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2011年11月15日

11月15日に生まれ11月15日に死んだ坂本龍馬

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 11月15日は坂本 龍馬が、京都の醤油商・近江屋で暗殺された日だ。竜馬は天保6年11月15日(1836年1月3日)生まれ、暗殺された日も、慶応3年11月15日(1867年12月10日)、11月15日は坂本竜馬にとっても竜馬ファンにとっても思い出深い日だ。

 龍馬は近江屋に、脱出する事が出来る隠れ家を土蔵に作っていたというが、風邪を引いていた龍馬は土蔵ではなく、来訪した中岡慎太郎と近江屋のニ階で、好物の「鶏の水炊き」を食らいながら歓談していた。

 部屋には二人の他に、龍馬の護衛をしていた元・力士の山田藤吉の三人。その日、近江屋に南大和の「十津川郷土」と名乗る男らが訪ねて来る。

 山田が対応したが、部屋へ向かう途中に山田は後ろから斬られ、続いて龍馬と中岡が襲撃された。

 龍馬は即死に近く、仄聞されている様な、「わしゃ脳をやられちゅうきダメじゃ」という台詞を吐く間もなかったのではなかろうか。中岡は襲撃からニ日後に亡くなった。

 龍馬暗殺の謎暗殺について、「護衛の山田藤吉は何故、客人を疑わずに通したのか」、「龍馬はピストルを持っていたのに、一発も発砲されていないのは何故か」「中岡の暗殺に、龍馬が巻き込まれたのではないか」など謎は多いが、竜馬のカリスマと共に後に想像されていったのではないだろうか。

 坂本龍馬という人物は、幕末には然程有名ではなかったという。維新後数十年が経ち、地元紙に「坂本龍馬特集」が連載され、それが人気に火を点け、現在に続いている。

 坂本龍馬暗殺の実行犯は今でも歴史家の意見も様々で、「京都見廻組」と「新撰組」に分かれている。「京都見廻組説」では、明治時代に入り、元・隊士だった今井信郎、渡辺篤が、佐々木只三郎らと実行したとの証言を理由に挙げる。

 「新撰組説」では、新撰組の隊士が通っていた料理屋の下駄や新撰組隊士の原田左之助刀の鞘が、襲撃後、近江屋に残されていたとの説を挙げる。だが、そうしたことも龍馬の神秘性を高めている様だ。

 幕藩体制下に於いて「横議横行」を勧め、「脱藩せよ!」と叫んだのが吉田松陰だが、その「横議横行」を実践した人物として最も有名なのは坂本竜馬だろう。

 「横議横行」とは、自由気儘に各地を歩き回り、出合った人達と大いに議論し語り明かすことだが、幕藩体制下ではそれも儘ならなかった。明治維新は、こうした陋習を、龍馬を始めとした草莽の志士らが打ち破り、「横議横行」の実践したことに拠るものだと言っても過言ではない。

 時代の寵児として活躍した人物の共通の特徴は「言葉」が違うことだ。

 大衆の心を引き付けるのは「言葉」を以て他に無い。土佐の町人郷士の次男に生まれた坂本竜馬は、正に「言葉の達人」だったのだろう。

 彼が幕閣とも勤王の志士とも通じ、後には薩長連合の仕掛け人として、明治維新を豪腕で引き寄せた立役者足り得たのは、説得の技術、畢竟、言葉の豊かさに拠るものだろう。

 更にもう一つは、彼が「歩く人」だったことだ。交通の不便だった時代に、龍馬は実に驚く距離を行き来している。

 家を飛び出し、多くの人と顔を突き合わせ「横議横行」することは実に大切なことで、その邂逅こそが自分や周りは勿論、時代をも変える可能性を秘めていると確信している。

 蟄居も厭きたし、そろそろ放浪の旅に出て「横議横行」したいものだ。だが待てよ、それより手元の不如意をどうにかせねば。呵呵。

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cordial8317 at 05:43
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