2010年11月22日
地元郡山市の偉人・安積艮斎没後150年
近代日本の源流と言われる江戸時代の思想家・安積艮斎(あさかごんさい)が万延元年(1860年)11月21日に永逝し150年を迎えたという記事が載っていた。
安積艮斎の名は重信、別号、見山楼。幕末の激動期、良斎を師と仰いだ門人は吉田松陰を始め小栗上野介、高杉晋作、岩崎弥太郎など実に2282人に上る。
艮斎は寛政3年(1791年)、陸奥国安積郡(現郡山市)の総鎮守、安積国造神社(あさかくにつこじんじゃ)第55代宮司・安藤親重の三男に生まれた。
文化3年、17歳で学問を志し出奔。江戸に上り儒学者・佐藤一斎の門に入る。その後、大学頭(だいがくのかみ)林述斎(じゅっさい)の門人となり研鑽を積む。
23歳で江戸神田駿河台に私塾を開き、天保2年、41歳で「艮斎文略」を出版する。その後も「艮斎間話」を著し、艮斎の名は天下に知れ渡る様になる。
当時、文壇では「東の安積艮斎、西の斉藤拙堂」と並び称された。 艮斎は朱子学のみならず陽明学など他の思想や宗教の善い所を摂取しようと自由な学風を貫いた。
洋学にも造詣が深く、渡辺華山が主宰し高野長英ら学者や幕臣が会した尚歯会にも参加した。天保7年(1836年)二本松藩儒となり、嘉永元年(1848年)58歳の時に海外事情研究の集大成「洋外紀略」を著し、世界史を啓蒙、海防論を説いた。
同3年には幕府の昌平坂学問所教授に就任し、同5年十二代将軍徳川家慶に御進講。同6年、米国、露国の国書を翻訳し、ペリーの黒船来航時にも翻訳を行う。
艮斎が師と仰いだ佐藤一斎が没した翌年の万延元年(1860年)11月21日、昌平坂学問所にて多くの門人に看取られて70年の波乱に満ちた生涯を閉じた。
艮斎が没した数年後、大政奉還、王政復古の大号令と政治的社会変革が次々興る。幕末の激動期に多くの功労者を育んだ艮斎の畢生は近代日本の大業である。
安積艮斎の名は重信、別号、見山楼。幕末の激動期、良斎を師と仰いだ門人は吉田松陰を始め小栗上野介、高杉晋作、岩崎弥太郎など実に2282人に上る。
艮斎は寛政3年(1791年)、陸奥国安積郡(現郡山市)の総鎮守、安積国造神社(あさかくにつこじんじゃ)第55代宮司・安藤親重の三男に生まれた。
文化3年、17歳で学問を志し出奔。江戸に上り儒学者・佐藤一斎の門に入る。その後、大学頭(だいがくのかみ)林述斎(じゅっさい)の門人となり研鑽を積む。
23歳で江戸神田駿河台に私塾を開き、天保2年、41歳で「艮斎文略」を出版する。その後も「艮斎間話」を著し、艮斎の名は天下に知れ渡る様になる。
当時、文壇では「東の安積艮斎、西の斉藤拙堂」と並び称された。 艮斎は朱子学のみならず陽明学など他の思想や宗教の善い所を摂取しようと自由な学風を貫いた。
洋学にも造詣が深く、渡辺華山が主宰し高野長英ら学者や幕臣が会した尚歯会にも参加した。天保7年(1836年)二本松藩儒となり、嘉永元年(1848年)58歳の時に海外事情研究の集大成「洋外紀略」を著し、世界史を啓蒙、海防論を説いた。
同3年には幕府の昌平坂学問所教授に就任し、同5年十二代将軍徳川家慶に御進講。同6年、米国、露国の国書を翻訳し、ペリーの黒船来航時にも翻訳を行う。
艮斎が師と仰いだ佐藤一斎が没した翌年の万延元年(1860年)11月21日、昌平坂学問所にて多くの門人に看取られて70年の波乱に満ちた生涯を閉じた。
艮斎が没した数年後、大政奉還、王政復古の大号令と政治的社会変革が次々興る。幕末の激動期に多くの功労者を育んだ艮斎の畢生は近代日本の大業である。
cordial8317 at 09:18
この記事へのコメント
1. Posted by 昭和の侠客 2010年11月23日 08:29
