最終処分場の候補地が決まらず頓挫しているのは政治の怠慢に他ならない文章の極意は難解なものは易しく、易しいものは格調高く(伊藤仁斎)

2021年02月02日

ミャンマー国軍がクーデターを実行しスー・チーら政権幹部を拘束

 ミャンマー国軍がクーデターを実行。ウィン・ミン大統領と国家顧問兼外相のアウンサン・スー・チーら政権幹部を拘束した。スー・チーを民主化の象徴と讃えて発足したミャンマーの民主化は10年足らずで軍事政権に逆戻り。

 米英やマスコミはミャンマー軍事政権を非難し、スー・チーを民主化運動指導者と持ち上げ、「スー・チーこそがミャンマーを救う」かの様な報道が目立つが、ミャンマー(旧ビルマ)の歴史はそんな簡単なものでは語れない。

 十五世紀の大航海時代以来、白人による世界制覇の滔々たる流れがアジア諸国にも押し寄せ、次々と欧米帝国主義の植民地として蚕食される。

 国王が支配し、歴史を有するビルマも英国の植民地となった。英国は非情にも国王をインドに流し、王子を殺し、王女はインド兵に与え王家を絶やした。

 国王が住んだ城を監獄に造り替え、インド人や華僑を入れ、ビルマを多民族多宗教国家に変えた。改変されたビルマはインド人が金融を仕切り、華僑が商売を担い、山岳民族が軍と警察を握り、ビルマ人は最下層の農奴にされた。

 英国にズタズタにされたビルマは、第二次大戦後戦後独立を快復すると英国的なものを全てを排除した。アウンサンの暗殺もその一つだった。犯行は元首相のウ・ソーとされているが、英国が仕組んだものだということは歴史的事実である。

 奴隷制度や残虐行為が明るみに出れば、アジアで残虐行為をやったのは日本ではなく、白人国家だった事がバレると危惧した欧米は口を揃えてビルマ非難を始めた。

 その工作に利用されたのがアウンサンの娘スー・チーだった。英国人に父親を殺されたスー・チーは反英国の象徴になると思われていたが、当時15歳のスー・チーを英国に連れ出し、英国人として教育、洗脳し、英国人の男性と結婚させ手懐けた。

 スー・チーは祖国のビルマではなく宿敵の英国に忠誠を誓い、英国に背く祖国を非難し、「植民地支配の糾弾事業」を潰し、ビルマ政府を軍事政権と非難し続けた。そんなスー・チーの功績が認められノーベル平和賞を受賞するに至った。

 90年代、極貧に喘ぐビルマは中共に支援を求めた。議長のタンシュエは反対する良識派を追放し実権を握ることとなるのだが、これを機にビルマに雪崩の様に入り込んだ支那人が金融も商売も独占し、政治も共産化して行った。

 民生移管に向けた総選挙では中共に国を売ったタンシュエ一派全員が予想通り全員当選。選挙自体、民主化とは程遠いものだというのは誰の目にも予想出来る。

 昨年11月に行われた選挙では、スー・チー率いる国民民主連盟(NLD)が政権を維持する結果となるも、「結果は不正だ」としてクーデターが実行された。

 スー・チーは軍事政権を批判し、反政府活動をしたところでミャンマーとミャンマー国民は救われることはない。ビルマは既に中国共産党の支配下の様なもの。役目を終えたスー・チーが、中共に擦り寄り、それを軍部が警戒し拘束した。

 明治19年、ビルマを視察した情報将校の福島安正は、人々が英国の支配下で奴隷の如く酷使され、理由もなく鞭打ちされ、無闇矢鱈にビルマ人が射殺されている光景を目の当りにし「同じアジア人として義憤に駆られた」と語っている。

 明治19年といえば日清戦争が起きる10年程前のこと。欧米列強がアジアを侵略し、我らと同じアジア人の悲劇を眼前にして危機感を抱いてたことが想像出来る。正しく、日清・日露・大東亜戦争は避けて通れぬ歴史的必然だったと痛感する。

 我が国もそろそろ、米国依存のまやかしの平和を貪るのは止め、日清・日露・大東亜戦争の大偉業を想起し、真の独立を目指すべきである。中共が跳梁跋扈する現代に於いて、我が国こそアジアの希望の星であらねばならないのだ。

※コメントは会員のみにさせて頂いておりますが、コメント入力希望の方はパスワードを教えますのでmr.cordial@live.jpへ御気軽にメールを寄せられたい。

《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ

cordial8317 at 06:06
最終処分場の候補地が決まらず頓挫しているのは政治の怠慢に他ならない文章の極意は難解なものは易しく、易しいものは格調高く(伊藤仁斎)