudan110/archives/26274772.html

cordial8317 at 07:30│Comments(0)

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