尖閣諸島は日本固有の領土である横議横行するべし

2010年09月14日

岡田外相「バターン死の行進」で謝罪

「バターン死の行進」とは、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦に於いて、バターン半島で日本軍に投降した米軍・フィリピン軍捕虜が、マリベレスからサンフェルナンドの区間約88キロを将軍も含めた捕虜が徒歩で行進のこと。

 この区間の行軍で多くの犠牲者を出したことから「バターン死の行進」と呼ばれている。「バターン死の行進」は米国のプロバガンダであることは証明済み。

 日本が謝罪する類のものではないが、昨年と一昨年に、藤崎駐米大使が、バターン行進の生存者で作る団体「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」に対し日本政府を代表し公式に謝罪している。これは所謂「村山談話」の一環と言うから厭きれる。

 昨日、岡田克也外務大臣が元捕虜と外務省で面会し、外務大臣として初めて謝罪したというが、外交は謝罪し、譲歩し、或いはカネをばら撒くことではない。歴史は一国の大事であり、如何なる譲歩も有っては成らず、謝罪するなど以ての外。

 昭和16年12月、日本軍のフィリピン攻略戦が開始され、ルソン島のバターン半島に陣を構えた米比軍と本間雅晴中将率いる第十四軍の間で戦闘が行われた。戦闘は籠城戦となり、米比軍が降伏した翌年4月9日の四ヶ月続いた。

 降伏時バタアン半島の米比軍と流民の状況は、士気は全く衰え、食料の不足とマラリア、デング熱、赤痢の蔓延に由り極度に衰弱し、コレヒドール攻略戦を目前に控えた軍としては、その準備や防諜上の観点及び米比軍の砲爆撃から避ける為にも捕虜や住民をマリベレスからサンフェルナンドの区間を移動させる必要が有った。

 日本軍は捕虜に対する食料は勿論のこと、収容施設や輸送などに関し準備を行なう余裕も無く、当時、軍自体が食料及び輸送力の不足に苦慮している状態だった。「行軍による移動しか無かった」というのが悲しい現実である。

 捕虜は徒歩でサンフェルナンドへ護送する日本兵と一緒に歩いた。水筒一つ。全行程約88キロ余り、それを四~五日がかりで歩いたのだから如何に疲弊していたかが分かる。南国とはいえ夜になると肌寒く、日本兵が焚火をし、炊き出しをして彼らに食事を与え、それから自分らも食べた。

 通り掛かった報道班員が見兼ねて食料を与えたことも有るという。トラックで輸送すべきだったと言うが、貧弱な装備の日本軍に余裕は無く、次期作戦のコレヒドール島攻略準備にも事欠く状態だったのである。

 マラリアに罹った捕虜を歩かせた事を、米軍側は捕虜虐待と言う。戦後「マニラ軍事法廷」に於いて、本間雅晴中将や捕虜移送の責任者の第14軍兵站監河根良賢少将は責任者として有罪の判決が下り処刑された。この問題は不条理そのものだが、一死を以てその責任を果たされているのだ。

 岡田如きの下らん政治家がそんなに謝罪したければ腹を斬って詫びれば良いではないか。一審即結審と言う茶番劇で、不当に処刑された方々の命は決して軽いものではない。国民はこの方々の悲劇を決して忘れてはならない。

 因みに、終戦後に行われたマニラ軍事裁判では、起訴された212名のうち177名が有罪となっている。判決内容は、死刑69名、終身刑33名、有期刑75名。死刑の執行は、ルソン島マニラの南東に位置するラグナ湖周辺、マンダルヨソグ、カンルバン、ロスバニオス南部の3ヵ所で行われた。

 有期刑・終身刑の判決を受けた戦犯は、モンテンルパ近郊のニュービリビット監獄に収容された。 何時の日か、モンテンルパを旅して見たいものだ。

cordial8317 at 09:20
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