2013年02月04日
吉田松陰と会津藩とチョッとだけ国士舘

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「八重の桜」は県民にとって、会津弁がとても心地好く、会津人、福島県民の魂を感じる。だが、方言が「解り難い」という声もあるという。あの時代、様々なお国言葉が飛び交い、互いに刮目して相対し天下国家論を大いに語ったのだろうが、訛りやイントネーションなど気にする者などいなかっただろう。
俄か江戸っ子や都会人気取りの連中などから、「チョッと訛ってるよね」とか、尻上がりのアクセントを小馬鹿にされることがある。右翼を気取りながら実に小さな連中だなと嗤ってしまうが、夫夫がお国言葉で日本の将来を熱く語ったあの時代が羨ましくも思う。
昨日のタイトルは「松陰の遺言」、それなりに見応えもあった。
吉田松陰が江戸伝馬町の獄で斬刑に処せられたのは、安政6年(1859年)10月27日。吉田松陰は生前、会津を訪れているが、山本覚馬と共に行動を共にしていればまた日本の将来も変わっていたかも知れない。
安政元年3月、師の佐久間象山の勧めで海外渡航を計画し、下田から米艦に便乗しようとして遺失、下田の獄に繋がれたが伝馬町獄送りとなって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが次の歌だ。
「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」
同年9月迄の約6ヶ月間伝馬町獄に留置されていたが、国元萩に謹慎の身となって帰った後の「松下村塾」での教育が最も偉大な事業であろう。
松陰の薫陶を受けた塾生の中から有爵者6名、贈位者17名、有位者14名等多くの著名な士が出て、中でも高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、木戸孝允(桂小五郎)は、明治維新の大業に勲功のあった人物でもある。
歴史の上での三大変革は「大化の改新」「建武の中興」「明治維新」だが、明治維新に松下村塾生の働きが大きな力となったのは誰もが知るところだ。
後、松陰は「安政の大獄」に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政6年7月9日、江戸の長州藩邸から始めて評定所に召出され
「まち得たる 時は今とて 武蔵野よ いさましくも鳴く くつわ虫かな」
と決心を歌に込めている。しかし幕府の役人を動かすことが出来ず、その後の3回の取調べで死刑を覚悟した10月22日に、父、叔父、兄へ宛て「永訣書」を送った中の一首が誰もが知る
「親思ふ 心にまさる 親ごころ けふのおとずれ 何と聞くらん」
処刑の時の近づいたのを知って、10月25日より26日の黄昏までかかって書き上げた「留魂録」の冒頭でこう記す。
「身はたとひ 武さしの野辺に 朽ちぬとも とどめ置かまし 大和魂」(十月念五日二十一回猛士)
「二十一回猛士」とは松陰先生の号で、「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、合計した数字が「二十一」となることと、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解し、これらを組み合わせると「二十一回」となることにより付けられたものだ。
松陰はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に託した。20年後、当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っている「留魂録」であり、日本人が読むべき名著だろう。
「留魂録」によって当時の法廷の模様、尋問應答の次第、獄中の志士の消息等が分かり、自己の心境と塾生の行くべき道を示した崇高な松陰魂の指南書である。
江戸伝馬町の獄の揚屋を出る際に松陰は、「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」 の詩を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたという。
刑場では、「身はたとひ」の歌を朗誦して従容として刑に就いた。29歳2ヶ月の生涯は短くも、没後150年以上経った今でも、その言葉通り、松陰の魂と言行は多くの人の心を捉え感奮興起させ続けている。
因みに我が国士舘も、吉田松陰の精神を学ぶ為に建立した学校だが、果して今、その精神が継承されているのかは甚だ疑問だ。

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cordial8317 at 07:18│Comments(0)
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